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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第一部 主の御手が届かないなら
20/133

7-2 契約の夜

 翌朝には、嵐は去っていた。緑の草はたっぷり水を吸って生き生きと葉を伸ばし、木々の梢で鳥がさえずっている。

 朝食の後、ベルタはせかせかと片付けを済ませて外に出た。畑や鶏の様子が気になるのだろう。エリアスは椅子に腰かけたまま身体を揺らしているダンカを一瞥し、グラジェフに目顔で託してから、ベルタの後を追った。


 収穫間近の玉ネギや、既に充分育っている麦などは無事だったが、昨日グラジェフがせっせと耕して整えた畝は大半流されていた。まだ種を蒔いていなかったから良かったものの、彼が見たらがっかりするだろう。

 ベルタは残念そうに首を振り、一通り畑を点検する。エリアスは家畜小屋を覗いて鶏が落ち着いているのを確かめてから、ベルタに歩み寄った。


「ああ司祭様、ごめんなさいねぇ。せっかく力仕事をしていただいたのに……」

「嵐では仕方がありませんよ。それより、お尋ねしたいのですが」

 言いながらエリアスは、袖に隠していた飾り紐を引っ張り出した。ベルタは目をぱちくりさせ、よく見ようと屈み込む。

「この紐に見覚えは」

 ありませんか、と言うより早く、ベルタは素っ頓狂な声を上げた。


「あらまぁ! どうして司祭様がこれを?」

「ご存じでしたか」

「ええ、あたしが編んだものですよ。あら、ここが白くなってるのは変だけど……でもこの模様はあたしのです。昔、ダンカに編んでやった守り紐ですよ」

「娘さんに?」


 思いがけない返答を聞いて、エリアスは当惑した。てっきりジェレゾの持ち物だと思っていたが、違ったのか。しかも今、彼女は『守り紐』と言った。お洒落が目的の装飾品ではなかったのだ。

「ということは……これは、ずっとダンカが持っていたんですか。誰かに贈り物として譲ったとかいうこともなく」

「まさか、守り紐を他人にあげるなんて」

 ご冗談を、とばかりベルタは苦笑した。どうやらイスクリ独自の風習らしい。


 詳しく聞くと、女児が七歳になったら母親から渡して身に着けさせるものだという。健やかに成長し女となり、結婚し子を産んで命をつないでゆけるように、との意味が込められた紐。女児はそれを帯紐と重ねて腰に結び、自分の子が結婚するまで外さないのだとか。


 エリアスは呆然と紐を見つめた。ベルタも不思議そうに首を傾げ、そう言えば最近はしていなかったかしら、とつぶやいた。彩り豊かなものとはいえ、帯紐と一緒に結んでいるのなら目立たなくて気付かないのも無理はない。


(これはダンカが身に着けていたものだった。ジェレゾのものではないし、ましてや首に掛けるものなんかではなかった。……まさか、ああ、まさか)


 一枚の絵にかかっていた目隠しが次々に剥がれ落ち、全容があらわになる。首から肋骨の間に垂れ下がった紐。グラジェフの奇妙な態度。その彼の喉に手を伸ばしかけていたダンカ、そして悪魔の契約――


(グラジェフ様。あなたは最初から、この可能性に気付かれていたのですね。だから慎重だった。悪魔を炙り出し祓うことに消極的で、ためらいさえしていた)


 エリアスはごくりと唾を飲んだ。微かに震える指で、飾り紐をぎゅっと握り締め、意を決してベルタに向き合う。思い詰めた若者の様子に、ベルタも不安に緊張した面持ちを見せた。

「……あなたには、受け入れがたいことだと思います。ですが、どうか静かに、騒がず聞いて下さい。中にいるダンカには気付かれないように」

 エリアスがささやくと、ベルタは眉を寄せたもののすぐにうなずいた。娘を刺激することの危険は承知しているのだろう。エリアスはそっと嘆息して続けた。


「この紐は、死体が持っていたものです。イスクリからリブニ村に向かう街道沿いの森で、生ける死者がさまよっていました。我々がこちらに来る前に浄めてやりましたが……その首に、これがかかっていたのです」

 一言一言ゆっくりと話したにもかかわらず、相手には意味が通じなかったようだ。ベルタはぽかんとなり、しきりに瞬きした。

「えっ? あの……どういうことで……」

「死体は恐らくジェレゾです。ダンカが殺したんでしょう」

「はぁっ!?」

「お静かに。……死体を始末するために、彼女は悪魔と契約した。聖霊様、と呼んでいるのは悪魔です。ジェレゾはこっそり逃げ出したのではなく、死んだ後で魔術をかけられ、誰にも見つからないよう森の奥深くへ追いやられたのですよ」

「そん、な……」


 淡々と告げられた内容に、ベルタはしばし絶句した。エリアスは瞑目し、罪人らのために聖印を切る。

 悪魔は悲嘆に暮れるダンカに目を付け、慰めによって徐々に信用を得ていったのだろう。その一方で夫ジェレゾは何の救いにもならなかった。むしろダンカを苦しめていた。

 だから、その夜とうとう、彼女は夫の首を絞めた。悪魔はその後始末をしてやる、と持ち掛けたのだ。誰にも見つからないようにしてやる。罪に問われぬよう、裁かれぬよう、これ以上もう苦しまずに済むように守ってやる、と。


 彼の推測を裏付けるつぶやきが、ベルタの口から漏れた。

「あの晩……まさか、そんな事に……止めに行けば良かった。ああ、赦しとくれダンカ」

 両手で顔を覆い、すすり泣く。異変に気付いていたのか、とエリアスが問うと、疲れ切った母親は力なくうなずいた。

階上うえで、二人が……言い争っているのも、暴れているのも、聞こえていました。ジェレゾがダンカに、無理を強いて……ええ、何ヶ月もやってないんだぞとか何とか、あからさまな……主よお赦しを。でも夫婦のことですし。ダンカもだいぶ落ち着いてきていたし、ジェレゾが街の女のところへ行ってしまったら暮らしが立ち行かないし……とにかくもう、疲れていたんです。もう、本当に、限界で」


 語尾が嗚咽に飲まれる。エリアスは胸を痛め、無意識に手を彼女の肩へ置こうとしたが、思い直した。あまりに親密になってはいけない。罪悪感に対して簡単に慰めを与えてしまうのは、溺れる者を救助しようと水に入るようなものだ。全力でしがみつかれて諸共に沈んでしまいかねない。

 エリアスは慰めないかわり、責めも催促もせず、じっと待った。沈黙に助けられて、ベルタは訥々と懺悔する。


「あたしだって、あの子の他に二人産んだのを亡くしてる。夫まで。一人目を亡くしたからって、いつまでも世界で一番不幸な女みたいに……いい加減にしてくれってもんですよ。ジェレゾが言うこと聞かせてくれるんなら、いっそ助かると……あの子が嫌がってるのは聞こえてたのに、無視して、頭まで布団を被っちまいました。だけど夜が明けてみたら、ジェレゾはいなくなって、あの子はすっかり頭がおかしくなってた。罰が当たったんだと思いました」

「ジェレゾが金を盗んだ、と言ったのは……」

「嘘です。ええ、毎日朝晩お金を数えてるわけじゃありませんから、どうかわかりませんけど、でも、はっきりわかるほど減ってやしません。あたしはただ、あの晩……夫婦のことがうまくいかなくて、腹を立てたジェレゾが出て行ったんだと思ったんです。だから、その」


 ベルタはもぐもぐ口を濁した。聞かないふりをした後ろめたさ、男女の問題ゆえの羞恥、それらが相まってジェレゾをことさら悪しざまに罵ったのだろう。エリアスはその点には踏み込まず、判明した事柄を整理した。


(ジェレゾを殺した後、明らかにダンカは『頭がおかしく』なった。つまりはそれが、悪魔が提供した『裁かれないための方法』だったわけか。ジェレゾが人目につかぬよう町の外へ行かされたのも、死んで間もなくて本人の霊も状況が飲みこめていない内なら、術の強制力はよく効いただろう。人間が近寄りもしない森や崖を闇夜に越えて行くのだって問題なかったはずだ。……命を奪った紐を、首の肉に食い込ませたままでも)


 暴かなければ良かった。そんな思いが胸に兆し、彼は瞑目した。墓を掘り返して死体を白日の下に晒すような、無慈悲で残酷なことをしてしまったという後悔。だがすぐに彼は、軟弱な感情の芽生えを踏み潰した。


(確かに、斟酌すべき事情だ。ダンカは憐れむべきでこそあれ、憎むべき邪悪ではない。だが殺人は殺人、あまつさえその罪を隠すために悪魔と手を結んだことは許されない)


 細くゆっくり息を吐きながら、心を冷たく凍らせる。見逃してはならない。憐れだからと、邪悪の仕業を放置してはならない。情状酌量で刑罰を減免することと、罪そのものを赦すことは別だ。

 彼は意志を固めてベルタに向き直った。


「協力をお願いできますか。家に戻ってグラジェフ様を呼んでください。そのままあなたはダンカと共に中にいるように。悪魔祓いの準備が整うまで、彼女を外に出さないでください」

「は……い、はい」


 ベルタは涙を拭き拭きうなずいて、とぼとぼ小屋へ戻っていく。ややあって、入れ替わりにグラジェフが現れた。何か予感でもしたか、長剣とナイフの一式を既に装備している。彼は待ち受ける若者の表情とその手の紐を目にしただけで、およそ察したらしかった。


「真相に辿り着いたようだな」

 夜の訪れを告げるがごとき、静かな声。エリアスは思わずかっとなって詰め寄った。

「最初からすべてご存じだったのですか」

「まさか、そんなはずがなかろう。いくつか仮説を立てていただけだ。そなたが見出した事実を教えてくれ」

 グラジェフはさらりといなし、腕組みする。エリアスは不満ながらも簡潔にまとめた。


「これはダンカが子供時代から身に着けていた守り紐でした。ジェレゾに暴行された彼女が、これで首を絞めて殺したようです。その後悪魔と契約し、死体を始末して罪に問われないようにしてもらった。……ですからグラジェフ様、この紐は『身代わり』に使えます。すぐに悪魔祓いを始めましょう」


 彼の言葉にグラジェフは無言でうなずき、予備のナイフを抜いた。刃に指を当て、聖句を唱える。

「主よ、御国の戦士を護りたまえ」

 白く輝きを帯びたそれをエリアスに渡し、自分は神銀の長剣を抜いて、手早く指示する。

「左手から回れ。すべての窓と戸口に封印を」

「了解」


 先達が迷いなく行動を始めたので、エリアスはほっとした。同時に、起きてすぐに武装しておかなかった迂闊を悔いる。平時ならばともかく、悪魔憑きと一つ屋根の下にいてこれでは(たる)んでいると言われても仕方ない。


 唇を噛んだ新人には構わず、グラジェフはさっさと山小屋の戸口に向かい、剣の切っ先で悪魔封じの印を刻みにかかっている。今さら粗忽を指摘しても時間の無駄だとばかりの態度は、叱責されるより堪えた。

(しっかりしろ。ここからが本番だ)

 エリアスは頭を振り、急いでひとつめの窓に向かった。


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