3 後遺症
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ロサルカの首都コニツカに着くまで、ユオンの状態は一進一退だった。かつてのルナークに寄り添ったオリヴェルのような献身があれば良かったのだろうが、あいにくエリアスもカスヴァも、その手の美徳は持ち合わせない。それでもエリアスはユオンと共に祈り、彼が続けられない時には代わって聖句を唱えることで、心の静穏を取り戻す手助けをしてやった。
合間合間に、ユオンはしきりに申し訳ないと詫びた。謝らなくて良いと二人がなだめても、その謝罪は止まなかった。
「忘れていたのです。あの……恐ろしさを。まさか、あの奇蹟に浴した後で、また……こんな風に、戻ってくるなどと」
動揺の切れ間に、ユオンは涙ながらに弁明した。それを語ることさえ苦痛だろうに、何かに追い立てられるようにして。
「右を見ても、左を見ても、血まみれの……皆が、倒れていて。わけがわからず、どこからどうして罰されるのかもわからず、逃げ惑い、助けを求め……ああ、恐ろしい。死が、すぐそこに」
最初は「無理に話すな」と制した二人も、彼がそうせずにはおれないのだと悟ると、黙ってただ話を聞き、時に膝や肩に手を置いて慰めるだけになった。
幸いなことに、ふたたび外道や盗賊に襲撃されることはなかった。ただ幾度か、森の中を走り過ぎる時などは、例の嫌な感覚を覚えることはあったが。
「あの奇蹟を、静穏の丘を……ええ、思い出せるのです、それはもう、鮮やかに。ですが、それでも……ああ、恐ろしい。死の影の力は、聖女様の輝きさえも、かき消してしまう。いいえ、これは私の未熟。至らなさ。あの経験をしていながら、恐れに負けてしまう、私の。主よ、どうかお許しを」
懺悔し、祈る。その姿の痛ましさには、いつも何かと手厳しいエリアスでさえ、一言もなかった。あの凄惨な混乱の最中、自分たちは理由と目的を知り、ただ駆け抜けることに必死だった。「誰の命も惜しむに値しない瀬戸際」だからと、多くの傷つき怯える人々を振り払い、突き進んだ。だが、それは――なんという特権であったことか。
(世界の命運を負わされ、ただなすべきことをなした。あの最低な悪魔に付き合わされて、大勢を……)
殺した。道を阻む障害を。
見捨てた。足にまとわりつく重荷を。
(主よ。それは私の罪ですか?)
問いかけてから、自分で馬鹿馬鹿しくなって失笑しそうになる。神は人間の都合など気にかけないと思い知って久しいのに、つい呼びかけてしまうとは。学院の教師らが知ればさぞ喜ぶだろう。彼は頭を振り、神の代わりに亡き師の面影を呼んだ。
(グラジェフ様……あなたなら、私の行いをどう評されるでしょうか。正しいことをなした、と認めて下さるか、それとも、正しくはあれどもやはり罪があったと?)
追想の師は語らない。ただ温かく、そして厳しく、こちらを見つめる。いつもそうだったように。そのまなざしは言葉よりも雄弁に、弟子のいかなる選択をも、否定や肯定を超えて受け止めてくれた。魂でそれを感じるうちに、心は静まり理性が澄み渡る。
――罪にはあたるまいよ。だがそなたが悔いるのであれば……
そんな声が聞こえた気がして、エリアスは胸の銀環に手を当てた。そうだ、あの状況であのように振る舞ったことは、たとえ神でも罪には問えまい。仮に罪ありきと断じられたとしても、自分なら間違いなく、そんな裁定はくそくらえとはねつける。
だが、それでも――悔いはある。ほかに選択肢はなかった、悔いても仕方ない、と割り切っていても、なお。
(だからこれは……多分、ただの清算なのだ。償いや罰ではなく)
ユオンと共に祈ることも、彼を襲った悲劇に今更ながら心を痛めることも。はるばるチェルニュクにまで出向いて、面倒事の始末に手を貸すのも。自分の中で、残っている悔いを片付けるためでしかない。
(それが済んで初めて、前へ進めるのかも知れない)
『復活の日』の後すぐ、諸々の事後処理に押し流される形で女司祭エリシュカとして再出発したように感じていたが、この“清算”が済んでこそ、自分の意志で新しい人生に踏み出せる――そんな気がした。
コニツカにはかつて、第二の聖都と称賛されるほどの大聖堂があった。だが“泡”によって崩落した後、『復活の日』に呼び戻されることはなく、現在、市の中心部には再建のための資材が積み上げられている。
かつて大聖堂が担っていた機能の大半は、跡地から少し離れた教会に移されており、エリアスたちもそちらで馬車を降りた。ムラクが事前に伝書鳩を飛ばしてくれたおかげで面倒なやりとりもなく、すぐに宿坊へと案内される。エリアスはフードを深く被って赤毛を隠していたが、そうでなくとも、さして人目に付くことはなかったろう。
「こちらが皆様のお部屋になります」
穏和な物腰の中年司祭が案内したのは、質素な四人部屋だった。カスヴァが困ったような顔をエリアスに向ける。むろんエリアスは、わずかに眉を上げただけ。無言のやりとりを見て、案内の司祭がやや声を抑えて言い添えた。
「お望みでしたら、エリアス様には別室をご用意しますが」
思わずエリアスは苦笑をこぼした。ということは、ムラクは北へ向かう三人について内情も知らせているわけだ。伝書鳩の運べる内容などわずかだろうに、随分頑張って工夫してくれたものである。
事情を承知しているのならば、とエリアスはフードを脱ぎ、彼に向き合った。
「いや、ここで結構。お気遣いには感謝します」
「さようですか」
司祭は畏まって一礼した後、三人を順に見つめてから、エリアスのほうへ一歩進み出た。
「少し、よろしゅうございますか。私は司祭イェレンと申します。本来は地区教会におりまして、こうして皆様をご案内する役目ではございません。ですが、主のおはからいにより聖都からの報せを知る機会があり……どうしても皆様にお目にかかりたいと、こうして出しゃばって参りました」
「ほう。それはいかなる用向きで?」
エリアスは警戒に目を細めて問うた。相手の態度からは、『光焔の聖女』や『女司祭エリシュカ』に対する熱情は窺えないが、冷静中立に見える人間が実際その通りとは限らない。
彼の反応に対し、司祭イェレンは柔和な笑みを見せた。
「私は復活者ではありません。ですので、彼らほどには、聖女様に特別な思い入れは抱いておりませんよ。ご安心を。ただ……そのような者を知っていたのです。かつての友人、しばらく前にこの町を去った司祭ミハイを」
聞いたカスヴァが息を飲み、身を乗り出した。
「その司祭がチェルニュクへ行った、と?」
「恐らく。炎の天使エトラムが降臨なされた聖地、と言っていましたから」
「天使?」
エリアスが聞き咎めて唸る。何か、とイェレンが目をしばたたいた。エリアスは「いや」とごまかしかけたが、やはりどうしても聞き流せず渋面で言った。
「あれはそもそも『炎熱の大悪魔』と呼ばれていた筈。いつの間に天使になったんです」
聖女扱いならば良い。元をただせばエトラムという名の少女神官だったとかいうのだし、きらびやかで恥ずかしい呼び名を献上奉って嫌がらせのし甲斐もある。だが天使となればさすがに、神に対する冒涜ではないか。
「おや、聖都での見解はまだ、古い認識に基づいているのですね。ええ、我々のところでもその呼び名を忘れたわけではありません。ですがコニツカでは、エトラムがかの異名を戴くことになった出来事について改めて史料を精査しておりまして、あれは悪魔の所業というよりも天罰だったと見るのが妥当ではないかという……あの、どうされました?」
カスヴァとエリアスが揃って頭を抱えたので、イェレンは気遣わしげに問いかける。理由を知っているか、と目顔で問いかけられたユオンも、ただ困惑して首を傾げるばかり。
エリアスが先に気を取り直して頭を振った。
「あいつの話はやめよう。それより、貴殿の知り合いという司祭ミハイについて聞かせてください。彼が信徒を扇動して共にこの町から出て行ったのなら、事前に止めようがなかったのですか? つまり、実際に動くより前に何かしら問題のある言動が見られたのでは?」
「我々としては」とカスヴァも口を挟む。「先に彼の主張を知っておきたい。司祭ミハイは何と言って仲間を集め、連れ出したのか、ご存じですか」
二人の問いかけに、イェレンは顔を曇らせた。沈痛な表情で目を伏せ、銀環を握りしめて小さく祈りをつぶやく。気詰まりな沈黙の後、彼は重たげに口を開いた。
「扇動、というのはあたりません。彼らが自ら立ち上がったのではなく、むしろ追われて、この町を逃げ出したのです」
エリアスとカスヴァは険しい顔になり、黙って続きを待つ。ユオンが察して「まさか」と目をみはった。
「復活者に対する迫害が、あったのですか」
聖都では考えられない事態だ。何しろ復活者の割合が非常に多い。それに住民の大半が何らかの形で聖職に関わっており、日々進展する聖典の再編についての情報も得やすいため、復活者とそうでない者とに分断され対立するという状況は避けられている。
だが外では違う。
『復活の日』の後しばらくは、何もかもが平和に上手くいくように思われていた。奇蹟の体験、復活者の説く楽園、聖女――そうしたものが新たな世界を導いていくかのように。
しかし残念ながら、人はすぐに忘れる。己らの野放図を戒める事柄は、とりわけ早くに。教訓も反省も、奇蹟すらも、長続きはしないのだ。
イェレンは罪人たちのために祈って聖印を切り、小さくため息をついて話を続けた。
「迫害、と言い切れるほど大規模なことは起きていません。大司教ヨナシュ様が尽力なさっておいでですから。ですがそれでも、教会内部では教義の解釈を巡って議論にとどまらない諍いが起き、市井の人々は……復活者の語る楽園のありようや聖女の導きを信じる者と、それを胡散臭い戯言とみなす者とに分かれています。復活者が何かの特権階級かのようで鼻につく、というのですよ。自分たちだけが真理を知っていると言うのが、気にくわないと」
「ありそうなことです」エリアスは舌打ちを堪えて同意した。「それぞれの人柄もありますからね。聖都でも、自分の体験が絶対であるという態度で、教義の再編作業に強硬な主張をねじこんでくる者は少数ながらいました。司祭ミハイもそうした一人ですか」
「いいえ。彼は熱心に聖女を信仰していましたが、我の話を聞け、と押しつけるような所はありませんでしたよ。彼らが追われたのは、分断の空気のうえに別の理由が加わったからです。……復活者が、一度死んだというのは自明のことですが。その死が何によってもたらされたかは、人により異なります」
イェレンは次第に声をひそめていった。
「ミハイは、崩れた鐘楼の下敷きになって死にました。あの日はそうした死者が多く出ましたが、一方で市街でも混乱から暴動が起き、負傷者のみならず死者も出たことは、ご存じでしょうか」
「……はい。私の知人にも一人、悪魔の手先と指弾され殺された司祭がいます」
「痛ましいことです。いったん暴力の衝動が広まってしまえば、日頃の良き隣人が略奪者、殺戮者に変わる。そうして殺された者が……混乱の収まった後で、蘇ったなら。殺した者は何を思うか」
ああ、とユオンが喘ぎを漏らす。エリアスも唇を噛んだ。オリヴェルからどんな目に遭ったのか話を聞いた時、そいつら全員を殺人の罪で訴えてやるべきだ、と憤慨した。当人は例によって穏やかに屈託なく、結局のところ自分は死んでいないし彼らも罪を犯さずに済んだのだ、正気に返った彼らの苦しみが、他の復活者たちの話で救われたら良い、などと、どこまでも人の良いことを言ったものだが。
(オリヴェルがコニツカに帰らず、聖都に留まったのは幸いだ。あいつがあの笑顔でのほほんと教区に戻りなどしたら、殺した奴らは恐怖と憎悪のあまり……)
エリアスはそこまで考えて、ぎょっとなった。思わずイェレンを見つめると、相手はゆっくりうなずいて彼の予想を肯定した。
「耐えられなかったのです。自ら手を下した相手が生き返り、恨むならまだしも、清らかに穏やかに、殺人の罪さえもいずれあの地では赦される、と慈愛を込めて説かれては。もう一度、今度こそ二度と蘇らないように葬るしかなかった。アガタという名の若い娘が、そうして殺されたのです」




