2 旅に危険はつきもの
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旅立ちの朝、集合場所の礼拝堂前で、カスヴァは連れが来るのを待ちながら故郷に思いを馳せていた。
村はどういう状態なのだろう。館や教会のある丘を除いて一面焼灼され、焼け野原になったのが最後に見た景色だ。各地から届く報せによれば、北方でも“呼び戻された”場所は多く、“泡”に呑まれた村もおおよそ元通りになったらしい。ならばチェルニュクも、すっかり以前の通りになったのだろうか。少なくとも、ノヴァルクに避難していた村人たちが戻って生活できる程度になっているのは確かだが……。
昔の情景を思い出すと、胸が締め付けられる。あの地に戻っても、もう二度と会うことはかなわない人々の面影。失われた日々の幸福な眩しさ。
郷愁に囚われていたカスヴァは、足音が近くへやって来たのに気付いて振り返り、思わず息を飲んだ。
そこにいたのは司祭エリシュカではなく、浄化特使エリアスだったのだ。一年あまりで伸びた髪を以前のように短く切り、旅と戦いに適した服装で使い込まれた鞄を背負い、腰には神銀の剣。
追想が現在を呑み込んでしまったように錯覚し、カスヴァは声もなく立ち尽くす。エリアスは灰色の目で素っ気ない一瞥をくれた後、外套のフードを浅く被った。
「外ではエリアスと呼んでくれ。『女司祭エリシュカ』だと、要らん面倒事を引き寄せてしまうだろうから」
とは言うものの、声は――低くささやき声を作ってはいても――やはり女のものだ。カスヴァがそれを指摘する前に、エリアスは小さくため息をついた。
「わかっている、声はどうしようもない。できるだけ発言は控えるから、そのつもりで対処してくれ」
「承知した」
カスヴァはうなずき、エリアスの肩越しに、こちらへやって来る人影を認めて眉を寄せる。
「もう一人の連れにも釘を刺しておかないとな」
「ああ」
同意したエリアスは憂鬱そうだ。気心の知れた二人での旅なら良かったが、今回は初対面の人物が同行することになっていた。チェルニュクに赴任する正式な司祭である。
「これは大変失礼を。お待たせしてしまいましたね、お二方。ユオンと申します、よろしくお願いします」
興奮気味に挨拶したユオンは、まだ二十代の半ばであろう金髪の青年だ。青い目をきらきらさせてカスヴァに握手を求め、次いでエリアスに向き直ると、銀環に手を添えて深く一礼する。
「栄えある司祭エリシュカ様と共に使命へ赴けること、この上なき幸せに存じます。主が我らの道行きをお守りくださいますように」
「主のご加護があらんことを。ユオン殿、早速だがひとつ頼みがある。聖都を出たら私は女司祭エリシュカではなく、特使エリアスとして振る舞うつもりだ。貴殿もそのように接してもらいたい。旅の目的を声高にしゃべるのも駄目だぞ」
冷淡にも聞こえる口調で言われ、ユオンは驚き怯んだ顔をした。礼拝での説教やその他の聖務で何度か見かけた“エリシュカ”の印象から、もっと柔らかい対応を期待していたのだろう。エリアスはため息を堪えて言い添えた。
「元々私はこういう性質だ。礼拝の時は猫を被っているに過ぎん」
横でカスヴァが苦笑を噛み殺し、ユオンは当惑して二人を見比べる。カスヴァは青年司祭の肩を軽く叩き、「大丈夫だ」と安心させてやった。
「エリアス殿は物言いこそ素っ気ないが、旅の道連れとして信頼できる。チェルニュクに着くまでに、多くを学べるだろう」
「は、はい! カスヴァ様も、何卒ご指導ご鞭撻のほど、お願いいたします」
気合いを入れ直したユオンがしゃちほこばって頭を下げる。カスヴァとエリアスは共に曖昧な表情で視線を交わした。
と、そこへ、ガラガラと車輪の音が近付いてきた。黒地に白銀で教皇のしるしを描いた、特別仕立ての馬車だ。三人のそばで止まると、中からムラクが降りてきた。
「揃っているな、よし。では……難しい使命だが、エリシュカ、君ならばやり遂げられると信じているよ」
「ムラク様……」
「ああいや、すまない、エリアスだったな。うん。安心しなさい、御者にもちゃんと言い含めてある。特使エリアスをチェルニュク村まで送り届けるように、とね。さあ、これを持って行きたまえ、教皇聖下の署名と印章を頂いてきた」
言って、折り畳んだ羊皮紙を手渡す。受け取ったエリアスは広げて内容を確かめた。チェルニュクの教会に関する諸々の事柄を、処断決定する権限を与えるというものだ。むろん暫定的なもので後から正式な承認を得る必要があるが、その場で臨機応変な対処が可能になる。ありがとうございます、とエリアスは礼を言って、大切に鞄にしまった。
ムラクの祝福に送られて、三人を乗せた馬車は街道を北へと走り出した。
特別仕立てとはいえ狭い車内で、三人は無言のまま揺られていた。そもそも車輪の音がやかましいし、四六時中ガタガタ揺れるしで、おしゃべりに適した環境ではない。とはいえ沈黙が続くばかりで、ユオンは次第にそわそわと落ち着かなくなる。だがエリアスは壁にもたれて目を瞑っており、まったく気にかけない。カスヴァは仕方なく助け船を出してやった。
「ユオン殿は、なぜチェルニュクの司祭に?」
「ああ、弱輩の身にて、どうかただユオンとお呼び下さい。はい、ムラク様が希望者を、探していると聞きまして。復活者の、中から」
揺れる度につっかえながら、それでも会話のきっかけを与えられてほっとしたように答える。復活者、と聞いてエリアスが目を開けた。ユオンは憧れと崇敬のこもるまなざしをそちらへ向けて、言葉を続けた。
「あの日、私は大勢と同様に逃げ惑いながら礼拝堂を目指しておりました。ですが不意に……」と腹に手を当てて目を伏せる。「身体がなくなり、気付けば見知らぬ丘におりました。恐怖も苦痛も消え去って、ただ安らかに。そうして、輝きを帯びた聖女様の導きを感じました。そのままついて行こうとしたのですが、なぜか自然と別な流れの中に入っていて……そうか、まだその時ではないのだな、と理解できたのです」
奇蹟の記憶を語る時、ユオンの表情はどこまでも穏やかだった。ほっとひとつ息をつき、それから夢から醒めたように瞬きする。
「あの経験をしていながら、なぜ教会を占拠するなどという暴挙に至ったのか、どうにも解せません。もちろん私としても、聖女様の降臨なさった教会とあらば訪ねて祈りたく存じます。だからこそ志願したのですし。しかし、既にいる司祭を追い出してまで、自分たちのものにしようなどとは……彼らに何があったのでしょうか」
「同じ復活者であっても、共感はできないか」
エリアスがつぶやくように言い、ユオンは「はい」と頷く。
「ムラク様は相通じるものがあろうと期待して、私を選んでくださったのでしょうが、実際に会ってみるまでは何とも言えませんね。もちろん、彼らのほうが私を仲間とみなしてくれたら、いくぶん話しやすくはなるでしょうけれども」
自分で言って使命の困難さを思い出したように、ユオンは表情を引き締める。その様子を見て、エリアスはムラクの意図をうっすらと察した。
揉め事の仲裁に遣わすのなら、もっと年かさの老練な司祭のほうが適しているはずだ。復活者に限るとしても、あの日は大勢が死に、蘇ったのだから、ほかにも候補はいたはず。だが、あえて若く純粋なユオンを選んだのは、教会を占拠した復活者たちが奇蹟に浴した時の感情を思い出してほしい、という願いゆえだろう。そのほうが、面倒な駆け引きに引きずり込まれなくて済むから。
亡き師の苦笑いが脳裏に浮かび、まったくです、とエリアスは同意する。
(駆け引きをすれば必然、教会側も何らかの譲歩をしなければならない。それは避けたかったのだろう。ムラク様はハラヴァ様と違ってそういう点には無頓着だと思っていたが、どうしてなかなか、やはり同じ水に棲む魚ということか)
エリアスが考え耽っている間も、ユオンはカスヴァに話しかけ、チェルニュクはどんな村かと尋ねている。エリアスはそれを聞き流しながら、窓外の景色を眺め、村を訪ねてから『復活の日』に至る出来事をぼんやり思い出していた。
異変が起きたのは、かつて司祭ユウェインと共に訪れた平和な村を通り過ぎ、ロサルカ共和国との国境を越えた辺りだった。
それまで拓けた農地の間を走ってきた街道が、森の中へと入っていく。人家はなく、見通しも悪い。かつてなら、間違いなく魔のものに遭遇した場所だ。だがもう今は外道の心配はなかろうし、追い剥ぎ盗賊の類が潜んでいるとしても、教皇のしるしを戴いた馬車を襲うことはなかろう、と――気を緩めていた。それが間違いだった。
「うわっ!」
馬のいななきと共に大きく車体が揺れ、御者が声を上げる。車内の三人は咄嗟に身体を支えようとしたが、激しい揺れでユオンが倒れ込み、カスヴァも体勢を崩して、それぞれエリアスを押し潰してしまった。
「す、すみませ……あぐ」
もごもご謝りながら離れようとして、ガクンと最後の揺れでユオンが壁に頭をぶつける。カスヴァも「すまん」と短く詫びて、こちらはすぐに窓から御者に呼びかけた。
「どうした、障害物か」
「そのようで」
絞り出すような返事は、どこか痛めてしまったせいだろう。エリアスが呻いた。
「馬車ごと倒れなくて幸いだ。どうにもこの馬車は験が悪い」
ルナークと共に聖都を目指していた時、外道に襲われて横転したことを言っているのだ。カスヴァがつい口元をほころばせたその時、外から声が聞こえてきた。
「よーし止まった! 馬車の旅たぁ贅沢なこった、さぞ金持ちなんだろうなァ!」
明らかに、獲物を捕らえてわくわくしている盗賊である。車内の三人は顔を見合わせた。
「命まで取りゃしねえよ。通行料さえ払ってくれりゃぁいいんだ」
ご機嫌なだみ声が言うのに被せて、うろたえた声が言う。
「おい待て、あれ教皇様のしるしだろ。やべぇぞ」
するとさらに別の声が。
「だったら乗ってるのは坊主だろ、ちょろいじゃねえか。どうせたんまり貯めこんでるんだ、貧しい俺らに施しをするのが主の思し召しってもんさ。なぁそうだろ、あんたら!」
エリアスがため息をつき、「やはり験が悪い」とつぶやく。カスヴァは苦笑いし、腰の剣を確かめた。
「この場合、不運なのはあちらさんだろう。ユオン、君は中にいろ」
言い置いて窓から手を出し、掛け金を外す。油断なく剣の柄に手をかけて現れたカスヴァの姿に、盗賊たちは「おっ」「えっ」などと小さく驚きの声を漏らし、後ずさった。普通に彼らが怯んでくれたので、カスヴァはひとまず安堵する。さっと周囲に目を走らせたが、少なくとも道のこちら側には三人だけだ。ナイフや手斧程度の武器は携えているが、防具は身に着けていない。つまり傭兵崩れのように危険な輩ではなく、単に食い詰めて住まいを離れただけの素人盗賊だろう。
後から出てきたエリアスが横に並び、こちらは早々と剣を抜く。盗賊たちは目に見えてうろたえ、さらに後ずさった。カスヴァは彼らを睨みつけ、重々しく告げた。
「ちょろい獲物でなくて残念だったな。失せろ。これ以上我々の邪魔をしないのなら、見逃してやる」
三人の盗賊が視線を交わして無言の相談をする。どうやら無難に済みそうだと思われたところで、カスヴァは不意に訪れた感覚にぎくりと竦んだ。
(これは……!?)
うなじにチクリと刺すような熱、そして背筋に冷たいものが走る。『復活の日』以来、久しく感じなかった気配。エリアスも察知したか身じろぎする。同時に、車内からユオンが身を乗り出して警告した。
「エリシュカ様! 外道が来ます!」
「ばっ――」
馬鹿、との罵声を飲み込み、エリアスはユオンを中へ押し戻す。直後、馬車の後ろの森から黒い影が矢のように飛来した。カスヴァが素早く二人を庇い、剣を振るって斬り捨てる。
鳥は正体不明の奇怪な声を上げ、羽根を撒き散らして地面に落ちたが、カスヴァはすぐに失敗を悟った。息絶えた鳥から黒い影がふわりと浮き上がり、盗賊のほうへ漂っていく。
(くそ、剣を清めておけば良かった!)
そんな必要などすっかり失念していた。同じく油断していたエリアスも舌打ちし、神銀の剣で止めを差そうと踏み出す。だが既に、影は手の届かぬ高さへ逃れていた。
悪いことに、魔の影が取り憑くよりも早く、既に盗賊たちの様子は一変していた。
「エリ……シュカ? お、女か、女だ!?」
「お、おお、ご無沙汰だぁ」
怯えが消え、欲望に目をぎらつかせる。後ろに引いた足を前へ戻し、鼻息荒く踏み出してくる。そこへ黒い影が覆い被さった。
一番前のめりになっていた男が一瞬で影に呑まれる。続く男も身体の半分を闇に染めて、動きを止めた。最も消極的だった男――やべぇと言った彼――だけは魔の影を免れ、仲間の変貌を目の当たりにして震え上がった。ひっ、と喉を鳴らしてよろめき、腰を抜かす。
エリアスは即断し、動いた。呑まれた男が襲いかかろうとするのに先んじ、一瞬で肉薄して肩を刺し貫く。
「《主のものから手を離して去れ》!」
退去令を唱えながら剣を引き抜き、霊力の光矢を額めがけて撃ち込む。傷口から白煙が噴き上がり、男は獣のように吼えて膝を折り、額や肩を掻きむしりながら転がり回った。
その隙にエリアスは二人目に向かい、憑かれた側の身体を剣の平で力任せに引っぱたいた。男が衝撃で横ざまに倒れ、影が剥がれる。それを斬り払って清め、エリアスはすぐにまた一人目に向き直った。影は薄れているが、まだ暴れ狂っている。憤怒と敵意に燃える目が、ぎろりとエリアスを睨んだ。
(来るか)
やはり殺すしか、と冷徹に判断して構える。だが直後、外道は予想外の行動に出た。不意に身を翻し、エリアスとカスヴァの隙を突いて馬車に突進したのだ。
そこにいるのが一番力の弱い獲物だと理解しているのか。彼に憑けば殺せまいと計算したのか。
車窓に張り付いて様子を見守っていた青年の、無防備な喉を外道の手が掴む。そのまま指が食い込み喉笛を引きちぎる――寸前、神銀のきらめきがそれを阻んだ。
背中から刺し貫かれた男が吼え、くずおれる。その身体から残りの影が白煙となって立ち昇り、消えていった。
エリアスが遺体のそばに屈み、念のために清めの聖句を唱える。無残に歪んだ死に顔の、せめてもと瞼を下ろして、ため息ひとつ。
「弱い影だし憑かれて間もないから、祓えるかと思ったんだが」
「君が盗賊に情けを?」
意外だな、とカスヴァが迂闊なことを言うと、エリアスは眉を上げて素っ気なく応じた。
「死体の始末が面倒だ」
「ああ……」
カスヴァは自分の間抜けさに憮然としながら納得する。もちろんエリアスは構っていない。立ち上がり、いつものようにきびきびと話を進める。
「あっちの連中にやらせよう。カスヴァ殿、話をつけてきてくれ。放っておくとまた魔のものが引き寄せられるぞ、とでも脅して。こっちはユオンと御者の具合を見ておく」
「承知した」
カスヴァが頷いて歩み去ると、エリアスは剣を収め、馬車に向き直った。ユオンは蒼白な顔で、まだ襲われた時の姿勢のまま凍りついていた。エリアスが扉を開けても、身じろぎさえしない。
「ユオン? 大丈夫か。怪我は」
見せてみろ、と喉に手を伸ばす。ようやくユオンはびくりとわなないた。が、遅れてやってきた恐怖の発作に襲われ、「ああ、あ」と切れ切れに声を漏らしながら、痙攣のように全身を激しく震わせだす。エリアスは急いで相手の膝に手を置き、力を込めた。
「ユオン! しっかりしろ、もう心配ない、外道は退治した。聖句を唱えろ、ほら、《主は翼の下にあなたを匿い、安息をたまわる》」
エリアスが唱えた聖句の効果で、ユオンの震えが小さくなる。だが復唱するだけの余裕はなく、彼はとめどなく涙をこぼしながら、我が身をきつく抱きしめて縮こまった。
弱ったな、とエリアスが途方に暮れていると、御者が持ち場から降りてこちらへやってきた。
「エリアス様」
「ああ、無事で良かった。どこか怪我をしたようだが……」
「たいしたもんじゃありません、手の皮が剥けたぐらいでさ。あいつら道に丸太を投げ込んできやがって」
「貴殿の手綱捌きのおかげで、馬車ごとひっくり返らずに済んだ。ありがとう。手を見せて」
エリアスは御者に礼を言い、血の滲んだ手を取って癒やしの聖句を唱えてやった。
「ひとまず良し、と……馬車のほうはどうだ? 支障なく走れそうか」
「これから点検します。ぱっと見たところ、まぁ大丈夫そうですが」
御者は車輪のほうへ目をやってから答え、それから車内を見て眉をひそめた。
「あちらさんは、大丈夫じゃなさそうですな。あんな状態で、チェルニュクまで行けますかね」
「まあ……しばらく様子を見よう」
エリアスは珍しく曖昧に答えた。現状、そうするほか手立てはない。聖句を唱えて落ち着かせてやっても、効果は一時的なものだ。ひっきりなしに祈り続けなければ静穏を保てないとなったら、チェルニュクで待っている難題に対処するどころではない。
(厄介なことになったな。それとも、いざという時になってこれほど脆いと露呈するより、早くに分かって良かったのか。まったく、主のなさりようときたら!)
どんな結果も次の何かに結びつく。すべては無限のかかわりのなかにあり、そのひとつひとつを主はご存じだ――そう説いた師の声を思い出し、エリアスは何とも複雑な気分になったのだった。




