三章
三章
前触れのある不幸と、前触れのない不幸、どちらが優しいだろうか。
忍び寄る老いと死の影のように、その兆しに長く思い悩まされるか――あるいはある日突然に落雷や落石で命を失うか。
十代の頃であれば、ユアナはきっと後者が良いと答えただろう。何の心構えも身辺整理も出来ないのはいささか残念であろうが、本人の苦しみは短いのだから、と。
だが今のユアナはまったく別の心境だった。本人は良かろう。だが遺された者にとっては、突然の不幸は苦しみの終わりではなく始まりなのだ。
エルショークが死んだ。
それはもう本当に突然に、何の前触れもなく。いつもと同じ、変わらぬ様子で寝ていたはずなのに、しばらく離れた後で戻ってみたら息をしていなかった。高熱や下痢のような症状もなく、首に紐が絡まったとか、重い物が落ちてきたとかいった事故の形跡もない。まるで寝ている間に魂だけ奪い去られたか、そもそも生きていたのが何かの間違いだったかのように、しんと静かに息絶えていたのだ。
誰もその場に居合わせなかった。干し草作りの忙しい時期で、家の者はほとんど出払っていたし、家に残っていたユアナもあれこれの用事に追われていた。いっそ外に出ていたなら、赤子を背負っていたから異変に気付いただろうに。
その日のうちこそ一家は、なぜだ、誰が何をした、と責めるべき対象を探して動揺したが、結局ほどなく鎮まった。赤子というのは些細な手違いでも死ぬものだし、現にその場にいたことが明らかな者は、一人もいなかったから。それに――そう、しょせん『余分な存在』ではないか。
母親として泣き叫ぶのが当然であるはずのユアナが、あまり取り乱さなかったためでもある。娘が死んでいると気付いた時は蒼白になり、首を絞められたのか、毒蛇にでも噛まれたかと小さな身体を隅々まで調べて原因を探し、なんとか息を吹き返させそうと必死になったが、じきに無駄を悟ると、ただ呆然と放心したのだ。
彼女のそんな反応に、家族は同情と不審の相まった視線を向けたが、あえて慰めや問いかけの言葉をかけはしなかった。
「もしかして神様は、私に子を持つことをお許しにならなかったんでしょうか」
小さな墓石に花を手向けた後、ユアナは司祭にそんな思いを漏らした。ヤンクは即答しかねて困り顔になる。ユアナは彼の様子を見ず、目を伏せたまま訥々と続けた。
「何度も流産して、無事だった子は奪われ、手放さずに済んだ子は楽園に召されて。きっと私は最初から、子を望んではいけなかったのでしょう」
そう言ってから、痛みに耐えるようにぎゅっと目を瞑る。不穏な沈黙。それから唇が震え、声にならないかすれた吐息が「いいえ、違う」と否定した。ヤンクは眉を寄せ、慎重に問いただす。
「何が違うのかね。神はそんなふうに決められないはずだ、と?」
「……違います。私です。私が……本当は、子供を望んでなんかいなかった。産めと言われて仕方なく産もうとしたから……だから罰せられたのじゃないかと」
切れ切れの言葉を押し出し、ユアナは両手に顔を埋めた。ごめんね、エルショーク、ごめんね……嗚咽まじりの謝罪を繰り返す。
ヤンクは手を伸ばし、震える肩をさすってやった。
「落ち着きなさい、主がそんな無慈悲をなさるものか。産むまでは望んでいなかったにせよ、産んだ後はそのように赤子を慈しんでいる母親を罰するなどと。悲しいことだが、無垢な魂が天に召されるのは珍しくない。せめても安らかであったことを感謝せねば」
「……そう、ですね。ええ、はい」
ユアナは無理にも納得しようと何度もうなずき、指で涙を拭って堪える。確かに娘の死に顔は穏やかだった。息をしていないと気付けず、気付いた後も信じられないほどに。神がどんなつもりで幼い命を召し上げられたのかわからないが、優しい方法をとられたことには感謝すべきだ。ユアナはそう自分に言い聞かせた。
(きっとあの子は、いつの間に楽園に来たのかもわからないまま、ご機嫌にすごしているわね。暖かくて穏やかで、幸せに満たされて)
おなかが空いたと泣くこともなく、にこにこと愛くるしい笑みを振りまいて、楽園の皆を虜にしているかもしれない。そんな想像で慰められ、心が凪いでいく。
悲嘆が和らいだのを見て取り、ヤンクもほっと息をついて手を離した。彼女の世話をしてやりたいとは思ったが、こんなきつい状況は避けたいものだ。すぐに金切り声を上げる性質の女でなくて助かった、と内心安堵する。
二人を取り巻く緊張が解けたのを受けて、ユアナがおもむろに切り出した。
「司祭様。考えたんですけど、私、これからは神様にお仕えして暮らせないでしょうか」
「……と言うと?」
「コロジュには修道院というのがありました。神様に仕える人々が集まって暮らしているけれど、普通の教会とは違って、ずっと昔は聖者が一人で荒野に住んでやっていたようなことを、町の中でおこなう場だとか。畑を耕しながら、祈ったり瞑想したり」
「ああ、うむ。確かにあるな。しかし女は入れないぞ」
ヤンクは渋い顔になった。修道会は《聖き道》を歩むことを生活において実践する集団だ。同じ神を崇め同じ教理を信奉してはいるが、組織としては別ものだし、禁欲と清貧を掲げて勤労と奉仕に専心する彼らとは相容れない部分がある。いずれにしても、構成員になれるのはやはり男だけだ。
「附属の施療院などで働くというのなら、むろん受け入れられるだろうが、そうなるとコロジュに戻るわけかね」
「いいえ。そうではなく、この村で。娘のお墓のそばで、あの子の魂を弔いたいんです。エルショークだけでなく、幼くして亡くなった子供らの魂が無事に楽園で安らいでいるように祈り、子を喪った母親の慰めになれる、そんな場をつくりたいと……もちろん正式な修道院とかでなくていいんです」
「ふむ……今まで通りの暮らしで、より頻繁に礼拝へ通う、という程度では気が済まないと。もしや家で揉め事が?」
考えながら言いかけ、はたと気付いて問いかける。赤子の死で家族との関係が不穏になって、居づらいのかもしれない。案の定、ユアナは目を伏せた。返答を口に出しはしなかったが、表情と態度が肯定を示している。ヤンクは唸って腕組みした。
子を喪った親が「死んだ子のために何かをしたい」思いに駆られる様子は、何回も見てきた。喪失の悲嘆は人を奇行に走らせるものだ。やたら凝った墓を建てようとしたり、朝から晩まで墓に通い詰めたり、子の好きだった花をそこらじゅうに植えたり、自作の賛美歌を礼拝で歌わせろと要求した厄介者もいる。
だがどれも、しばらくすれば熱病が鎮まるようにおさまっていく。墓参りは年に一度か二度になり、花畑は荒れ地になり、礼拝へもそう熱心には来なくなる。そうして日常に戻ってゆくのが人生というものだ。
ユアナが言い出したことも、前例がないとはいえ理解はできる。
(しばらく家から引き離して、一人で籠もらせてやれば落ち着くか)
たしか教会の畑のそばに、昔は小作人が住んでいたらしいボロ小屋があったはずだ。そこで隠遁者の真似事をさせてやれば、じきに現実を思い知るだろう。たいていの人間は、朝から晩まで死者を想って祈り続けられるほど忍耐強くないし、腹も減れば眠りもする。生活からは逃げられない。
(しょせん女だ、そう長くは続くまい)
ヤンクはその程度に考えて、よろしい、ともったいぶってうなずいた。
「正しい作法と文言を守り、勝手に妙な儀式を付け加えたりしないと約束できるなら、祈りと奉仕の生活を送れるように手助けしよう。家族にはもう話してあるのかね?」
「まだです。司祭様のお許しをいただいてからと」
「そうか。なら、私から話すとしよう。使えそうな小屋に心当たりがあるから、そなたは先にそちらへ行って何が必要か、どこを手入れするか、段取りを考えておきなさい」
どうせ仮住まいだから大して手間もかかるまい。そんな気分でヤンクは軽く言ったが、ユアナは目を丸くした。
「まあ、そんな……よろしいんですか。住まいをあてがって下さるなんて」
その驚きように、ヤンクのほうがたじろぐ。何か大層な誤解をされているようで、彼は居心地悪いのを隠そうと、鷹揚な態度を取り繕った。
「いやなに、ちょうど思い出しただけだ。既に計画があったなら、そちらで構わんが」
「いいえ、まだ何も。ですから驚いて……ありがとうございます」
ユアナは純真な感謝を込めて頭を下げる。ヤンクは善行を施した満足を感じ、聖印を切って祝福してやった。
※覚書 司祭ヤンクの証言(二回目聴取記録より抜粋)
「子供なんかいらなかった。確かに彼女はそう言いました。ほとんど憎しみさえ込めて、泣きながらそう言ったのです。ええ、間違いなくユアナは怒っていました。自分にこんな運命を用意した神に、それでも子を産めと強要した元夫に。だから男を憎んだに違いありません」




