二章
二章
教会を後にしたユアナは少し歩いただけで疲れてしまい、道端の石垣に腰を下ろした。下腹が鈍痛に疼き、なんともいえず気分が悪い。おさまったはずの悪露がまた出るのではと恐ろしくなったが、一休みしていると幸い良くなってきた。産婆にもらった薬がちゃんと効いているのだろう。ユアナはほっと安堵して空を仰いだ。
(やっぱり司祭様には、女の苦しみはわからないんでしょうね。こんな苦しみを味わわなくて済むのなら、私だってヘルミーナのように、独身のままでいたかった)
ユアナの実家は土地持ち農家で、跡継ぎは兄だから自分はいずれよそへ行くのだ、と幼い頃からなんとなく理解していた。誰かの妻になり、夫や子供の世話をして家庭を守るのが、決まった道筋だと。
誰もが当たり前にそうする人生。その規範から外れる者は、村の中で微妙な立場に置かれる。産婆のヘルミーナもそうだ。
嫁ぎ先でユアナの出産を世話してくれた産婆は普通に夫がいたから、産婆ならば皆、独身で変わり者であるとは限らない。だがヘルミーナは昔からずっと独りで、一度も結婚していない。村を出る前のユアナもやはり、そんな彼女を少しばかり奇異の目で見ていたのは確かだ。今ではもうすっかり、実母よりも頼もしく思っているけれど。
(家に帰る前に、あちらへ寄ってまた少し具合を診てもらおう。単におしゃべりするだけでも気が晴れるし)
よし、と決めて立ち上がったところで、嫌な相手が向こうから来るのが見えた。
小作農のウルスだ。ユアナより少し年上だが、村を出る前は何かと嫌らしい絡み方をしてくる男だった。八年経って戻ってきた時には、ユアナのほうは彼のことなどほとんど忘れていたし、当然誰かと結婚しているだろうと思っていたから、まだ独身と聞いた時にはぞっとした。
ねちっこい性格のうえに資産もないときては、嫁の来手がないのも当然だろう、という納得。同時に、誰かが女房としてこの男の面倒を見てくれていたら良かったのに、とも思った。身勝手でさもしいと自覚しないでもないが、本音は変わらない。
(なんで私がこいつの相手をしなきゃならないの。もううんざりよ、八年も経ってるのに……ああ嫌だ、だけど別の道もないし)
言葉を交わすどころか同じ道ですれ違いたくもないのに、避ける場所がない。だからとて、引き返して遠回りさせられるのも腹立たしい。逃げたとみなされたら、いっそうこちらを侮り執拗に絡んでくるからだ。
(最初に穏便に済ませようとしたのが失敗だったわ)
実家に戻ってから初めて礼拝に出た折、話しかけられたのを無視していれば良かったのかもしれない。あるいはきっぱり、おまえとは口をききたくない、と言ってやれば。もっとも、あの頃のユアナは心身共に疲弊していて、そんな気力はなかったのだが。
(とにかく今からでも、相手をする気はないと解らせないと)
腹をくくって気合いを入れ、見えているが無視するぞ、という意志を顔にも足取りにもみなぎらせて歩を進める。だが敵はその程度では怯まなかった。
「よう、ユアナ。今日も乳、張ってんなぁ」
にやにやと好色かつ嗜虐的に笑いながら、いきなり胸に手を伸ばしてくる。ユアナはそれを手加減なしに打ち払った。
「いってぇ……!」
「気安く触らないで」
「なんだよ、気取るなよ。どうせ赤ん坊一匹じゃその乳も吸いきれねえだろ、揉んでやろうってのさ」
怒りを込めて睨みつけても、まるで本気に取られない。ねばつく視線で胸や腰回りを舐め回しながら、さらに近寄ってくる。ユアナは後ずさるまいと気力を奮い起こしたが、嫌悪と恐怖が勝って半歩退いた。
「寄らないでって言ってるのよ。迷惑だわ。いつまでもつきまとうなら、村長に訴えて集会で恥をかかせてやるから」
村長を持ち出すと、やっとウルスは少し怯んだ。髪の匂いを嗅ごうと突き出していた首を引き戻し、取り繕うような表情をする。
「大げさな。そんなこと言ったら、恥をかくのはおまえのほうだぞ。こっちは出戻りの使い古しをもらってやろうって親切で言ってんのに」
「――っ!」
あまりの侮辱に耐えきれず、ユアナは強引にウルスを突き飛ばして横をすり抜け、走るように歩み去る。案の定、あからさまに面白がる声が追い打ちをかけてきた。
「どうせ股もガバガバで、もうガキも産めねえんだろ! それでも女扱いしてやってんだから、ありがたく思えよ!」
ふざけるな、何がありがたいものか! そう怒鳴り返したかったが、震えた情けない声になってしまうのが悔しくて唇を噛む。腹の底から怒っているのに、それすら相手を喜ばせるだけだと思うと、頭がおかしくなりそうだ。
ユアナは両手をきつく拳に握りしめて、振り返らず大股にずんずん歩き続けた。瞼が熱くなり、視界が揺れる。その弱さがなおさらに悔しい。
どうしてなんだろう。
涙を堪えて歩きながら、やり場のない問いがぐるぐると胸に渦巻く。
どうしてこんなに、馬鹿にされ、軽く見られて、侮辱の雑言を吐かれなければならないんだろう。私がいったい何をしたと言うのだ。私はただ、普通に、皆がそうするように、頑張って生きてきただけなのに。
どうして。どうして……!
「そりゃあ、ウルスが馬鹿だからに決まってるじゃないか」
着くなり戸口に立ったまま憤懣をぶちまけた来客に対し、産婆のヘルミーナはこともなげに答えた。あっさり言い切られたもので、ユアナの胸中でへし折られた自尊心が、起き上がっても良いのかどうかと困惑する。
ヘルミーナはユアナを促し、庭にある簡素なベンチに座らせた。いい陽気だから、茅葺き屋根の小屋の中より明るい外のほうが快適だというのだろう。いったん中に戻って水差しを取ってくると、陶器のコップに注いで渡す。自家製のニワトコ水だ。
ユアナは礼を言って一口飲み、ふっと息をつくと、つぶやきで繰り返した。
「あいつが馬鹿だから……」
「そうさ。あんたは別に何も悪いことはしちゃいない。あっちが馬鹿だから、勝手に自分のほうが偉いと勘違いして、好き放題にふるまっていいもんだと思い込んでる。それだけのことさ。迷惑かけられて腹が立つのはしょうがないけど、どうして、なんて言ったところであちらさんには何の意味もありゃしないよ」
つけつけと言ってヘルミーナは肩を竦め、隣に腰を下ろす。そのいかにも自信ありげな態度が羨ましくて、ユアナは改めてつくづくと産婆を見つめた。重たげな黒髪と、同じく暗い色味の瞳は陰気な印象を与えるし、表情も柔らかさや陽気さからはほど遠く、少しばかり近寄りがたい。昔からそうだ。しかし今、大人になったユアナの目に、それは頼もしさの証として映った。誰にも媚びない、自分の意志を強く持って独りで生きている女。
「ねえ、どうして産婆になったの?」
昔から普通とは違う少女だったのだろうが、いつ、何が彼女の人生を決めたのだろう。そんなことが今さら気になって問うてみる。彼女はユアナの母親と似た世代で、よそから移住してきたわけでもない。同じ村で同じように生まれ育って、何が違ったのだろうか。
ヘルミーナは瞬きし、空を見上げて思案した。
「理由ってほどの理由は、ないけどねぇ。ただまぁ、子供の頃から興味はあったんだよ。産婆に、というか『魔女』にね」
にやりと笑い、共犯者めかした声音でささやきを続ける。
「あんたもそういうのが気になった時期はあったろ? 薬草を煎じたり、秘密の呪文を唱えてまじないをかけたり、そういうことが自分にも出来たら……って。あたしはそれが、子供のごっこ遊びで終わらなかった、ってだけさ」
「ああ……そうね、ええ。子供の頃はなんにも知らないまま、草や花を摘んで魔法の言葉を唱えてみたりしたけど。いつの間にか、しなくなって」
「そうさ。皆、良い子で教会に通って大人しく頭を垂れて、いたずらや秘密は『いけないこと』だと箱に詰めて納屋に押し込んで見えないふりをする。そういう風にしつけられてしまうんだ。まったく、あのヤンクが何ほどのものだっていうんだか。聖都から来た偉くて賢い立派な司祭様だぞ、なんてふんぞり返ってるけど、十年このかた言うこともやることも進歩なし。子供の鼻風邪ひとつ治せやしない。あいつが金翅草以外の何かを使うことがあったら天地がひっくり返るよ」
容赦なく酷評するわりに、ヘルミーナの態度はあっさりしている。憎むでも蔑むでもなく、あの男はそんなものだ、と達観しているようだ。ユアナは苦笑するしかなかった。
「コロジュの司祭様はもうちょっと色々ご存じだったみたいだけど。まあでも、やっぱり産婆さんのほうが頼りになったわ。ご本人も、自分はあくまで邪悪を退け魂を守るのがつとめであって、身体を診るのはただ、人が邪なまじないに頼らないようにするためだ、って言ってたし」
「確かに外道やら悪魔やらを寄せ付けないようにするのは、司祭の秘術でなきゃ駄目なんだろうさ。あたしとしては、あんなの銀環を握って丸暗記の聖句を唱えてるだけだから、誰だって代わりがつとまるんじゃないかと思うけどね」
「たとえば、あなたとか?」
ユアナが悪戯心を出してそう訊くと、案の定ヘルミーナは嫌そうに顔をしかめた。
「冗談じゃない、よしとくれ。願い下げだよ。あんなもったいぶった偉そうな男どもの真似なんて、ぞっとする。あたしは『魔女』のままがいい」
それがいかにも気持ち悪そうな表情と声音なもので、ユアナは笑ってしまった。この産婆が司祭の祭服を着て礼拝堂で説教する様子など、想像するのも難しい。祭壇で怪しい生贄の儀式をしているならばまだしも。
ヘルミーナは面白がるユアナを渋面で睨んだが、じきに自分も苦笑して首を振った。
「そんなことより、具合はどうなんだい。乳の出が悪いとか、痛むとかは?」
「痛いほどじゃないんだけど、張ってつらい感じは少し」
最前のウルスの、張ってんなぁ、という揶揄がよみがえり、ユアナは奥歯をぎゅっと噛みしめた。ヘルミーナはそれを我慢のあらわれと取り、助言をくれる。
「キャベツの葉を少し叩いて、柔らかくしたのを当てておくといいよ。そのぐらいなら自分で出来るだろ」
「ああそれ、一人目の時に教わったわ。嫌ね、すぐ忘れちゃって」
ユアナは首を竦め、乳の具合で時間を思い出して空のコップを置いた。
「ありがとう、ごちそうさま。おかげで気分が軽くなったみたい。そろそろ帰ってエルショークにお乳をやらなくちゃ」
「今は家族が見てくれてるのかい?」
「ええ。交代で礼拝に出られるように、母と義姉が。ちょっと肩身が狭いんだけど」
今日も出かける前に嫌味を言われた。ただでさえ赤ん坊連れで出戻って食い扶持がかかるのに、その赤子は女児で、将来の働き手として価値が低い。身内だから仕方なく受け入れてやっている、というような冷たい態度を取られる毎日だ。
ヘルミーナは眉をひそめたが、他人の家庭に批判の矛先を向けることは避けた。
「そんな無理してまで礼拝に出なくたって、問題ないと思うけどねぇ」
「あなたはそうでしょうね」ユアナは苦笑で応じた。「司祭様の祝福がなくたって、自分の世話を自分で見られるぐらいに、いろんな知識があるんだもの。だけど私は……あんなの誰にでも出来る、って言われても、祝福を授かると安心するし。それにやっぱり、神様を讃えるのは良いものよ」
「こりゃ驚いた。あんたはてっきり、神様を恨んでるもんだとばかり」
ヘルミーナが茶化す。ユアナは虚を突かれて言葉に詰まったが、数回の瞬きの後、自分でも不思議そうに答えた。
「そうね、流産したり、死ぬほどの思いで子を産んだり……すごくつらかったのは確かなんだけど。神様を恨む気持ちにはならなかったわ。だって、神様は私達が《聖き道》を外れないように見守って下さるだけで、誰でも楽に苦労せず生きられるようにしてくれるってものじゃないでしょう」
「だったらなおさら、そんな神様を讃えて何になるんだい」
ヘルミーナは意地悪く面白がりながら追及する。ユアナは困り顔になった。
「ねえ、私には良いけど、ほかの人にあんまりそういうことは言わないほうがいいわよ。酔っ払いが神様を罵るのなんて珍しくないけど、女の、特に産婆のあなたが言うのは良くないわ」
「わかってるよ。ご心配ありがとう」
ちょうどそこで、小屋の中から少女が呼んだ。
「ヘルミーナ! ねえ、こっちは作業終わってるんだけど!」
いつまでおしゃべりしてるのよ、と言わんばかりの声だ。ユアナは目をしばたたいて振り向いたが、狭い戸口越しに暗い屋内を窺っても姿は見えない。
「あれは誰?」
待ちぼうけでおかんむりの少女に聞かれないよう、小声で問う。産婆に娘はいないはずだし、村の誰かが手伝いにでも来ているのだろうか。
「ああそうか、あんたは知らなかったかね。アガタだよ。山手のほうに住んでた一家の子なんだけど、四年前に外道が出て、みなしごになっちまってさ。ちょうどいいから、あたしの跡継ぎにしようと引き取ったんだよ」
「外道――って、そんな話、誰も。大勢死んだの?」
さっと青ざめたユアナに、ヘルミーナは急いで説明を足す。
「いやいや、アガタの両親だけだよ。たいしたのじゃなかったから、わざわざあんたに話すまでもなかったんだろ。小鳥か栗鼠か、そんな程度だったんじゃないかい。あたしも詳しくは知らないのさ。アガタもその時は離れた場所にいたし、まだ八歳だったから、細かいところは覚えてないらしくてね」
外道とは文字通り、道を外れたものを指す。すなわち魔に憑かれた生き物だ。悪魔のようにはっきりとした意志や計略をもって人間を陥れるものではなく、『魔』そのものはただ、世界に漂う澱んだ黒い霧にすぎない。だがそれに憑かれた生き物は本来の性質から外れて狂い、《聖き道》にいるものを闇雲に攻撃するのだと言われている。
だから各地の村や町には必ず司祭がいて、集落の中に魔が生じないよう、入り込まないよう、頻繁に清めをおこなっているのだ。
「四年前なら、ヤンク司祭が退治を?」
「まさか! もしそうなら少しは見直したもんだけどねぇ。領主様んとこの下男が大急ぎでコロジュまで助けを呼びに行ったよ。ヤンクは、まぁ、外道がこっちまで出て来ないように防ぐぐらいはしたらしいけど。退治したのはあっちの連中だったよ。浄化特使じゃなくて普通の司祭さんだったけど、三人ばかり来て、てんやわんやして」
この村と違ってコロジュは小さいながらも都市であるから、教会にも大勢の聖職者がいる。司教が一人、そして司祭は十人前後。各地の教会へ様々な連絡を届ける伝令特使も最低二人は必ず常駐している。有事に際してはその伝令が近隣を走り、悪魔祓いや外道退治を専門とする浄化特使を見付けて連れてくる仕組みだ。
「言われてみれば、あっちの教会を通りがかった時、慌ただしい様子だったことがあったわね。あれがそうだったのかしら」
「かもね。まぁ、コロジュの教会は大きいから、いろんなとこから厄介事が持ち込まれるし、本当のとこはわからないけど。多分そうだろ」
ヘルミーナは言って肩を竦める。中からまた少女が「ねえってば!」と呼んだので、首だけ振り向けて「ちょっとお待ち、すぐ行くから!」とうんざり気味に怒鳴り返した。どこの家庭でも見られる母娘のやりとりだ。災難があって引き取られた経緯でも、今はすっかり家族として馴染んでいるらしい。
ユアナは微笑み、お邪魔しました、と詫びて帰路についた。
※覚書 同・産婆ヘルミーナの証言
「確かにあたしは自分のことを『魔女』と言いました。ええ、皆だって普通にそう呼んでますよ。本物の悪魔憑きだとかそういうんじゃない、ただの軽口です。それは村の誰もが承知のはずです。おっしゃる通り、もう長いこと礼拝には出てません。けど別に、教会や神様を憎んでるとか、そんなことはありません。ヤンク司祭のお説教なんかどうでもいいってだけです。四年前にコロジュから来てくれた司祭さんやら、半年毎に見回りに来てくれる巡回特使さんやら、ちゃんと仕事してる人達のことは、それなりに尊敬だってしてますよ。悪魔崇拝? とんでもない! あたしは一度だって、悪魔を呼び出すとか人を呪うだとか、そんな儀式をしたこともなければ、そういう方法について誰かに話したこともありません。もちろんユアナにも」
ヤンク司祭の証言
「ユアナはヘルミーナの家に入り浸っていました。産後の不調を診てもらうのだと言っていましたが、本当のところは知りません。私はその場を覗き見たこともなければ、ユアナの身体のあれこれを診たわけでもありませんから。司祭として当然の節度です。ただ、二人が親しすぎるような印象はありました」




