一章
番外『師弟の寄り道』でグラジェフがちらっと言及している女子修道院の創設期の話になります。副題に年代を記してありますが、本編が始まるより8年前の出来事。
※公募用に書いたので世界設定の説明など本編と重複する内容があります。
【副題】
ロサルカ東南部サモシュ村におけるヴラニ暦一一三九年の魔女裁判について
一章
「いにしえの昔、主がお創りになられたこの世は、円環のごとく完全でありました。しかしながら、いつしか人間は主のめぐみのありがたさを忘れ当たり前のものとし、果ては自分達も主のおわす天の御座に手をかけんとしたのです」
祭壇の前からヤンク司祭の説教が滔々と流れてくる。窓からうららかな春の陽射しが降りそそぐ会衆席では、村人達がそれぞれなりに眠気と戦っていた。
「愚かで傲慢ないにしえの人々は、悪魔のわざだと知らずに力を振るいました。その試みはむろん失敗したものの、完全なる円環に小さなひびが入ってしまったのです。それこそが悪魔のもくろみでした。今日我々の暮らしを脅かす悪魔も外道も、みな、ここから溢れ出したのです。聖御子が御身をもってひび割れを塞がれたおかげで、円環がそれ以上損なわれることはなく、世界は救われました。まことに主は尊きかな」
お決まりの聖句を唱えた司祭に従って、会衆席から「尊きかな」の唱和が返る。熱心な声が幾人か、あとは半分寝言のような、惰性と習慣の声。司祭はえへんと咳払いしたが、緩んだ空気はあまり引き締まらなかった。
「であるから私達は、いずれ聖御子がよみがえられ、主のみわざでもってまったき円環が取り戻されるその日まで、決して過ちを繰り返さないように《聖き道》を歩まねばなりません。傲慢こそはすべての悪徳の源、最も重い罪であることを忘れないように……」
十年以上、ここサモシュ村で礼拝を司宰してきたヤンクは、聴衆の限界をわきまえていた。良い感じに話をまとめて締めくくり、賛美歌の合唱に移らせる。寝ていた村人も億劫げに背筋を伸ばして口を開いた。
――聖なるかな、いと高き天の御座より 主は我らに道を示したもう……
少しは上手な素人聖歌隊が牽引する旋律に、喉自慢の男がここぞとばかり声を張り上げて乗っかる。素朴で短い歌が終わると、会衆は席を離れてぞろぞろと列をつくった。司祭の前に順に並び、一人ずつ祝福を授かるのだ。
ヤンクは胸に掛けた銀環に左手を当てて、信徒の頭に右手を置き、聖句を唱えて祝福する。聖都で学んで司祭に叙任された者だけが身につけられる、己が名を刻んだ銀環。これを用いることで、司祭の目は霊力を銀の光として視認できる。
そのうえで注意深く選んだ聖句を唱え、銀環を介して霊力を流すことにより秘術をおこなうのは、聖職者のみに許された特権だ。悪魔の誘惑に屈しやすい一般の民衆とは違い、何が忌むべき魔術で、何が聖らかな神秘であるかをわきまえられる、学識すぐれた人々だから。
そんな司祭様であるヤンクは、風貌だけを言えばいかにも平凡な五十がらみの男だが、それなりの尊敬を勝ち得てはいた。普段は粗略な態度の人々も、礼拝での祝福だけは神妙に畏まって頭を下げる。だからヤンクは、この時間がことのほか好きだった。
全員の祝福が終わった後、もう一度主を讃える言葉を皆で朗唱し、礼拝は終了となる。途端に教会内の空気がざわついた。辺りを憚らぬ大欠伸、仕事に戻るせわしない足音、集まって世間話を始める声。
司祭ヤンクはそんな中を縫って一人の女に歩み寄り、呼びかけた。
「やあ、ユアナ」
栗色の髪の女が振り返り、会釈する。浮かべた微笑は少しぎこちない。八年前に隣市コロジュの商家に嫁ぎ、最近離婚されて戻ってきたばかりなので、まだ村での居心地が良くないようだ。ヤンクは思いやりをこめて問いかけた。
「どうだい、少しは落ち着いてきたかね」
「ありがとうございます。おかげさまで」
ユアナは伏し目がちに、礼節を保った口調で答える。敬虔な信徒に相応しく奥ゆかしい態度。妻にするにも好ましい性質だろうに――ヤンクはつくづくとそう思った。
(こんな女性を妻にしておきながら突っ返すとは、なんと贅沢な)
もうじき三十路の出戻りでも、まだ充分に女として魅力的だ。その証拠に礼拝の間じゅう、何人かの独身男がしきりに彼女のほうへ目をやっていた。ヤンク自身は貞潔の誓いを立てた司祭であるが、そんな男達の気持ちもわからなくはない。だからこそ、現状を放置してはおけなかった。
彼はユアナを促し、礼拝堂の奥の扉を抜けた先にある居室に入った。司祭の生活空間であると同時に、信徒の相談を受けたり、数人ほどの会合を開いたりもする部屋だ。司祭の書き物机とは別に、小さなテーブルと余分の腰掛けが置かれている。
ヤンクはユアナを座らせ、自分も対面に腰を下ろした。
「話しにくいだろうが、確認させてくれ。そなたの夫は確かに離婚手続きを終えてしまったのかね? ただ言葉で家を追われただけなのであれば、私があちらの教会に掛け合って仲裁を頼むこともできるが」
婚姻にかかわる事は、教会と領主の両方に権限がある。結婚式を執り行い誓約を立てさせるのは教会の役目だが、領主の許可が無ければ――つまり金を払わなければ――結婚も離婚もできない仕組みだ。
家督相続や財産分与がややこしくなる家なら別だが、庶民は手間と費用を惜しんで配偶者を追い出すだけ追い出し、放置するのも珍しくない。そういった例では追われた側が生活に困れば、話し合いや時に裁判で、元の鞘に収めるべくはからわれることもある。
ヤンクはユアナの家庭に思いを巡らせながら、相手の顔色を窺った。下手につついて泣き出したりされたら面倒だし、嫌な噂を立てられてしまう。幸いなことに、彼女はまったく動揺していなかった。口を閉ざしたままではあったが。
返答に悩んでいる様子なので、ヤンクは具体的な話を進めた。
「そもそもいったい、どういう理由で離婚を言い渡されたのかね? 不貞を疑われたとは思えないんだが。子供も産んだのだろう?」
離婚が認められる『重大な瑕疵』の代表例が、不貞行為と、子供ができない場合のふたつだ。しかしユアナは乳飲み子を連れて帰ってきたのだから、問題は子供のことではなさそうである。
ヤンクはそう推測したのだが、ユアナの返事はまさに、子供のことだった。
「産みました、確かに。娘を二人。次こそは男児を産めと言われて、嫌だと言ったから追い出されたんです」
口調は淡々として静かで、まるで他人事のように感情がこもっていなかった。予想の外れたヤンクは一瞬怯んだが、すぐに気を取り直して説教する。
「嫌だなどと……先方は確か、それなりに大きな商いをしている家だろう。跡取りが欲しいというのは当然ではないか。そもそも、子を産むことは女にしかできない、大切なつとめなのだぞ」
厳めしく諭した司祭に、ユアナはじっと無感情なまなざしを返した。後ろめたさや反省はおろか、怒りや反発さえもない、底知れないうつろな瞳。ヤンクは相手の心情が読み取れず、眉を寄せて口をへの字に結ぶ。ややあってユアナがつぶやいた。
「一度目は流産しました。二度目でテレジアを産みましたが、とても……大変で。死にそうなほど痛くて痛くて、もうごめんだと思いました。でも、男児を産めと。大変なのは初産だけで、あとは楽になるからと言われて。次はまた流産したけれど、出産の時よりはましだったからほっとして……けれど結局、二人目を」
ふ、と幽かな吐息とともに目を落とす。自分の身体を見下ろすように。
「きっと私は、子を産むのに向いてないんでしょう。初産より楽だなんて、全然そんなことなかったんです。今度こそ本当に二度と産むものか、と固く決めました。……司祭様には想像もつかないでしょうけれど、もう身体はぼろぼろです」
女にしかわからない苦痛を訴えられて、ヤンクは渋い顔になった。
「先方にはそのことを説明しなかったのかね? きちんと話せば、娘のどちらかに婿を取らせれば良いと納得するだろうに。離婚して、また別な妻を見付けて迎えるとなったら、時間も費用も相当かかるのだから」
「もちろん話しました。産後間もなくて身も心もつらい時だったので、うまく言えなかったのかもしれませんけど。司祭様のおっしゃる通り、男児ができなければ娘婿を取るしかないと……だからテレジアは向こうに残されたんです。とにかく、そんないきさつですので、今さら戻ることはあり得ません。私はここで家業を手伝いながら、娘を育てるつもりです」
ユアナは次第に疲労の色を濃くし、もうこれ以上は話したくないというしるしに、口を引き結んで頭を下げた。ヤンクは対話が思ったように運ばずいささか不満ではあったが、ここいらが引き際と察し、うむとうなずいた。
「わかった、そういうことなら私もそなたの娘を祝福し、村人の名簿に書き加えるとしよう。名はなんというのだったかな?」
「エルショークです」
ほっ、とユアナが笑みほころぶ。そんな表情をするとやはり彼女は魅力的で、司祭たるヤンクは欲情こそ抑えられるものの、手を差し伸べ世話をして関わり合いになりたい、という気持ちにさせられてしまうのだった。
「では、近いうちに連れてきなさい。主と聖御子のご加護があるように祝祷を授けよう。そなたも、困りごとがあれば何でも話してくれ。実家で肩身が狭いとか、村の者から何か言われるとかいったこともあるだろうからな。ああ、それと……健康がすぐれぬのであれば、滋養強壮の煎じ薬ぐらいはいつでも用意できるぞ」
頼りにしなさい、と請け合うようにヤンクは鷹揚な笑みを見せた。
司祭は皆、聖都で教理や秘術を学ぶかたわら、基本的な医薬の知識とわざを習得するよう求められるため、医師の役割も兼ねているのだ。むろんあくまで本業は別であるから、学びの意欲と能力によって個人差は大きい。専門の医師が畏れ入るほどの者もいれば、風邪でも腰痛でも同じ薬草を煎じるしか能が無い者もいる。
ヤンクは残念ながら後者寄りの一人だが、この小さな村では皆の家庭医として信頼を集めることができていた。隣市のような町に行けば専門の医師や薬師がいるものの、それとてやはり玉石混淆であるから、今のところ彼の体面は保たれている。
もっとも、司祭の権威を脅かす者がいないわけではない。ヤンクの提案にユアナは「ありがとうございます」と頭を下げたが、続けて言った。
「今はまだ色々とありますが、そのうち皆も慣れて噂しなくなるでしょう。身体のことはヘルミーナさんに相談していますから、大丈夫です」
嫌な名前を持ち出され、ヤンクはつい、あからさまにしかめ面をして唸った。その反応にユアナが失笑を堪えたのがまた、気にくわない。彼は棘々しいため息をついた。
「……まあ、女のことは産婆のほうが詳しかろう。しかしあまり信じすぎてはいかんぞ。魔女のわざに取り込まれてしまいかねん」
「まさか。魔女だなんて、あの人は違います。もし誰かが悪魔のわざに手を染めたなら、司祭様はすぐおわかりになるのでしょう?」
たとえ冗談でもそれは良くない、とたしなめる声音でユアナは応じ、ついでにちゃんと司祭の面目を立ててくれる。ヤンクは銀環に手を当て、しかつめらしく「もちろんだ」とうなずいた。
司祭が銀環と聖句で行う秘術を男のわざとするなら、産婆たちが扱うのは女のわざだ。彼女らは代々継承されてきた独自の知識に基づき、薬草や飲食物やお守り等あれこれの手法で、出産を助けるほか女に特有の病を治療する。
教会の立場としては、産婆というのはいい加減で当てにならず、司祭の秘術こそが《聖き道》に沿う正しいわざである。だが出産は女の領分であり産婆の力が欠かせないため、渋々容認しているのが現状だ。
むろん産婆は一般人であり銀環を持たないので、霊力は見えないし扱えない。だから本物の魔術は使えないはずで、魔女と呼ぶのもただ、胡散臭い者への軽蔑にすぎない――ほとんどの場合は。
「私がいる限りは決して、邪悪な魔術が村の者を傷つけるのを見過ごしなどせんよ。だが魔術を使わなくとも、嘘やごまかしで心を歪め、何の効き目もないまじないでそなたを騙して陥れることはあり得る。だから気をつけなさい」
「あの人はそんなことはしないと思いますけど……でも、ええ、言葉だけで人を傷つけ狂わせるようなことも出来ますものね。よく気をつけます」
ユアナは産婆を弁護しかけたが、ふと何かに思い当たった様子で、神妙に忠告を受け入れた。
※覚書 ヴァイダ家所蔵の裁判記録より、ヤンク司祭の証言
「ユアナが村に帰ってきた時は、ひどくやつれていましたが、それ以外に変わった点はありませんでした。事前に何のしらせもなかったので家族は驚いた様子でした。私のほうにも、あちらの教会から連絡はありませんでした。ですから離婚の理由などは知らされていなかったのです。コロジュでの素行だとか、そういうことは何も」




