閑話1 カブトムシ事件
番外編その1 こうすけくん3歳のできごと(ツン期)
3歳当時の折瀬浩介にとって、吉良沢芳人は不倶戴天の敵だった。
男のくせにチャラチャラしてるというか、女子とやたら親しげなのが気に食わない。
前に妹の未亜と一緒にいるところを「ふーふみたいだよな!」と煽ってやったら、
――分かってる分かってる、未亜のことが羨ましいんだろ?
――だって折瀬は! 俺のことが! 大好きだもんな!
と大声で言いふらされ、いつの間にかそれが事実として定着していた。
「こうすけくん、よしとくんにかたおもいしてるんだって」
「きんだんのあいね!」
「おうえんしなくっちゃ!」
芳人のことを嫌っている浩介としては、もう、不本意としか言いようがない。
どうすれば誤解を解くことができるのだろう。
浩介は子供なりに頭を悩ませ、
「おい芳人、かけっこしようぜ」
砂場で遊んでいた芳人に声を掛けた。
勝負事で徹底的に打ち負かし、それでもって仲の悪さをアピールしようと考えたのだ。
「オッケー」
「じゃよいドン!」
早口で合図し、相手に準備する間を与えない。
浩介の誇る必勝の策である。
「はははははっ! 遅せー! 遅せーな、芳人!」
勝利を確信し、後ろを振り返る浩介。
当然ながら足元への注意はおろそかになっており、
「なあっ!?」
うっかり石に蹴躓いてしまう。
そのままならばグラウンドの砂の上で全身を擦り剥き、浩介は大泣きすることになっていただろうが、
「気をつけろよ、浩介」
その時、魔法のような現象が起こった。
芳人は驚異的な速度で浩介に追い付くと、その身体を両腕で受け止めたのだ。
「よしとくんは王子様なのね」
「こうすけくんはお姫様なのよ」
「そしてわたしたちは腐ったメイド」
少し離れたところでは『よっくんこーくん見守り隊』(会員数約80名) の女子がそんなことを呟いているが、浩介の耳には届かない。
この時、彼のすべての意識は芳人に向けられていた。
なにせ他人とこうもベッタリ接触するのは生まれて初めてのことだったからだ。
「あ、ありがとう」
俯きながら立ち上がる浩介。
その胸の鼓動はいつになく暴れていて、
「これで勝ったと思うなよ……」
捨てセリフも妙に上擦った声だった。
* *
その後も浩介の挑戦は続いた。
かくれんぼ。
だるまさんがころんだ。
あっちむいてホイ。
いろいろなジャンルで勝負を仕掛けるものの、どれもこれも返り討ちにあってばかりで、
「こうすけくんはぶきようね」
「かれなりのあいじょうひょうげんなのね」
「さそいうけのつんでれ……」
しかも誤解はさらに深まっていく。
そうするうちに1ヶ月、2ヶ月と経ち――7月になったばかりのころ。
「やったああああああああああああああああああああああああああっ!」
浩介のもとに特大級の幸運が訪れた。
幼稚園でのかくれんぼの最中、裏庭で1匹の虫を捕まえたのだ。
ただの虫ではない。
黒光りするボディに、雄々しい一本角。
カブトムシだ。
大きさは、浩介の両手にギリギリ収まるほど。
かなりのサイズと言っていいだろう。
「すげえな、こうすけ!」
「やるじゃねえか!」
「ひゅーひゅー!」
その日、浩介は男子のあいだでスターになった。
ただ残念なことに、一番見せびらかしたい相手――芳人は幼稚園に来ていなかった。
家の用事とやらで欠席していたのだ。
翌朝。
虫かごを腕に抱え、浩介はライバルの到着を今か今かと待ちわびていた。
「おい、おまえ」
そこに声を掛けてきたのは、小太りの男子。
胸の名札には『年長・すみれ組・ほしかわ きらり』と書いてある。
髪は両サイドを刈り上げ、襟足をやたら長く伸ばしていた。目つきも悪い。
「でっかいカブトムシ持ってるんだってな、ちょっと見せろよ」
「い、いやだ!」
「うっせえな、年少が年長にさからうなよ。……ぶっころすぞ」
「く、ぁ……っ」
星川は拳を握ると、何のためらいもなく浩介の腹を殴りつけていた。
そのまま首を絞めるように肩を組み、強引に飼育小屋の裏まで引き立てていく。
「ここならだいじょうぶだな。おら、さっさとよこせよ」
あたりを見回す星川。
人目のないことを確認したあと、浩介から虫かごを奪い取ろうとする。
「やめ……ろ、よ……!」
苦悶の表情を浮かべつつ、それでもなお浩介は追いすがる。
その指先が偶然、星川の頬を引っ掻いた。
すると、
「てめえ、年長に逆らったな」
言葉とは裏腹、星川はニタニタと笑っていた。
「やられたからやりかえしていいだろ。せーとーぼーえーだ、せーとーぼーえー」
そんな手前勝手な論理を嘯き、浩介を突き飛ばした。
倒れ込んだところをさらに蹴りつける。
二度、三度、四度――。
やがて気が済んだのだろうか、星川は最後にペッと唾を吐きかけると虫かごを手に去っていった。
しばらくして痛みが引いた後も、浩介は教室に戻らずにいた。
飼育小屋の裏でさんかく座り。
両足のあいだに泣き腫らした顔を挟み込んでいる。
普通なら星川の所業について先生に言いつけるところだろう。
だが浩介にはできなかった。
――おれはカブトムシをまもれなかった。
――それだけでもカッコわるいのに、オトナをたよるなんてダサすぎる。
そんな気持ちが先に立ち、ここから一歩も動けずにいる。
遠くから聞こえるのは、園児たちの楽しげな声。
自分がひどくみじめてひとりぼっちで、世界中の何もかもから切り離されたような心地だった。
いっそこのまま消えてしまいたいとさえ思った。
その矢先に、
「こんなところにいたのか」
よりによって
「先生が探してるぞ、どうしたんだよ」
芳人のやつに、見つかってしまった。
「なんでもない」
「なんでもないことはないだろ。カブトムシ、捕まえたんだって?」
「逃げたよ」
「そうなのか?」
「ああ」
浩介は嘘を吐いた。
自分の弱みを芳人に見せたくなかったのだ。
しかし、
「すみれ組のやつが自慢してるぞ。でかいカブトムシを捕まえた、って。……あれ、浩介のだろ」
芳人が口にしたのは、紛うことなき真実。
それは浩介にとって誰にも知られたくない事実であり――
「うるさい! あっちいけよこのチャラチャラ!」
思わず足元の小石を掴んで投げつけてしまう。
アッと思った時には手遅れだった。
小石は芳人の左目に直撃し、跳ね返って地面に落ちた。
「ご、ごめん……」
ここですぐに謝れるのが折瀬浩介という人間である。
「……」
怒っているのだろうか、芳人はこちらに近づくと、むんずと腕を掴んで歩き出す。
同い年とは思えないほどの力だった。
あれよあれよという間に連れていかれた先は、すみれ組の教室の前。
普通なら年少組が年長組のところに来ても追い払われるのがオチだろうが、
「みんな見て! よしとくんとこうすけくんよ!」
「あーっ、手つないでる!」
「もしかしてデート中?」
『見守り隊』のメンバーは年長組にも多いらしく、むしろ歓迎ムードですらあった。
すみれ組の女の子たちが嬉しそうに話しかけてくる。
幼い浩介としては委縮するばかりだったが、他方、芳人は堂々とした態度で、
「ここの星川ってヤツがカブトムシを捕まえたって言ってるけど、あれ、浩介のなんだ」
「あー、やっぱりー」
「昨日の今日だもんねー、あやしい気がしてたのよー」
「こうすけくんのためにがんばるよしとくん……ゆうじょう、ゆうじょうだわ…………」
そうして次に起こった展開は浩介にとって予想外すぎるものだった。
「星川! ちょっときなさいよ!」
「こうすけくんにカブトムシをかえしてあげなさいよ!」
「とうとくないわ!」
「このどろぼうねこ!」
「いなかのおっかさんもないてるわよ!」
女子たちの集中口撃。
これには星川も肝を冷やしたらしく、虫かごを抱えたまま縮こまっている。
他の男子たちは恐れをなして逃げ出してしまった。
「女って怖ええ……」
思わず浩介が呟くと、
「そうだな……」
なぜか、しみじみと芳人が頷いた。
妙に疲れた表情まで浮かべていて、浩介はついついクスリと笑ってしまう。
その時だった。
「うるっせえんだよ! このブスどもが!」
堪忍袋の緒を切らした星川が女子のひとりを蹴飛ばそうとした。
だが、
「あんた、足、短いな」
いつの間に動いていたのか、芳人がその間に割って入っていた。
星川のキックを片手で受け止め、そのまま足を高く持ち上げる。
「わっ、うわっ!?」
転倒する星川。
地面に手を衝こうとした拍子に虫かごを手放してしまう。
「浩介!」
「わかってる!」
間一髪。
虫かごが落ちる寸前、滑り込むようにして浩介はキャッチしていた。
「くそっ! おれのだ、返せ!」
「やだね」
「そもそもあんたのじゃないだろ」
そのまま2人ですみれ組の教室を逃げ出す。
否。
「《脱衣術式》・《汝の生まれたままの姿をここに曝すべし》」
芳人は何事か呟いて引き返すと、すれ違いざまに星川を全裸に剥いていた。
女子たちの悲鳴が上がる。
「キャーッ!」
「すごいはやわざだわ!」
「きっとこうすけくんでいつも練習してるのよ!」
なんだか妙な風評被害を食らってしまった気もするが、まあ、それはともかく。
カブトムシだ。
カブトムシが戻ってきたのだ。
「浩介、行くぞ!」
「わかった!」
「待て、待ちやがれ!」
星川は腹の贅肉と下半身のアレコレをぷるんぷるんと震わせ、ものすごい勢いで追いかけてくる。
幼稚園はパニックに陥り、警備員がさすまたを手に飛び出してくる事態にまで発展した。
最終的に浩介、芳人、星川の3名は揃って先生たちに大目玉を食らうことになったものの、幸い、カブトムシは浩介のもとに戻ってきた。
ただ、カブトムシの寿命というのはそう長くない。
幼虫時代を含めれば1年と少し、成虫になってからは2か月程度である。
それは夏休みを前にした7月下旬のある朝のこと。
カブトムシは虫かごの中で静かにその生を終えていた。
あまりにも唐突な別離。
浩介が呆然と立ち尽くしていると、
「墓、作らないか」
芳人がそんな風に声をかけてくる。
2人はスコップで地面を掘り、その遺体を丁寧に埋めた。
場所は裏庭、カブトムシを捕まえた木の根元だった。
手を合わせて冥福を祈る。
しばらくして、どちらともなく立ち上がった。
「……なあ、なんでだ?」
「何がだ」
「おれ、いつもつっかかってばっかりだろ」
なのにどうして親切にしてくれるのか。
そう浩介が問うと、芳人は苦笑しながらこう答えた。
――放っておけないんだよ、お前のこと。
おそらくそれは芳人にとって、何でもない言葉だったのだろう。
ただ。
受け取る側にとってどうだったかといえば、それは別問題であり、
「う、うるさい! おれは、おまえのライバルなんだからな!」
浩介は捨てセリフとともに裏庭を走り去る。
その鼓動はいつになく跳ねまわっていた。
活動報告のほうに、カットした後日談ぽいものを簡単に書いています。




