アミラとデミラ
夜の闇が深まろうとする空間に、密やかな息づかいが響き渡る。
研ぎ澄まされた刃のような緊張感をはらんだ男たちの呼吸──十人ほどはいるだろうか。
そこは、イスカリオーテの中心にそびえ立つ魔城の回廊であった。
蛇教信者以外の者(すなわち蛇の紋章が刺繍された黒衣を着用していない者)が立ち入ることは許されぬ城内において、邪悪な黒衣とは対象的な白い兵装で身を固めた男たちは、明らかに招かれざる客であった。
暗がりの中で彼らは、物音を立てぬよう用心深く歩を進めている。
ディアム城近衛隊長シュネイデルと、その配下の特別部隊であった。
鍛え上げられた選りすぐりのエリュマンティス兵たちは、訓練された技能で宵闇にまぎれ、高い外壁をも難なく乗り越え、手際よく城内へと潜り込んでいたのだ。
不気味な城である。
広い回廊には薄闇が重く立ち込め、どこかから風が吹き抜ける音が聞こえてくる。
いくつもある硝子窓からは冷たい月の光が差し込んできて、夜目のきかない兵士たちの目にも、城内の細かい景観までがはっきりと捉えられた。
なんとも言えない嫌な雰囲気だった。
まるで、すべてを知る怪物に無言で迎え入れられているかのような──。
ごくっと、部下のひとりがつばを飲み込んだ音が異様に響き、隊長のシュネイデルも一瞬足をすくませた。
だが、すぐに不安を勇気に塗り替えると、彼はつばを飲んだ部下の肩を、軽くぽんと叩いた。
「悪魔たちを恐れるな。それはどんな巨大な悪に見えても、いずれは滅び去る運命にすぎない。我らは自分の内面だけを恐れるべきなのだ」
たしなめるような表情で言ってから、シュネイデルは年若い部下を安心させるために少しだけ相好を崩してみせた。
彼の思い出に焼き付いているリュネシスを真似たつもりだったが、口では真逆のことを言う。
「法皇様に借りてきた言葉だ。もっとも私も臆病だから、あまり偉そうなことは言えんがな」
指揮官である男の他愛ない言葉に、部下たちに漲っていた緊張感がいくぶん緩和する。
皆が苦笑まじりに笑ったのをシュネイデルは短い時を置いて確認した。
そして彼は回廊の奥を指し示し、奮い立つように再び前進する。
「さあ、行くぞ!」
隊員たちは無言でうなずき、隊長の後に続く。
廊下は曲がりくねっており、注意深く歩こうとも一歩一歩進むごとにわずかな足音が響き渡った。
かつてこの城は活気に満ちていたのだろうが、今はその面影を一切感じることはできない。部屋のひとつひとつを慎重に覗きこみながら奥へ奥へと進んでいく。
どの部屋も荒れ果てた家具や、壁に覆われた蔦が目につくだけで、人の気配がまるでない。
──おかしい……。
この時点で、シュネイデルの疑念が膨らんでくる。
納得のいかない状況であった。
これより少し前、怪しげな者たちの団体が、子どもたちを城内に運び込むのを確認したのだ。
そのときの雰囲気から察するに、すでに城内に待機していた者も含めると、相当数の敵が存在しているはず。
少なくとも、蛇教の巣窟がこんなさびれた廃墟のはずはない。
蛇教集団に悟らせぬよう隠密行動をとっているとはいえ、誰にも会わず戦いを避けてすませられるとも思っていない。
出くわす者を一人ひとり斬り伏せてでも、目的を達成するつもりでいたのだ。
──おかしい……明らかにおかしい……まさか、もう感づかれている?
シュネイデルが無意識に眉を寄せたその時、ほんの幽かな声が聞こえた。
「……憎い」
一度目はそうと聞き取れぬほど、おぼろだった。
「……憎い」
だが二度目は、言葉の意味が明瞭になるほど、はっきりと聞こえた。
それは小波のように頼りなく、それでいながら不思議な力で鼓膜を打つ、陰のこもった女の声だった。
「聞こえたか?」
「ああ、聞こえた」
隊員たちが声を潜めて、焦ったように互いの目を合わせあった。
「隊長?」
指示を仰ごうとする副隊長には顧みず、近衛隊長シュネイデルは反射的に自分の口に人差し指を当て、隊員たちを黙らせる。
「し!」
いつの間にか特別部隊は、回廊の突き当たりにある広間にまで来ていた。
くらい空間が大きく広がり、天井からはかつての王家の栄華を偲ばせる巨大なシャンデリアが垂れ下がっている。
しかし、その輝きはとっくに失われ、今や干からびた飾りとなって兵士たちを見下ろしていた。
だがこの時、周囲の急激な変化にさらなる緊張状態にあったシュネイデルが部下たちを黙らせたのは、謎めいた女の声だけに反応したからではなかった。
鋭敏な男の警戒の網は、危険に揺らめいたふたつの気配を察知したのである。
シュネイデルが身構えるより早く、ぐさっ!!と人体を貫く嫌な音が響いた。
「うぐぅっ!?」
「ぐはぁっ!」
「「ようこそ、我らの蛇蝎城へ……」」
ふたりの部下の断末魔のうめき声と、悪意のこもった女たちの声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「あたしはアミラ」
「あたしはデミラ」
ふいに、朽ちていたはずの天井のシャンデリアに不可思議な明かりが灯った。
そしてその光が、広間の中央で堂々と構える、凶悪な者たちの姿をはっきりと照らし出したのである。
およそ人間とは思えぬ、姿形のよく似た半裸の娘たちだった。
浅黒い肌がつやつやと光り、全身には禍々しいまでの呪術的入れ墨が施されている。
髪の色だけは対象的な赤と青。
その長くみだれた髪に、二本の短い角がアクセントをそえて、彼女らの残忍な性格をより際立たせているように見えた。
「あたしたちは、メデューサ様の魔力で特殊強化された双子の鬼」
右に立つ、赤い髪の鬼──アミラが自分の顔を指さしながら、尖った牙をはっきりと覗かせた。
「この城とメデューサ様を守るのが、あたしたちの仕事なの」
左に立つ、青い髪の鬼──デミラも同じように、自分の体を色気たっぷりになでながら得意げに笑った。
彼女らの足元には、今しがた殺したばかりのふたりの隊員たちの屍が転がっている。胸を何かで刺し貫かれて、どくどくと流れる血が床に大きく広がっていく。
とっさの出来事で、鬼たちが何をしたのかシュネイデルには解らなかった。
だが、彼女たちが得物を手にしていないことから、素手による貫手で部下を殺めたものと察した。
「あ~こいつ派手に床を汚してくれちゃって……それに何この匂い?臭くて臭くてたまんない」
汚いものを見るかのように、自分が殺した死体に目をくれる姉のアミラに同調して、妹のデミラが首をたてに振った。
「うん。大人の男ってほんと最悪。喰ってもまずいしね」
「こどもの男の子なら美味しく喰えるんだけどさ」
「うん。そう言えば姉ちゃん。今日運ばれてきた男の子たち、肉が柔らかくて旨かったね」
アミラの言うことにいちいち追従するデミラの言葉は、特別部隊が目撃した子どもたちは、すでに教団内で生贄とされ喰い殺されてしまったことを意味していた。
「貴様ら!!」
デミラが言い終えた瞬間、怒りに燃えたシュネイデルたちは反撃に転じていた。
すでに鬼たちの攻撃方法は、剣と魔法でないことは分かっている。
凄まじい腕力を持っているようだが、敵の正体がはっきりとしたことで、特別部隊は攻勢に打って出た。やつらを倒す機会があるのは、こちらを甘く見て油断をしている今──訓練された剣士たちによる連携攻撃で、勝機を見出すしかない。
「「へえ」」
攻めに転じた人間たちを小馬鹿にするように、双子の鬼たちは不敵な笑みを浮かべて迎え撃つ。
ぶん、と数本の剣が虚しく空を切っていた。
二体それぞれの鬼に対して、前後左右から仕掛けたはずのシュネイデルたちには、予想以上の速さで躱す彼女たちの動きすら認識できなかった。
「こっちだよ」
アミラを襲撃した四人の隊員たちの背後から、冷やかすような声が響き渡る。
だが、反応することもできなかった。三人の男たちの首が、風を裂く疾さの手刀で、一瞬にして薙ぎ払われる。
残るひとり──副隊長だけは、その攻撃をかろうじて避けた。
しかし次の瞬間には、アミラにがっしりと頭を掴まれていた。
「あたしらの握力ってさあ……軽く一トンはあるんだよ。やばくない?」
そのセリフが終わるか終わらぬかのうちに、彼の頭はぐしゃっと握り潰された。
「くっ……」
剣を握るシュネイデルの手が震える。
部下たちと共にデミラの方を襲ったのだが、こちらもあっけなく全員が瞬殺されてしまったのだ。
そのデミラが何事もなかったかのように、頬に浴びた返り血を拭いながら、ゆっくりと近づいてくる。
「言ってなかったけど、この蛇蝎城は別名魔封じの城。ここはメデューサ様の妖力が働いていて、一切の魔法が使えない。つまり、いかなる魔法使いも無力になってしまうんだよ。そうだよね?姉ちゃん」
青鬼デミラの語を引き継ぐように、赤鬼アミラが鷹揚に腕を組みながら、ずいと前に出た。
「ああ。だからあたしたちは、選ばれた戦士のおまえたちに期待して、あえて部下たちを引っ込めて直接戦ってやったってのに、全然だめだったじゃないか」
「うん。全然だめだったね」
追従する妹にアミラは含み笑いを向けてから、表情を消してシュネイデルに詰め寄った。
「それとこの城は、大人の男子禁制なの。だからメデューサ様はとーってもお怒りだよ」
ここであえて言葉を切ったアミラの口調が、残酷なまでに低くなった。
「もちろん、あたしたちもね」
邪悪なふたりの鬼は、にやりと笑った。
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