近衛隊長シュネイデル
アルゴスという国家の体制が、揺らぎ始めていた。
世界で最も繁栄する理想都市エリュマンティス──その昔、地上に降り立った熾天使によって創設されたと言われる伝説的国家アルゴスの、荘厳華麗な巨大首都である。
その大都市の片隅から静かに、深く、確実に悪黒い衝動が侵食しようとしている。とてつもなく邪悪な者の呪いが、国家全体にまでかけられようとしている。
そして、そこに住まう人々は知らなかった。
それは、これから始まる大いなる最終戦争の幕開けに過ぎなかったことを──。
正しき法王制度によりアルゴスは安寧秩序が保たれ、人々は豊かな生活を享受していた。
そして、若き魔王と魔女の存在は、あくまで幼子などに読み聞かせる、言い伝えの類として語られてきた。
彼らが実在するものとする他国との認識のちがいはあったが、鎖国に近い国内において、その差異を気にする者はほとんどいなかった。
だが、ルスタリアの三人の戦士たちがエリュマンティスにたどり着き、魔王側とひそかな同盟を結んだ直後から──。
不穏な噂が国内を流布し、多くの人々が動揺していた。
それこそがアルゴス獲得に最も執着する、魔女王配下六魔導の一人、蛇の女王メデューサの仕掛けた狡猾な罠であるとも知らずに──。
ルスタリアが滅び、世界がまさに未曾有の激変の時代を迎えようとしている今、かつて百年もの長きに渡り、魔王に支配されていたという恐怖の事実が人々の記憶の中に蘇ろうとしていた。
それは同時に、国家の礎を覆そうとする見えない動きでもあったのだ。
アルゴスの正しき統治者であるサムエル法王は、ルスタリアの王女と秘密の面会を終えた後も、日々無数の仕事をこなしていた。
大聖堂でミサを唱え、修道会を監督し、各地の司教たちへの手紙を書くなど、毎日の業務に対し誠実とも言える勤勉さで勤しんでいた。
彼がルナたちと会った三日後の朝──。
ディアム城内の職務室において、法王がいつも通り仕事に励んでいたとき、居室を訪れようとするひとりの兵士の姿があった。
ただの兵士ではない。
ディアム城内の衛兵の中で、最も高い地位である近衛兵の出で立ちをしている。彼が通りすがるたびに、兵士たちは明らかに緊張した面持ちで敬礼する。
年齢は三十歳ほど。引き締まった顔つきが見た者に好感を持たせる、逞しい将校であった。
彼の名はシュネイデル。かつて魔王リュネシスの親衛隊を努め、若くしてその有能さからディアム城近衛隊長にまで上り詰めた男である。
近衛隊長シュネイデルは、職務室の前で腰を曲げ丁重に要件を告げると、法王は職務を一旦中断し、彼を室内に招き入れた。
法王の前に立ったシュネイデルはもう一度慇懃に礼をすると、険しい顔つきで切り出した。
「法王様。重大かつ緊急を要するお話があります」
その雰囲気には若かりし頃、魔王の親衛隊員を務めていた時にはなかった戦士としての貫禄が重苦しく漂っている。
「どうしたのかね?シュネイデル」
法王は、普段どおりの好意的な態度をくずすことなく気楽に問いかけた。
「ルスタリアが壊滅しました」
言葉を選ぶように、シュネイデルは慎重に応えた。
「かの国が魔物たちの手によって壊滅されたとの情報が、数日前から寄せられておりました。その裏付けを取るため、私は部下に念入りな調査を進めさせていたのです。ですがつい先ほど、それが事実であることが判明いたしました。ルスタリアは壊滅。そして、国王以下全員討ち死にであります」
そこで区切って、シュネイデルはあえて落ち着くように息を吐き出した。
「今のところ国民に不安を与えぬよう、全兵士たちに箝口令を敷いてあります。ゆえに現段階ではルスタリア壊滅の件は、あくまで噂の段階に留まっておりますが、それが事実として広まるのも時間の問題かと……」
その言葉に法王はしばらく黙し、痛む心に表情を曇らせ目を閉じた。
すでに知らされていたことではあったが極秘事項であったので、法王はルスタリア壊滅について一切他言はしておらぬ。
彼が、数日前ルナたちをもてなした事実も、一部の衛兵たちが端的に知っているのみであった。
口には出せぬ想いを持て余しながら、法王は閉じていた目を開いた。
「哀しいことだ。だが、悪魔や魔物たちを恐れることはない。それはどんな巨大な悪に見えても、いずれは滅び去る儚い存在にすぎない。我々は我々の内面だけを恐れるべきなのだ」
「はい、法王様。ですが、隣国ルスタリア壊滅の事実はアルゴスが──いえ、世界が滅亡する兆しでもあります。そして、すでに我が国にも新たな危機が迫っているのです」
「どのような?」
再び強く張り詰めた口調になったシュネイデルに、法王は穏やかな眼差しで尋ねた。
「民たちの間でリュネシス様の存在も噂され、邪悪の元凶として恐れられているのです。こたびのルスタリア壊滅もリュネシス様の仕業とされ、混乱した民たちを扇動しようとする者たちが、この機に乗じて国家を転覆する騒動を起こさんと企んでおります」
そこでまた言葉を切るとシュネイデルは口惜しそうに遠くを眺め、続く語を吐き出した。
「あの方の恩恵も知らず、何がリュネシス様の仕業だ……これこそ魔女王の見え透いた奸計であると民はなぜ解らんのだ」
「──」
憤懣やるかたないといった様相のシュネイデルを、法王はただ慈悲深い目で見守っていた。本来、魔王リュネシスの名を城内で口に出すことは憚られるはずであったが、老人はそれを咎めようとはしなかった。
近衛隊長シュネイデルは、かつてリュネシスと親しい間柄にあった。
十二年前、若き魔王と魔女が歴史の影に消え去り人々から記憶を消し去った後も、彼だけは記憶を残し、稀に生じた魔王と法王との意思疎通の使いのために奔走した。
たまにしか会わない魔王と魔女だったが、下っ端の親衛隊員に過ぎなかっシュネイデルに、意外なまでの親切さで接してくれた。
それを思い出すたびに、彼らに会った時の緊張感と妙に温かい気持ちが同時に湧き上がり、男は困ったように苦笑した。
そんなシュネイデルには誰にも打ち明けられぬ、もう一つのほろ苦い思い出がある。
貧しかった子供時代、当時司教だったサムエルの下で一時世話になっていたのだが、その折に孫娘であるプシュケともなじみの関係になったのである。
シュネイデルはプシュケより少し年上だったので、傍から見ると彼らは仲の良い兄妹のようにも見えた。
明るい少年であったシュネイデルは、幼き日のプシュケに淡い想いをよせていた。
プシュケはいくぶん内向的な側面のある子供だった。
清楚で、可憐で、聡明でいながら、それでいて叶わぬ想いを、いつも遠い誰かに寄せているかのような──そんな不思議な少女だった。
そのことに、ほとんどの大人たちは気づくことがなかったが、鋭敏な者ならば尊い想いにふける知的な少女として感じ取れていたかも知れない。
感受性の強いシュネイデルにも、そんな彼女こそが永遠に手の届かない宝物のように見えた。
憧れのままの少女としてむやみに触れようとはせず、少し距離を置きながら、彼女の想い人が誰であるのかと密かに推し量っていた。
後にそれがまさかの魔王であったと知り、リュネシスと知り合った当初は、彼に対する甘い嫉妬と敬意から来る複雑な想いが、青年の胸をちりちりと焦がした。
だが──。
プシュケの意を汲んだ魔王が、その築き上げた財の全てを自ら手放し闇の中に立ち去り、それを享受する人々の幸福そうな様子を見るにつれシュネイデルは確信する。
プシュケは、正しい恋をしたのだ。
ほんの若くして儚くなったが、きっと彼女は幸せだったに違いない。
少女はすべてを精一杯生ききって、その清らかな想いと願いで魔王を改心させ、この世の光明につなげたのだ。
彼女が命をかけて愛した相手は、けして間違っていなかったのだ、と……。
その後、新たなアルゴスの国家体制が確立され、法王を守るディアム城近衛兵を兼ねた国家最高機密任務──すなわち魔王リュネシスの使徒としての役割も与えられたシュネイデルは、それだけに己の立場に強い責任感と誇りを持ち、常に全力を持って職務を遂行した。
その二年後シュネイデルは、ディアム城近衛隊長に抜擢される。
弱冠二十歳での近衛隊長という要職の就任には、城内での反対意見も多かったが法王他、何者かの強力な後押しがあったと聞いた。
さらに数年後、ひとりの衛兵としても円熟の境地に達しつつあったシュネイデルは、城に務める若い娘と結婚した。
花嫁はシュネイデルより一回り近く歳下で、特にこれといった才覚のある女性ではなかったが、どことなく生前のプシュケに似たところのある美しい娘だった。
シュネイデルは娘をこよなく愛し、娘も男を深く慕った。
翌年娘は身ごもったが、妊娠中に体力を失い倒れてしまった。
シュネイデルはこの時、アルゴスの兵として着任以来初めて休職し、つきっきりで妻の看病に当たっていた。
そんなある夜のこと──。
寝ずに妻の側で付き添っていたシュネイデルであったが、深夜に新居の扉を叩く音が聞こえた気がした。
人が訪れて来る時間はとうに過ぎ、ただよう気配にもどこか違和感を覚える。
怪訝に思いシュネイデルが扉を開けると、目の前に何かが詰め込まれた革袋が置かれていた。
中を確認して見ると、なんとそれは袋一杯分もの白早松──隣国ルスタリアの奥地でしか取れぬ貴重な珍味であり、また、弱った者の滋養強壮効果としては最上の食材として崇められる食用茸であったのだ。
同じ量の黄金に匹敵するとまで言われ、国王か大富豪しか嗜めぬ馳走とされる大地の恵み──そんな物を数多、惜しげもなく置いていってくれる人物など、シュネイデルにはひとりしか心当たりがない。
──リュネシス様……!
感謝の涙を流しながら、今さらながら彼は思い返した。
かつて若すぎた自分を近衛隊長に引き立ててくれた見知らぬ立役者も、間違いなくリュネシスだったのだろう。
アルゴスの内政には干渉せずという自らの禁を破り、魔王の為に忠実に粉骨砕身したシュネイデルに特別に目をかけ、無理をしてくれたに違いない。
妻はその後回復し、無事玉のような男の子を出産した。
シュネイデルは魔王に直接会って礼を言いたかったが、その後いかなる連絡も一切取れなくなってしまった。
だが、シュネイデルにはあの男の真意が解る気がした。
おそらくリュネシスはこれを機に、今度こそアルゴスの諸事情には関わらぬ決意をしたのだろう。
いずれ彼の力を真に求められるその時が来るまで、憂いある漆黒の魔少女とともに静かに闇の中に身をひそめ、影から世界を見守るつもりなのだ。
ならばこれからは、自分が彼を守っていこう。
今は不当に悪とみなされている孤高の男の伝説が、これ以上汚されることのなきようにする。
それこそが彼への恩にむくいるべく、凡庸な自分にも行いうる責務だと、まだ若さを残す衛兵は考えた。
──そしてもしも、あの方が立ち上がるときには真っ先に駆けつけ、喜んでその尖兵となろう。それこそが若くして近衛隊長という身に余る要職を与えられた、自分の果たすべき使命なのだ……。
魔王リュネシスに永遠の忠誠を密かに誓い、シュネイデルは勁くそう想った。
「今、我が国内で邪教──いえ、蛇を意味する蛇教なる怪しげな教えが広まりつつあります」
声を低くし、なお深刻な色合いをその顔に浮かべながらシュネイデルは訴えた。
「元々は、隣国のヴァルネリアに百年以上前から存在した宗教なのですが……当初は蛇神と言われる土着の神を祀っていただけの害のない団体でした。しかし、次第に奇妙な動きを見せるようになり、数十年前からはヴァルネリアそのものを支配する大教団となり変わったのです」
シュネイデルは眉根を寄せると注意深く、誰もいないはずの辺りを見回した。
「教団はさらに勢力を拡大し、その崇拝者たちが我が国内にまで侵入し、危険な布教活動を行っております。幼い生け贄を求め、我が国を撹乱しながらアルゴスの子どもたちを秘密裏に拉致しているという確かな情報も入ってきています。そして、その背後にいるのが黒の一族──かつて百年もの昔、アルゴスを内部から食い荒らし、破滅へ導こうとしたあの魔女王配下の一族が、また再び我が国に牙を剥いているのです」
「ううむ……」
さすがの慈悲深き法王も、あごに掌を添えて耐え忍ぶがごとく呻いた。
「すでに城内の我が軍には、ヴァルネリア兵との戦闘も想定した討伐隊の準備をさせております。しかしながら、まだ生きているかも知れぬ、拉致された子供たちの安否を確認し、確実に救出することこそが急務です。ここは私が直接指揮を執る、少数の精鋭部隊としてヴァルネリアに赴きます。法王様、どうかご許可を──」
「……」
法王は、しばし苦しげに黙考していた。
言いようのない嫌な予感が、老人の胸をざわつかせていた。だが、ほどなく決断すると、手をわずかに薙ぎ沈黙で了承を与える。
シュネイデルは丁重に腰を曲げると、何も言わず速やかに居室を後にしようとした。そんな血気はやる戦士に、法王はこのように付け足した。
「たとえ魔に殺された者も、いずれ神がよみがえらせたもう。ただ祈り、信じることも必要だ。父なる神はそこにいる」
正しき老人の言葉に敬意を払い、シュネイデルはもう一度頭を下げ、足早に立ち去った。
ひとり取り残された室内で法王は低くつぶやく。
「神よ……皆をお守りください。弱き者たちにどうか救いを……」
粛として願いていねいに十字を切ると、法王は瞳に深い苦悩の色を浮かべ瞑目した。
「……リュネシス様」
もし聞く者がいれば、それは普段の老王にない哀願の響きに聞こえたであろう。それは、彼が信じる正しき覇王への、人としての切願であった。
簡素な机に乗せられた燭台の蝋の火が、風もないのにゆらりと揺れ、常ならぬものの到来をひっそりと告げようとしていた──。




