魔王との闘い
それは、通常の十倍以上のエネルギーを秘める臥竜光掌拳であった。
千の魔物たちをも一薙ぎにするであろう拳の閃光を見た瞬間、眉をひそめたアカーシャが黄金の竪琴を〝ことり〟と、手元に置いた。
併せて辺りに映し出されていた、彼女の造り出した幻想の世界は、初めからなかったかのように瞬時にすべてが消え去っていた。
くらい〝無〟の中に残されたふたりを、闘神の奥義が襲い来る。
腹の底を揺るがすような大音響と震動、そして目も眩むばかりのものすごい波動が、立ち込めていたすべての邪気を払わんとして炸裂する。
爆発的な光の渦に包まれた魔王と魔少女のふたりが、一瞬動きを止めて体を前に傾がせたかに見えた。
だが──。
秘拳が打ち込まれたと同時に、光の爆流に飲み込まれたはずのふたりの姿は消え去っていた。
闘神の御業に魔性の頭目たるふたりが滅殺された、というにはあまりにも不自然な終わり方であった。
「上だ!ライガル!!」
ベテルギウスの叫びに、ライガルが宙を見上げた
視線の先に、ふたりの姿が立ち現れている。
妖しき魔物たちは、ほとんどダメージを受けた様子もなく、中空に立ったまま浮かび上がり、無表情でこちらを見下ろしていた。
「なるほど……これが我が配下〝五妖星〟のひとりを倒し、一万の軍をも全滅させたという闘神の力か。まあ、殺された者どもは私にとって、死んでも一向に構わないクズばかりだったがな」
魔王が、ライガルの攻撃に裂けた外套をなびかせながら、冷ややかに嘯いた。
しかし傍らにいる魔少女には、かすり傷ひとつついてはおらぬ。
彼は、背後にいる魔少女にダメージが及ばぬよう、ほぼひとりで闘神の放った光の波動を受けていたのだった。
その魔王が魔少女に目配せして、後ろの闇に向かって顎をしゃくって見せた。
それに応じてアカーシャは、納得したような薄い笑みを浮かべると、漢たちに冷たい視線を向けたまま、後方の暗がりの中に背中越しにすっと消えていった。
その、超常的戦いを目の当たりにしたルナの体が震えている。
目の前に、美しき魔王がいる。
彼女が密かに慕い、思い出の中にいつも存在していたあの男が──だが、今のルナの中を満たしているのは、懐かしさや親愛とは程遠い感情だった。
そこから感じるのは脅威、あるいは恐怖であった。
魔王から伝わる計り知れない妖気が、彼女の思いを凍りつかせていた。それに今は到底、過去の礼を伝え、気安く声をかけられる状況でもなかった。
「ハンデがあったとは言え、アカーシャまで手こずらせただけのことはあるな」
嫌味なまでに甘ったるい声が、一帯に響き渡った。
「だが、その程度の力で私まで倒せるとうぬぼれたのか。ええ?救世主伝説に名高い──双頭守護神とやら」
謎めいた笑みを強める魔王リュネシスの忌みなる眸と、はっきり目の合ったベテルギウスが、即座に意を決する。
──我々を試している!?
魔王の美貌にさらなる非情の影が宿り、ゆらりと動きを見せた瞬間、ベテルギウスの短い詠唱が唱えられる。
「闇を滅せよ!光の獣!!」
空に向かってベテルギウスの指が鋭く突き立てられ、瞬時に開かれた時空の穴から、輝く四体の獣たちが飛び出してきた。
一見狼に見えるが、それらのサイズは大型の虎ほどもある。
全身からオーラを放射して辺りを飛び回るその生物の群れは、天才賢者ベテルギウスが高位次元から召喚した、光の精霊たちであった。
「餓狼光!!」
さまよう発光体に、指向性運動を与える呪言が発せられる。
直後、攻撃対象を認識した獣たちが、魔王に向かっていっせいに襲いかかった。
唸りとともに光の軌跡を曳いて、召喚獣がくらい空間を引き裂く。
それは、避けようもないほんの一瞬で、狙いすました魔王の四肢に喰らいついた──かに見えた。
しかし、正確には召喚獣たちは、対象物を捉えてはいなかった。
その肉体に届く寸前で、魔王の強固な魔法障壁に阻まれて、壁に投げつけられたガラス細工のように、光の飛沫となって砕け散ったのである。
魔王の身に纏う魔法障壁は、常識では考えられないパワーで流動して、触れる者を粉砕する高エネルギーの渦であった。
それは言わば、彼に接近して攻撃しようとする者すべてを死に至らしめる〝破壊の嵐〟である。
その嵐に挑むなら──彼に立ち向かおうとするならば、生きているものであろうと、霊的なものであろうと、その存在概念ごと粉々に打ち砕かれるのみであった。
滅失した魔法現象を冷ややかに見つめる魔王を前に、召喚獣による攻撃も虚しく無効化したか、に思われた。
が、それこそがベテルギウスの狙いであったのだ。
打ち砕かれたはずの発光体が虚空に残留し、その面積を広げていく。
魔王の魔力の盾にべっとりと張り付き、輝きを強く増していく。それは、彼の誇る完璧なまでの魔法障壁をも確実に削り取っていった。
思いもかけない現象に、リュネシスの冷めた表情が訝しいものに変わる。
発光体のエネルギーと魔法障壁のパワーが相殺しあう刹那、それらは爆発したかのように魔王の目先で、一際烈しく輝いた。
「むう?」
眩しげに目を細めながら反射的に手をかざした魔王の注意が、一瞬だけ逸れる。
そのほんのわずかな隙を〝稀代の賢者〟と共闘する〝歴戦の拳士〟は逃さなかった。
魔王の視界を陽光のごとき輝きが埋め尽くした一瞬を狙って、間近にまで迫っていた闘神の拳が炸裂する。
「破邪聖王拳!!!」
膨張しきった光の死角から、渾身の一撃が振り下ろされた。
それは、秘奥義〝羅闘竜勁〟を重ね合わせた必殺の一撃として右拳に全エネルギーを集中させ、巨岩をも打ち砕く豪拳の勢いを乗せて撃ち込まれた。
さらに驚くべきことに、この攻撃とほとんど時間差なく、威力の衰えぬ左拳による拳撃をもライガルは放っていたのだ。
ドオォン!!ドオォン!!
ものすごい打撃音が、空中で立て続けに起こった。
それはまるで、二度に渡って極大呪文が放たれたに等しい衝撃と閃光のエネルギーであった。
直後、闘神の奥義に吹き飛ばされた魔王が、轟音とともに地に叩きつけられていた。
──え!何が起こったの?
声も立てられず固唾を呑んで見守っていたルナの視線が、無意識にリュネシスを追う。
目の前には、人型の激突にぼろぼろに崩れた大穴ができていた。
それは派手な砂埃が舞い上がり、まるで隕石が落ちてきたかのような、凄まじい衝突の跡地であった。
しばらくの間、辺りには水蒸気に似た埃が立ち込めていた。
やがて砂塵が、緩やかな風で払われる。
すると大穴の底から、岩をかき分けながら魔王がゆっくりと姿を現す。
その高貴な黒衣は先ほどよりもズタズタに破け、美貌にも〝あざ〟と見受けられるダメージの跡が残っている。
否──悩ましいまでの〝昏い影〟が落ちていた。
それは、美しくも見た者の心臓を凍りつかせるような表情であった。
魔王リュネシスの一対の目──碧と金の魔性の双眸と一瞬だけ目が合ったルナが、思わずごくりとつばを飲み込む。
──だ、大丈夫なの?あいつ……。
少女の懸念をよそに、魔王が見つめているのは彼女の背後であった。
彼の視界に、ルナは入っていなかった。
全身についた土埃を余裕綽々と二度、三度払いながら、リュネシスは黙したまま闘神のいる宙を見上げている。
──ライガル!?
魔王の視線が、自分の後ろに注がれていることにようやく気づき、ルナも宙を振り仰いだ。
そこにあったのは信じがたい光景であった。
攻撃をしかけたはずのライガルが、木偶のように立ち固まっている。
白目を向き、腕はだらりと下がり、意識を完全に失っている。
失神した闘神は肉体のエネルギーを失い、宙に浮いていた巨体が音もなく下降する。
そうして、どさっと床に沈んだ肉塊が、膝から虚しく崩れ落ちていった。
「さすがに凄いパワーだったな。魔眼を使っていなければ、深いダメージを負っていた」
地に伏せ動かなくなった闘神を見下して、魔王がひどく落ち着いた声で呟いた。
ライガルの連撃は、確かにリュネシスに撃ち込まれていた。
一撃目はエネルギーを減衰していた彼の魔法障壁を消滅させた上で本体に直接ダメージを与え、二撃目で防御体勢を取らせる間も与えずに必殺の拳撃を放っていたのだ。
だが、その二撃目は力の半減された空砲に近いものであった。
とどめの二撃目を振りかざそうとした刹那──ライガルの意識は、リュネシスの〝魔眼〟に捉えられていたのだ。
闘神のもつ黄金の瞳よりも、さらに危険な光を放つ〝魔性の眸〟が魔眼の力を発動させ、ライガルの意識を奪い取っていたのである。
さしもの闘神の高潔な精神力も、魔王の圧倒的な魔力に当てられ一瞬にして封じられたのだった。
「私の貌に傷をつけたのは、この百年でおまえたちが初めてだ」
打ち負かした闘神の体を無造作にまたいだ魔王が、次は白銀の賢者に向かい悠然と歩を詰めていく。
「死をもって償ってもらおうか」
冷酷な怒りに表情をたぎらせて、魔王が迫ってくる。
その湧き上がるような威圧感に、大賢者ベテルギウスでさえも全身が硬直する。
今の戦いの一幕で彼ははっきりと悟っていた。魔王はまだその内に、見せてはおらぬ底しれぬ実力を秘めていることに。




