懊悩するルーファ
ルスタリアが壊滅した同じ夜──。
はるか遠く離れた地、世界の理から外れた場所にそびえ立つ大魔城〝ヴェルハール城〟──その城の中心部にある、王のために設えられた最も広い一室の最奥で、ひとりの男が豪奢な黒玉の玉座に腰をかけていた。
およそこの地上に存在する者とは思えぬ、えも言われぬ美しさを放つ若者である。
闇の中で変色する銀の髪は、ときおり仄かな金を帯びて煌めき、危険なまでの切れ長の双眸には、さらに宝玉のように輝く黄金が宿っている。整いすぎた鼻梁と唇はまるで創造者が彫刻したかのようで、その容貌はこの世の理想の原型と言えるほど──。
暗黒の皇子ルーファであった。
だが、その完璧な美貌を誇る男の表情に、今はくらい影が堕ちている。二本の指を額にそえて、果てしのない苦痛に耐え続けているかのように、彼は深く憂えていた。
それは長い時間だった。
朝の帳が何度も空を染め、幾千の星が巡っても──若者の瞳は、なおも底しれぬ迷いの霧に閉ざされていた。
常人には到底耐えられぬ途方もない時間を、偶像のごとく不動の姿勢のままでいる彼の胸中は、しかしながら嵐だった。
選ばなければならぬ。だが、何を……?
守るべき少女か、それとも合わせ鏡のような弟か……。
ルーファは応えを見いだせぬまま、漆黒の空間に目を向けた。
むろん、選択肢はひとつしかない。
だが、それを選ぶと、この地上に地獄が溢れかえるだろう。数え切れぬ命が犠牲となり、その煉獄の炎の中で、避けられぬ身内同士の死闘の果てに、不遇なる弟──リュネシスの心臓をこの手で貫かねばならぬ。
わずかに良心を残す彼には、容易には決断できぬ非道と修羅の道であった。
──どうにか、あれを──リュネシスを我が手の内に収めることはできぬのか。
切実な祈りに似た思考が、彼の中を渦巻く。
──もしリュネシスが我が手に落ちれば、覇道は確かなものとなる。魔界の対抗勢力を一掃し、ロゼリアに迫る危険を回避できる。そうなれば、天界に攻め上ることすら夢ではない。少なくとも、愛するロゼリアに永遠の命と安泰を与えることができるであろう。
だが、それが叶わぬことを知っているからこそ、彼の奥歯がきしんだ。
──アカーシャだ。アカーシャがすべて悪いのだ。今までに幾度かリュネシスとの接触を図ろうと試みたものの、あの女がいつも横槍を入れてきたのだ。我が妹ながら目に余る小娘め……母の狡猾さと卑しき人間の血を受け継いだ、呪われた女が!
延々と保たれていた若者の美貌が、この瞬間、凄まじいまでの怒りの形相に変化する。
アカーシャ──それは彼にとって、血縁を超えた憎悪と嫌悪の対象でしかなかった。
そこで彼の思考が、また想いの届かぬ弟へと向けられる。
──リュネシスもリュネシスだ!弟とは兄に従うべきなのだ。私と共に立ち上がれば、この世に不可能などないものを──なぜそれが解らん!?くそぅ……。
苛立ちに歪む唇。苦悶のうめきがこぼれたその時──。
「ずいぶんお悩みのようですな」
闇の中から、からかいとも親しみともとれる声が響いた。
「?」
ルーファの視線の先から、中空の闇を裂いて男が歩み寄ってくる。
厳しい軍服を思わせる赤い服飾を着込んだ、まだ若い男であった。そのあちらこちらが栄えある金の勲章や飾り紐で装飾され、男が極めて高い地位にあることを明確に示している。
全身を上質の紫のマントに包み込み、きれいに整髪された髪の下から覗くのは理知的に整った貌。しかしその目は、常に邪な知略を巡らせているかのごとく、油断ならぬ光を放っていた。
〝ベルゼバブ〟──それがこの男の真名である。
広大な魔界の元帥という地位を誇り、暗黒の皇子ルーファの懐刀としてこの世の裏を暗躍する最強の力をもつ魔物であった。
「いかがされたのですかルーファ様?暗黒の皇子ともあろうあなたが、あからさまに気を病んでおられるとは」
ルーファですら一目置くその男──ベルゼバブはゆっくりと近寄りながら、しらけた笑みを口元に浮かべた。
「たとえつかの間でも、そのようなお姿は見たくありませんな。あなたの地位を狙おうとする、思い上がったどこぞの将軍などに、寝首をかかれることになりかねませんぞ」
不躾な配下の言動に動じることもなく、沈んでいた貌を鬼面のような感情のないものに変えて、ルーファは余裕綽々と笑って返した。
「言うわ。ベルゼバブ。我が力を疑う愚か者が、まだ魔界におるのなら、それらをまとめて叩き潰し、二度とはむかえぬよう魂までも消し去ってくれるわ」
「それでこそ、あなただ。私がこの世でただひとり主と認める真の王者だ」
ベルゼバブも、さも鷹揚に応えて一定の距離で立ち止まり、皇子に敬礼する。
「ご報告がございます」
「言ってみろ」
「六魔導のひとり、不死王リッチの軍がルスタリア壊滅に向けて動きました」
「何!?」
わずかにルーファは顔色を変え、厳しく報告者を見つめた。しかし、ベルゼバブは素知らぬ顔で続けた。
「私がやつを焚きつけたのです。ルスタリアの機密情報を与え、内通者を仕込み、難攻不落の王国を一夜で滅びに至らせるよう計らいました」
ここでベルゼバブは言葉を区切り、主の表情を窺い見るようにしながら、凄まじいまでの笑みを浮かべた。
「まちがいなく今頃大国ルスタリアは壊滅し、数え切れぬ人間どもが死に尽くしていることでしょうな」
その報告に、ルーファは絶句して体を硬直させた。無意識にまた、額に手のひらを当てている彼の全身が、わずかに震えている。
「き・さ・ま……」
やや置いて、こらえているものを吐き出すような声を発しながら顔を上げると、ルーファは恐ろしい勢いで立ち上がった。
「誰がそんなことをしろと言った!?」
皇子はベルゼバブに詰め寄ると、胸ぐらをがっしりと掴んでいた。
「それほどのことをする前に、なぜ王である私の許可を得ようとしない!?」
「戦とは生き物だ。千変万化する戦場において、時として有能な配下は、主の許可を得る前に適切な判断を下さなければならない。ルーファ様……なぜ、お怒りになる?全ては敬愛するあなたのためにやったことだ。私は常にあなたの本心に忠実だ。あるべきあなたの姿にね……」
激高した主の視線を叩きつけられながらも、ベルゼバブは平然と返していた。その不遜な態度になお苛ついて、ルーファは男を絞め殺さんとするような気迫でがなり立てた。
「私のことを言ってるのではない!ロゼリアのことを言っているのだ!!あの善良な娘がこのことを知れば、どれだけ嘆き悲しむと思っている!?」
「そのロゼリア様のためでもある。あなたの父王──大魔王ディルヴァウス様の復活なくして、ロゼリア様を救うことはできませぬ。」
「!?」
食えぬ配下を恫喝していたルーファは〝ぎくり〟と固まった。
そのタイミングが来ることを図っていたのか、ベルゼバブは声音を絶妙な甘いささやきに変える。
「そのためには、あまたの犠牲が必要です。無数の人間たちの魂を供物に捧げなければならない。いずれ人間どもは、滅ぼす対象でしかないのですぞ」
「おまえ……」
冷たい現実を突きつけられ、さしものルーファも何も言えなくなっていた。
彼はしばし熟考の表情を浮かべていたが、やがて締め上げていた男の襟を諦めたように突き放した。
「今宵の犠牲で、偉大なるディルヴァウス様の復活の刻が確実に迫りましょう」
ベルゼバブは落ち着いた動作で乱れた襟元をただすと、何事もなかったかのごとく愛しげにルーファを見つめた。彼の、ルーファに対する好意と敬意に偽りはなかった。最もそれは、正常な者には理解できぬ極めて歪なものであったが……。
むろん、すべてを汲み取っているルーファ自身も、悪辣だが有能な部下の力を必要としている。
「ロゼリアが……もう長くはない」
ルーファは絞り出すような声を発して、再び玉座に腰を下ろした。
「先日、無理だと解っていながら、私はあれの病の治療を試みた。その時に知ったのだ。妹の命の灯火が今度こそ潰えようとしている。なんという哀れな娘だ……」
ロゼリアの不治の病を癒せる唯一の方法──かつてベルゼバブが提案した、この地上を常態的な月夜の世界に変え、太陽を消し去る。
その天変地異を実現するためには、神に等しい力を持つ大魔王ディルヴァウスの復活が不可欠であり、人類の魂すべてを贄としなければならない。
あまりに無道で残酷な結論しかないことを改めて思い至り、ルーファは感情のこもらぬ声で言った。
「どのみち、もう手段を選ぶことはできぬ。ロゼリアのためなら、私は鬼にでも悪魔にでもなろう。全人類を滅ぼすこともけして厭わぬぞ。おまえの出過ぎた行動も今回だけは許してやる。だがこれでもう、リュネシスとの闘いは避けられぬ事になったな」
その言葉すら予測していたように、ベルゼバブは危険なまでに、緋色の瞳を輝かせた。
「ルーファ様。魔界には古くからこのようなことわざがあります。賢き蛇は座して待ち、愚かな竜は容易に立ち上がる……私が幼い頃、邪悪な母にさんざん聞かされてきた言葉だ」
そこでベルゼバブは、口角を大きく吊り上げた。それは笑顔とよぶには憚られる、ある種の狂気を含んだ表情であった。
「喩えるなら、我々は蛇だ。知恵と力を併せ持つ暗黒の蛇であるべきだ。でも、リュネシスは知恵のない竜だ。人間の小娘に翻弄され、あげく人類を救うために命を投げ出そうとしている。何が魔王だ。ククク……あれは絶対に王の器ではない」
ベルゼバブは再び顔をルーファに近づけると、憮然とする王をなだめるように言葉を継いだ。
「でもあれは、あなたの弟だ。力は確かだ。利用する価値は十分にございます。どうか、この私にすべてお任せを!私があれをうまく操ってみせましょう。あなたの望む形でね」
嗤う男の目の光彩が、獲物を狙う獣のように細くすぼまったのをルーファは見た。
それは破滅への未来を暗示しているように思え、だが皇子は、その危うい光を黙って見つめるだけだった。
やがてベルゼバブは恭しく一礼し、音もなく闇の中へと姿を消して行く。
広大な王の間には、ただひとつ物言わぬ静寂だけが、重くのしかかるように残されていた。




