あの男のもとへ
その男──ベテルギウスは、ルナの目前まで歩み寄って来ると片膝を突いた。
質の良い生地を用いた白色のマントを羽織る、すらりと程よく長身の青年であった。
目にも鮮やかな銀の髪と銀の瞳。そして、目鼻の整い引き締まった顔立ちには知性的な魅力が溢れ返っている。
「……あなたが……ベテルギウス?」
理解の追いつかない事実に惑い、ルナは忽然と現れた折り目正しい若者に、ただそれだけを問いかけた。
「はい」
応えてベテルギウスは、左手の二本の指を立てて唇に当てると、右掌をルナにかざしながら短い呪を唱える。
すると、たちどころにルナの体の重みが消えた。
極めて高度な回復の呪文であった。
ルナの知る限り、これほどの術を使いこなす者は、一流の魔道士の揃うクレティアル王城にもいない。
「……ありがとう。分からないことだらけだけど、先にこいつを始末してからね」
ルナは体の回復を確認するために、二・三回しなやかに腕を伸ばして見せる。
直後ヴェータラに視線を向けると、白い犬歯をむき出しにして〝にいっ〟と笑みを浮かべた。
「ひぃっ!」
その微笑みの異様なまでの鮮麗さに、屍術師は恐怖に竦み上がる。
しゅっ──と剣を演出感たっぷりに薙いで、ルナはずかずかと敵に歩み寄った。
少女の持つ王家の剣がギラリ!と輝く。卑屈な男は今になってみっともなく命乞いをしたが、彼女は当然聞く耳を持たなかった。
無造作に剣を振る──ヴェータラの体は、その一振りで真っ二つに斬り裂かれた。
失血死にいたる大量のどす黒い血が床いっぱいに広がる。
しかしルナは、念を入れて何度も何度も丁寧に斬り裂いた。命を絶たれた瞬間の屍術師の貌は、まさに邪鬼のごとく醜くゆがみ切っていた。
ルナは満足げにふうっと肩で息をすると、剣を華麗にくるくると回転させて腰の鞘にするりと収めた。
それは、淀みひとつない、流れるように完成された華麗な動作であった。
──母上、父上、ごめんなさい。今は、これが精いっぱい……。
王女は丁重な仕草でもうひとつの剣──銀の短剣を腰の鞘から取り出して、屍術師の刻まれた死骸の前に置いた。
彼女は厳かな表情に変え、右手を胸にそえ、左手を祈りの形にして瞑目する。
それは、死者への手向けを意味するルスタリアの儀式であった。
もちろん魔物たちの冥福を祈った訳ではない。
せめて今はその者たちを、殺された人々への無念を晴らす供物として捧げたのであった。
暫し、時が流れて──。
赤紫色の髪を翻して、ルナは元気よく振り返った。
「ベテルギウス・レムリアル──百年前の賢者だよね」
ルナは明るく声を響かせて、銀の短剣を腰元に収めながらベテルギウスに歩み寄った。
いかなる経緯があったのか解らぬが、すでに彼女の中では、目の前の男が伝説の賢者その人であるという確信に達していた。
「はい」
ベテルギウスは、片膝を突いたまま軽く頭を下げた。
「あたしはルスタリアの王女ルナ・ユースティ・レミナレス」
ルナは先ほどの銀の短剣を鞘ごと取り出し、背の部分に刻まれた王家の紋章を見せる。
「ルスタリアが危機に瀕して旅をしてるの。あなたのことも、あたしに分かるように説明してくれない?」
屈託のない少女の物言いに、ベテルギウスは薄く笑みを浮かべて気持ちよく応えた。
「百年前、私はルスタリアに侵攻せんとする、魔王軍の侵略を食い止めるために戦いました」
「知ってる。〝エルシエラ大戦〟だね。その話の中では魔王軍総帥アカーシャ配下の〝五妖星〟のひとり、ケルキー率いる第三魔軍と戦った賢者の伝説が特に有名だよね」
それぐらいの歴史は知ってるんだから──と言わんばかりに、ルナは少し得意げに胸を張る。
そんな少女を慈しむ兄のような目で見つめて、ベテルギウスは続けた。
「戦いは苛烈で、私と敵の将は互いの命を落とす寸前にまで追い込まれました。しかし、そこで大きな力が働いたのです。気がつけば私は光の世界に導かれ、真の敵と戦わねばならぬ、この時まで眠りにつかされていました」
「その、大きな力って?」
「……おそらくは魔王リュネシス──いえ、これは仮説ではない。まちがいなくあの男が関与しています」
場が、凍り付いた──。
心に秘めていたその名を耳にして、ルナは動揺を隠せなかった。
驚愕、あるいは感動であろうか。一時に溢れるような想いが頭を過って少女の鼓動を早くする。
痛いほどに懐かしい、見えない運命の導きを確かに感じる。
「あたしも知ってるよ。そいつのこと……」
無意識にぽろりと言葉が零れた。
「本当はね。そいつに会いに行こうと思っていたの。今まで誰にも話せなかったことだけど、あたし小さいときにそいつに助けられたんだよ。魔物たちに殺されそうになったところを……」
ルナは心臓の高鳴りを押さえるように、掌を胸に当てる。
何か恐ろしい──しかし、やはりそうだったのかという相容れぬ気持がぐるぐると渦巻いていた。そして、すべてが何とも言えない幸福な感情へと昇華されていく。
思い惑うルナの気持ちを察したのか、ベテルギウスは少し間を開けてから絶妙な呼吸で言葉を交えた。
「この戦いには何か大きな秘密が隠されています。私もリュネシスは敵ではないと確信しています」
「そうだよね。あいつはきっと──」
大切なことを思い返すような視線を遠くに注いだままルナは呟いた。
ややあって、少女は決意を秘めた眼差しを賢者に向ける。
「行こう。あの男のもとへ……」
ベテルギウスはルナの勁く輝きを秘めた表情を見つめ、銀の瞳の奥に無数の思考の色彩をゆらめかせる。
そして導き出された結論に男も同意を示して──おもむろに無言で頭を下げた。




