厳罰
瓦礫をかき分け彷徨いながら、一人の女が悲痛な声を上げていた。
「坊や——坊や——」
第三魔軍による侵略で、子を見失った若い母親である。
魔物たちがひしめく激しい戦禍の中、己の身を省みないその行為は、愚かしく危険なものでしかなかったが彼女は必死だった。
エルシエラに来襲してきた第三魔軍本隊には、開戦当初は一定の秩序が見受けられていた。
不要に非戦闘員である一般市民にまで手を出してはならぬという、総帥アカーシャ厳命の軍規があったからだ。
だが彼らはしょせん、暴力にこそ価値を見出す恐ろしき魔王軍なのだ。
戦闘も佳境に入り戦の興奮が高まりきった時にまで、魔族にとって邪魔でしかない道徳的規律など、自尊心のある上位の戦士ならともかく、自制ない下位の兵すべてに行き渡らせることはできぬ。
ゆえに、指揮官ケルキーの目の届かぬような場所では、下卑た下っ端兵たちによる心ない残虐行為が行われ、それを気に留める者も──ましてや、止めようとする者などいなかったのである。
今や街のあちらこちらでは、目に余る無法の嵐が吹き荒れていた。
「ああ……私の坊や!」
壁の崩れた家屋の片隅に、粗末なゆりかごで眠る赤ん坊を見出して、女が目に涙をためて抱き上げたその時——獲物を見つけた狼のように、数人の獣人たちが野卑な笑みを浮かべながら彼女を取り囲んだ。
「グフフフフ」
「おい、女。その旨そうな赤ん坊をこっちに寄こしな——」
「ギーッヒッヒッヒッ……死にたくねぇだろぉ?」
彼らは皆、大の男を圧倒する体躯を有する蛮族の戦士たちであった。食人をも厭わない野蛮な種族なだけに、その力や身体能力は並みの人間とは比べ物にならず、また凶暴性も突出している。
「な、何を——」
女は恐怖に駆られて青ざめたが、赤子を抱きしめる手をけして緩めようとはしなかった。
「早く寄こせ!腹減ってんだよ、おれら!」
「がみがみうるせぇケルキーにばれたら、めんどくせぇからよ!」
「おとなしく渡せば、おまえには何もしねえよ。俺らぁ誇り高い魔王軍だからなぁ。でも姉ちゃん、よく見りゃきれいだな~」
赤ん坊に向けていた視線を女の方にすり変え、ジトッと下心のこもった目で見てくる男たちに別の危険を感じながらも、彼女は大切な我が子のためにひるもうとしなかった。
「お願いします!止めてください!この子の父親は今回の戦争でもう殺されて、私たちには身寄りもないんです!!」
無力な女には、恐ろしいまでの屈強を誇る獣人たちである。むろん、抗う術など絶対にない。
親子ともども凌辱され、あげく食い物にされてもおかしくない状況なのだ。それでも男たちに無駄な懇願をして、赤子を胸に抱き覆い被さるようにして女は我が子を護ろうとしている。
「ひひ……そんなの知らねえよ!」
「もう、めんどくせぇ!やれぇ!!」
「おお!!」
哀れな女の衣服が、よってたかる下劣な獣人たちに一瞬にして剥ぎ取られる。
「ひょお!」
か弱い女のむき出された裸体を前に、最も気の早い獣人の一人が奇声を発して、耐え忍ぶように涙を流しながら、それでも我が子だけは必死で抱きしめている彼女に襲い掛かろうとしたその刹那——。
〝やめろ!!!″
天をも揺り動かすがごとき強烈な思念波が、彼らの頭上を疾り抜けた。
それは、超常的な力の顕現とも言うべき、〝神気”″の発露であった。
誰にも何が起こったのか解らなかったが、女を襲おうとした蛮族たちの動きが、その〝声〟に完全に固められた。
わずかの間をおいて──。
がぼっ!と強者であるはずの全ての怪物たちが、泡に塗れた血の塊を吐き出していた。
理解のできぬ現象にうろたえ目を瞠る女の目の前で、絶命した獣人たちが白目を剥いてゆっくりと崩れ墜ちていった。
―――― § ――――
「魔王様!?」
ケルキーは、はっと目を開けた。
とてつもない波動が、すべてを消し去りかねない怒号となって今、確かに駆け抜けていった。気が付けば、ベテルギウスすらも目の前から消えている。
釈然としない雰囲気と共に、辺りが妙に昏く感じる──。
──まだ、時は昼を指しているはずであるが……。
ケルキーは激痛のため自由にならぬ体をそれでも何とか起こし、ふらふらとバルコニーにまで歩み寄ると、物々しい気配を感じる外の景色を眺めた。
空一面、日が暮れたように翳っている。
だが、断じて夜ではない。
不気味に翳る空の下に、エルシエラを圧するほどの巨大な影が、蟠っている。それは、底知れぬ威圧を伴う冥い〝影〟であった。
ケルキーは思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。
〝影〟は、エルシエラ全体を覆い尽くす、魔王の御姿であったのだ。
数年前、魔王リュネシスが地上に降臨し、全世界に宣戦と破滅を布告したあの時と同じ、圧倒的な威厳を放つ帝王の幻像──それは、高位次元に属する魔王リュネシスの思念体であった。
突如として〝グワッ〟と魔王の目が吊り上がる。
〝去れ!!第三魔軍!!レミナレス王を屠り、双頭守護神も倒れた今、この地での戯れはすでに無用だ!!!″
声高々にアルゴスに向かって指を突きさす魔王の御声は、すべての者たちの脳を貫く激烈な精神感応として直接的に響き渡った。何者もけして抗うことのできぬ、圧倒的な力を籠めて。
人々は畏敬に跪き、魔物たちは畏れでかしこまり、魔獣たちは恐怖に猛り狂った。
そこでエルシエラでの戦いは終わりを告げていた。
あちらこちらに魔物たちの躯が点在している。
総帥アカーシャが厳命したはずの軍記を破り、同時に熾天使リュネシスの崇高な信条にも泥を塗るほどの著しい非道を犯した者たちに、魔王が下した厳罰であった。
ほどなくして第三魔軍は首領ケルキーに率いられ、昂ぶりや未練を残しつつも、粛々と列をなし速やかに立ち去って行った。
双頭守護神の魂と肉体が漂う高位次元の無限の光の中で、重々しい声が響く——。
〝百年後に、地上の覇権をかけた大戦が起こる。お前たちのような強い戦士たちが、真に求められる時代がやって来る。時が至るまで眠るがいい。今以上の力を蓄えて——そして、いずれ我が元に集うのだ″




