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マコトノナツ  作者: mia
21/25

20.roseに想いをのせて


 今週の応用フランス語の講義内容は〈映画鑑賞〉だ。遮光カーテンに締め切られ、照明も落とされた講義室の中、前にかかるスクリーンだけが明るい。この講義では2ヶ月に一度、フランスの映画を観ることになっている。今日は冬休みに入る今年最後の講義だ。事前に教授から映画鑑賞の日は指示されているので、いつもより出席している生徒数が少ない。毎週必ず出席している女子生徒さえも来ないようだ。理由は聞かずとも分かる。真は隣にちらりと視線をやった。そこには誰もいない。


 一之瀬君、今日は休みか。冬休み前になると取材やら撮影やらで忙しくなるってこの前ファンの子に言ってたしな


 映画が終わるまで講義の時間を延長するみたいだし。仕方ない。そう思いながらも視線が剥がれない。いつも近くもなく、遠くもない距離にいた彼が今はいない。どこかに淡い期待を抱いている自分に気がついて、少し苦いチョコレートを食べたみたいに喉の奥が詰まる。息を吐き、頬杖をついて前に向き直る。それと同時にドアが開いて、一筋の光が差し込んできた。


「……一之瀬君?」


 嘘だ。有り得ない。頭ではそんな言葉が占めるのに目に映る現実は、確かに彼がここに存在しているということを突きつける。危うくココアの入った紙コップを落とすところだった真は予想しなかった不意打ちに動転しているのか、暗がりで辺りを見回している。

 一之瀬はDVDの準備をしていた教授に一言二言話し、軽く頭を下げてから、席につこうとこちらに向かってきた。心なしか疲れているように見えたのは気のせいだろうか。

 どう挨拶しようかと今更なことを真が考えている間に一之瀬は至極当然のように隣の席に座った。長机1つに3人分の椅子が置かれていて、真たちはいつも、その両端に各々が腰掛け、空いた真ん中の椅子に荷物を置く。いつも通り肩にかけていたバッグを下ろし、真の鞄に寄りかかるようにして置いた一之瀬は顔を上げ、にこりと笑って小声で「おはようございます」と言った。


「お、おはよう。今日は休むかと思ってたよ。仕事落ち着いてんの?」

「映画観るの楽しみにしてましたから。昨日は撮影で夜までスタジオにいまして。今朝こっちに戻ってきて、昼にまた取材があるので、お昼はご一緒できないんです」

「何それ大変じゃん。わざわざこっちに戻って来ないで、昼までゆっくり休んだ方が良かったんじゃないのか?なんで授業に来たんだよ」


 映画が始まった。先週の講義で教授が説明してくれた内容では、素行の悪い少年達が1人の音楽教師と出会い、合唱を通して再起していくという話。真の意識がスクリーンに逸れた瞬間、


「冬休みに入る前に真さんに会いたかったんです。渡したいものがあるので」

「え?」


 一之瀬を見ると彼はもう前を見ていた。問いかけるべきか否か端整な横顔を眺めながら迷い、諦めたのか、真も映画に集中することにした。



 映画が終わり、感想を書いて教授に提出する。いつもなら一之瀬のファンだという子達に囲まれ、出待ちされ、なかなか講義室から出られないのだが、数が少ないと対応する時間も短くなる。講義室を出た真と一之瀬が並んで歩いているのを時折、すれ違う女子達がちらちら見ながら通り過ぎる。


 またか


 気後れした真は無意識に踏み出す足を鈍らせていた。徐々に開く距離に気づいた一之瀬が振り返る。


「真さん?どうしたんですか?」

「……別に。何でもない」


 複雑な表情をしている真に、一之瀬は優しく微笑んで手を差し出した。


「……何だよ」

「真さんに渡したいものがあるんです。ちょっと付き合ってくれませんか?」


 そう言って一之瀬が案内したのは屋内庭園の温室だった。薔薇や観葉植物の鉢が並ぶ中を進み、薔薇園の中央にあるベンチに座らされ、一之瀬はその前に向かい合って立つ。赤や白や黄色といった色鮮やかな薔薇に目を奪われている真を面白そうに見下ろしていた一之瀬はバッグからマフラーを取り出した。


「この前お借りしたマフラーです。ありがとうございました」

「ああ何だ。渡したいものってこれのことだったのか。いつでもいいって言ったのに」


 受け取ったマフラーを膝の上に置いた真を、一之瀬が呼んだ。


「うん?」


 顔を上げると目の前が真っ暗になって、自分を包む温もりと聞こえてくる鼓動に、一之瀬に抱き締められているのだと分かった。


「え、えええ?な、何してんだよ!ふざけるのもいい加減にしろってば……!」


 急上昇する体温に火照る顔。胸を押しのけようと手を伸ばす。すると一之瀬は更に腕に力を込め、そっと耳元で何かを囁いた。その言葉は甘く、とびきり上級なチョコレートに似たもの。間近で目が合い、意味を理解した真は「なっ、じっ、ぶっ!」声にもならない声を発し、やがて硬直した。


「クリスマス時期はバイトが忙しいと神城から聞きました。頑張り屋な真さんのことですから無理をしないかと不安で。だから僕がそばにいない時は代わりに真さんを見守ってくれるように、願いを込めました」


 晴れやかな笑顔で前に立つ一之瀬を真はただ茫然と見上げるしかない。


「では僕はこれで。風邪を引かないよう気をつけて下さいね」


 立ち去っていく彼の背中を何も言えずに見送った。ハッと我に返り、頭を激しく振って、違和感に気づいた。首元でしゃらしゃらと何かが揺れている。目線を胸元に落とすと、細い鎖の先に真っ赤な薔薇が咲いていた。


「いつの間に……」


 輝くそれを手のひらに乗せてじっと見る。

 さっきの彼は今まで見たことがない顔をしていた。ひどく真剣で、照れも遠慮もなかった。瞳の奥に鋭く、触れたら溶けてしまいそうな、熱いものを秘めていた。


「うあー……一之瀬君の、阿呆……」


 もうどうしようもないじゃないか。抑えようがないじゃないか。意識しないようにしていたのに。考えないようにしていたのに。彼はそんなのお構いなしに壁を破ってくる。


『Je t'aime,je te veux』


 彼から託された想いを見つめながら、どうすればいいんだと真っ赤な顔で頭を悩ませる真だった。




 miaのさほど役に立たないフランス語講座

 「Je t'aime,je te veux」

 読み方:ジュテーム、ジュトゥヴ

 訳:「愛してる。君が欲しい」


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