19.彼の優しさ(3)
「こうなったら奥の手を使うしかない、ってシン。電話きてるよ」
「ん?ああ、本当だ」
奈緒子に言われ、寝返りを打って枕元に置いていた携帯を取り、開いて相手を確認しないで通話ボタンを押す。普段はちゃんと見るが、頭がぼうっとしていたせいだ。
「もしもし」
〈今晩は。電話しても大丈夫でしたか?〉
「はっ?一之瀬君!?」
勢いよく飛び起きて、奈緒子がにやにやしてこちらを見ているのを手で追い払い、少し待ってくれと一之瀬君に伝えて部屋を出る。
「ごめん。騒がしくて」
〈いえ、僕の方こそすみませんでした。タイミングが悪かったみたいですね〉
「そうじゃないよ。あたしが確認しないで電話に出て驚いただけだから。で、どうかしたの?」
〈ええ、あの後真さんが無事に部屋まで帰れたのか気になりまして。何もありませんでしたか?〉
「あー何もなかったよ。いつもどおりだった」
〈そうですか。それは何よりです〉
「どうも。一之瀬君、わざわざその為に電話してきたの?」
廊下の電気は消えていたが、窓から月の光が差し込んでいたのに目を細め、窓辺に寄った。
〈寮までお送りできなくて気がかりでしたので。それとマフラーを貸していただいたお礼も言いたくて。有難うございました。おかげさまで温かかったです。洗濯して今度会った時にお返ししますね〉
「いえいえ。別にそのまま返してもらってもいいんだけど」
〈そういうわけにもいきませんよ〉
夜空を見上げれば欠けた月が輝いていた。闇に浮かぶ黄金色を見つめ、
「一之瀬君ってさ、月みたいだよな」
〈え?月、ですか?〉
唐突なあたしの言葉を、一之瀬君は馬鹿にして笑うこともしない。
「うん。なんか安心できて、ほっとする感じでさ。小さい頃、淋しくなったり悲しくなったりすると、よく月を見上げてたんだ。そうすると慰められてるような気がして、もやもやしてたのとか不安だったのがすうっと晴れていったんだ」
〈そういうことでしたか。……でしたら僕はあなたが迷子にならないように、怖い思いをしないように、これからも道を照らし続けましょう。なので今度からは、帰りが遅くなったときはメールなり電話なり僕に教えて下さい。可能な限り付き添いますし、仕事で無理でしたら後でこうやって電話します〉
役に立たないかもしれませんが、と苦笑まじりに続ける相変わらずな彼の謙虚さに、笑みを零さざるをえない。
けれど同時に、胸の奥でじんわりと染み渡ってくるものを感じて、なぜか、泣きそうになった。
同じ頃、文月は藤ヶ谷家の離れで夫婦揃ってコタツで録画した映画を観るという比較的和んだ時間を過ごしていた。
だがエンドロールが終わってCMに入った瞬間、穏やかだった表情は一変し、顔を覆って泣き始めた。覆うとは言っても指の隙間からしっかりとテレビを見ていたし、音も入ってくるわけで。
自分以外の男の名前を呼びながら悲しみに打ちひしがれる妻を見守っていた藤ヶ谷はにっこりと微笑み、こう言った。
「もし僕がいなくなったら、君は今以上に悲しんでくれるんだろうね」
期待を交えた言葉にぴたりと泣き止む文月。藤ヶ谷の予想では大いに顔を引きつらせて「はは、当たり前に決まってるじゃないでございませんか」とか意味不明な語順で返してくるはずだった。はずだったのだが、
「優紀は私を置いてどっかに行ったりしないもん。自分の為に泣かれるのが辛い、優しい人だから」
ずっと一緒にいるんだもん、と強い意志を込めて呟いた文月が藤ヶ谷の方を見ると、彼は目を丸くしていた。どうしたんだろうと名前を呼ぶ。すると藤ヶ谷は僅かに開いていた口をきゅっと引き締め、俯いた。らしくない行動に好奇心が勝り、寒いのを我慢してコタツから抜け出した文月は四つん這いで藤ヶ谷の隣に行き、顔を覗きこむ。
「……優紀さん、ひとつ質問しても構いません?」
「……なに」
「どうしてそんなに顔が赤いんでしょうか」
まじまじと尋ねた文月をちらりと見て、すぐに視線を逸らす。先ほどの劇場予告CMで受けた衝撃はどこへ消えたのか、目を合わせようと体を寄せてくる文月に対し沈黙を貫いていた藤ヶ谷だったが、あまりのしつこさに何かが切れたのか、
「うわっ」
突然腕を引かれ、大きく見開かれた文月の瞳に映っているのは藤ヶ谷の閉じられた瞼。唇に仄かな温もりを感じたのも束の間、一瞬で引き離された。呆気に取られながらも「え、だから、何で?」と聞かれ、そして更にまた覗き込まれ。とんでもない悪循環だと心の中で毒づいた藤ヶ谷は息をついて、諦めて顔を向けた。その頬は既に赤くはない。
「君が好きだからだよ」
そう答え、無防備な文月の身体を抱き寄せて口づけた。
miaが体験したことを文月さんにそのまま被せました。とは言ってもmiaに藤ヶ谷さんみたいな人はいませんけどね。
ちなみにこの話の藤ヶ谷夫妻は新婚です。ええ。




