2-54 PM19:05/虚無と鋼の獣②
希望さえあればどんな所にでもたどりつけると決心している。
出典:荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 第五部 黄金の風』
「ヴォイド、本気で言っているのか? ここまで来たのに、本気で撤退しろと?」
両手を広げて懸命の説得にかかるパンク。
「二度は言わない」
だが、間を置かずして返ってきたヴォイドの声は、ひどく乾いて、冷たかった。森のずっとずっと奥に放置されたままの廃屋のように、何者をも寄せ付けない寂しさがあった。
「このガキを……ニコラを最上層まで届けるだけだぜ……それだけで俺達は元通りになる。みんな帰ってくるんだ……リガンドもオーウェルも……だって奇跡だぜ? 奇跡が叶うチャンスがあると分かっていて、どうしてそれを捨てられるってんだ!」
「この世界に、奇跡が起こりうる余地など存在しない。それが俺のスタンスだ」
地平の遠くを眺めるような目つきで、ヴォイドが左腕を振るう。銀の軌跡が宙で躍動。腕内部に搭載された電磁制御の機能で、鎌首をもたげた毒蛇のような体勢を取る、五本のワイヤー。その先端部が、パンクと、その後ろに立つアンジーの目線へ注がれる。
「俺の説得が聞き入れられないのなら、力づくでお前たちを連れて帰るだけだ。少々、痛い思いをするだろうが、我慢してほしい」
「正気じゃねぇぜ、ヴォイド……そんな、それを俺達に向けるってことは、お前」
うわ言の様に呟くパンクの目は大きく見開かれ、まさかの事態に陥ったことを飲み込めずにいる。右手に持った銃を構えることはしない。いや、できない。どんなのっぴきならない状況に立たされたとしても、どうして仲間に銃を向けることなどできるだろう。
だが現に、ヴォイドはそれをしている。それが出来ている。
「ヴォイド」
アンジーが、傷ついた小鳥の身を案じるような目線で、震えた声で説得し始めた。
「あなたが奇跡を信じられないのなら、それでいい。その代わり、私たちのことを信じて。私にもパンクも、ニコラの姿が見える。私には奇跡が見える。だから私のことを信じてくれさえすれば、何も問題はないじゃない……違うの?」
「アンジー」
ヴォイドがパンクの肩越しに、必死の訴えを投げかけてくる女へ向けて、唐突に口にした。
「お前が俺に対して、特別な感情を抱いているのには、薄々気が付いていた」
アンジーは無言のまま、しかし緊張で強張る頬に明らかな熱を帯びるのを感じた。パンクはじとりとした目つきのまま、ヴォイドを睨みつけている。
「だがなアンジー、いくらお前のたっての願いでも、聞き入れられない。それができないから、いま、こういう状況になっているんだ」
「リーダーのくせに、仲間のことが信じられねぇってのか」
刺青入りの禿頭にミミズめいた青筋が浮き立って、パンクが怒気も露わに口にする。決して許せない一言を相手が放ったことに対する怒りと、決して耳にはしたくなかった一言をぶつけられたことに対する動揺が胸中で渦巻き始め、それは震える声となって空気を揺らした。
「リガンドもオーウェルも、お前を信じていたんだぜ、ヴォイド。お前の指示だったら、きっとうまくやれる。俺達にはその確信があって、現に今までそうだったんだ。俺達はこのクソったれな都市で、どうにかこうにか生き永らえてきた。なんでか分かるか? お前が陣頭に立ってくれていたからだ」
「お前たちを死なせたくない。常にその一心だった」
「だから止めようってのか。でもな、ヴォイド、お前は決定的なことに気づいてねぇぜ。分かるか? お前はいま、俺達を裏切ってんだ。アンジーの想いも、なにかもひとまとめに、切って捨てようとしてんだぜ」
パンクの、銃を握っていない左手に、ぐっと力が込められる。
悲劇を力に――呪文が脳裡を過り、父の掠れた面影が記憶の残像を引いていく。
「信頼していた相手から裏切られることが、どれだけ深く相手を傷つけるか。お前はそれを知らねぇんだ」
パンクの眉間に深い皺が寄せられ、薄い眉がハの字に歪む。強気な態度で前進することを旨とするはずのパンクが、リーダーの前で初めて露わにする、紛れもない悲嘆の色だ。
それでも、ヴォイドの黒目がちの瞳が、揺らぐことはない。
「リガンドが目の前で殺された時……俺にはどうすることもできなかった。深い悲しみに心が沈んだはずだった」
依然、ワイヤーの硬質な構えを解かないまま、ヴォイドは今日一日のうちに起こった最悪の先触れを振り返り始めた。否――それは先触れなんかではなく、長いこと亡霊のように憑いて回ってきた悪運の貌のひとつに過ぎなかったのかもしれない。少なくとも、彼にとっては。
綻びを見せ始めた脊椎の骨片一つ一つを統制し、クッションとしての役割を全うせねばならないはずが、今のヴォイドにはそれを遂行しようとする気力も、意志もなかった。罪悪感に近い感情を抱いて、足下から崩れていく骨たちの音を耳にしているのか。それとも、どうしても口に出さねば気が済まないという気難しさゆえか。
とにかくヴォイドは、生木を裂くような想いで胸の内を曝け出し始めた。そうせずにはいられなかった。どうしてかは、わからない。自分が何を望んでいるか、はっきりとはしない。それでも口に出さねばならなかった。そうすることで、靄のかかった世界を晴らそうとしていた。たとえ晴れた先の向こうに、荒廃しきった風景しか映らなくとも、恐れることはなかった。全てが元に戻るだけだ。仲間たちを得る前の昔に。
「仲間を喪う。それは耐え難い苦しみと悲しみを俺に与えるに違いない……だがいざその時が訪れたら、結果はどうだ」
自嘲するかのように、苦笑を漏らす。
「俺が慟哭に暮れていたのは一瞬。笑ってしまうほどの、わずかの間だけだ。岸壁にぶつかって砕かれる波のように、悲しみはあっという間に引いていった。オーウェルの死をお前から耳にした時も、そうだった。パンク、俺はお前とは違うんだ」
「ふざけんじゃねぇぞ。俺だってしっかり気持ちを切り替えて――」
「出来ていない。お前は未だに、相棒を喪った悲しみを引きずっている。だからさっきの男に対して、ああいう無茶な要求を突きつける。困惑と哀しみに、鋼の体を振り回される。滑稽なくらいだ。でもそれは、人としては正しい姿なんだろう」
「ぐっ……」
「分かったか? 俺は誰とも違うんだ。お前ともアンジーとも違う。俺は、こういう男なんだ。仲間が亡くなっても、本気で哀しむことなどできやしない、そういう男だ。今日の出来事だけで、体にいくら機械の力を植え付けようが、魂のかたちなんて、そうそう変わらないものだと、つくづく思い知ったよ」
仲間を死なせたくないと願いながら、その一方で、守るべきはずの仲間たちとの間に壁を設ける。そうして、突発的に仲間の死を前にしても、悲哀と恐怖に慄くことなく、冷静さを回復する。それは、チームの先頭に立つ者として、自らを厳しく律しているがゆえの振る舞いではなかった。パンクもアンジーも、死んだリガンドやオーウェルも、ヴォイドのパーソナルに大きな誤解を抱いていたと、言わざるを得ない。
自分には、感情の芯というものが欠落している。ヴォイド・クロームは、己をそう自己分析していた。黒目がちの瞳の奥に、荒涼とした大地のような虚無を漂わせ、それを隠し通すように、薄っぺらい感情のテクスチャーをべたべたと貼り付ける。悲しい状況では悲しい態度を。喜びを分かち合う状況では、楽し気に目を細める。
いつからか、彼は自分の人生を「演じる」ようになっていた。
「俺はな、人間のふりをしているだけの、みすぼらしい獣なのさ」
感情の匂いを消しきった声色で、それだけを告げる。
虚無と鋼。ある時を境にして、彼の手元に残っていたのは、それだけだった。ハンター業界に踏み込んだ時、異名をつけるのに悩むことがなかったのも頷ける。
もちろん、初めからそうだったわけではない。むしろ虚無と鋼など、この世に生を受けたばかりの彼の人生において、最も縁遠い概念だったはずだ。それが、途中で人生の進路を徹底して搔き乱され、かと思えば身に覚えない者達からの爆撃に晒され、爆弾を落とした者たちを殺し回って、空焚きされた心と体のまま無理に走り続けた。そうしてふと気づけば、人の姿にして獣の匂いを放つ自分のそばに、それが転がっていた。それだけの話だ。
虚無を掻き抱き、鋼に身を焦がす。その代償とでも言わんばかりに、人としての過去はとっくに消滅していた。振り返ってみれば、そこにくっきりとした足跡など、一つも見当たらない。あるのは、ぽっかりとした大きくて暗い穴の数々だ。それだけが足跡の代わりとして、はるか遠くからすぐ後ろまで、びっしりと覆い尽くすように続いている。
人生は因果関係の連続体だ。原因の誕生の後に結果が生まれる。全てはその繰り返しだ。しかしヴォイドは、自身の人生における因果のもつれを知覚できないでいる。何が原因でこんな精神状態に陥ったのか。原因の在りどころが的確に把握できないのは、単に己の未熟さや失敗を認めようとしない意気地なしな性分のせいではなく、多元的な精神要素が絡まり過ぎているせいだと強く信じている。
自分が抱えているのは、もっと複雑な事情なのだ。単純な不幸などでは決してない――それもまた、パンクを始めとした仲間たちとの決定的な違いの一つだと、ヴォイドは直感した。
パンク達にはパンク達の過去がある。「人としての当たり前にシンプルで辛い過去」が。直接聞き出したことはないが、きっとそれぞれが、それぞれに凄惨な過去を背負っているのだろうことは想像に難くなかった。ただ……ヴォイド自身の思うところでは、それは「要約可能な過去」に過ぎないということだ。大なり小なり、どんなかたちの過去にせよ、皆がそれを糧にしているということだ。簡単に糧へ変換できるだけの、取扱い易さを兼ね備えた不幸だ。
呪われた人生をどこかのタイミングで取り戻そうと躍起になる。そんな前向きな心構えがパンクやアンジーの中で生成されているのは、つまりそれだけ、彼らの背景が単純であることの証明に他ならないのではないか。
「(だが、俺は違う)」
ヴォイドには、取り戻すべき過去も、未来を生き抜くための糧にすべき過去も、なにもなかった。背景を振り返ろうにも、暗い奈落のような穴たちだけが、人として生きていた頃の過去を削り取っていった後だった。削り取られた、その冷たい痕跡だけが残っているのだ。人の身でありながら、獣の道へと堕ちたきっかけ。分水嶺がどこにあったのか見当もつかないほどの、それは徹底とした痕跡だった。
だから順繰りにしっかりと思い出す必要があった。
最初に浮かぶのは、父と母の笑顔だった。
ごく普通の両親だった。連邦の南部地方にある、ごく普通の中流家庭に生まれたヴォイドを、彼らはごく普通に育て上げた。過保護に甘やかすのでもなく、暴力で躾けるのでもない。子供を持つ多くの家庭がそうであるように、プラスにもマイナスにも傾くことのない少年時代を送ったものだった。
彼の母は連邦生まれで、ハイスクールで非常勤の国語教師をしていたが、結婚を機に家庭に入る事になり、大陸生まれの父の仕事が一家の暮らしを支えていた。
戦場ジャーナリスト――それが父の誇り高き職業だった。武器を持たない代わりに、皆が目を背けたがる真実をテレビへ映し出すため、レンズとフィルムを手に、死者の声と生者の匂いに満ちた戦地へ単身で赴くのが、父の非日常な日常だった。
父の取材先は戦場のみに限らなかった。低烈度紛争の連続で生活が逼迫した家族が国外へ疎開する様をカメラに収めたり、反政府軍に占領された首都へ潜入し、懸命に異国語を駆使して現地の人々へインタビューを敢行したりもした。そういう時でさえ、街のあちこちで砲弾の飛び交う轟音が鳴り響いたものだった。雲を引き裂くようにして飛ぶ政府軍の爆撃機が焼夷弾を次々に落とし、ほんの少し前にインタビューをしていた市民が巻き添えを食らって、絶叫を上げて焼け砕かれる様を目撃したこともあった。
この世における恐怖と暴力の極北に見舞われても、父の肝が潰れることはなかった。一ヶ月近く家を空けたかと思えば、すっかり日焼けした顔でひょっこり帰ってきて、必ずコップ一杯の水を妻に求め、噛み締めるようにしてそれを飲むのだ。
饒舌な母と比べると、父は驚くほど寡黙だった。いかに自分が大変な思いをして戦場から帰還してきたかを、こともなげに語ることをしなかった。息子にせがまれても、父の口は重かった。非日常的な経験を積んできたことに対する、ある種の優越感すら滲ませることはなかった。海外で仕事をすることが、どれだけ個人のスキルを高めるのに効果的であるかを熱弁することなど、ただの一度もなかった。
戦場について語ることは、死者について語ることと同じだ――言葉少ない父と交わした会話の中で、未だにヴォイドの記憶に残っている言葉がそれだった。それだけで、どうして父が仕事のことについて頑なに語ろうとしないのか、おおむね察することができた。
ヴォイドが十歳の誕生日を迎えた当時は、折しも、連邦と大陸の戦争が現実化する兆しを見せ始めていた時だった。非戦主義の政治家たちが次々に選挙で落選し、タカ派の議員たちが議席を埋め尽くし、その年の国家予算の内訳で軍事予算の比率が驚くほどの高い数値を占めたことで、国のとるべき方針が事実上国民へ伝えられたようなものだった。
じわじわと忍び寄る軍靴の足音に世間がざわめき始めていた、そんな時だった。連邦政府が国内の戦場ジャーナリストや国際支援団体の職員らへ、大陸への一時渡航中止勧告を発表したのは。あくまでもアドバイスの範疇に留まる内容であったから、法的に拘束力があるわけでも、渡航したことで罰金や刑罰の対象になるわけでもない。しかしこれは、連邦政府の大陸国家へ対する態度を決定的なものとして国際世論へ周知するには、十分な効き目があった。
渡航中止勧告が発表された翌日の夜のことを、ヴォイドは今でもよく覚えている。夜遅く、二階のベッドで寝静まっていると、階下で言い争う声に目を覚ました。寝ぼけ眼を擦りながら音を立てないよう階段を降りていくと、両親が激しく口論しあっていた。言葉少ないはずの父がまくしたて、母は涙声になって必死に何かを訴えていた。仲睦まじい夫婦。そんな印象を抱いていたヴォイドにとっては、衝撃的な光景だった。
その翌朝、父は家を出た。仕事のためだと、憔悴しきった母からそう聞かされた。
父のいない生活。それが一年ほど経過したある日、ネットに決定的な動画がアップされた。
柿色の装束を着た男が、どこかの部屋に拘禁されている様子を、ビデオ撮影した映像だった。日焼けした男の肌は乾燥しきっていて、頬は痩せこけ、人相もすぐには分からないほど、髪も髭も伸び放題だった。首からプラカードを下げ、おまけに猿轡をかまされ、手を後ろに拘束されて椅子に座らされていた。
『邪悪極まる連邦の高官どもよ、聖なる神の御名において、我々は血を流すことを決意した。勝利を得るためではなく、聖なる神のご意志を地上へ降ろすために。この偉大にして権威ある儀式を実行するにあたり、手始めにまず、この通り、連邦のジャーナリストを拘束した』
その男の背後に、目出し帽を被って血のごとく真っ赤な戦闘服を着用し、全身に銃器類を武装している異国風の男が立っている。異国風の男は、くぐもった声で、異国の言葉を口にしていた。意味こそ全く分からなかったが、その剣呑すぎる映像だけは、今でも忘れられなかった。
『解放して欲しければ、こちらが示す身代金を支払い、ベークリッド爆破テロの容疑でそちらに収監されている我が同胞を一人残らず釈放せよ。どちらも期限は五日間以内、二十九日の日没までとする。期日以内に要求を受け入れなかった場合は、我々も容赦しない。このジャーナリストの体は二つに別たれ、熱砂の絨毯の上で、聖なる神の供物に捧げられることだろう。連邦の高官諸君、賢明な判断を下すことを期待する。アリー・アル・サマエル』
異国風の男は、自らが信奉する聖なる神とやらの名を口にすると、隠し持っていた分厚いナイフをカメラに見せつけるように取り出した。部屋の隅で照明を焚いているのだろう。ギラギラと妖しく照り輝くナイフの切っ先を、拘束された男の首元に当てがい、目元を嬉しそうに歪めていた。
だが、当時十一歳を迎えていたヴォイドの目を捉えたのは、殺意を匂わせるナイフそのものでも、得意げに人質に凶器を向ける異国風の男でもなかった。
沈鬱な表情のジャーナリスト。その首から下げられたプラカード。
連邦の文字が、黒いマジックペンで書かれていた。そこから目が離せなかった。
父の名が刻まれていた。
生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。
出典:フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『悪霊』




