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プロメテウスに炎を捧げよ  作者: 浦切三語
2nd Story フェイト・オブ・ジ・イノセンス・ギア
89/130

2-53 PM19:00/虚無と鋼の獣①

 主を喪い、突然の轟音に襲われた屋敷の一角で、椎骨(メンバー)の一人が軋みを上げている。


「どこに行きやがる。まだ話は終わってねぇぞ」


 パンク・バレルは、こともなげに仕置き部屋を後にしようとするジョシュア・ブレンドを眼光鋭く呼び止めると、彼の肩を後ろから無理やり掴んだ。ギュスターヴご自慢の非殺傷兵器によるダメージからは、もうほとんど回復したと豪語するかのような、普段通りの粗暴な振る舞いだった。


「こっちを向きやがれ。正面切って話といこうぜ」


 無理矢理振り返らせると、高級感漂うダークブルーのネクタイをむんずと掴み上げ、驚き顔のジョシュアを壁へ勢いよく押しつける。


「一方的に喋って俺達を煙に巻こうって腹積もりなら、そうはいかねぇからな」


 答えに間違えれば、その引き締まった腹へねじ込むように押し当てている拳銃の先が、盛大に火を吹くのは明らかだ。それなのに、ジョシュアは怯える様子を全く見せなかった。


「気に食わねぇ面しやがって……おい、アンジー、部屋の奥にドアがあるのが見えるだろ……その向こうにオーウェルを殺った野郎がいる。俺はこいつの相手をするから、代わりにぶち込んでやれ」


 突然に正体を明らかにした諜報局の職員と名乗る男を不快感たっぷりに睨みつけながら、パンクが指示を出した。先んじて敵地へ乗り込んだ流れそのままに、いつの間にか彼がこの場の交通整理権を握っていた。そのことに、まったくアンジーは不満を覚えなかった。むしろ、仇の居場所を教えてくれたことに、感謝したいくらいだった。


 アンジーが使い物にならない右腕の代わりに、まだ無事な方の左手でダウンジャケットの内側へ手を伸ばし、パンクと同系統の拳銃を取り出してドアへ向かう。すかさずドアノブへ向かって銃口をかざして発砲。マズルフラッシュが、怒りで紅潮するアンジーの頬を瞬間的に照らしつける。


 アンジーが、その細く、だが確実に科学的強化の為された機械仕掛けの右足でドアを思い切り蹴破る様子を感覚しながら、パンクはジョシュアへ詰め寄った。


「まだ他に隠してることがあるんじゃねぇのか?」


「いやですねぇ、さっき話したことが全部ですよ」


「そうやって朗らかに笑っていりゃあ、やり過ごせるとでも? その手には乗らねぇぞ、このペテン師風情が」


 銃口を押し当てる手に、ぐっと力を込める。


「さっきの馬鹿デカイ轟音はなんだ。クリムゾンの仕業か? もしやテメェこそが、裏で奴らと手を組んでいるんじゃねぇのか?」


「人の話を聞いていないんですか? もう一刻の猶予もないんですよ。クリムゾンが奪いにきたんです。その少女をね。大方、あなた方の居場所を探ろうとしているんじゃないですか?」


 パンクの肩越しに佇むニコラへ、緊迫した現場には不釣り合いな、和やかな視線を送る。そんなジョシュアの舐め切った態度が、ますますパンクを苛立たせた。


「こんなところで私ごときを相手にしている場合ですかね? はっきり言いますが、時間の無駄ですよ。私を詰問したところで、何にも出てきやしません」


「てめぇの疑いはまだ晴れてねぇ。怪しさ満点だぜ、お前。敵がこの屋敷を包囲しつつあるってのに、なんでそんなに平然としていられるんだよ? えぇ?」


 窓のない、だだっ広い部屋。外の状況が把握しきれないという絶対的に不利なシチュエーションに立たされているという事実が、どうにか冷静さを保とうとするパンクの張り詰めた心の糸に、狂乱の刃をじりじりと近づけていく。


「俺達を罠に嵌めようとしてんなら、全部洗いざらい吐いたほうが――」


 続く尋問の舌鋒は、しかし再び到来した轟音によって掻き消された。足元の床が鳴動し、思わずその場の全員がたたらを踏んだ。天井から、ぱらぱらとコンクリートの破片が粉雪のように散り落ちる。


 爆音の位置からして、被害を受けたのは階下。それも一階のエントランス・ホール付近からであるらしい。危機的な状況を察したヴォイドが、身を翻して入口のドア付近へ駆ける。


「まただ! 一体なんだってんだ!? おいさっさと吐け! この爆撃はお前が指示してんのか!? それとも、さっき渡したヘリのキーに何か細工でも仕込んでやがるのか!? どうなんだ!?」


 パンクは、明らかに混乱に呑まれつつあった。怒りを吐き散らし、逆に頭をクリアにさせることが彼の常套手段だが、次第に焦慮が彼の中で鎌首をもたげ始めていた。


 もしもこの場にリガンドがいれば、なにかしらの有効な助言や知見をパンクへ送り、この場で取るべき最善の策を掲示しただろう。あるいは、オーウェルが屋敷じゅうの監視カメラを始めとする電子機器に干渉してサポートに入っていれば、外の映像が視覚野に投影され、結果として心に少しの余裕が生まれたやもしれない。


 だが、二人はすでに彼岸へ渡ってしまったのだ。死者の声は現世に届かない。生き残ってしまった者としての重圧が、困難を極める事態の対処に徹しようとするパンクの精神へのしかかっていた。


「慌てるな、パンク」


 ドアから半身を廊下側へ出して、周辺の哨戒に当たっていたヴォイド・クロームが、耳をそば立てながら肉声で忠告を送る。この期に及んでも、この男だけは普段と変わらずに、その場で自分がするべき最適な行動を取ることに余念がないようだった。


「粉塵がひどくて姿は見えないが、下から声がする……プロテクトアーマーの擦れ合う音も……恐らく、さっき殺し損ねた私設部隊の残党だ。足音からして庭園へ向かっているようだが……奴ら、クリムゾンを迎撃するつもりなんじゃないのか?」


「信じるってのかよ。このペテン師の言葉を」


「……状況を口にしたまでだ。俺とて、その男の話を全て信じているわけじゃない」


「いやはや、本当に疑り深い人たちですねぇ。どれだけ裏切られ、欺かれたら、そこまで性格が捻じ曲がるのか、じつに興味深いです」


「なにぃ……!?」


「ほら、そうやって安っぽい(・・・・)感情を剥き出しにしている暇があるなら、早く急いでヘリに乗らないと。鬼血人(ヴァンパイア)殺しの狩人たちの射程圏内に入ったら、ここまで辿り着いたあなた方とはいえ、まったくの無事で済むとは限りませんよ?」


 挑発的な口ぶりでパンクを詰った直後だった。パン、パン、と、乾いた銃声が破壊されたドアの向こうから響いた。しばらくして、返り血にジャケットを染めたアンジーが、静かな足取りで戻ってきた。どうやら銃声と共に、嵐のように渦巻いていた怒気すらも浄化したらしい。


「頭に撃ち込みました。特別サービスで二発」


 拳銃をジャケットの内ポケットへ戻しながら、ひと仕事をやり終えたプロフェッショナルさながらの冷たい表情で、パンクとヴォイドを眇め見る。


「だが、電脳汚染が改善されたわけじゃない。メンテナンスを受けるまで使用は控えるべきだ」


「んなこと百も承知だぜ、ヴォイド。だがよ……落とし前をつけさせるのが、俺達のルールだろ?」


「……そうだな」


「それよりもパンク、いつまでそんな小物に付き合っているんです?」


「そう喚くなよ……ふん、仕方ねぇな」


 パンクがニヤリと獰猛に口角を歪めて、ジョシュアの耳元で囁く。


「なるほど、テメェの言う通りだ。急いでヘリに乗らねぇとな。名残惜しいが、バイバイしなきゃならねぇらしい」


 力強く、且つ滑らかに、押し当てていた銃の引き金を引いた。一度決断すれば、パンクの行動は素早く的確だった。


 それなのに、撃ち抜いたという感覚が指先に伝わってこない。これだけの超至近距離で撃ったはずが、筋肉や臓物を引き裂く重量感を、拳銃越しに感じ取ることさえできない。


 驚愕しつつ、二度、三度と立て続けに引き金を引いていく。しかしながら、薬莢が床を叩く金属音を鼓膜で聴き捉えこそすれ、手応えは空虚そのものだった。まるで、何もない空へ向かって発砲したかのような感覚に近かった。


「どうなってやがる」


 得体の知れなさを本能的に嗅ぎ取る。パンクは咄嗟にジョシュアから距離を取り、まじまじとその瀟洒なスーツに包まれた体躯を観察。そうして、今度こそ恐怖に近い感情を抱いた。


 銃口を押し当てていた部分の生地には、間違いなく焼け焦げた大穴が三つ穿たれている。だがそこからは、血の一滴すらも流れていなかった。


「だから言ったんですよ。私ごときを相手にしている場合じゃないと」


 同じことを何度も言わせるなと言外に含ませながら、わざとらしいくらいの倦怠感を滲ませた表情で、ジョシュアがさっと右手を払った。そこから三つ、零れ落ちる新品同然の弾頭が、ひび割れたコンクリートの床を軽やかに叩く。


「オムニバス社のケルベルスM73。弾薬は、対サイボーグ向けの膨張炸裂に特化したジャイロポイント弾、といったところでしょうか」


 乱れたダークブルーのネクタイを両手でぴっちりと整えながら、ジョシュアが正確に初見を述べる。


 まさか、着弾の瞬間を見計らって銃弾を掠め取っていたのかとパンクは疑ったが、すぐにそうではないと気づいた。ジョシュアの手の動きからして、腕を通って体外へ排出されたように見えたからだ。


「あなた、サイボーグじゃないわね」


 出来の良い手品の種を探るような調子で、アンジーが言った。


「大脳器質を多少弄っていますが、その目的は、あなた方に施された機械化手術とは大きく異なります」


 こめかみの辺りをトントンと叩きながら、ジョシュアが滔々と口にする。


「私はね、ギフトを授かったんですよ。ただのいち信者に過ぎない私へ、教祖たるディエゴ様が好機を与えてくださったのです。科学と神秘を掛け合わせた、今世紀史上最高のイニシエーション……人体跳躍手術(ゲノム・ドライブ)。クリムゾンの者らが受けた祝福を、私に与えてくださったのです。去年の、ある寒い冬の夜のことでした」


「へ、人体実験に志願したら、超能力を獲得しましたってか。サンタクロースも、粋なプレゼントを寄こしてくれるもんだな」


 自慢の銃撃が無効化されたとあって、さすがのパンクも平静ではいられなかったのだろう。皮肉めいた言葉の端々に棘が見受けられるが、それでも、ジョシュアの悠然とした態度は崩れない。ただ一つ、パンクの言葉の中に気になるフレーズがあったようで、軽く眉間に皺を寄せた。


「超能力……その安っぽい(・・・・)呼び名は嫌いですね」


「ペテン師野郎にはお似合いのフレーズだと思うが?」


「スプーン曲げと同等に語られるのが気に食わないんですよ。ちゃちな念力なんかじゃなく、人間の遺伝子を編集して肉体機能を拡張させる、これぞまさに現代の魔術的儀式。その儀式の末に、私に授けられしギフトの名は《歪身(シェイプ・シフト)》。クリムゾン風に言うなら、ジョシュア・ザ・シェイプシフターと言ったところでしょうか。この地上に存在する既存兵器から釘の一本まで……およそ殺傷力を持つあらゆる道具の設計図を脳内にインストールし、構造を解析(・・)することで、その道具による危害を肉体が感知した瞬間、体内に組まれた疑似亜空間領域へ引きずり込む。無論のこと、クリムゾンの連中が使う得物についても、治安維持局のアーカイブにアクセスして事前に登録済です。収納も自由、取り出しも自由。諜報員にはうってつけの能力というわけです」


「そういうどうでもいいことは、ペラペラと喋るんだな」


「私が余裕ぶっている根拠を説明しないと、どうも納得していただけないようでしたから」


 図星を突かれて、パンクは思わず閉口した。会話を途切れさせまいと続く言葉を探している間に、ふと、ジョシュアの目が左の壁際へと泳いだ。つられてパンク達もそちらに目をやった。映るのは、窓枠を欠いた素っ気ないコンクリートの壁だけだったが、その向こうから凄まじい衝撃音がしたかと思うと、頭上で何かが落ちるような音がした。


 何者かが壁を伝って、屋敷の屋根へ登ってきたのだ。それも凄まじいスピードで。


 パンクとアンジーがそれぞれに銃を構え、ヴォイドがドアから離れつつ、左手のワイヤーを展開し、頭上を睨みつけて攻撃の姿勢をとる。


 また一つ、予断を許さない不確定因子が紛れ込んできたのを察したのは、ジョシュアも同様だった。スーツを翻し、ワイシャツに包まれた肉体へ右手を差し込んだ(・・・・・)。トプン、と音がした。水面に手を突っ込んだ時のような音だ。彼の肉体が、もはやただのタンパク質の集合体ではないことの証である。


 屋敷の屋根に登ったその何者かは長い咆哮を二度放った。獣の類でもなく人の声でもない。まるでこの屋敷に、いや、都市の全階層に深く長い帳を降ろしている夜そのものが、血生臭い渦となって猛烈な回転を刻んでいるかのような奇音が轟いた。


「……どうやら去ったようですよ」


 しばらくして、ジョシュアがそう言った。事前に疑似亜空間領域へ格納しておいた銃器を取り出す事態に至らなかったことに、安堵の溜息をつく。彼にも予想がつかなかったのか。見ると額に脂汗が滲んでいる。


「まったく、その少女もなかなかの厄介事を運んできますね。クリムゾンやあなた方以外にも、彼女を欲する者がいるらしい」


 緊張を解いたパンク達を後目に、視線をニコラに向けて言う。口調には若干の忌々しさが漂っているが、彼女の姿が認識できているということは、どうやらこの男も「奇跡」とやらの存在を信じているらしかった。


「なに、いまの……」


 恐る恐るといった調子で、アンジーがヴォイドに尋ねようとしたところで、先にパンクが割って入った。


「リガンドを殺った、あの真っ黒い化物だ。咆哮に聞き覚えがある」


 確信を得たような調子で答えるパンクだったが、リガンド殺害の現場を目撃していないアンジーにとっては、いまいち状況が上手く呑み込めなかった。


「リガンドを? どういうことですか? まさか鬼血人(ヴァンパイア)?」


「わからねぇ……わからねぇが、偶然ここに辿り着いたとは考えられねぇな」


「とにもかくにも、こうしちゃいられませんね。今度こそ、お先に失礼させていただきますよ」


 サービスの説明を完了し終えた事務職員のように、ジョシュアは軽く一礼すると、入口のドアへ向けて踵を返した。


「エントランス・ホールを右手に真っ直ぐ進んで、突き当りを左に曲がった先の通用口を抜けて進めば、ヘリポートが見えてくるはずです。さっきの爆発で一階へ続く階段は崩れているでしょうが、貴方がたなら問題はないでしょう……あぁ、そうだ最後にひとつだけ」


 廊下に出たところでおもむろに振り返り、順繰りにハンターズ・ギルドの面々を見渡してから、興味深そうな眼差しを送る。まるで品定めでもするかのようなその目つきに、パンクもアンジーも不快感を覚えたが、もう食ってかかるような真似はしなかった。


人体跳躍手術(ゲノム・ドライブ)の理論が唱えられた背景の一つには、人の肉体と精神が真に不可分の存在なのかを探る目的があったんです。肉体の変容に伴い、精神のかたちも変容するのか。もし変容した場合、精神の行きつく先はどこにあるのか。それを探求するのが学究局のテーマでした。しかしこの技術よりもはるか以前に確立されたサイボーグ手術の申し子たるあなた方の振る舞いを見て、感じました。とっくの昔に、答えは出ていたのですね。身体を科学的に延長させても、人の心は変わらない(・・・・・・・・・)……あなた方を見ているとそう感じます。まぁもっとも、それが汎用性のある回答なのかどうかは、もう少し見定める必要がありますけど……健闘を祈りますよ。旧世代のお歴々」


 不敵な笑みを浮かべると、ジョシュアは廊下の手すりに手をかけると、そのままさっさと階下へ降りて行った。意味深長な台詞を最後に消えた男の後を追おうとする者は、誰もいなかった。最後までいくつかの謎を体の奥に孕んでいた男だったが、ひとまず敵対の意志がないことを確認できただけでも、良しとするべきだった。


 それよりも、先にやらねばならないことがある。アンジーはニコラの手を引いて、パンクに促されるより先に、入口のドアを出ようとした。パンクが後ろに続く恰好となったが、そこでふと、いまだにその場から動こうとしないヴォイドへ声をかけた。


「ヴォイド、ぼさっとしないでくれよ。リーダーなんだから、ちゃんと音頭を取ってくれ」


「…………」


「早くヘリポートに行きましょう、ヴォイド」


 廊下に出たところで立ち止まり、アンジーが振り返った。


 ヴォイドは応えなかった。その黒目がちの目を、じっと虚空へ向けている。


 またあの目だ――咄嗟にアンジーは感じ取った。依頼者の忠実な猟犬として働くことに、苛立ちを覚えるのでも、過剰な喜びを覚えるのでもない。燃え尽きた焚火のように、ただ運命を受け入れて、機械的に動くことだけに集中するかのような瞳。そんな自分を変えようとするでもなく、じっと傍観するかのような目つき。これまでも、日常のふとした時に、そっと覗かせていた、野心を猛らせて前進するハンター稼業には似つかわしくない、空虚な眼差し。


「ヴォイド、どうしたの?」


 心配そうに尋ねながらも、アンジーは次にヴォイドが口にするであろう一言を、聞きたくないと本心から思った。何か、とても嫌な予感がしたせいだ。リガンドやオーウェルを喪った時よりも、ずっと衝撃的で、それでいて、もう後戻りはできないと否が応でも直感してしまいそうな、何かが崩れてしまいかねない予兆を感覚した。


「あの男、人の心は変わらないと、そう最後に言っていたな」


 ひどく乾いた声で、ヴォイドが呟きを落とした。


「それがどうしたってんだよ」


 アンジーと違い、まだヴォイドの変調に気づいていないのか。パンクが怪訝そうな表情で訊き返した。


 ヴォイドは、そっと彼に向き直ると、木々の葉が触れ合うような声で、囁くように言った。


「人の心は変わらない。それは、その通りだ。どれだけ身体を改造しても、どれだけ仲間を信頼しようとしても、結局のところ、自分という存在の本質は、昔の頃に留まったままだ。何かを信じたいと願い、それでも信じ切れない、心の在り方は」


「なにわけのわかんないこと言ってんだ? 早くいかねーと。もう敵がそこまで迫ってきてんだぜ?」


 やめて。それ以上、なにも言わないで――苛立つパンクの背後で、アンジーが悲鳴を上げそうな声で見守るも、寂漠としたヴォイドの声は続く。


「パンク、アンジー。命令だ。現時刻を以て、ここから撤退するぞ」


「……なに?」


 予想だにしなかった一言。パンクが、狐につままれたような顔になる。


「これ以上、今回の件に関わるのは止めだ。俺達はとんでもない悪運のチケットを拾ってしまったんだ。最初にリガンドが、次にオーウェルが死んだ。奇跡を追い求めているはずが、どんどん悪い方向へ流れていく。これは偶然なのか? 俺は、そうは思わない。次に死ぬのは、俺か、お前か、アンジーか。俺が死ぬのはいい。だがお前たち二人が事切れる様を見届けるのは、たまらなく苦しい」


「なに弱気なことを――」


「だいたい、奇跡なんて、本当にあるのか(・・・・・・・)?」


 決定的な――それは間違いなく、決定的な一言だった。


 さしものパンクも、ヴォイドが今どのような状況に陥っているのかを察し、先ほど以上に驚嘆の顔になる。だが、理解こそすれ、納得がいかなかった。


「お前、何を言って……」


「そのニコラとやらは、いまどこにいるんだ(・・・・・・・・・)?。俺の隣か? それともパンク、お前の手を握っているのか?」


「おい、悪い冗談はよせって……」


 何かの勘違いだ。そう思い込みたくて、無理に浮かべたパンクの笑顔が引き攣った。しかし、これのどこが冗談なものかと、ヴォイドの空虚な眼差しは、必死に訴えかけている。


「俺以外の全員が、ニコラとやらの存在を認識できていた。だが俺には見えなかった。ギュスターヴが出してきた映像を見ても、それらしい少女など確認できなかった。だが俺は信じた。お前たちを。奇跡を信じるお前たちについて行けば、そのうち俺でも見えるようになれるんじゃないかと。だが、仲間を二人も失った上に、こんな状況に陥っても、俺の心は変わらずじまいだ……オーウェルから提案された時に、力づくでもお前たちを説得するべきだった」


 アンジーは、今朝のことを思い出した。ニコラの奇抜な服装からサンタクロースを思い出したと彼に言った時の、彼の表情――どこか、場を誤魔化すような素振り。


「俺には、やっぱり奇跡を信じることなんて、無理だったんだ」


 どうして気付かなかったのか。今にして思えば、不自然なところは沢山あった。


 自分も、パンクも、そしておそらくはリガンドも。無線越しとはいえ、オーウェルでさえニコラとの会話に成功している。


 ――ヴォイドは、一度だってニコラに喋りかけただろうか。


 任務に集中するために、あえて無視しているのだろう。心のどこかでそう推測していたが、それはとんでもない誤解だった。


「精霊は顕れない。今も、この瞬間も」


 自分達を結んでいた目に見えない強固な『何か』が、修復不可能なほどに砕け散る。


 そんな悪夢のビジョンが、アンジーの脳裡を過った。

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