2-16 PM12:15/《凍える脊椎》――歩くべき道①
こんな恐るべきことがあっていいのだろうか。
アンジーは唖然とするしかなかった。オーウェルの通信を介して階層間エレベーター襲撃の顛末を見届けた直後、三時間ほど前にヴォイドと交わした、何気ない日常会話の断片を回想していた。
『もしかしたら、鬼血人は絶滅を免れ、この都市に潜んでいるかもしれない』
そんなことある訳ないと一笑に付した。冗談にすらならない他愛もない会話として、彼女の中では終わるはずだった。
それが、まさかこんな形で証明されるなんて考えてもみなかった。
驚愕に慄いているのは、当の話題を口にしたヴォイドも同じだ。パンクたちが撤退するのを見届けて通信を切ってからの彼は、凝然として一言も喋ろうとはしなかった。そのことがアンジーにはたまらなく不安だった。気休めでもいいから何か一言かけて欲しかった。チームのリーダーらしく。
「俺のせいだ。楽勝な任務だと勘違いして、スリリングを優先したせいだ」
作戦から帰還するなり、銃撃の名手が似合わぬ言葉を並べた。
「リガンドの言う通り、中層の出口で大人しく待っていりゃあ、少なくとも生け捕りにはできたはずだ。すまねぇ」
パンクの謝罪はアンジーにとって少なくない驚きを与えた。彼に対して普段からあまり良い感情を持ち合わせていないぶん、意外に感じてしまう。どうやら手も足も出ずに撤退せざるを得なかったことが、根っからの戦闘員らしいパンクのプライドに傷をつけているらしかった。
撤退命令を下したヴォイドに対し、パンクが食ってかかるような態度を見せる事はなかった。普段からギャングめいた言動を披露している割には、己の立場をわきまえる程度の常識は持ち合わせているらしい。
悪い知らせは続くもので、オーウェルが監視していたデータマップから発信機の位置を示す光点があっけなく消失したのも痛かった。
進捗は白紙に戻り、メンバーの間に淀んだ空気が流れはじめた。
「とにかく、今後の方針について検討しなければならないな」
チームリーダーらしく、即座にヴォイドが提案を口にした。
「ナイル氏の助力を仰ぐ。俺達だけではどうしようもならん」
その提案内容を耳にして、パンクとオーウェルが少しだけ眉をひそめた。
任務の遂行途中でどれだけの難行に遭遇したとしても、依頼人の助言を仰ぐような行為を真っ先に選択すること自体、一般的なハンターズ・ギルドにあっては異例のことだ。
そんな真似をしたらハンター稼業の沽券に関わってしまうとメンバーから反発心を抱かれかねないし、いくらヴォイドのリーダーシップを信じていると言っても、プライドの高いパンクとオーウェルには。そう易々と呑み込めるようなものではなかった。
けれども最終的には、決定的な情報不足を補うという大義の下に、ヴォイドの提案が採用されることになった。
アンジーとリガンドは異論を唱えることなくヴォイドに従い、パンクとオーウェルも、渋々ながら頷くしかなかった。それこそ、鬼血人との会敵が、彼らの心中に大なり小なりの不安感を残し、拭いたがっていることの現れだった。
ヴォイドの号令の下に、一同はリビングに再集結した。全員がテーブルの定位置についたのを確認してから、ヴォイドは《噴水》のスイッチを押して霧状のスクリーンを展開した。
『なるほど。少女につくかたちで一体、そして乱入するかたちでもう一体。都合二体の鬼血人か。乱入者の方は黒いフードを被っていたというが、それは奴らの習性の一つだ。日差しに対する防護策を取っていれば、ある程度は日中でも行動可能だからな。話を聞く限りでは、乱入者はおそらくノーマルの鬼血人だろう。それよりも気がかりなのは、少女回りの情勢だ。君の報告によると、少女のそばにいるのはイレギュラー……日向を歩く者ということになるが、間違いないのかね?』
要点をまとめた一連の報告を聞き終えたギュスターヴの質問。驚嘆することも憤慨することもなく、念を押すような口調で訊いてきたのもあって、アンジーを始め、他のメンバーも戸惑いを覚えた。予想外の事態に直面したであろうに、この落ち着き具合は何だろうか?
「間違いありません。私もこの目で確認しましたから」
ヴォイドが少し間を置いてから応えた。ギュスターヴは満足そうに軽く頷くと、自らの手の内を明らかにしだした。
『よろしい。これで裏は取れたも同然だ』
「どういう意味でしょうか」
『実はこちらでも、少女のそばにいるのが鬼血人であるという情報を、さきほど入手したところなのだよ』
アンジーたちは、思わず息を呑んだ。ヴォイドはテーブルの上で手を組むと、この場における完璧に近い内容を口にした。
「ジュラス・オグラン氏に関することですか?」
『察しが良いな。その通りだ。いや、私も驚いたのだ。つい数時間前、エージェントがオグランの遺体を最下層B区で発見し、市警に気づかれる前に回収したのだが、知り合いの医療関係者に解剖してもらったところ、微量ではあるが、オグランの体内から鬼血人由来の麻痺毒が検出された。吸血行為の際に、奴らの牙から注入される成分だ。これの意味するところは、オグランが少女に接触した直後、日向を歩く者が彼を殺害し、少女を連れ立って移動を開始したということだ』
滑らかな物言い。ますます強まる疑念、と同時に得られる所感――予想外であると言葉の端に匂わせておきながら、その実、ギュスターヴの計算の範囲内だったのでは?
「……今回の依頼に鬼血人が絡んでくるのを、そちらでは想定済だったのですか?」
メンバーの胸の内を代弁するように、やや強気に迫るヴォイド。だが、ギュスターヴの顔貌に刻み込まれた皺の一つ一つが、動揺に震えることはなかった。
『もしそうだとしたなら、とっくに君たちへその種の情報を与えているはずだ。それをしていないという私の行動は、少なくともこの状況において何よりも真実に近いと思うが』
「そう仰るようでしたら、質問を変えます。一体、貴方が保護したがっている少女は何者なのですか。そろそろ教えてくださってもよろしいのでは?」
やや前のめりになって、ヴォイドは言い放った。会話の交通整理を投げ捨てた、直球の問いだ。
アンジーは隣に座るヴォイドの横顔に心配げな視線を送った。いつもと変わらない冷静な顔つき。だが唐突に切り出した問いは確かに物語っていた。彼が紛れもなく精彩さを欠いていることを。
依頼人に対して従順なヴォイドらしくない態度。少なくともアンジーにはそのように映った。仲間が危険に晒されたことの責任の所在を求めようとしているのだろうか。そうであって欲しいと、心のどこかで願った。
『君達が少女の素性について知る必要はない。他に知るべきことがあるはずだ。そう、たとえば鬼血人への対処法などについて』
適当にあしらわれ、あまつさえ会話のレールをいいように挿げ替えられた。
アンジーの向かい側に座るパンクが、鉛のような呼気を吐いた。会話の矛先を誤ったヴォイドに呆れているのではなく、場の制圧権を握られたことに不快感を示しているように、アンジーには思えた。今だけは私もあなたと同じ気分よ、と同調の言葉をかけてやりたくなった。
『鬼血人は、その特殊な血の作用のために、地球上に存在するどの生物も凌駕する再生能力と、極めて優れた嗅覚に聴覚に位置感覚、および高度な筋力操作に代表される類稀な運動能力を持つ。速攻で片づけるのは困難であるし、持久戦になればなるほど、分が悪くなるのは必須と捉えて良い。神経ガスなどの化学兵器はいちおう通用するが、あくまでも一時的なものだ。奴らの体内臓器は優れた濾過機能の集合体で、汗腺を通じて毒物をすみやかに体外へ排出することができる』
アンジーが、ごくりと息を呑んだ。ギュスターヴが披露する知識の数々が、彼女の脳裡に刻み込まれた、まだ真新しい記憶をより鮮明にさせていく。
特に、位置感覚という言葉がひどく印象的に聞こえた。エレベーターの壁を砕くように登攀しながら、襲い掛かる銃弾や電撃を苦も無くやり過ごしていたあの苛烈な様は、サイボーグに一級の各種センサーを搭載してようやく可能とするレベルのものだ。生まれ持った肉体のみで易々とやってのけるあたり、とてつもない身体感覚だと改めて痛感させられた。
『加えて、奴らは血騰能力と呼ばれる奇妙な技を使う。これは呪術に似た魔性の力だ。報告にあった赤い影のような怪物や幾何学的な触手というのは、恐らくこれに属するものだろう。まごうことなき強者。食物連鎖の頂点に君臨する怪物。だが、辛うじて人類はいくつかの対抗策を見出した』
淀みない饒舌な口ぶり。完全に主導権を握ったギュスターヴの――本人が意識しているかどうかは別にして――博識ぶりをことさらに主張するようなお喋りは延々と続いた。
メンバーらの内心に、次第に軽い苛立ちが充満していくが、誰一人としてそれを表に出すことはなかった。
使う者と使われる者。両者の間に横たわる明確な階差を――おそらくはヴォイドも含めて――全員が意識しており、階差を覆すこともできない現状を黙って受け止め、人形のように向かい合うことしか許されない。
右手の指を一つ立てて、ギュスターヴのありがたい高説が始まった。
『対抗策その一は、奴らの唯一の弱点を利用すること。すなわち太陽だ。驚異的な再生力を宿しているにも関わらず、紫外線によるタンパク質の変性は人類の比ではない。皮膚が焼け爛れるようになるのもそのためだ。が、相手が日向を歩く者である以上、このケースは今回、適用されない』
「私も通信を介して状況を観察していましたが、たしかに日差しなどお構いなしに暴れ回っていました。そもそも、鬼血人をこの目で目撃したこと自体、初めてでしたから、新鮮味に過ぎる事ばかりでしたが」
『ふむ。協会から貰ったデータでは、君達は五年前にプロメテウスにやってきたことになっているが、もちろん先の大戦時には大陸へ派遣されたのだろう?』
「はい。ですが、運がよかったのでしょう。その手の怪物と交戦した経験はありません。ここにいるリガンドだけは、あの手の怪物を一度だけ目撃したことがあるそうですが」
『なるほど。それでは尚更、君達はあの闇の眷属の対抗策を知っておくべきだ』
二本指を立てて、ギュスターヴは続けた。
『二つ目の対処法としては、直接戦闘による殺害が挙げられる』
「可能なのですか?」
『決まった手順を踏めばの話だ。まず首を切り落とし、次に心臓を鋭利な刃物などで一突きし、十秒以内に引きずり出して外気に触れさせれば、奴らの心臓は氷でできた薔薇のように散り、肉体は灰と化す。だが、成功確率は極めて低いだろう』
パンク、リガンド、そしてオーウェルの三人が、揃って納得のいかない表情を浮かべた。しかしながら、神経を逆なでされた彼らの心情を汲み取ることもなく、淡々とギュスターヴは続けた。
『これに付随するかたちで、失血死を狙うという戦術もある。だが、それはかえって危険だ。確かに一定量の血を喪失させれば再生機能を封じ込めることはできるが、そうなれば見境なく血を求めて狂暴になる。手負いの虎、という諺に代表されるようにな。討伐できる可能性も高まると同時に、こちらが深手を負うリスクも高まる』
「手負いの虎……その言い方ですと、奴らは再生能力を持っていながら、痛覚は宿しているように聞こえますが」
『矛盾していると錯覚してはならん。奴らもまた生物だ。痛覚は当然ある。だが、奴らは痛みを感じるのではなく、痛みを拾う体構造を獲得している』
「痛みを拾う? それはつまり、我々サイボーグが有する痛覚遮断システムと同様のものですか?」
『大きく異なる。痛覚遮断システムは、外的刺激による痛みを脳が感覚した直後に、痛覚の伝達回路をカットする生体防御システム。そもそも痛みを感じなければ作動しないし、そうでなければ危機的状況を認識できない。一方で、鬼血人に備わった感覚機能は、それを一歩推し進めたと言える種類のものだ。麻薬性鎮痛剤に類すると見られる内因性成分を脳内で生成し、脳や脊髄、末梢神経に作用させている。触覚を司る小体に影響を及ぼさず、そして痛覚は残したまま、痛みという感覚だけは排除できるようになっているらしい』
「…………」
『信じがたい、という顔をしているな。実際に、ここはまだまだ未知の領域だ。私も知り合いから教えてもらったに過ぎないし、自分で確かめたわけでもない。言えるのは、麻薬性鎮痛剤がどのような原理で痛覚の伝達回路を抑制しているかが完全に解明されていない現代科学では、到底辿り着けないステージだということだ。しかし、それほどの神秘性に包まれた怪物でも、人類はある決定的な有効打を開発することが出来た』
ギュスターヴが、それしか道はないのだと主張するように三本目の指を突き立てながら、画像データを圧縮してヴォイドの電脳内へ転送する。
視覚野に映し出されたのは銃弾だった。茜色の弾頭の先端に空洞がある。髄網によって共有されたそれを見て、ホロー・ポイント弾に酷似しているなとアンジーは思った。
『輝灼弾。貫通力が低く、体内に留まることで鬼血人の血液に対し、強力な溶血作用を発揮する。回収した鬼血人の体内成分を解析した末に完成した代物。血に支えられた怪物にはうってつけだ。これの実用化の目途が立ったことが、鬼禍殲滅作戦実行のトリガーとなった。機密を確保するために開発と製造元は秘匿されているが、人類が奇跡的な勝利を収めることのできた要の一つがこれだ。並の奴らなら無論、日向を歩く者にも有効な手段だと推測できる。パッケージ化されたものを、早急にそちらへ送ろう』
「まだ在庫があると? 鬼禍殲滅作戦が完了した後も保管していたということは、やはりこうなる事態を想定していたのではないですか?」
『まったく、思い違いもはなはだしいな』
突き放すような口調だった。機嫌を損ねたことに狼狽しかけたヴォイドが何かを発するより先に、ギュスターヴが続けた。不出来な学生に常識を叩き込む教師のような態度で。
『長い事この都市に住んでいる者ならば、誰もが輝灼弾の一つや二つ、お守り代わりに持っていて当然だ。我が邸宅の私設兵器庫には、数千発ぶんの弾が常備されている。臆病だとなじるかね? だがヴォイド君、亡霊は確かに今、この都市に舞い戻ってきたのだよ』
「仰る通りです。失礼いたしました」
『覚えておきたまえ。それほどまでに、奴らは驚異的だったということだ。奴らはまごうことなき侵略者だった。我々人類から大切なものを根こそぎ奪い取っていった。公的に絶滅したと発表されても、再び危機が到来してくる可能性を捨てきれないのは当然だ。転ばぬ先の杖という奴だ。皆、心の内では奴らを、あの闇の眷属たちを、今もなお恐れている』
ヴォイドは彫像のようにテーブルの上で手を組んだまま動かず、説教じみた言葉に身を委ねている。
アンジーはギュスターヴの上から目線な物言いに反発心を抱くより先に、少しばかりの安心感を抱いた。金と名声で安全を好き放題に賄える立場にいるこの老人でも、絶えず恐怖の念を抱く存在がいるのだと。
鬼血人が大陸中の都市をどれほど蹂躙したか。その手の内容を綴った書籍は枚挙に暇がなく、ネタとしての鮮度は未だに落ちていない。
これまで、二次的に得られる情報のみを頭の中で組み上げるしかなかったアンジーからすれば、まさに奴らは神話世界で語られる怪物に等しかった。だからこそ、鬼血人の姿をモニターで確認した途端、戦慄に震え上がったものだ。
その大袈裟ともとれる反応が、しかし思い過ごしではないことを、ギュスターヴの言葉から得られる所感で補強できたのは、大きな精神的収穫であると言えた。
また、アンジーはこうも考えた。ギュスターヴの言い方からして、彼もまた、闇の眷属の牙に大事な何かを奪われた者とみて違いないと。財産か、あるいは近しい誰かか。どちらにせよ、ギュスターヴは一度、それを『奪われた』のだ。
アンジーも、自身のことを『奪われた者』であると自己分析している。それでも、ギュスターヴに同情や共感を抱くような気分にはなれなかった。
なぜなら、彼は成功者だからだ。過去に負った傷をバネにして、なおも都市の競争原理の渦中で生き残っていけるように、自らを最適化させている。
安心から一転、今度は惨めさと憎たらしさが、どこからか瀑布のごとき勢いで湧き上がってきた。ヴォイドに恥をかかせてはいけないという楔がなかったら、きっと凄まじい目つきでギュスターヴを睨んだに違いない。
社会にあって絶え間なく成功する者。それは言い換えるならば、誰かが成功する機会を掻っ攫い続けている簒奪者だ。都市という箱庭でパイの奪い合いに勝利してきた者は、自身の成功や勝利の裏に、誰かの失敗や敗北が横たわっているのを意識しない。中層に住む大多数の人間たちが平穏にあぐらをかいて、最下層に住む者達の凄絶な暮らしに片時も心を痛めないように。
途端にアンジーの中で、ギュスターヴのしわがれた相貌が、過去に通り過ぎていった、とうに肉塊と果てたはずの者達の顔を次々に象っていった。それは精神的なゆらぎが見せる錯覚であったのだが、アンジーにしてみれば、とっくに埋葬したはずの穢れた過去を掘り起こされているような苦々しさがあった。
見ろ、これがお前から奪っていった怪物たちの顔だぞと。
そのせいで思わずスクリーンからわずかに目線を逸らした。その微妙な仕草に気づけたメンバーは、誰一人としていなかった。




