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プロメテウスに炎を捧げよ  作者: 浦切三語
2nd Story フェイト・オブ・ジ・イノセンス・ギア
35/130

2-1 AM:7:00/鮮血のモーニング

――若い兄ちゃん――浮浪者――ハズレ。


 静かな朝。だがそれは、猥雑さの陰を孕んだ朝でもある。


 早朝のプロメテウス最下層。その市街地。


 薄青い光の束が、晩秋の寒さを溜め込んだ路地裏へ差し込み、ひっそりと咲く野花へ穏やかに降りかかる。光は、刻々とした時の流れに合わせて明度を増していき、建ち並ぶビルや街路樹や消火栓をまとめて切り裂くように、眩しく照らしつける。絵になるような風景。しかしながら、肩をすぼめて俯き加減に歩く貧しき人々の目には、ひどく白々しい景色としてしか映っていないのだろう。


 バベル型積層都市・プロメテウスの最下層に届く光の総ては、中層域を支える岩盤下部に取り付けられた環境再現装置から放たれていた。晴れ晴れとした朝を演出するように、東の方角から徐々に明度が強まるように調整されているのだ。


――妙齢のババア――化粧が派手――水商売――ハズレ。


 完璧な朝を迎えた最下層B区の風景が、次第に騒々しさを増していく。


 女が、窓越しに映る雑踏へ目を向ける。都市随一の湾港工業地帯(ベイ・ファクトリー)で知られるD区へ続く片側二車線道路。工場保有の二階建て式通勤バスが信号前で列を成し、獣のいびき声のように排気ガスとエンジン音を撒き散らして通り過ぎていく。低賃金労働者に残された、唯一の通勤手段。


 断続的に轟くクラクションが、道行く人々の鼓膜を突き刺していく。

 急げ急げ。急がないと手遅れになるぞと、はやし立てるように。


――クソジジイ――ボロボロのコート――痩せ細った体――ハズレ。


 交差点に面した二十四時間経営のファミリー層向けのレストラン。とは言っても、おひとりさまが利用したところで白い目で見られることはない。だから、窓際のカウンター席にひとりの若い女が腰を下ろしていても、そのホットパンツからすらりと伸びる足に目を奪われることはあれど、店員自ら注意するなんてことはしない。それは女も承知している。だからこそ不機嫌さを隠そうともせず、雑踏ひしめく歩道へ、こうして時間の許す限り視線を投げかけているのだ。


「(どいつもこいつも、朝っぱらからシケた(ツラ)ぁしてやがるな)」


 ぼんやりと考えながら、女――エヴァンジェリンは、店の壁に掛けられたアナログ時計を確認し、思わず顔をしかめる。入店してから一時間以上が経過していた。普段なら早々に『獲物』が見つかるはずだが、今日はいまいち品揃えが悪い。というより、いつもより人通りがやや少ない気がする。


「(妙な噂でも立ち始めたか? マズいなぁ。ちょっと後先考えずに貪り過ぎたかもしれねぇ)」


 頬杖をつきながら、みっともないくらいの大きな欠伸が出る。犬歯が剥き出しになるが、関係なかった。どうせ誰も見てないと高をくくる。そんなことより、この停滞した状況にげんなりした気分をどうにかするのが大事で、それを解決するためにもさっさと獲物を見定めるのが先決だった。


――二人組――金持ち風の老婦人とヘルパーの女――ハズレ。


「……うーん」


 椅子の背もたれに括れた腰を預けながら、大きく背伸びをする。 


「(だからって『狩場』を移すのは、なんかイヤなんだよなぁ)」


 面倒くさいからという理由もあるが、『狩場』を移した直後に好みの『獲物』が通り過ぎたら、それはそれで後悔するし、我慢の効かない自分の性格にこれまたうんざりするからだ。あそこで踏ん張っていればご馳走にありつけたのに、という展開だけは、彼女の中ではどうしても避けたかった。


 後になって悔しい思いをするくらいなら、一か八かの賭けに乗る。それがエヴァンジェリンの生き方である。コロニーが壊滅してから、ずっとその心意気でしぶとく人間社会で生きてきたのだ。


――作業着の男――千鳥足――アル中――痩身――ハズレ。


「(クソが。どこにも良さげなのがいねーじゃねーか)」


 眉根に皺を寄せて小さく鳴らした舌打ちは、店内に響き渡る空調音にかき消された。苛立つ気分を紛らわそうと、入店した際に無料配布された電子ペーパーをスワイプし、個人報道者(コア・メディア)が配信するニュースを適当にチェックする。


 曰く『最下層三十二本目の階層間エレベーター落成式、A区で開催される』

 曰く『旧サウス・ストリートの再開発区域、用途をめぐる是非に関して』

 曰く『呪術合戦激化の背景。モージョーの一族の謎にせまる』


「(だから何だっての? アタシにはかんけーねーし。そう、かんけーし! かんけーだいめーし!)」


 溜息をつけばつくほど雑念が溜まっていく。電子ペーパーの画面を爪の先で引っ搔くように、スワイプ、スワイプ、またスワイプ。タイムライン上に流れるニュースが、エヴァンジェリンの空腹を満たすことはない。


「(……こうなったら、店の中でおっぱじめるのも……?)」


 いやいやそれはないと、一瞬脳裏を過った邪念を振り払おうと頭を振る。《ヘパイストス》から命からがら逃げてきて、ようやくたどり着いた狩場なのだ。自暴自棄になって取り返しのつかないことになったら、目も当てられない。


「(ひとまず、気持ちを落ち着かせるかぁ……別なこと考えよっと。うーん。別なコト。ベツナコト……ベツナ・コット……)」


 くだらないという意識でくだらないことを妄想しながら、エヴァンジェリンは店内をちらりと観察し出した。お気に入りに相当する『餌』は、パッと見たところ一人も該当しない。その事実に、妙に安心する。もしいたら、この飢えた体と心を抑えつける自信がない。


 早朝のレストランに、エヴァンジェリンも含めて客が四人。残り三人のうち、一人は店の隅に置かれた二人掛けのテーブルの片方に座っていた。白髪交じりの痩せた中年の男だ。煙草を口に咥えながら電子ペーパーを眺めている。そこから少し離れた二人掛けのテーブルには、若い母親と未就学児と思われる幼女が座っていて、貧相なモーニングにありついていた。


――あらあら、こぼしちゃだめじゃない


 口へ運ぶたびにパンくずをボロボロこぼす娘の可愛らしい口元を、ナプキンで拭いてやる母親。

 エヴァンジェリンはちっとも上手くいかない獲物探しを一時中断すると、やや首を後ろに傾けて親子のやり取りを盗み見つつ、会話に耳を澄ませた。


――ほら、綺麗になったね。


――うん、きれいになったー。おかあさん、ごはんたべないの?


――あなたが先に食べなさい。お母さんはあとで食べるから


――ごはんたべたら、こうえんにいきたいなぁ。いいでしょおかあさん。


――そうね。でも今日は寒いから、あったかくしましょうね。


 鋭敏な聴覚が捉える会話。そこに漂う柔らかさ。


 エヴァンジェリンのオレンジ色の瞳が、親子の姿をはっきりと捉える。服装は、どちらもみすぼらしかった。特に母親の方は、まだ年若いだろうに、ほつれた前髪に白い線が混じっていて、明らかに疲労の相が浮かんでいる。それでも決して、不遇な生活から募る苛立ちを娘にぶつけるような態度は少しも見せなかった。それどころか、パンを食べるたびに小さく膨らむ娘の頬を愛おしげに見つめている。


 貧しいながらも仲睦まじい親子が紡ぐ会話。そこだけが、ゆったりとした微睡の中にあるような印象を、エヴァンジェリンは抱いた。彼らの会話に、このささくれ立った心を癒してもらうおうと――そんな、ありえない感覚が一瞬湧き上がってきて、慌てて蓋を閉じた。


 それでも、認めなくてはならないだろう。あの親子には、自分にはないものがあると。


 だからだろうか。エヴァンジェリンの胸に、一抹の不安が去来する。


「(……大丈夫なのかね。この親子)」


 彼らがいつまでも心地よい微睡の中で生きていられるのかどうか……席の近くに置かれた、母親の持ち物と思しき色褪せた旅行カバンが目に入った途端、エヴァンジェリンの中で勝手に不安感が広がっていった。近年増加傾向にある、マンションやアパートに住む権利を奪われ、ホームレス同然の路上生活を強いられる低所得者に特有の持ち物に見えたせいだ。


 未就学児をシングルマザーの力で支えていけるほど、最下層域の経済や福祉は充実していない。A区で働き詰めの公務員や、歓楽街で言葉巧みに金を巻き上げる夜職の人間にとっては、縁遠い話かもしれないが、それは実際、深刻な問題だった。児童福祉施設に子供を預けようにも保育士の数が足らず、設備も満足なものを用意できないところがほとんどなのだ。


「(いや、マジにアタシにとっちゃ、路地裏で野糞してる酔っ払いに声をかけるのと同じくらい、かんけーねーハナシなんだけど……でもよぉ、やっぱ、考えちまうよなぁ。ああいうのを見ちまうとさぁ……)」


 保育士不足よりもずっと深刻なのは、自分がこの都市にやってきた最初の年にニュースになっていた『児童福祉施設の売春斡旋行為』が、今でも撲滅されていない点ではないか。エヴァンジェリンはそう考えている。年端もいかない男児女児を、変態性癖の客に貸し与えることで報酬を得る施設の職員たち。彼らが悪意あって子供らに売春を強制させたのではなく、子供を預けっぱなしにして消える親が多すぎるために、施設経営に必要な金を集めるために止む無くそうしたのだと証言する様子がスクリーンに映し出された時のことを、エヴァンジェリンは、その時に抱いた激しい感情と共にはっきり覚えている。


「(無性に腹が立ったなぁ。あのニュース。たかが人間の話なのに……)


 エヴァンジェリンは人間の社会になど興味はない。人間が家畜の生活を気にかけないのと同じ理屈だ。


 そのはずだった。


「(なんなんだろうな。この、モヤモヤッとした感じは)」


 それなのに、子供が絡む事件が報道されるたびに、いかんともしがたい感情の暴れが沸き起こり、それを抑えるのに必死だった。そのままにしておくと、得体の知れぬ『何か』が――とにかく例えようもない『何か』が、己の肉体を食い破って飛び出してしまう予感を強く覚えた。


「(あー……ダメダメ! 獲物を物色するのに、集中、集中……)」


 エヴァンジェリンは気を取り直すと、目線を再び歩道へ戻した。


 するとしばらくして、通りの端に目が止まった。でっぷりと太った中年男が、一人の少女にしつこく絡んでいた。声は聞こえないが、なにやら男は少女を説得しているようだった。少女の肩や腰に触れるかどうかといった至近距離で、ジェスチャーを交えて口を忙しなく動かしている。


「(……おぉ?)」


 エヴァンジェンリンは前のめりになって、その男をしげしげと観察しはじめた。でっぷりとした体型を隠すように、オーバーサイズの青色のジャンパーを着込んでいる。下に履いているジーンズや靴には、飛び跳ねた泥染みの痕跡が確認できた。けれども、今のエヴァンジェリンにとっては、そんなものはどうでもよかった。


――おっさん――デブ――ハゲ――汗臭そう――


「(当たりだ(ビンゴ)!)」


 本日最初の獲物をようやく見定めたエヴァンジェリンの行動は素早かった。電子ペーパーを急いで丸めてポケットへ乱暴に突っ込み、体裁のために注文した飲みかけのコーヒーをそのままに、ペイ・カードで支払いを済ませる。


 店員のやる気のない声を背景に店を出た時点で、すでに彼女は蠱惑的な笑みを浮かべていた。それが彼女なりの、狩りに望む際の作法であった。


「いいから来い! 君なんだろう!? 身元は割れているんだ――」


 男は樽のような腹を揺らしながら、なおもしつこく少女に絡んでいた。その背後へ、エヴァンジェリンが猫のようなしなやかさで近づく。


「ねぇねぇ、おじさぁん」


 普段の言葉遣いからは遠くかけ離れた、甘く媚びる声色。狩りのための演技。エヴァンジェリン自身、こういう仕草で標的を釣るのは好ましくはなかったが、生きていくためには仕方のないことだ。


「……!? なんだ女。今こっちは立て込ん……で……」


 男がびっくりした様子で振り返った。邪魔をするなと怒気を飛ばそうとしたようだが、その視界にエヴァンジェリンの肢体が映り込んだ瞬間、男は魔法にでもかけられたように釘付けになり、ごくりと生唾を呑んだ。


 エヴァンジェリンのポップな服装――ショッキングピンク柄の猫耳付きパーカーという出で立ちは、十九という年のわりにはやや幼いチョイスだ。だがその一方で、肩のあたりで切り揃えられた髪はブルーのヘアマニキュアで丹念に塗られており、少しオレンジがかった大きな瞳と組み合わさって、不思議と蠱惑的な印象を与えたものだった。


 男の視線を特に釘付けにしたのはエヴァンジェリンのみずみずしい下半身だった。グリーンとホワイトの横縞ストライプが刻まれたホットパンツが、形の良い尻をきゅっと引き締め、アクアブルー柄のハイソックスが白磁のような太ももを一段と細く見せていた。


 靴は履き古した大量生産品のスニーカーで、そこだけが色気とかけ離れていた。しかしながら、絶対領域の放つ瑞々しい肉の眩しさに囚われた男は、さっきまで絡んでいた少女のことなどすっかり眼中から追い出したようで、突如として現れたコケティッシュな女を前に、鼻息を荒くして見とれるしかなかった。


 エヴァンジェリンはしな(・・)をつくると、唇をいたずらっぽく舐め上げて蠱惑的に囁いた。


「おじさぁん、なにボーッとしてるのー?」


「え? あ、あ、いや、あの……」


「そんなションベン臭いガキんちょに構ってないでさぁ、アタシと一緒に遊びに行こぉよぉ~~~ん」


 誘い文句としてはいまいちだが、十分だった。目を合わせてしまった以上、魅了(チャーム)の魔力から逃れることはできない。男の精神は、見えない鎖で縛られたも同然だ。


 エヴァンジェリンの瞳から発せられる怪しげな力に惹かれて、男はふらふらと、甘い蜜に誘われる羽虫のように足を動かした。エヴァンジェリンは素早く男の手を取って、蠱惑的な笑みを浮かべて先を急いだ。


 辺りの人々はそんな彼らを時折不審な目で見ていたが、すぐにその場を足早に去っていった。エヴァンジェリンの派手な容姿からして、美人局の類と考えたのだろう。


「ほらぁ、こっちこっち」


 男のカサカサに乾いた右手を引っ張りながら、エヴァンジェリンはファミレスの前を通り過ぎると、そのまましばらく歩き、表通りから完全に死角となる、細く入り組んだ、生ゴミの散らばる路地裏へ男を誘い込んだ。


「お、おい……いったいどこに……」


「ふふ、おじさぁん、ほんといい体してるねぇ~?」


 エヴァンジェリンは振り返ると、男の分厚い体へ躊躇なくぴったりと密着した。男の首筋から漂う鼻を刺すような体臭を、犬のように嗅ぎ始める。


「お、おお……こいつぁすごいな」


 興奮で上ずる声。その反応を面白がるように、エヴァンジェリンが小さく笑った。


「んふふ~♪ マジでぇ、おじさんとこうして出会っちゃったのって、運命かもぉなんて、思ったりぃ~?♪」


 甘い声色で、路地のさらに奥へ奥へと誘い込みながら、エヴァンジェリンは男が着ているジャンパーを器用に脱がしていった。


 男は特に抵抗しなかった。ただ為されるがまま、これから訪れるであろう極楽の予感に身を委ねようとした。


 細く白い指が男の首へ伸び、蛇のようにじっとりとくすぐる。男が目を細めて感じ入る様子が、更にエヴァンジェリンをますます愉快な心地にさせた。


「頭がツルっぱげなところとかぁ……襟足がないってところも、個人的にはポイント高いかなぁ~♪」


「な、なんで?」


「だってぇ……」


 エヴァンジェリンは、濡れた唇を男の耳元へ近づけ、囁いた。


「とっても、噛みやすいから♪」


 食前の宣告。それを唱え終えるやいなや、エヴァンジェリンは鋭く尖った自慢の犬歯を以て、勢いよく男の太い首筋に深く噛み付いた。


 その時すでに、彼女の両手は男の肩をがっしりと掴んで、女のものとは思えぬほどの、恐るべき万力によって固定していた。ジャンパーの下に着ていたシャツ越しの肩の肉に、爪が深く入り込むほどの握力だった。


 エヴァンジェリンの上顎と下顎。そこに生え揃った合計四本の犬歯。それは『牙』と表現するのが適切なほどに長大で、男の皮膚を、肉を、神経を、血管を、一時にぶち抜き、血飛沫を辺りに激しく飛び散らせて、彼女にとって最大の栄養源を急速に吸引し始めた。


 生命を生命たらしめる基本要素。すなわち、血液を。


 男は逃げ出すどころか、うめき声一つ上げる事さえ許されなかった。エヴァンジェリンの牙が、吸血と同時に麻酔の何十倍もの効果を持つ麻痺成分を凄まじい速度で血中へ流し込んだからだ。


 食虫植物に襲われた羽虫のように、男の体は呆気なく自由を奪われ、エヴァンジェリンの強力無比な力の支配下に置かれてしまっていた。


「(くっほぉぉぉおおおおおい! やっぱりデブの血ってうめぇえええええ!!)」


 脂ぎった血の味と歯触りに混じり、鼻腔をくすぐるのは、男の、古臭い油を彷彿とさせる体臭。


 誰にも邪魔されずに『食事』を純粋に楽しめるこの瞬間、エヴァンジェリンは己の確かな『生』を実感できた。彼女にとっては、まさに至福の時だった。

 それを証明するかのように、頬がこけて次第に青ざめていく男とは対照的に、エヴァンジェリンの肌は以前にも増して血色が良くなり、艶も増していった。


 奥行のある路地裏であることが功を奏した。表通りを歩く人々は、まさか日常のすぐ近くで、人類を震撼させた生物による残虐行為が繰り広げられているとは少しも知らず、足早に通り過ぎていくだけだった。


 大都市プロメテウスの最下層。そのほんの一角で密やかに行われた吸血行為は、およそ三分という短い時間で終了した。


「(あぁぅ~~~~……美味かった……ふぅぅ、直に吸えた量は……だいたい四リットルってところか)」


 ぽんぽんと腹の辺りを右手で撫でながら、取り込んだ血液量を感覚で推算する。


「(これならしばらく腹持ちするな。血騰呪術(アスペルギルム)を使っても、なんとかなりそう……って、ベルの野郎が追っかけてこないことに、越したことはないんだけどな)」


 溜息を一つ吐く。吸血の余韻に水を差すかのように、鬱々とした気分が胸中に迫り、かつての同胞の一人の狂気に染まる顔が、唐突に脳裡を過る。

 だが、万が一にもそんなこと、きっとありはしないだろうと前向きに心を構えることで、エヴァンジェリンは気持ちを持ち直した。


 肩を掴んでいた左手をぱっと離すと、生乾きのミイラのような姿になった男は、力無く生ごみの絨毯へ仰向けに倒れ込んだ。

 男の首筋には、唾液に濡れた四本の犬歯が濃い赤味を帯びて、深く食い込んだままになっていた。驚くべきことに、親指程度の長さを持つその牙の内部には、三リットル近い血液が含まれていた。

 

 エヴァンジェリンの牙は特殊で、その内部は幾つもの次元に分割されており、血液を充填しておくための異次元空間となっている。

 何か特別な技術の賜物ではなかった。彼女は、生まれつきこうなのだ。かつて彼女と苦楽を共にした他の仲間たちも、そうだった。


 エヴァンジェリンは新しく生え変わった犬歯の具合を舌先で軽くつついて硬度を確かめながら、男の首に刺さったままの古牙を手で引っこ抜いた。小さく穿たれた穴から、どぷりと、まだわずかに残っていた血が名残を惜しむように漏れ出た。


 四本の牙を手の平で転がしながら、エヴァンジェリンはふと物思いに耽る。コロニーがあった頃なら……いや、闇の眷属の支配者たる『太母』が今もなお健在なら、この牙を丁重に回収する意味はある。だが、大陸間戦争後の世界で各地の都市を襲い、人々を蹂躙した一族は凋落(ちょうらく)した。そうして全ては失われたのだ。その現実を改めて受け入れると、エヴァンジェリンは抜け落ちた牙を口の中に放り込むと、キャンディーよろしく噛み砕きはじめた。


 口腔内に溢れ出す莫大な量の血の濃厚な香りと味をしばし堪能し、一滴も零すことなく器用に飲み込み、満足感から軽くゲップを鳴らす。


 血の旨味に陶然としつつ、まだやるべきことが残っているのをエヴァンジェリンは忘れていなかった。吸血証拠の隠滅である。飯の種として消費したこの男は、あくまでも、ただの猟奇的な殺人の犠牲者に仕立て上げる必要がある。


 右手を筋力操作で膨張・硬化。刃のごとき鋭さを纏わせて、ちょうど噛み痕が残っている遺体の首元めがけて手刀の一撃を放った。


 ぼとり、と音を立てて、男の首が足元に転がったのを確認したときだ。表通りから裏路地にかけて、細く伸びる一つの影が地面に刻まれていることに、エヴァンジェリンは気づいた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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