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プロメテウスに炎を捧げよ  作者: 浦切三語
3rd Story ザ・ポリフォニック・バベル
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3-19 なめらかなパーツー電子工作者、ウォルト・プロテクトー

 翌日は、夏場にしては気温が冷え込み、早朝から霧雨が降っていた。プロメテウスのみならず、この戦後の時代に特有の雨。重金属酸性雨だ。雨粒一滴浴びれば即死……というのはかなり大袈裟だが、それでも日常的に浴び続けていれば、やがて体調に異変が生じる。


 都市の構造上、最下層は中層を笠にするようなかたちになるため、A区で主に構成される最下層中心部は降雨を免れる。その一方で、層の外縁に近い地区ほど、重金属酸性雨への対策は充実していた。各家庭における耐環境コートのストックから、電動カーのボディや家の外壁のハード・コーティング化などがそれだ。無論の事、B区の端、外縁に近い区画に位置するギャロップ・ギルドもその例に漏れない。


 ブランドンは最低限の必要な荷物だけを身に着けると、ジーンズに洗いざらしのTシャツといったシンプルな格好の上に、ずんぐりしたデザインの黒い耐環境コートを着込んで、玄関を出た。続く階段を降りて、灰から黒へ変わりつつある歩道へ一歩踏み出すと、砕氷菓子(クラッシュアイス)を踏みしめたような音が鳴った。ブランドンは顔を顰めた。歩道の一部が黒氷(ブラックアイス)化している。通常、冬場に出来るはずの薄い氷の膜が、なぜ夏の今に? 原因はおそらく、昨晩の極端な冷え込みのせいだろう。寒さで何度もベッドで目を覚ましたのを、ブランドンは思い返した。


 それにしても、黒氷(ブラックアイス)とは、なんとも縁起が悪い。これから電脳空間で仕事をするというのに……


 不快な湿気に顔を曇らせつつ、ふとブランドンは足を止めた。近くの停留所まで歩いて、市警庁舎行きのバスが来るのを待つべきか。それとも、経費でタクシーを呼ぼうか。どちらを選択しようか考えていると、視界の端に何かを捉えた。白い小さな猫が一匹、おっとりした足取りで、こちらに近づいてくるところだった。歩き方からして、どこか知性を感じさせるものがある。雨粒を無防備に浴びて毛が濡れているが、その白い猫は意に介さない様子で、ブランドンの足元にすり寄ってきた。野良猫にしては小奇麗すぎる。もし飼い主がいるのだとしたら、不用心にもほどがある。すなわち、猫であって、普通の猫ではない。それはブランドンにもわかった。


「ブランドン・ブリッジスさん」


 まるで古くからの知り合いのような親しみを込めた、大声。視線を足元から上げると、反対の歩道に人がいた。オレンジ色の耐環境コートをすっぽりと着込んでいる、四十代と思しき男性だ。その派手な色と、人通りの少なさも相まって、完全に浮いていた。


 男は、なんの後ろめたさもない様子で信号無視をして横断歩道を渡ると、少しの遠慮も感じさせることなく、水溜まりを避けながらブランドンへ歩み寄ってくる。あきらかな作り笑いを浮かべて。


 ブランドンはただちに警戒した。と同時に、少々相手を低く見積もった。男がやろうとしているのは、情報引き出し法(プル・ゲット・アウト)の基本――『笑みを浮かべて相手の警戒心を解け』だ。ただし、作り笑いでは意味がない。初対面の相手の警戒心を解くには、目尻に皴が寄って、口角がはっきり上がるくらい、本気で笑みを浮かべなければならないのに、男はそれが出来てない。ブランドンはそれを見抜いていた。


「《オーツ―メディア》の電脳記者(ブルシッター)です」


 平坦な顔つきの男は、首元から吊り下げた顔写真入りの報道許可証(プレス・ライセンス)をこれ見よがしにかざす。これさえあれば、どれだけ相手の心を土足で踏み荒らしても、なんのお咎めもないのだと誇示するように。


「いまギャロップ・ギルドから出てきましたが、暫定捜査官に任命されたというのは事実ですか?」


 ブランドンは答えず、足元でちょこんと座る白い猫を見た。薄茶色の大きな瞳をブランドンへ向けながら、栗のような鼻をヒクヒク動かしている。鼻から横に伸びる白いヒゲが震えたかと思いきや、猫の体のあちこちに、折り目が出現しはじめた。役目を終えようとしている証拠だ。次第に、猫の体が、まるで見えざる手で折り畳まれていくかのように、小さくなっていく。徐々に三次元的な厚みを失くし、ペラペラ、パタパタと、地面の上で手のひらサイズの紙細工へと変化する。


 やっぱりなと、ブランドンは得心する。《式神シリーズ》にラインナップされている、メリアデス・グループ製の《封言呪符(ウエハース)》。有機生命体の《匂い》を記憶させることで、対象者を追跡することができる。感染呪術(ヴァイラス)の応用だ。


「(おおかた、前の部屋に忍び込んで、匂いでも嗅がせたんだろう)」


 《白い探偵(ラングド・シャ)》は当初、認知症患者の徘徊行動への対処として普及したが、一方ではストーカー殺人にも悪用されはじめている。本来なら販売規制をかけるところだが、メリアデス・グループは都市公安委員会へロビー活動を行い、法案成立を妨害していると専らの噂だ。


湾港工業地帯(ベイ・ファクトリー)で死体が見つかった事件について、なにかひとことコメントをいただけないでしょうか」


 答えない。答える義理もない。ブランドンは足早にその場を去り、停留所へ向けて歩き始めたが、放浪者(クローラー)は物乞いのようにぴったりと後をつけてくる。


「殺害されたピートさんについて、なにかひとことありますか?」


「…………」


「別れるまで共にいたとのことですが、なにか変わった様子はありましたか?」


「…………」


「暫定捜査官に任命されたなら、なにか情報をお持ちのはずだ。私たちジャーナリストには、それを知る使命がある」


 なにをいっちょ前のことを――心の中で毒づいた。まさに放浪者(クローラー)にして回遊鮫(クローラー)。心が流す血の匂いをどうにか嗅ぎつけようとする電脳記者(ブルシッター)相手には、無視を決め込むのがいちばんだ。


「どうして先ほどからダンマリを決め込んでいるんですか」


「…………」


「なにか話せない事情でも?」


「…………」


「やっぱり、市警と取引でもしたのですか?」


「……なに?」


 バカ、応えるな――理性が呼びかけるも、本能が抑えられなかった。足を止めて振り返ると、放浪者(クローラー)が、ようやく餌に食いついた魚を見るような目つきで続けた。


「《フォーラム》で噂になってますよ。《殴られ屋》の食い扶持が悪いから、今回の事件に協力するのと引き換えに、市警に戻るつもりなんだってね」


 どうせ、お前らがあることないこと、勝手に書き立てているだけだろうと食ってかかってやりたかったが、ブランドンはぐっとこらえた。相手の土俵に完全に乗るわけにはいかなかった。それに、どうせ何を言ったところで、こいつは聞く耳を持たない。


「中層の人たちがそれを知ったら、どんな気持ちになると思います? 遺族のお気持ちを考えたことはあるんですか?」


 ブランドンは、指が白くなるほど拳を握り込んだ。もし次に、この無礼な放浪者(クローラー)がなにか余計なひとことを口にしようものなら、勢いそのままにぶん殴ってしまうのではないかと、自分で自分が恐ろしく思えた。


「遺族のお気持ちを考えたら、とうてい、市警に――」


 意気揚々と言葉を口にしかけたその時、通りから激しいクラクションの音。見ると、大型バッテリー搭載のパトカーが一台、すぐ脇につけている。運転席側のスモーク・コーティング・ガラスがゆっくりと下りる。


「ブランドン暫定捜査官、ここでなにをしている」


 サスカッチ・ブライトバーン。制服の上から、市警の紋章が刺繍された、白い耐環境コートを着込んでいる。その氷のような青い目に見つめられて、ブランドンはわずかに心が竦む思いがしたが、心なしか、声に若干の気遣いが感じられたのが意外だった。


「あんた、どうしてここに……」


 まさかの登場にあっけにとられている様子のブランドンを前に、バーンは、さも当然のように答える。


「迎えに行こうとしていたんだ」


「俺のか?」


「ほかに誰がいる。この雨でバスは遅れているし、タクシーだって捕まらんぞ……ああ、安心しろ。キンバリーは同乗していないからな」


 作り笑いを浮かべて、バーンは最後にそう付け加えた。ますますブランドンは呆気に取られた。それでも、張りつめていた緊張の糸が、いくぶんか緩んだのを確かに自覚した。バーンの作り笑いは、放浪者(クローラー)のそれよりも不器用で下手くそではあるが、ずっと気遣いの込められた笑みだった。


 しかし、ふっとその笑みが消えた。


「おい、そこの君」


 バーンは眉間に深い皴を寄せると、電脳記者ブルシッターへ鋭い一瞥を寄越した。運転席側のロックを解除して、ドアを足で押すように開く。


 コート越しにもわかる太く立派な二本の足が、のっそりと雨に濡れる歩道へ降り立った。バーンの身長はゆうに二メートル近くもあった。体格としては全く申し分ない。巨鯨に遭遇した鮫が息を止めるように、放浪者(クローラー)が押し黙る。


「急いでいるんだ。取材なら市警の窓口を通してくれ……さ、早く乗ってくれ。ブランドン暫定捜査官」


 ブランドンは餌のひとつも投げて寄こすことはなく、さっさと助手席へと乗り込んだ。それにバーンが続いて、その巨大な体を器用に座席シートへ収めてから、ドアを勢いよく閉めた。後ろ脚で水溜まりを蹴る四足獣類の如き速度で、パトカーを走らせる。


 バーンがサイドミラー越しに後ろを伺う。不躾な電脳記者(ブルシッター)は、まだ歩道に立っている。しわくちゃに丸めた紙屑のような笑み。嗤っていた。相も変わらず不気味な奴だ。奴の顔を眺めていると息がつまりそうになる――比喩のはずが、本当にそんな気分に陥ってくる。


 バーンはフードを片手で上げて留め具を緩めると、見るからに太く頑丈そうな首元を解放しながら、つい先日まで知らない仲だった男へ同情を寄せる。


「朝っぱらから、めんどうなヤツに絡まれたな」


 口火を切られるとは思ってなかったのか。ブランドンは目を丸くしながら応じた。


「知っているのか?」


「カズサ・オオムラ。《オーツ―メディア》第二報道部所属。ちょこちょこウチの周辺を嗅ぎまわっているヤツだ。厄介払いしても平気で噛みついてくる。だが、しょせんは小物だ。腕利きじゃない。ちょっと大きく出れば、ああやって何も言い返せなくなる」


「助かった。ありがとう……もう少しで、アイツをぶん殴るところだった」


 思わず本心が漏れた。仮にも現職の警察官を前に、軽々しく口にして良い台詞ではない。そのことに後で気づいて、しまったと、ブランドンは恐る恐る横目で様子を伺った。


 バーンは、小鳥が背中に止まったのにも気づかない大猩々(ゴリラ)の如き表情でいる。


「《殴られ屋》をやっていた時の反動じゃないか」


 大猩々(ゴリラ)が、林の中から一歩踏み出すような調子で言った。


「……なに?」


「人間は環境に慣れる生き物だが、それでも限度ってものがある。それが仕事とはいえ、殴られ続けて心身が健康なままでいることのほうが珍しいものだ。実行に移すかどうかは別として、ガス抜きで人をぶん殴りたくなる気持ちも、わからんではない」


「それ、本気で言っているのか?」


「さぁてね。どっちだと思う? ちなみに、この車に搭載されているドライブレコーダーには、録音機能はついてない。それが答えってことにしてくれ」


 冗談とも本気ともつかない、じつに判断に困る台詞を真顔で口にしてくるものだから、ブランドンは適当な相槌を打って誤魔化すことしかできなかった。それから記憶を遡り、初対面の時に受けた、冷たい鉄のような印象を思い返す。あの時に感じたものは幻だったのか。だが、いまこうして喋っていると、そこまで気難しそうな人物にも思えない。ある程度は会話に乗ってくれるかもしれない――少なくともキンバリーよりは。そう結論付けた。


「仕事抜きに、実際に人を殴ったことはある」


 試しにそう口にしてみると、バーンは「へぇ? 誰を?」と、とくに咎めることもなく、興味津々といった具合に食いついてきた。


「ミハイロヴィッチだ」


「本当か! こいつはケッサクだな!」


 《仰天小樽(クッキークラッカー)》が炸裂したかのような声。ブランドンが、その広い肩をびくりと震わせた。


「ちょっと詳しく聞きたいぞ、その話」


 バーンは、くっくっくと喉の奥を締め、ブランドンの他に同乗者はいないというのに、囁くような調子で話の先を促す。


「あの曲者の昼行燈を殴っただって? こりゃあ驚きだな。さすがは俺の目を盗んで現場に不法侵入しようとしただけのことはある」


「……なんというか、その、意外だ」


「ん? なにがだ?」


「アンタって人は、その、もっと冷酷な人間だと思っていたよ」


「ああ、よく言われる。人との会話でこんなに笑うのも久々のことだ」


 バーンが目尻には皴が寄って言った。


「そこまで喜怒哀楽がはっきりしたタイプじゃないからな。学生時代に別れた恋人からは、なにを考えているかわからないと言われたし、子供からはよく怖がられる。なにせ、この体のサイズだからな。今の時代には刺激が強すぎる」


「やっぱり、フル・サイボーグなのか?」


「ご明察。そういう手合いを相手にしたことは?」


「二回か、三回くらいだな。だが、あんたほどの大柄な人とやりあったことはない」


「いまじゃ希少種さ。《カセット使い》とは真逆のな」


「どうやって人間性を保っているんだ。普通の特殊検診じゃないんだろ?」


「べつに大したことはしちゃいない」


 ステアリングホイールを、そのがっしりとした大きな掌で無骨に切りながら、甲羅のような肩をすくめて言う。


「薬を飲むのはもちろん、医者からは、定期的に映画を見たり本を読んだりしろって言われてるよ。その感想を書いて提出するのが、検診に含まれている。これがなかなか面倒でな。面白かったとか、つまらなかったとか、ひとことで済ませるんじゃなくて、自分がどのシーンを見たり読んだりしたときに感動したかを詳しく書かなきゃいけないんだ」


「本か……」


「本は読むほうか? あんまりそういうタイプには見えないが」


「最近、人から借りたんだ」


「ほぉ。なんてタイトルの?」


「灼熱の丘」


「知らんなぁ。面白いのか」


「まだ読み進めてない」


「そうか。読み終わったら貸してくれよ」


「別にいいが……相方から借りたらどうだ?」


「キンバリーは本も読まないし映画も見ない。仕事一直線の人間なのさ。まったく、面白みに欠ける奴だよな?」


 同意を求めるように、バーンが不器用に笑いかけてきた。こちらも笑っても良いものなのか、すぐに判断がつかず、ブランドンは間の遅れた相槌を返すので精一杯だった。


 しばらくの無言。だが気まずい雰囲気ではなかった。


 車体がB区からA区へ続く鉄橋に差し掛かったところで、だしぬけにブランドンが口を開く。


「ところで、その、相方はどうしたんだ」


「別の事件の捜査に駆り出されている。また殺しだよ。C区で五人の湾港労働者の遺体が発見されてね。結構ひどい状態らしいが、キンバリー曰く物理殺人(ハンド)らしい。片付いたら、すぐにこっちの捜査に合流し直すと言っていた」


「いくつ掛け持ちする気なんだ……」


「本人としちゃ、気力体力尽き果てるまで、とことんやるつもりだろうな。でも安心しろ。ピート氏の件が最優先であるのは変わらない……理想を言えば、事件の中身で優先順位なんかつけるべきじゃないんだろうが、なにぶん市警(こっち)も人手不足だからな。だから、ギャロップ・ギルドには感謝している」


「それだけじゃない」


 この場にいないキンバリーの心情を見抜いているかのように、ブランドンは言う。


「俺が絡んでいるから、なんだろう?」


 バーンは答えなかった。と同時に、それが答えでもあった。


「ブランドン暫定捜査官。なんとなく気付いているだろうが……四警(ヨンケー)内には、君個人に対して複雑な感情を抱いている者が多い」


 少し言い淀んでから、バーンがありのままの事実を口にする。


「君も知っての通り、最下層で発生した事件は四警(ヨンケー)が担当する。中層は三警(サンケー)、上層は二警(ニケ)、最上層は一警(イッケイ)が。層が違えば住む人が異なるように、層間の情報共有が常に為されているとはいえ、四警(ここ)三警(あっち)では、所属する警察官の意識には大きな違いがある。だが、都民はそうじゃない。都民は『市警』という大きな括りで組織を見る。誰かひとりの手に鈍輪ニビワがかけられたら、それが市警全体のイメージとして社会に浸透する。当時の市警の対応に問題がなかったと言えば、それは厳密に言えば違うだろうよ。それでも、あの中層市民大量死事件が……《血の祝祭事件》が、ひとつの契機になったのは確かだ。我々が守ろうとしている人々からの信用を、逆に失ってしまったという契機を生み出すには、十分すぎる事件だった」


 責め立てるような口調ではなかった。純粋に事実を列挙しているだけなのだろう。


「君が暫定捜査官に任命されたって話は、すでに他の部署でも共有されている。反対の声が多いのは事実だ。だが、食って掛かってくる連中をかたっぱしから論破する奴もいてね。誰がその先頭に立っていると思う?」


 思わせぶりな口調。ブランドンは、驚きと疑念が入り交じった視線をバーンに向ける。


「まさか」


「そのまさかだ」


 バーンが、しみじみと口にする。


「ギャロップ・ギルドのエージェントたちが使う驚異的な技能と比べれば、キンバリーも俺も凡人の域を出ない。だが、アイツも俺も警察官だ。この都市の治安を司る機関に身を置いている人間としての心構えは出来ているつもりだ。君に対して、アイツはたしかに複雑な感情を抱いているが、だからといって理性をないがしろにしているわけじゃないんだ。わかってくれるか?」


 にわかに信じがたい気分でいると、ややあって、バーンが諭すように言う。


「君はアイツを誤解している。ま、誤解されるような言動をするアイツにも、問題があるが」


「……前から気になっていたが、なんだか、古くからの付き合いがあるような口ぶりだな」


「同期なのさ。最下層(ここ)のスクールで顔を突き合わせて以来の腐れ縁。もう二十年以上経つか。ありきたりな言い方をすれば、戦友ってことになるな」


 フロントガラスの枠の中に、濁った空模様を反射させる鱗仕掛けの味気ない塔が、するりと潜り込んできた。そのタイミングを待っていたかのように、バーンが青い瞳の奥に硬結晶のような力強さを灯らせて、神妙な面持ちで口を開く。


「ミスター・ブランドン。これは警察官としてではなく、ひとりの人間としてのアドバイスなんだが……辛抱強さも大切だが、ときには声を上げ続けなきゃいけないときもあるってことを、忘れないでくれ」


 ブランドンはうんともすんとも言わず、この大男の小さな口から、言葉という言葉が溢れてくるのを、耳朶で受け止めるに徹した。毒の霧雨を浴びるのは勘弁願いたいが、このどこか人間臭い機械仕掛けの巨人の言葉を浴びるのとなれば、価値にずいぶんな差があると思わざるをえなかった。


「愚者は舌で語り、賢者は瞳で語る……なんて言い回しもあるが、それも時によりけりだと俺は思う。この都市は、霧深い山も同然だ。うっかり山を登るためのロープを失くしてしまっても、黙っていちゃ、誰にも気づかれない。誰も、君の胸の内を知ることはできない。声を上げなければならないときに出くわしたら、声を上げ続けろ。たとえ喉が裂けて血が滲んでも」


 言葉の放流が終わり、パトカーが四警(ヨンケー)の庁舎前に着いた。


「ありがとう。バーン刑事」


 ドアを開けてパトカーを降りる直前。感謝の言葉と共に差し出された生傷だらけの手を、巨人の分厚い片手が、頼もしいロープを掴むように握り返した。





 ▲▲▲






 市警が保有する夢棺(コフィン)は、庁舎の五階にあつらえられた専用スペースに、それこそ名称由来の石棺のごとく、整然と配置されていた。地下の死体安置室(モルグ)が現代様式の墓地であるなら、さしずめここは、むかしむかしの映画(ホロ)でよくお見かけする、古典的な趣のある死臭なき墓場だ。


 市警専用というだけあって、一般のそれと比べると付帯設備は充実している。それに加えて、本体にインストールされているアプリケーションの類が、どれも厳重な審査にクリアしたものばかりであるという点も特徴的だ。万が一に備えての外部オペレーター機能を享受できるという点も。


 事前の検診を三十分ほどかけて終えてから、ブランドンはバーンと別れた。交代でやってきた技師に案内されるがまま、着替えを終え、一基の《夢棺》の前に立つ。すでに電源は点いていて、スタンバイ状態に入っている。


 夢棺(コフィン)のデザインはいたってシンプルだ。白いトンネル型HMDと、光沢を放つ直方型の台座といった構成。台座の下部からは、束になって伸びる太いケーブルがある。床を蛇のように這っていった先で連結している相手は、付帯設備たる自律神経計測機器(チャネライザ)だ。


 技師から手渡された専用の通電潤滑剤(ウェット)を、うなじのオス型マルチ・スロットに塗り込む。圧縮空気の抜ける音に次いで、強化プラスチック製の蓋が完全に開き切るのを待ってから、ブランドンはスリッパを脱いで夢棺(コフィン)の台座に腰掛け、ゆっくりと仰向けになった。薄いリネンの生地越しに、冷たい金属板の感触を背中で捉えつつ、頭部をトンネル型HMDへ潜らせる。技師がどこからか有線ケーブルを取り出し、そのうちの片方を、HMD備え付けのメス型端子へ、慣れた手つきで結線(ワイヤード)。もう片方をブランドンのオス型マルチ・スロットへ差し込んだ――首筋に氷の礫を押し当てられているような緊張感――蓋がモーター低音を一律に奏でながら下りてくる。外部との肉体的接触は、これで完全にシャットアウトされた。


 技師がスイッチを操作。足元の吸気口から薄い白煙が昇ってきた――睡眠導入剤――適宜噴霧。


 ――通電開始


 鼻の奥がツーンとする感覚に襲われ、刹那のうちに消え去ると、眼前に被さる湾曲型スクリーンに、突如としてグリーン・カラーのコード群が出現。


 ――プログラム・NR・実行(ラン)――


 この時、技師たちはコンソールに手を触れていない。緊急事態の際に、その生まれついての五本指のデバイスでマニュアルに切り替えて対処に当たるだけ。プログラムの管理と実行は、夢棺(コフィン)に積まれたAIがオートで行う。


 瞼が急激に重くなってきた。次第に眼球運動が遅延し、脳波の活動も低下する。自律神経計測機器(チャネライザ)が映し出す脈拍、血圧、呼吸の波グラフ。どれも正常範囲を維持。誤差0.01%。全身の筋肉はブランドン自身の意志の下で統制されている。いまは、まだ。脳の周波数は、晩夏の浜辺に刻まれた足跡を撫でるように、淡く、さらい続けている。


 ――プログラム・R・実行(ラン)――さざ波観測――


 脈拍、血圧、呼吸の波グラフが、次第に不規則な凹凸を繰り返し描いていく。閉じられた瞼の裏側では、静止していたはずの眼球が急速に暴れ出し、股間のあたりも異様なほどに屹立している。妙齢の女性技師が、おもわず凝視。


 ――(ラン)突入――シータ波を検知――


 自律神経計測機器(チャネライザ)が無言で告げている。見た目にはわからないが、いま、ブランドンの肉体の内部では暴風雨が巻き起こっているのだと。気管支が収縮と拡張を繰り返し、呼吸は浅く深くなる。血流はジェットコースタ―さながらの軌道を描き、神経という神経が恒星の瞬きじみて連動し合い、いよいよもって大脳皮質と一体化した電脳基盤(サーキット)が本格的活性化を遂げ――プランク・タイムのうちに不可視の発散。そして収束。


 二十一グラムの魂が、その精神のすがたかたちが信号の化身となって電子の世界へ旅立つのと引き換えであるかのように、ブランドンの肉体から、重力に抗う力が完全に消え失せた。肉眼では検知不可能な筋肉の完全静止を自律神経計測機器(チャネライザ)がスクリーンに表示した時、台座の上に横たわるのは、ブランドンの姿をしただけの肉の器にほかならない。


 人類が生まれながらに抱える、欲望という名の三つの病。大陸間戦争以前まで娯楽化の手が伸びていなかった、三大欲求最後の砦たる『睡眠』を、都市の住人たちは電子科学的パワーの名の下に制御することに成功した。


 そうだ。


 電脳空間への没入(ジャック・イン)は、夢を見ることに、どこか似ている。


 死者の亡霊が出現することのない、夢を視ることに。





 ▲▲▲





  ジェームズたちは顕れず、代わりにどこまでも伸びる影だけがある。それが己の影でなく、飛ばされた先の空間が描き出す闇であると、彼の精神が知覚した刹那、閃光のつむじ風が暗黒のカーテンをずたずたに切り裂いて、幾何学模様の空間を目の前に顕現させた。


 そこは、立体化した方眼用紙の世界だった。没入地点(ジャック・ポイント)にしてはかなり味気ない風景。それも当然だ。ここは言わば、大広間に繋がる前室。《フォーラム》へ続く扉を開くには、パートナーの到着を待たねばならない。


 どれだけ見渡しても、仮構物(オブジェクト)ひとつとして見当たらない。空間は正常化されており、ブランドンの《アバター》にフィードバックされている嗅覚は、これといった匂いを感知しない。靴底で軽く足元を叩くと、カンッ、と音が鳴った。


 新たに目覚めたばかりの視線を周囲に向ける。上も下も、右も左も、緑の線が規則正しく縦横無尽に貫いているだけの、無限に等しい電平線を有する白い空間。その中心にぽつんと佇むブランドンの《アバター》は、ダークスーツ一式にまとめ上げられている。現実(リアル)の季節を考えるならありえない服装だが、現実の気象法則は、ここではなんの意味も為さない。


 犯罪捜査を名目に活動する警察官ないしそれに準じる機関の人間が《フォーラム》へ直通潜行するのは、原則制限されている。仮想身分捜査(フェイント・パトロール)とはいえ、匿名の名前と仮初の肉体を持つのは、捜査関係者だけではないからだ。潜行したポイントの足跡から、何者かの逆探知を受ける可能性だってある。


〔おっせぇぞ。待たせ過ぎだ〕


 不満を煮詰めたような、人の声。聞き覚えのある声。電子の法則に従って、若干の反響を伴っている。ブランドンに先んじて、パートナーは到着していたようだ。


 振り返ると、背の低い少年が立っていた。この世のあらゆる出来事を、見て、聞いて、触れるまでもなく、それらすべての価値を己の中で相対化している者の目。賢者のまなざしと表現するには冷笑が強すぎて、傍観者にしては決意の光が強すぎる、そんな黄昏色のまなざし。


〔……ナヴィ・ストライダー?〕


 まじまじと、フルネームでブランドンは問いかけた。電脳空間では、有志たちが無料配布している改造(モッド)アバターを導入することで、性別や年齢を操り、程度の差はあれど、外見が現実(リアル)から逸脱している者がほとんどだ。現にブランドンも、市警が限定配布している公式の改造(モッド)アバターを導入して、その見た目は労働に喘ぐ生真面目な公務員、といった風体に変化している。


 しかし、ナヴィ・ストライダーはタコである。それが人語を理解するタコであろうと、タコであることに変わりはない。電子世界の法則が絶対とはいえ、身体を操作する感覚は、ここでも生きている。であるにも関わらず、彼が人間の《アバター》姿でいることに、彼自身がたいして違和感を覚えていないとするなら、これは通常ありえないことだ。


〔(たぶん、ミハイロがなにかしらの調整をしているんだろうな)〕


 元・上層の研究機関に所属していた彼のことなら、タコの身体機能と人間の身体機能を電脳空間で合一化するような改造(モッド)を施しても、おかしくはない。そう、ブランドンは結論付けた。


〔ここじゃあその名で呼ぶのはよしてもらおうか。ウォルト・プロテクトだ。そう呼べ。ギルド協会にもそれで登録してあっからな〕


 少年は電子の床を踏みしめてブランドンへ近づくと、見上げて言った。


〔ハンドルネームか〕


 ブランドンは値踏みするように、ナヴィ・ストライダーことウォルト・プロテクトの姿を視認した。紫を基調とし、渦巻を模したワッペンの刺繍されたオーバーサイズのスタジャン。その前は無造作に開けられて、黒いインナーの隙間から、薄い鎖骨を覗かせている。履いているのはテック系の素材感を意識してデザインされた、白のスケーターパンツ。足元はダンクシューズ。ストリート・スタイル。どことなく、ピート・サザーランドの姿を彷彿とさせるものがあった。違うのは、電子の繊維で編まれているかそうでないか、という点ぐらいだ。


〔視姦とは、趣味がワリぃな〕


 棘のある口調。亀裂(グリッチ)の入った仮構物(オブジェクト)を一瞥するような目つきをブランドンへ向けてから、ウォルト=ナヴィはおそろしい速度で右手の五指を――どう見ても人間のそれにしか見えない、骨張った五本のデバイスを――ピアノでも弾くように中空でなめらかに走らせた。ジェスチャー・スイッチ。プリセット済のアプリ【跳歩(ウォーク)】を立ち上げ、目的とする《フォーラム》のエンター・ポイントを記述していく。ウォルトの両足の踝付近に、赤い幾何学模様が小さな渦を巻いて現れた。


〔ぼさっとすんな。さっさと()()()


〔待ってくれ。事前の打ち合わせはどうするんだ〕


〔打ち合わせだぁ?〕


 エラー・コードの修正をするのに的外れな提案を投げて寄こす電脳工作者をたしなめるような口調で、ウォルト=ナヴィは言う。


〔聞き込みをするのはお前の役割だろ。お前の仕事をオレにやれってのか?〕


〔そんな言い方はないだろ。ビジネス・パートナー発言は嘘だったのか?〕


 少々ムッとしてブランドンは言い返した。タコの姿をしているときは、どれだけなじられても平気だった。そういう奇妙な生き物として認識しているだけで良かった。ところが、これが人の姿を借りて、それも自分よりかなり年下の少年姿になった途端、言葉のひとつひとつがいちいち癪に障るのだ。


〔とんでもねー勘違いをしているようだから、ひとつ言っておいてやる〕


 ウォルト=ナヴィが、ハエの仮構物(オブジェクト)を追い払うように左手を振った。渦を巻く幾何学模様が足元から消える。目的の《フォーラム》へ行く前に、きっちり説明してやろうというのだ。己の考えというやつを。


〔オレたちはパーツだ。オレたちだけじゃない。この都市を構成するすべての人間が、パーツのようなもんだ。タコも人間も無意識のうちに、それぞれに与えられた役割を毎日こなして、なんとか生きてる。組織も同じだ。それぞれのパーツが与えられた役割をこなすことで、組織の歯車はなめらかに(・・・・・)回る。つまるところパーツは、自らに与えられた役割を全うすることだけに傾注していりゃいいんだ。オレの役割は、本来なら情報の蒐集と防衛だが、今回はお前というつまらない男の護衛をしなきゃいけねぇ。気に食わねぇがな……〕


〔護衛以外の仕事をするつもりはないと?〕


〔だからそう言ってんだろ。不服だが、まぁ協力はしてやってもいい。前も言ったが、これがビジネス・パートナ―って意味さ。オレはオレの役割を、お前はお前の役割をこなせばいい。単純な話じゃねぇか〕


〔いままでも、そうやって仕事をしてきたのか?〕


 ブランドンの言葉の裏にある感情を機敏に読み取ると、ウォルト=ナヴィは得意げに胸を張り、なにも後ろめたいところなどないと主張するように口にする。


〔オレが電脳工作の専門家(エキスパート)としての地位を確立できたのは、そいつの習得のために努力を続けてきたからさ。それ以外のなにかに時間を割いていたら、ここまでの能力は得られなかったかもしれねーな〕


〔自分勝手な努力だな。自分が良ければ、他人がどうなろうと構わないのか。そんな奴がチームで動くギルドの電子担当者とは、恐れ入るよ〕


〔オール・フォー・ワンってことを言いてぇのなら、そいつも間違いだ。みんなはひとりのために。なるほど御大層な言い分だ。だが、そのひとりってのは、本当にみんなの力で助けてやらなきゃいけないほど、か弱いのか? だったらはじめから必要としてねーぜ。それとも、お前のいた組織は、か弱いひとりのためにその他大勢の仲間が犠牲になるのを美徳とする組織だったのか?〕


 過激なほどのストイック発言を耳にして、ブランドンは不安な心地になった。《炎と祈りの交流会》への聞き取りが上手くいくかどうか、という点ではなく、この歯に衣を着せない物言いの人物(・・)と、この先同じチームとして上手くやっていけるかという不安。あまりにも価値観の背景(バックボーン)が違い過ぎた。キンバリーとは異なる理由で、やりにくい相手だという印象をブランドンは持った。それを拭い去るには、大変な困難が伴うだろうということも。


〔ウチのギルドはプロのパーツで構成されている組織だ。誰も彼もが一流だ。オール・フォー・ワンなんて、そんな泣き言はここじゃ必要としてない。組織は、いままでうまく回っていて、とてもなめらかだったんだ。だが、そこにお前という半人前のパーツがやってきた。それが気に食わねぇのさ。ここまで言ってやらなきゃわかんねーのか?〕


 言いたいことはすべて言い終えたとばかりに、ウォルト=ナヴィが軽くブランドンを一瞥しながら、ジェスチャー・スイッチ。再び踝付近に顕れた赤い幾何学模様の渦を踏み台にでもするように、とん、とその場で軽く跳んだ。


 電子空間における飛翔――上から光学迷彩のカーテンでも降りてきたかのように、たちどこにウォルト=ナヴィの姿が消えた。


 先が思いやられる――ブランドンは、ウォルト=ナヴィほどのなめらかさからは程遠いジェスチャー・スイッチで、足元に【跳歩(ウォーク)】を立ち上げた。


 エンター・ポイントを記述していきながら、口の端から漏れ出た重い溜息。それを仮構物(オブジェクト)としてその場に残しておくほど、電脳世界は優しくなかった。

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