3-13 悪魔の男《ディアブル・ダンテ》の歴程
「ナノマシン?」
「そうだ」
「すると君は、初公判の前に受けた特殊検診で、血中のナノマシンをすべて除去されたってことか」
「そうだ。あり得ないって思うか?」
「いや、むしろ驚いているくらいだ」
口元を隠すように握り拳を作ると、眉間に人差し指を当てながらミハイロは考え込んだ。
「重度糖尿病患者に対する透析のようなものだと思えば、ナノマシンの完全除去も時間はかかるが可能だ。もし万が一、完全除去が出来なくとも、体内総数が界に対して少なければ自然消滅してしまう」
それからミハイロはすっかり黙り込んでしまった。沈黙が場を支配するが、その空気に耐えられなくなったかのように、ブランドンは会話のボールを投げた。誰かが拾ってくれることを期待して。
「エンブリオ・ナノマシン。通称EN。血中に投与することで作用する生体用ナノマシンだ。内分泌系および自律神経系の制御や強化、それに免疫システムへの自己認識機能付与を経て、半永久的な恒常性の安定化を実現する。科学警邏研究所が民間の協力を得て、数年がかりで開発に成功した代物だ」
「被験者テストの際に、担当者からそう説明されたの?」
ブランドンの右隣で、それまで大人しく話を聞いていたエックス……エクセリア・シルバーラップが身を乗り出し、会話のボールを拾って投げ返してきた。
「術前説明を受けたのはたしかだ。場所は市警屈指のセキュリティ・フロア。録音や撮影、資料の持ち出しやコピーも、外部への流出に繋がりそうな要素はすべて排除されていた。物的証拠は、いまはなにもない。俺の言葉を信じてもらうほかない」
【へぇ、せいぜいボロを出さねぇように気をつけな】
その場にいる全員の脳内に、反響を伴わない、空気のように透明でいて、しかし聞く者の心象を悪くするのは確実と見えるダミ声が響いた。その言葉の意味するところを、すなわち声の主たるナヴィこと知性あるタコの忠告であると受け取った者は、少なくともこの場にはひとりもいない。
「そのENを投与された被験者と、フル・サイボーグの違いは? フル・サイボーグも、恒常性把握のための自己診断プログラムを備えていたはずだけど」
またもやエックスが訊いてきた。ブランドンはお礼とばかりに、できるだけ受け取りやすいような返球を試みた。この綿毛のような女に対しては、なぜか自然とそうしてやりたい気分にさせられるのだ。これはブランドンにとっても不思議な感覚であり、同時に一抹の寂しさと懐かしさを覚えた。ピートと共に過ごしていた頃のことを不意に思い出しかけるも、記憶で感情が刺激されないよう自制を心がけるのを忘れなかった。
「たしかに、フル・サイボーグも自己診断プログラムを走らせれば、内分泌腺の活性や血中の栄養状態を把握することは可能だ。そう、あくまで把握だ。自己診断プログラムで体に異常が見つかったら、専門機関で適切な治療を受けなきゃならない」
と、そこでエックスの対面に座るアイリスが何かしらの気付きを得たように、「そっか」と、ポンと両手を軽く叩いた。
「お金も時間もかかる特殊検診をパスして身体管理ができるだけじゃなく、専門機関に頼らなくともナノマシンの治療を受けられるっていう点は、たしかにフル・サイボーグと比較したら大きなメリットになるか」
「俺に投与した担当官いわく、ENの画期的なところは、恒常性のバランスが崩れる予兆を感じたら、把握ではなく、修復を実行する点なんだそうだ。だから、身体は常に最良の状態を保つことができる。短距離の世界ランナーが長時間トップスピードを維持し続けるようなものらしい……あとは、リスク回避の意味もあると言っていた」
「リスク回避?」
「侵襲型のフル・サイボーグ化技術は、被験者の人間性を喪失させてしまうリスクがある。だからゼロベースでやるなら、いちから新しい技術を開発してしまえば良い。そっちの方が開発コストも安く済む、とかなんとか。そういう研究目的の下でENは生まれた」
「恒常性のバランスを整えるっていうのは、ひとことで要約すると『ものすごく高いレベルで体調管理を整える』って意味でしょ?」
「そうだな」
「体調バランスを半永久的に安定化できる環境が体内にいるナノマシンの力で得られるなら、被験者は不眠不休のワーカーホリックにも、なろうと思えばなれちゃうわけ?」
「ああ。EN投与された身体が、安定してエネルギーを外部から補給できる環境にいる限り、恒常性のバランスは保たれるはずだからな」
「どういうこと?」
エックスが質問を投げてきた。ブランドンは応える。
「食事などを介して吸収したエネルギーをENが消費して、異常のある内臓や血管系、内分泌腺系を修復するってことだ。そうしたENの特性を考えれば、投与された人物が不眠不休の労働に従事できるのも、無理な話じゃない。父親の政治劇に俺が巻き込まれただけ、というセンを抜きにして考えるのなら、機動警察隊に所属していた俺が被験者に選ばれたのも、ENの研究目的を考えれば納得がいく。それぐらい当時の自然公園跡地は、こっちの生活リズムなんて関係なく混沌に蝕まれていたからな」
「ふーん。ねぇ、その公園跡地にかつてない混沌をもたらした謎のフル・サイボーグ男ってのは、結局何者だったの?」
アイリスが、またもや質問を投げた。ろくにフォームも決めずに会話のキャッチボールをしているように見えるが、ブランドンが彼女からのボールを取りこぼすことはなかった。というのも、アイリスの口から出る質問のすべてが、ブランドンのプライベートな領域の埒外にあるものばかりだったからだ。知識と推測を動員すれば、返答に窮することはない。それを承知のうえで、アイリスは質問を放り込んでいる。
これは情報引き出し法の友好的応用だ――ブランドンは直感した。昨晩、ミハイロが自分に仕掛けてきたのと同様、対象の心を刺激してやることで、こちらの情報を引き出そうというのだ。アイリスはENについての見識がないことを逆手にとり、教えを乞う学生のような立場になることでこちらに優越感を植え付けている。ただし、こちらがうっかり口を滑らせることは、期待していない。そのことはブランドンもわかっていた。ミハイロの時と比較すれば、質問の鋭さは幾分も和らいでいるのはたしかだ。あくまでも、仲間として行動を共にする上での情報共有、ブリーフィングの一環であると、他ならぬアイリス自身がそう認識しているのだ。
だがじつのところ、警戒心や余計な緊張感をブランドンが抱かずに済んでいる最大の理由は、アイリスが好奇心という名の灯を掲げているのがわかったからだ。単にENについての知識を深めたいという欲求が最初にあるのだ。
「続報はないな。跡地があんな状況になってしまっては、調査どころではなくなったようだ。男の遺体は市警が回収したっきりでね。さすがに今も安置室にあるとは思えないが」
「まったく迷惑な話ね」
アイリスが鼻息荒く口にして、椅子に背を預けながら腕組みした。
「じつは、私の祖母もヘパイストス育ちなのよ」
「そうなのか?」
「ええ。でも私自身は、子供の頃からずーっと最下層に住んでいるんだけどね。両親の仕事の関係で……って、そんな話をしたいんじゃなくて、つまりね、中層域はどうだか知らないけど、最下層には、その、よくいるのよ。自分の力を見せつけたくて、無謀な腕自慢をしたがる人たちが」
「ああ」
「ブランドンさんならわかるでしょ? 生物工学手術の特殊検診を済ませたばかりで調子が上々の客とか、手に入れたばかりの《テック・カセット》を試したくてウズウズしている客とか、そういう人たちからの挑戦を受けていたわけよね?」
「一部にはそういう人たちもいたな。そのフル・サイボーグも似たような動機で、つまり力試しが目的で公園跡地の秩序を荒らしたと?」
「だって、それ以外に理由が見当たらないもの。おおかた、どこかの《フォーラム》で実況配信する予定だったんじゃないかしら。小銭稼ぎのために。だとしたら、すごい迷惑な話じゃない?」
「その人のこと……」
ブランドンの真正面。それまで黙りこくっていたルル・ベルが、俯き加減で呟きを落とした。食器のぶつかる音に掻き消されてしまいそうなほどに細い声だったが、全員の視線がそちらへ注がれた。その所作だけで、ブランドンは、このギルドにおける彼女の立ち位置がわかった。若手ながら、優れた実力を持つ可憐なエージェントに、ミハイロはじめ、エックスもアイリスも首ったけなのだろう。
だが、彼らの視線を集めている当人の表情はといえば、手持ちの知識や経験を総動員しても決して解けそうにはない難問に巡り合ってしまった受験生のように強張っている。
「その男性のことを、ブランドンさんは恨んでいますか?」
「恨む?」
思わず怪訝な表情になった。予想外の角度からボールを投げ込まれて、会話のミットを掲げるのが遅れた。そのせいでボールはあらぬ方向へ飛んでいったが、ブランドンはボールの奇妙な軌道そのものよりも、ルル・ベルがなぜそのような会話のボールを投げ込んできたのかの方が気になった。
「その人が余計なことをしなければ、いまのブランドンさんは、違った人生を歩んでいたはずです」
ルル・ベルが再び俯き加減になった。不自然に声が震えている。緊張しているようにも見える。
出会ってまだ数日しか経ってないブランドンに、いまの彼女の心境を推し量るすべなど持ち合わせてはいない。だから仕方なく会話のボールの意味とかたちを取りこぼさぬよう拾い上げては、まじまじとそれを見つめ、どのような軌道を描いて返してやれば良いか、自分なりに考えてやる必要があった。
「たしかに、あの奇妙な事件がなければ今頃どういう人生を送っていたか、考えなかったといえばウソになる。もしかしたら俺は今も警察官を続けていて、妻や息子とも仲良く中層で暮らしていたかもしれない」
でも、とブランドンは続ける。
「結局はいまと何も変わらなかったかもしれない。あの事件を起こさずとも、俺はどこかでなにか重大なヘマをやらかしていたように思うんだよ。親父の本性にいつか気づいて、警察官を辞めていたかもしれない。妻とは、なにか別のことが理由で別れていたかもしれない。息子からは、愛想をつかされていたかもしれない……そう、かもしれない、だ」
ありえたかもしれない過去について無造作に口走ることで、それが現在という名の足場をぐらつかせるだけのパワーがあるかというと、そうではないとブランドンは考えている。つい先日までの自分がそうだったように。
「その男を恨んだところで、なにも変わりはしない。関係がありそうでないようなところに目を向け続けても、いまの俺の立場が劇的に変わるわけじゃないからな」
ついぞブランドンは、自分でもよくわからない軌道で会話のボールを投げ返した。ルル・ベルが、それをキャッチしてくれたかどうかは、わからない。彼女は石のように押し黙ったまま。残りの朝食にも一切手をつけようとはしなかった。
と、そこでアイリスが「ごめん、ちょっと気づいたことがあるんだけど」と、ルル・ベルに気を配る視線を送りながら右手を上げては、ブランドンへ確認を取るような口調で言った。
「さっきのENの話、とくに『不眠不休の労働を可能とするほどの恒常性安定化』ってくだりで気づいたんだけど、それってなんだかFOそのものじゃない?」
ブランドンの口から、偶然にも月の裏側を見たような声が漏れた。これまでにない会心の音を響かせて、会話のボールがグローブのど真ん中に収まった。
「もしかすると、ENはFOの試験的な役割を担うことを目的に開発された技術……というか、FOの基盤技術に使われているのがENなんじゃないの?」
アイリスの口ぶりには慎重さがあったが、ブランドンは驚きと感心さを抱いていた。と同時に、いちばん見た目とのギャップが激しいのが彼女である、という認識を獲得しているぐらいだ。どこか近寄りがたい、神秘性の片鱗すら感じさせる風貌とは裏腹に、ざっくばらんに意見を口にする性格。直情的な部分もありつつ、どこか冷静な直観力も併せ持つ。火と水が同居しているようなその性格には、素直に興味を覚えた。
「その通りだ。FO技術にはENの開発が大きく絡んでいる。確固たる証拠はないが、少なくとも、そう俺は睨んでいる」
「筋は通っているわね。話を聞いている限りでは、全く無関係の技術同士ってわけではなさそうだもの」
エックスが真面目な顔つきで言った。柔和な雰囲気は相変わらずだが、声には思慮深さが込められていた。
「最下層で暮らす労働者たちにとって、最大の資本は身体。身体機能の著しい向上と、文字通りの不眠不休で動ける強靭な肉体の存在は不可欠。夜街や湾口工業地帯で働く人たちにとって、それが当たり前になったのはFO技術が適用された六年ほど前から。ブランドンさんの件があったのが七年前。時期的には符合するところがある。疑問に感じる部分もね。まず、ENがFOの基盤技術に使われていると仮定するなら、ブランドンさんと同じ症状に襲われた人が最下層にいてもおかしくないはず。でも、少なくともそんな話は一度も聞いたことがない。少なくとも私はね」
「そうね。私も聞いたことない」とアイリスが同調する意思をみせた。「それに、FO技術ってレーヴァトール社が独占しているんじゃなかった? なんで市警の科学研究部門が開発した技術を、企業が平気な顔して使っているの? 都市公安委員会と企業連合体って、バチバチにやり合っているんじゃなかったっけ?」
【データ漏洩が起きたんだろ。それしか考えられねぇだろうが】
泡をぶくぶく量産しながら、唐突にナヴィが透声を撒き散らして割り込んできた。そのぶっきらぼうな口調からわかるのは、自分も議論の輪に入れてくれという欲求ではなく、モタモタした会話を先に進めたくて我慢ならないという苛立ちから来ているように、ブランドンは感じた。
【市警のサーバーに毎日どれだけ多くの輩が攻撃してると思ってんだ。その中に腕利きの工作員が混じっていたって驚かないね。パスワード解除に電子的欺瞞の破壊。優れた解読能力を持つ工作員を企業側が雇っていたなら、相手が市警だろうとどこだろうと、気取られないよう用意周到に立ち回ることのひとつやふたつ、出来るだろうよ】
これに反応したのは、長考の沼に嵌まっていたミハイロだ。彼は椅子の背もたれに肘を預けると、頬を指でかきながら言った。
「仮に市警のサーバーからEN技術を盗んだとするのなら、レーヴァトール社が、それをそっくりそのままFO技術に転用しているとは考えにくいな。仕様に細かい改造を加えている可能性が高い。そのまんま使ったんじゃ特許法に引っ掛かるし、訴訟のリスクも跳ね上がる。書類上の審査に引っ掛からないように、顧問弁護士や外部委託先の法律事務所と結託して、FO技術にENの影も形も残らないように、書類上はいろいろと手を込んだ作りになっているはずだ」
あらかた喋り終えると、ミハイロはコーヒーを全て飲み干し、両手を揉むような素振りをみせて、ブランドンの様子を伺いつつ訊いた。
「それにしてもだ、ブランドン。君は、どこでそんな気付きを得たんだ? いや、違うな、いったん時系列を整理するか。裁判が終わってからのことを話してくれ。できるだけ、要点をかいつまんだかたちで」
「わかった」
深く深呼吸をしてから、残り少ないオレンジジュースを一気に飲み干し、ブランドンは記憶の轍を辿り始め、ボールを投げる先を見定めた。
「裁判終結後、俺は被害者遺族に会おうとした。だがそれは叶わなかった。遺族への心理的影響を考慮して、市警が俺に対して接近禁止命令を出していたからだ。裏で親父がいろいろと手を回しているんだろうってことは推測がついた。だから接近禁止命令の解除と、自分に投与されたENの明確な情報を文書形式で入手するために、俺はまず上層へ向かった」
「まだ階層間移動緩和法が制定される前だぞ?」
「その時点では、俺はまだ市警に籍が残っていたんだ。裁判が終わった後で知ったんだが、ずっと休職という扱いにされていたようだ」
「親父さんが職務復帰の手続きをしていたのか。至れり尽くせりってやつだな」
「スーツをクリーニングに出せば汚れが完全に除去されたものだと、親父はそう思っていたんだろうよ」
忌々しい記憶をどうにか掘り起こしながら、ブランドンは続けた。
「俺は単刀直入に要求をぶつけた。接近禁止命令の解除請求と、事件の前の晩に俺の身体に何を打ち込んだか、はっきりさせてくれとな。初公判前の特殊検診で取り除かれた体内成分に関するデータが手に入れば、それは確かな証拠が手に入ったも同然だからな」
そこで、ブランドンは目を伏せた。
「だが、俺の気持ちとは裏腹に、親父は怒り狂っていた。お前が知るべきことはなにもない――そればかりだった。親父にしてみれば、やっとの思いで無罪にしてやった息子が、今度は恩を仇で返すような行動に出たんだから、不服に思って当然なのかもしれないがな」
「結局のところ、親父さんは接近禁止命令を解除して、ENについても洗いざらい白状したのか?」
ミハイロの質問に、ブランドンは顔を上げ、乾いた声で笑った。
「実の息子に怒鳴られて尻込みするようじゃ、市警の上澄みを啜る要職には就けないさ。あの男は、結局のところ何も話さなかった。ありきたりな表現だが、失望したよ。俺は俺の身に起ったことを、何も知らされないままなのかって……」
ブランドンは唾を呑み込み、想いの丈を吐き出すように言った。
「俺は、ただ知りたかったんだ。とにかく知るべきだったんだ。自分の身に何が起こったか。司法も警察も俺の経歴を漂白するのに必死だったが、俺の肉体に得体のしれない穢れが打ち込まれたのは確かだ。その穢れの正体を明らかにしなければならなかった。そうまでして初めて、俺の償いが始まるんだと考えていた。だがどれだけ訴えても、親父は決して聞き入れてはくれなかった。それどころかセキュリティを呼んで、俺を家から締め出した。俺がこの都市に来て、十歳から十五歳まで暮らした家からな」
ルル・ベルも、他のエージェントたちも――そしておそらくはナヴィも――じっと話の続きに耳を傾けている。
「門前払いを食らったその足で、今度は科学警邏研究所へ向かった。診断カルテの写しを手に入れるためだ。とっくに処分されている可能性はあったが、とにかく行ける場所にはどこにでも行こうという気分だった」
「それは大事な心掛けだ。結局は足で稼ぐというのに尽きるからな。それで?」
「骨折り損に終わった。申請は下りなかった。市警本部から俺の端末に連絡が入ったのは、そのタイミングだ。今日付けでの懲戒免職を言い渡された」
「それも、親父さんがやったと?」
「十中八九、そうとしか考えられない。親父にしてみれば、スーツのクリーニングは完璧に上手くいったという心持ちだったんだろうな。だがスーツ自身が金輪際着られることを嫌がったら、処分するしかない。俺を家から追い出してすぐ、人事部に金を掴ませて、クビを切るように命じたんだろう。機動警察隊の小隊長という肩書を剥奪された俺に対しては、二十四時間以内のバッジ返還と、一ヶ月以内の転層命令が下された」
「大人しく従ったのか?」
「そうでなきゃ、また刑務所にぶち込まれるだけだからな。だが、それでも俺はやるだけのことはやっておこうと思って、最下層に下野する前に《フォーラム》にアカウントを作った。匿名の世界で、洗いざらい白状するために」
「白状もなにも、親父さんからENの情報は手に入れられなかったんだろ?」
「《フォーラム》で白状したのは、ENについてじゃない。俺の身元についてだ」
「なに? なんだって?」
これには、さすがのミハイロも素っ頓狂な声を上げた。他のエージェントの面々も、言葉にならないといった面持ちでいる。八つの視線を受け止めながら、構わず、ブランドンは話を続けた。
「事件が起きて裁判が始まり、そして終わるまで、俺の姓名は報道規制が敷かれて完全に伏せられていた。第三警邏部門に所属する警察官としてしか報道されなかった。機動警察隊の名はどこにもなく、年齢も性別も伏せられていた。あれだけの事件だったにも関わらず、公正を重んじるという言い分で傍聴は非公開扱いにされた。その一方、事件を引き起こした要因は市警と長年関係のある自動車メーカーの点検不足にあるという論調を、法廷の内外で醸成させていった。親父が当時蹴落としたいポジションの人物が、その自動車メーカーの重役と懇意にしていたというのもあった。あの男は、俺の経歴を漂白し、敵を蹴落とすためならなんだってやった。俺は、それがもう我慢ならなかった。だから、俺が真犯人だと《フォーラム》で名乗り出たんだ」
「そういう経緯があったとは、知らなかったよ……で、君はなけなしの勇気を振り絞ったわけだが、君の狙い通りには事が運ばなかった」
「ああ。まったく俺は、つくづく間抜けな奴だ」
見立てが甘かった。まさにその一言に尽きた。あの日、車に乗っていたのは誰か? その正体を己の口から話せば、世間の人々は自分を正しく糾弾し、《血の祝祭事件》の顛末を追求するためにメディアは動くはずだと、そう愚かにも確信していた。
だが、彼を待ち受けていたのは、獰猛で酷薄な中層世界の牙だった。市警の権力を前に《オーツーメディア》の電脳記者はかしづき、ブランドンの言葉のすべてを無視した。そのことがますます中層都民たちの心に怒りの薪をくべる結果になった。正義を遂行しないことに対する怒りではなく、根底にあるのは、自分たちに都合の良い最大公約数の真実を公表しないことに対しての怒りだ。
メディアや市警に対する信頼は地に堕ち、ゴシップ漁りの放浪者たちは巧みにブランドンの配信内容の文脈の前後を切り取った。中層の《フォーラム》のあちこちで、ブランドンの発言が断片化されていった。彼の訴えは使えるコンテンツとして無闇に使い倒されていき、出所不明の妄想じみた陰謀論にも枝葉を自然と伸ばしていくなかで、中層都民たちの中で真実ではない事実が形成されていった。
ブランドンの人格と尊厳を徹底して踏みにじる匿名の刃が、千変万化の勢いで生み出されていったのは、ごく当然の成り行きだった。道を歩いている途中、いきなりコトダマ式の簡易呪符を打たれて、呪力を帯びた『言葉の刃』に衣服をズタボロにされたこともあった。法が罰しないのなら俺たちが罰するとばかりに、個人に向けられる社会的正義という名の暴力は過激さを増していった。
「法律が罰してくれないのなら、社会的な制裁を進んで受けるしかない。誹謗中傷の数々をぶつけられるのは、覚悟していた。だが、そればかりだとは想定もしていなかった。誰かが動いてくれると信じていたんだ。誰かが、俺の言葉を受け取って、この事件の裏で何が蠢いていたかを突き止めてくれるんじゃないかと期待していた。でも俺の配信は、人々の日々の鬱憤を晴らすためだけに消費された。《フォーラム》では建設的議論は為されず、俺に対する誹謗中傷はエスカレートしていき、やがてその矛先が家族へ向けられた段階にきて、バカな俺はようやく悟った。選択を誤ったことを」
中層都民の怒りの対象は個人から家族へと広がった。自宅が特定された挙句に、不審者が投げ放った火炎瓶で窓を割られて放火されかけたこともあれば、息子の通学路で金属バットを片手に待ち構える者たちまで現れた。
その暴力的なサイクルに飲み込まれてしまったが最後、ついに彼の妻は息子を連れて家を出ていった。状況に耐えられなくなったから、というよりも、裁判を終えてからのブランドンが、無気力にも近い状態で家にいることに、心底失望したからだった。
――自分の人生は、自分で引き受けるしかないのよ。
それが、かつて心の底から愛した人が最後に残した一言だった。
妻子と別れてから一か月後、世間から、卑劣な手練手管で無罪を勝ち取った《悪魔の男》と渾名され、現実でも電脳世界の《フォーラム》でも散々にいたぶられたブランドンは、中層での生活を手放し、都市の階段を下りて、地の底の果て、すなわち最下層へとたどり着いた。
「そこで、ピート・サザーランドと出会った」
「あいつには本当に助けられた」噛み締めるようにブランドンは言った。「ピートに出会ったのをきっかけに《殴られ屋》の仕事を始めてからは、いろんな客の相手をした。そうした毎日を送っていたある日、奇妙な客に出会った。その男は背広を着たスカウトマンで、初めから様子がヘンだった。視線があちこち忙しなく動いて、野次馬たちをなぜだか恐れていた。対人恐怖症にでも苛まれた風だったが、それでも、グローブを渡して挑戦が始まれば、すぐに俺をぶっ叩くのに夢中になった。試合中は問題なかった。問題が起こったのは、試合が終わってからだ」
「何があったんだ?」
「グローブを外せなくなったんだ。あまりにも騒ぐから、しょうがなくピートが間に入って、男の手からグローブを引き抜いた。それでも男は、グローブが外れていないじゃないかと喚き散らした。男が奇妙な慌てぶりを見せていくうちに、野次馬の何人かが笑い声をあげた。すると男は、野次馬の方へ視線を向けて、『いま笑ったのは俺だ!』と口にした。『誰だ!』じゃない。『俺だ!』と言ったんだ。『俺がたくさんいる! 俺は都市そのものだ。プロメテウスとひとつになったんだ!』と絶叫して、泡を吹いてその場にぶっ倒れた。大騒ぎになったよ。でもピートが上手いこと立ち回ってくれて、駆けつけた警官に事情を説明してくれて、俺は事なきを得た」
「男はどうなった?」
「救急車に乗せられて、それっきりだ」
「やれやれ、重度の薬物中毒者の相手もしなきゃならんとは、やっぱり過酷な商売じゃないか」
「薬物中毒者……俺も最初はそう思った」
ミハイロの眉が跳ね上がる。
「男が口にしていた言葉の意味するところが、なにか引っ掛った。『プロメテウスとひとつになった』というあの言葉。まるで、自分の肉体の境界線が曖昧になっていって、精神に異常をきたしたような言動。あの事件の夜に俺が体験した感覚に近いんじゃないのかと思った。心臓がエンジンに置き換わって、吐息が排気ガスそのものになったような感覚。男のことを考えているうちに、それを思い出した」
それ以来、ブランドンは時間を見つけては、最下層の《フォーラム》に足を運ぶようになった。そこに入り浸っているうちに、彼は妙な人々の存在を知るようになった。FO技術を適用された労働者たちのごく一部に、日常生活を送るなかで、自分の身体が地面や建物と一体化してしまったような恐怖感を味わったことがあると告白する人たちの存在を。
「彼らは、かつて俺が経験した……そうだな、身体境界線喪失とでも言うべき症状に襲われていたんだ」
「ふむ、つまり……君が目撃したスカウトマンの症状と、《フォーラム》で集めた数少ない証言。そして君自身の経験から、FO技術はENを基盤にしている節があると、君は推測を立てたわけだ」
「そうだ。それに俺の調べた限りじゃ、最下層の労働者たちの就職先の九割以上が、企業連合体の首魁であるレーヴァトール社の関係企業だ。そこでは、入社後に福利厚生の一環として、FO技術の適用が義務付けられているはずだ」
「それなら、さすがにここにいるメンバー全員が知っているよ。FO技術が、この都市の電脳ネットワークを応用した技術であることも含めてね」
「だったら、この身体境界線喪失現象を、ミハイロ、あんたはどう見る?」
「おそらくだが、一時的なスタンドアローン状態ってやつだろう」ミハイロは眉間に親指を当てながら、会話のキャッチボールに集中した。
「企業は常に、自社が保有するサーバー内に保存されている優良健康状態の基準データと、従業員たちの体内環境情報をリンクさせている。それが、内分泌系や内臓系統、自律神経系活性化の自動化を可能としている」
「詳しいんだな」
「仕事柄、企業連合体の連中と付き合うこともあるからね。奴さんたちが毎年懸念しているのは、サーバーの保安費用が年々増加の一途を辿っていることさ。単純な人手不足からくるヒューマンエラー。それが原因でサーバーと従業員の生体リンクが切れてしまうという事態も、数自体は多くはないが、それなりにあったと聞いている」
ブランドンは神妙な面持ちでかぶりを振った。ミハイロの推測を否定するためではなく、むしろその逆だった。ここまでの推察を即興で披露できることに、正直舌を巻いた。
「リンクが切れて、該当者が長時間のスタンドアローンに陥ると、調整が上手くいかずに身体境界線に対する認知不協和が起こる……というのは、いささか考えすぎかな、ブランドン」
「いや、俺も同じことを考えている」
「うーん、でも」と、アイリスが少々納得のいってない様子で口にした。
「その身体境界線喪失現象、っていうの? それをブランドンさんが見たり聞いたりしたのっていつ頃なの?」
「俺が最下層に来てすぐの頃だから、六年ほど前になるな」
「逆に言えば、ここ最近はそういった話は出てないってことよね? ま、あのレーヴァトール社のことだから、圧力をかけて揉み消しているってパターンも考えられるけど、どうにも腑に落ちないわね」
「高情報洗浄」
唐突に、エックスがその一言を口にした。ほかのエージェントたちが、一斉に彼女を見やった。しかし綿毛のような雰囲気のエックスはそれに構わず、なにかを悟ったかのような目線をブランドンへ向けて所感を述べる。
「身体境界線喪失現象を見かけなくなったということは、レーヴァトール社がFO手術の被験者たちに対して、なにかしらの調整法を加えたってことじゃないかしら。そしてそれは、きっと 高情報洗浄が実施された時期と比較すると、符合するはず」
「高情報洗浄……企業が用意した、ただのレクリエーション要素としか認識していなかったけど。そうじゃないっていうのか? エックス」
「いや、ミハイロ。彼女の言う通りだ」
エックスの投げ放った会話のボールを、待ち望んでいたとばかりにブランドンがキャッチした。
「高情報量の映像作品を自主的に摂取することで、精神の安定化を図り、毎日の労働への意欲を高める。それが、レーヴァトール社の関連企業が従業員たちへ一律に実施している、高情報洗浄と呼ばれるもの。だが……」
「実態はそうじゃないって言うのか?」
ミハイロの問いかけに、ブランドンは黙って頷いた。
「あくまでも、俺の推測だがな。しかし、最下層の《フォーラム》に流れている確度の高い情報を統合してのことだ」
「ふむ。確度の高い情報……ね」
「企業側が配信する映像作品の多くをFOが消費するのは、単に娯楽のためじゃない。ENによって完璧な健康バランスを保つ肉体に対して、精神が負い目を感じないための工夫だ。視覚的娯楽から得る情報を、心の栄養として摂取しているんだ。しかしその本質は、労働者たちの心を徹底的に漂白して、都市行政に対する感覚を麻痺させているだけだ」
「ようするに、企業的な洗脳ってこと?」
自分で口にしておきながら、その安っぽいドラマのような響きを持つ専門用語に対してアイリスは、ぞわぞわした気分になりながら言った。
「ざっくり言えば、そんなところだろうな。レーヴァトール社は娯楽のプールに首輪を繋げた労働者たちを泳がせて、自由意志や思考力を洗い落としている。やつらが欲しているのは怠惰でも有能でもない、無能な働き者なんだろう」
苦虫を噛み潰すような心境でブランドンは口にした。父親のことを思い出したからだ。大罪を犯した息子の経歴をクリーンにするためにあらゆる手を尽くし、あらゆる罪を書類上のうえでは漂白しようとした。ブランドンの身体に残された穢れの残渣には目もくれず。そのような男が籍を置いていた組織が生み出した技術が、今度は企業の手でかたちを変えて最下層にはびこっている。
そこでは、肉体はおろか、精神のかたちすらも洗浄の過程を経て漂白されている。その事実に、薄気味悪さを覚えないほうが無理だった。
「つまり、アダムとイブの時代から連綿と続く肉体と精神の難問に、ひとつの回答をこの都市は出したわけだ」とミハイロは唸った。「肉体が過剰発展する科学技術で変化を遂げていっても、精神力が脆いままでは、真のメンタル・ヘルスには繋がらない。だったらいっそのこと、自由意志や強メンタルなんてものが、幻想であると都民に信じ込ませればいい」
「精神を肉体の奴隷とする方針を、この都市は選択したってわけね……よく考えると、とんでもない技術ね」と感心したようにエックスが言った。
「企業に所属してFO化手術を受けて、労働に最適化された肉体を手に入れて、その肉体に釣り合うように娯楽映像で精神の健康を保っている限り、将来への不安も、過去への後悔も、そして現在に対する閉塞感も、なにひとつ感じないで、ぬるま湯のような心地で生きていけるんだもの。ある意味では、天国みたいな技術ね」
エックスの客観的な意見を前にして、ブランドンは強く自制を働きかけることに意識した。大声を出して「それは違う」と否定したかったが。そうする代わりに、危惧を口にした。
「あんな技術、いずれは破綻がくる。おそらくFOたちは高情報洗浄を貪ることが、精神衛生の向上と安定化に繋がるよう設計されているんだろうが、人間本来の肉体と心の調和を誤魔化しながら暮らしているようなものだ。完璧な恒常性を保つ肉体にふさわしいレベルに精神的な強さを押し上げているんじゃなく、ただ心を漂白させているだけなんだからな」
「いろいろと貴重な話を聞けて、満足だ。辛い過去のことも含めて、話してくれてありがとう。君という人間がどういう考えの持ち主か、これでだいぶ把握できた」
会話のキャッチボールの終了。ミハイロが差し出してきた手を、ブランドンは躊躇いがちに握り返した。ここまで己の過去について話すのは、ピートに出会って以来だったから、随分と自分本位に話してしまったかもしれないと、若干の恥ずかしさがあった。
だが、そんな彼を励ますように、努めてミハイロは明るく言い放った。
「まぁ~~心配しなさんなって。ブランドン。ここにいる全員、君が毛嫌いしているFO技術の適用者ではないからね」
「それは、あんたと立ち合ったときに、何となく察してはいたさ」
「え、なになに? 立ち合ったって、なに? コーチ、まさか彼とやりあったの? どっち? どっちが勝ったのよ」
興味津々という様子で、おどけたファイティング・ポーズを取りながら男たちを交互に見やるアイリスを他所に、ミハイロが「よーいしょ!」と伸びをしながら立ち上がった。その背中をブランドンが目で追っていると、彼が壁のすみに置かれた事務机に向かうのがわかった。
「事件は生き物だ。それが、この事務所のモットーでもある。どこでどんな要素が絡まり合って複雑怪奇なしろものになるかは、誰にも予測できない。しかし、いまの君の話を聞いて、ぼくは確信した。ピート氏の身に何が起こったかは、事件捜査に関わっていくなかで少しずつ明らかになっていくはずだ。だがね、これだけは確かに言えるんだよ」
ミハイロはズボンのポケットから鍵を取り出し、事務机の抽斗の鍵を開け、慎重な手つきで、ひとつの小包みを取り出した。グレーの不透明ビニールで簡易包装されている。見た目は薄い長方形だ。ブランドンとエックスが空気を読んで、空になった食器をどかしてスペースをつくり、そこにミハイロが小包みをゆっくりとした手つきで置いた。そして、ブランドンの目を見据えて口にした。
「君は、やはり巻き込まれるべくして、この事件に巻き込まれた……そいつの解析はまだ進んでいないが、危険性については事前にぼくの方でチェック済みだ。大丈夫。見るだけなら安全な代物だ。いまのところはね……さぁ、開けてみてくれ」
促されるかたちで、ブランドンはビニールの開封にとりかかった。ミハイロが貼り直したセロファンを剥がし、箱を目にした。真っ白な箱だった。幅と大きさからいって、女物のネックレスを梱包するのに適したサイズと言える。
箱には肉筆の手紙が同封されていた。手紙の内容を読むより先に、その見覚えのある筆跡を目にした瞬間、ブランドンはルル・ベルの方へ確かめるような視線を投げた。ルル・ベルもブランドンを見て、無言で小さく頷いた。その小包こそが、彼女が初めてブランドンに出会った際に伝えた荷物の正体。生前のピート・サザーランドがギャロップ・ギルド宛てに送ったという、いわくの品物だった。
ブランドンは鼻から息を吸い込んで呼吸を整えてから、手紙をテーブル脇に置くと、箱の中身を検めた。収められていたのは二つ。ひとつは、黒いチップ上のメモリーカード。そしてもうひとつ。バッテリー式の超小型冷却保管筒に収められたそれを見て、ブランドンは言葉を失った。喘ぐように呼吸を繰り返しているうちに、酸欠に陥りそうな錯覚になりかけるも、どうにかして感情を制御することはできた。それでも、地下の祭壇で邪悪な捧げものを垣間見たような気分だけは消えなかった。いましがた、エージェントの面々に向かって口にしていた過去の破片が、たしかなかたちを伴って、前に進む決意を萌芽させつつも、未だに過去の出来事にどうケリをつけて良いか逡巡する男の喉元に、鋭く短刀を突きつけてきた。
「君の身体に打ち込まれたのは、それだろう?」
ミハイロの問いかけに対して、ブランドンは、なぜこれがこの場にあるのか、強い疑問を火炙りのように浴びながらも、心の中で「そうだ」と肯首した。
マイクロフリーザーのラベルに記載された符牒――『Embryo Nanomachine A.W.85.7.9』の文字列に、ブランドンはしばらくの間釘付けになった。




