表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プロメテウスに炎を捧げよ  作者: 浦切三語
3rd Story ザ・ポリフォニック・バベル
120/130

3-12 煉獄の追憶

 口の中はカラカラに乾いていた。


 空調を効かせているにも関わらず、車内は依然として蒸し暑かった。焦りからか、ステアリングホイールを握る手に自然と力が入った。力にはさまざまな感情が込められていた。焦燥と憂慮と、心の奥から湧き上がる、怒り。市民の安全と平和を守る警察官が抱くには、相応しくない負の感情。


 手汗で(ぬめ)る両手を制服の裾で乱暴に拭ってから、ブランドンは再びステアリングを握り直した。車載電波時計は、夜の八時三分を表示していた。フロントガラス越しに、ショッピング・センターの大通りを右へ左へと談笑しながら行き交う人々の姿。街路灯が放つイルミネーションが、有象無象の表情なき顔を忙しなくライトアップしていた。


 中層都民の歩みは腹立たしさを覚えるほどゆっくりだ。そのせいで、フロントガラス越しの視界は窮屈なままだ。大通りの警備をしていたのが、十分前。緊急無線を受け取り、警察車両へ急ぎ乗り込んでから、何メートル前進できたかわからない。舌打ちをしたくなる気分を発散させるように、何度も、何度も、ひたすらにクラクションを鳴らした。それでも、牧羊犬に追い立てられる羊のような素振りを群衆がみせることは、ついぞなかった。


 角膜を覆うコンタクト・デバイスが、先ほどから絶えず連絡を寄こしてきていた。視界にオーバーレイ。縦列表示。応援部隊と指揮官の到着を命懸けで待つ、各隊員のバイタル・データ。波打つ緑が、フラット・ラインの赤に変わらないのを願った。必死に願った。悪夢が現実のものとならないことを、ブランドンは必至に願った。苦楽を共にしてきた仲間たちが、あの忌まわしき公園跡地の土くれになることだけは、御免被りたかった。


 ヤーパーグリーン都立自然公園跡地に異変が生じたのは、十日前のことだった。いや……異変という意味では、とっくの昔に発生していた。


 大陸間戦争後の荒廃を辛うじて免れた自然環境の一部を、公園化という名目の下に保護しようという都市の一大プロジェクトは、公園の土に撒かれた重金属類分解作用を持つ人工菌の汚染と、上層の汎用生物繁殖施設を襲った事故に伴う乱染獣――遺伝子編集された実験動物の総称――の脱走が重なったことで、終焉を迎えた。人々に戦前の自然の豊かさを享受するはずだった巨大な『楽園』は、狂暴な異形獣類たちの『楽園』となった。恐ろしい獣たちは、自らの排泄物で都市の景観を塗り潰していったのと同時、ひとつの規範をも生み出していたことを、市警はすでに認識していた。


 階層化――プロメテウス育ちならではの、プロメテウス流の規範。階層化のトップに君臨した乱染獣は、人語を操る人面怪馬の一頭。それが荒廃した公園跡地において、孤高の支配者として君臨していた。


 市警にとって嬉しい誤算だったのは、怪馬が、その絶大な力で他の獣たちを従わせるのではなく、駆逐しはじめたことにあった。種ではなく個の保存本能からくる強烈な排他性が、怪馬の生存戦略の根幹を成していたためだ。


 当時、跡地一帯の警備を任されていたのは、最下層の治安維持を主目的とする機動警察隊(クリミナル)においても、市警幹部候補生から構成される第一〇四治安維持中隊の面々だった。中隊の第二小隊長に配属されてから七年経過していた当時のブランドンにとって、この仕事はキャリアの通過点でしかないという認識だった。


 ハードさでいえば、組織犯罪対策部で電脳世界や呪術世界の取り締まりに駆けずり回っていた頃の方が、よほど勝っていた。なにせ、警戒すべきは怪馬ただ一頭の動向だけで済んだからだ。そして、その怪馬にしても、自らのテリトリーを無用に侵さない限りは、人類の生存圏を脅かそうという意志は見受けられなかった。


 ゆえに、やりやすい、楽な仕事と言えた。なんなら、向こうが人間の言葉を話せるのであれば、その見た目のおぞましさに囚われることなく、和平合意(コントラクト)を結ぶ道もあって良いんじゃないか。なにせ奴は、都市の流儀と婚約(コントラクト)しているんだからな――警戒中にそんな軽口を部下たちに叩いていたブランドンの心境は、この時の多くの市警たちが持ち得るものだった。


 跡地の勢力図が突如として塗り替わったのは、十日前の晩のことだった。怪馬の死骸が発見されたのだ。病死でも事故死でもない、殺人ならぬ殺馬。なにかしらの爆薬で殺されたのだ。他の乱染獣たちの仕業ではなかった。状況が強く物語っていた。下手人は、怪馬のすぐそばで息絶えていた。


 人間だった――それも、中層住まいの者ではなく、最下層のフル・サイボーグ、ただひとり……


 現場検証を担当した警察官たちは、その事実に驚愕した。たしかに怪馬は凶悪な存在だが、機動警察隊(クリミナル)の精鋭をぶつければ、多少の損害には目を瞑るとしても、駆逐できない相手ではない。だが、人間ひとりの仕業となると、話が変わってくる。


 フル・サイボーグなど、いくら最下層とはいえども、そう多くはない。市警上層部は直ちに、この下手人の身元を明らかにするのと同時、事態の全容把握に乗り出そうとしたが、そうも言ってられない事態が起こった。


 怪馬の死をきっかけに、公園跡地の各所、および各階層の無人地帯――廃棄されたスラムや、再開発計画が頓挫した区画――に隠れ潜んでいた乱染獣たちが、息を吹き返したかのように現れ、『楽園』の覇権争いを始めたのだ。支配者の喪失に始まる秩序の混沌化が、領域の外、すなわち中層都民の生活区域に激甚の影響を与えることは、少なくとも怪馬の怪死よりかは、容易に想像がついた。


 予想だにしていなかった角度から、ブランドンの仕事はハードさを極めた。


 怪馬の死が公的に確認された翌日、つまりブランドンが二十八歳の誕生日を迎えたその日。彼と、彼の率いる小隊の標準装備は火急の見直しを計られた。のみならず、当時は試作段階にあった《ある秘薬》の被験者テストに参加させられることになった。


 旧来式の機械化工程ではなく、生化学方面における人体の内的改造手段のために生み出されたその《ある秘薬》は、定期メンテナンスという条件付きで、被験者の内分泌系や自律神経系、代謝経路の活性化によって、恒常性の強度を半永久的に向上するというのが、謳い文句だった。特定の個人ではなく、人間の生物としての立ち位置を強化することを目的とした、新時代の産物。軍事技術と医療技術のミックスは、ブランドンに勇気と力を授けるはずだった。


 ところが、彼は酩酊にも近い状態に陥っていた。視界が次第にぼやけはじめ、動悸も激しさを増す一方だった。


 あの薬だ。あの薬のせいだ――原因のありかに感づいた瞬間、車輛の中でハンドルを握り締めている自分を、彼は呪った。そこはまるで、移動する牢獄も同然だった。


 バイタル・データが無機質な平坦を描く様を見ているのが、辛くてたまらなかった。それなのに、目の前を横切る人々は祝祭に浮かれ、いまヤーパーグリーン都立自然公園跡地でどれだけの惨劇が発生しているか、知ろうともしない。


 ちくしょう――ブランドンは唇を嚙み締めた。


 ふざけるな――滲む血もそのままに、眼前の都民らを睨みつけた。


 それは、無意識の挙動に近かった。


 もたらされたのは完璧な恒常性ではなく、著しい肉体の不調。そこに、コンタクト・デバイスが突きつける数値上の無慈悲な現実と、生の視界に映る()()()()()()()()とが混然一体となって合わさって、連日の疲労感も重なって摩耗しきっていたブランドンの精神に襲い掛かった。かつてこれまで経験したことのない強力な外的ストレスが、市警としての誇りと責任感だけで薄く防護された意識の閂を破壊するのに、そう時間はかからなかった。


 にこやかに笑う少女が、大通りを横切ろうとしていた。


 それが、認識の断崖で目撃した最後の光景だった。


 果てのない汚濁に飲み込まれた意識の底で、ブランドンはまるで、自分自身が車輛と一体化したような錯覚に陥った。全身を焼き尽くすような熱が身体の奥で迸り、真っ白な吐息を獰猛に吐き出し、肉食獣めいた唸り声をあげて疾駆した。


 鋭い轍を刻みながら、アスファルトの地面を削り取りとっていった。賑わう大通りはあっという間に阿鼻叫喚の地獄絵図になり、渦巻く非業の声が、遠い木霊のようにブランドンの耳朶を打った。


 タイヤに擦られて変色した肉片が車道に飛び散り、無惨にもげた腕や脚が街路樹に突き刺さり、吹きあがる血糊がぶちまけられたペンキのように、フロントガラスへ降りかかって。


 ――今度こそブランドンの視界を完全に閉ざした。





 ●●●





「気づいた時には、あたりは血の海だった」


 手元のオレンジジュースが入ったコップへ昏い視線を落として、ブランドンは告解を続けた。


「自分が何をやってしまったのか、理解するまでに時間はかからなかった。そう、理解はできた。納得には至らなかったが」


 そして、今でも納得はしていないんだ――その言葉を吞み込んで、ブランドンは続けた。


「駆けつけてきた同僚の刑事たちに、俺は取り押さえられ、そのまま連行された。取調室で見せつけられたドライブレコーダーの記録が、なによりの証拠だった。レコーダーに映っていたのは、間違いなく俺の運転する車輛だった。」


 ひとたび思い出せば、暗鬱とした気分になるのはわかっていた。ブランドンは燃えるような口の渇きを癒したくて、オレンジジュースの入ったコップを反射的に口へ運んだ。都市最下層で収穫された薬品まみれの果物を原料とする液体は、薬漬けにされた過去を持つ男の肉体に染み渡るも、心を癒すまでには当然のこと、至らない。都市の歴史に刻まれた犠牲者たちの墓標には、ただ汚染された重金属酸性雨だけが降り注ぐ。


「ヤーパーグリーンで、部下たちは都民を守るのに精一杯力を尽くした。自分たちの血を代わりに流すことで、記念すべき祝祭日が都民の血で染まるのを防ごうと必死だった。そのことは、俺がよくわかっているさ。簡単に死んでいい奴らじゃない。みんな、優秀な部下だった。だが、よりにもよって部隊の長が、彼らが守り抜こうとした都民たちを死に追いやっていたんだ。こんな笑えない話が、現実にあったことだと、ミハイロ、あんたは信じるか?」


「ひとまずはね」


 コーチ・ミハイロヴィッチはトーストの耳のあたりを前歯で削るように食べながら、ちらりと窓際の水槽へ目を向けた。水槽の主たる電子工作員タコは老木の影に隠れたっきり、姿を見せないでいる。


「ほかのみんなはどうか知らないが、少なくとも僕は信じるよ。この商売、まずは人を信じるところから始めないと、ジリ貧になっていくんだ。で、都民の大量殺戮に意図せず関わってしまった君は、起訴されたというわけだ」


 ブランドンは黙って頷くより先に、ミハイロの口が先を促すように動く。


「しかし、判決は無罪。そしてどういうわけか、当時の検察官は控訴を棄却した。まったく不思議なこともあるもんだ。プロメテウスの検察官は、ムクヘビのようにしつこい性格をしている奴らばかりだと思っていたからね」


「回りくどい表現だな」


「そうかな?」


 とぼけたように頭の後ろを掻くミハイロに対して、ブランドンは軽く溜息をついた。


「あんたが何を言いたいのかは、おおよそ察しが付く。俺が、裏取引をしたんじゃないかって話だろう?」


 その手の根拠なき疑惑を向けられることはとっくに慣れていると口にする代わりに、ブランドンはミハイロを見つめた。それから、ルル・ベル、アイリス、エックスと、続けてエージェントたちの表情に視線を配った。誰も彼もが、ブランドンの過去を耳にして、どのように水を向ければ良いかわからず、困惑しているのが見て取れた。


「はじめに言っておくことがある。俺は裏工作になんぞ手を染めていない。ただ、当時の法廷の場で、公正な手続きがあったとは言い難い。俺は……あの場ですべてを暴露するつもりだった。拘置所じゃ、そのことばかり考えていた。弁護士に相談して、第三者機関の特殊検診の結果を公表しようとしていたんだ」


「君が被験者テストで打ち込まれたという、《ある秘薬》のことをか?」


「そうだ。拘置所にぶち込まれたときは、まだアレが俺の体に悪影響を及ぼし続けていたからな。俺の身体感覚は逸脱の兆候を見せていた。あの車輛を運転していた時と同じ、身体と外部との境界線が曖昧になっていく感覚。自分を閉じ込めている檻や、鉄格子の一本一本が、まるで俺の肋骨や足の骨に思えてくる、奇妙な一体感……あの薬の影響が尾を引いているんだってことは、すぐに理解できた」


「しかしネットで資料を漁ってみたんだが、君の証言のどこにも、その《ある秘薬》とやらについての具体的な供述はなかったぞ」


「当たり前だ。喋る前に潰されたからな」


 ブランドンがそう言って苦笑を浮かべた拍子に、ミハイロの眉根がピクリと動き、アイリスが目を眇めた。エックスが驚いたように口を小さく開け、ルル・ベルは真剣な表情で耳を傾けている。


「俺はヘパイストスの生まれだ。幼少期をそこで過ごした。俺が十歳の時に、両親の離婚がきっかけでプロメテウスに移住してきたんだ」


 突然の身の上話。だが横槍を入れてくる者はひとりもいない。


 ブランドンは密かに安堵した。ここ数年、誰かに自分の過去を語る機会さえなかった彼にしてみれば、話を聞く姿勢を見せてくれただけで、嬉しいものがあった。満たされない想いを慰めて欲しいわけではない。ただ、己の身に何があったかを聞いてもらう。人は時に、それだけで心の均衡を取り戻すときがある。


「親父はヘパイストスの警察官だった。臆面もなく言ってしまうが、親父は、俺の憧れだったんだ。あの人は、立派な警察官だった。少なくとも昔はな。いまは尊敬の念なんてすっかり失われちまったが……それでも、あの頃の俺の気持ちに嘘偽りなかったんだ。そう信じたい」


 ブランドンは再びオレンジジュースで唇を潤してから、もう何年も会ってない父のことについて話し始めた。


「昔の自分の気持ちを、信じたい……?」


 ルル・ベルがか細く呟くように言った。その囁くようなリフレインをそれとなく察しながらも、ブランドンは状況を先に繋げるために、身の上話を続けた。


「ヘパイストスの元・刑事部長というキャリアを引っ提げてこの都市に移り住んでからも、親父は順風満帆な警察人生を送り続けた。第三警邏部門(セクション・スリー)からはじまり、上層を守護する第二警邏部門(セクション・ツー)へ。派閥の中で支持基盤を固めながら、いよいよ第一警邏部門(セクション・ワン)の重要ポストの任についた。俺が事件を起こしたのは、ちょうどそのタイミングだった」


「ハメられたって可能性は?」


 アイリスがベーコン・エッグの最後の欠片を口に運んでから尋ねた。


「この都市の警察機構が、そう簡単に余所者を受け入れるとは考えにくい。あなたのお父さんがどういう派閥に属していたかは知らないけど、上級都民の治安警護を任される立場にいたんなら、いろいろな人から不当な恨みを買っていた可能性はあるわ。その巻き添えを、あなたが食らったという可能性は?」


「俺も、その線を疑っている。父親の七光りで機動警察隊(クリミナル)の小隊長をやっていたようなもんだからな。快く思わないヤツなんて、いて当然だ。知らず知らずのうちに、俺が親父のウィークポイントになっていても、おかしくはない」


「あ、いや、べつにあたしはそういうことを言いたかったんじゃ……」


 本気で他意がなかったのだろう。アイリスは慌ててナイフとフォークを皿の上に置くと、声のトーンをひとつ上げて弁解に入ろうとしたが、そこでブランドンが手を前に出して「まった」をかけた。


「いいんだ。本当の事なんだから。意図しなかったとはいえ、たくさんの都民を手にかけ、部下たちを守れなかった時点で、俺は警察官どころか、人間失格なんだから」


「その人間失格の烙印を押された息子を、父親は無理矢理にでも合格に持って行きたかった……なるほど、裏で手を回したのは、父親か」


「その通りだ」


 ブランドンは深く頷いた。ミハイロの推測が、的を射ていたからだ。


 被験者テストの事実と、薬の存在を公表しようと決意していたある日の午後、父が面会にやってきた。その日のことを、ブランドンは今でも覚えている。己の社会的地位を誇示するようにオーダーメイドのスーツをキッチリと着こなして、フレームだけで五万ゼニルはする銀縁メガネをかけ、白髪染めで誤魔化した頭髪をポマードでオールバックに固めたいつものスタイル。だが、年齢よりも若く見られがちな肌艶も、あの時ばかりは年相応のものにブランドンの目には映った。心なしかやつれているようにも。だが、父はいつにも増して強気な態度で言い放った。


 お前は被害者なのだよ――分厚いプラスチック製の板ひとつ挟んだ向かい側で、父はたしかにそう口にした。


 父は息子を叱責するでもなく、失望するでもなく、ひたすら己の無力さを恥じていた。少なくとも、ブランドンはそう感じた。必死になって都市の市警階層を駆けあがり、ようやく手にしたはずの偉大なる権力を有効活用できてない自分に、腹立たしさを覚えているようでもあった。


「特殊検診を受けた日。俺は愕然としたよ。身体の調子がすこぶるよかったからだ。違和感を覚えるくらいに。親父が第三者機関を通じて、俺の身体に何をしたのか、おおよそ察しがついた」


 すぐに無罪にしてやる。俺の力で、お前に自由を与えてやる――父の言葉は現実のものとなった。懇意にしている弁護士に多額の金をつぎ込み、関係各所に周到な根回しをした。


 権力者の通り、裁判所は一審でブランドンに無罪判決を出した。被告人に過失はなく、車輛のブレーキ機能に欠陥があるとしたのだ。


 恐ろしいほどにスムーズな手続き(プロトコル)の裏で、父が持ちうるあらゆるパイプは脈動を繰り返していたに違いない。愛しい一人息子の経歴から、できる限りの汚れを排出するための、たゆまぬ努力。だが、その努力を、ブランドンは今でも恨めしく思っている。


「俺は刑務所にぶち込まれるべき人間だ」


 声に真剣さが灯っていた。自己憐憫に逃げるほど、性根は腐ってはいないと告げるように。


「市警は社会的正義のためにある組織だ。こんなクソッタレな都市でも、懸命に生きる人々の足場にならなくてはいけない組織だ。少なくとも、昔の俺はそう信じていた。だが、しょせんは組織。人間の都合の良い原理だけで動くだけの、張りぼての正義だ。父は俺を叱責するでもなく、縁を切ることもしなかった。それどころか、この一件を揉み消すために奔走した。あの人にとっての俺は、あの人が身につけていたスーツと同じ。汚れがついたらクリーニングに出して、綺麗になるのを待つ。なぜ汚れがついたかは、考えようともしない」


「つまり君は」


 食後のコーヒーを啜りながら、ミハイロが忙し気に指を動かし、話を一旦まとめる動きにはいった。


「その特殊検診とやらで、血中の薬物成分をすべて除去されたうえで裁判に臨まざるを得なかったというわけだ。君の知らないところで君の身体はクリーンにされ、裁判所に提出された書類にも、一切の痕跡は残っていない。なるほど。現実に発生した事件そのものではなく、文字に起こされた記述こそを事実として認定する、か。被害者の心情も、現場の凄惨さも、なにもかもを漂白する。じつに市警らしいやり方だ」


 ブランドンは、はっとした表情でミハイロを見つめた。その、どこか眠たげな瞳の奥で、なにかを見透かすような力を感じた。それだけで、この、昼間から安酒場で一杯ひっかけていそうな中年男性が、青い正義心を抱いていたあの頃の自分より、警察という組織を客観的に捉えるだけの冷徹な観察力を持っていることが、ブランドンには本能的に理解できた。


 だからこそ、解せない部分もある。ここまでの話の流れからしても、ミハイロが市警に好感を抱いているとは言い難い。それにもかかわらず、なぜ彼はホワイト・ギルドなんていう、市警に飼われる狗としての立場に甘んじているのか――だが、いまはそうした疑問をぶつける時ではなかった。


「念のために聞いておくが、君がテストされたその《ある秘薬》というのは、いったいなんなんだ。ある種の幻覚作用をもたらすような向精神薬かサプリメントか? まさか、電子覚醒剤(デンリュー)だなんて言わないだろうな?」


「むしろ、そうだった方が楽だ。単に俺がマヌケなだけだったで、済む話だからな。でも、事はそう簡単じゃない」


 ブランドンは大きく息を吸って深呼吸を繰り返すと、その名を口走った。


「エンブリオ・ナノマシン……フューリーオーグの身体に埋め込まれている、ナノマシンだ。俺はそいつを打ち込まれたんだ」


 ブランドンの中で、深い悠久の地層の奥から、冷えきった悪魔の化石をうっかり掘り出してしまった感覚があった。もう後にはひけないという感覚が。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ