3-11 過たない女と、なめらかな『彼』
窓から降り注ぐ偽の太陽光が瞼の裏側を照りつけ、味わい慣れているベッドシーツよりも滑らかな質感が、傷だらけの男の肌をゆるやかに覚醒させた。
ブランドン・ブリッジスは下着姿のまま、ゆっくりと上体を起こしながら、ぼやける視界に映る景色の高さに違和感を覚えた。そうして、昨晩の出来事を次第に反芻しながら、思考のピントを合わせていく。
ギャロップ・ギルドの事務所は、C区からB区へ渡り、外縁にほど近い場所。主要幹線道路の端っこに面している。昨晩、ミハイロヴィッチの書類作成を手伝った後、空いている部屋のひとつを使わせてもらったことを、ブランドンは思い出した。
もともとは倉庫として利用されていたらしく、その後、エージェントたちの仮眠部屋として改装されたらしい。そのためか、部屋のつくりは質素なものだ。簡易ベッドのほかには、ビジネスホテルによくあるライティングデスクと、本棚に、ひとり掛け用のソファーがこぢんまりとあるだけ。住宅用にマイナーチェンジされた夢棺のひとつでもあるんだろうなと考えていたから、これは意外だった。
欠伸をひとつ、噛み締める。ブランドンは、壁にかけられた鏡をなんとはなしに覗き込んだ。思わず言葉を失う。ボサボサの髪に、伸び放題の無精ひげ。顔貌から滲み出ている落伍者じみた雰囲気に、我ながら苦笑を零す。こんな身なりのまま、いままで外に出ていたのかと考えると、途端に後悔と恥ずかしさが込み上げてきた。
ベッド脇の時計を見る。時刻は朝の八時過ぎ。最下層の住民が本格的な活動を始めるまでには、まだ時間がある。睡眠時間は五時間ほどしかとってないが、頭は次第に冴えてきた。壁掛け式のハンガーには、真っ新な半袖の白Tシャツと、黒ベルトがかかったままのジーンズが吊り下げられていた。シャツに血は付着していない。ちょうどピッタリのサイズがあるから用意しておくよと、就寝間際にミハイロヴィッチが口にしていたのを思い出した。
着替えを終えて部屋を出た先は、二階の廊下。鼻腔に入り込んでくる空気に、清涼感がある。同じB区とは言っても、違法増築アパートとは大違いだ。ねぶり式清掃機械が稼働しているんだろう。ワックスで綺麗に磨かれた床を歩いて、階段を下りる。
一階。左手に見えるリビングには、六人掛けの長テーブルと六人用のイスが配置されている。右手には、応接間と正面玄関がある。
洗面所はどこだろうか――寝ぼけ眼を擦りながら、ブランドンは広々としたリビングを横切った。当たり前の話だが、電気はまだ不通である。公共エネルギーの利用制限が解除されるのは、午前九時を回ってから。それでも、カーテンが開け放たれているおかげだろうか。降り注ぐ陽光のおかげで、部屋の様相を伺い知るのに難儀はしない。
窓際へ視線をやる。横に長いスケールを持つ水槽が置かれていた。珍しいことに直方体ではなく、やや流線を帯びたフォルムになっている。中には、流木や大きめの石が敷き詰められていた。
熱帯魚でも飼っているのか? と他愛ないことを考えながらリビングを抜けた先に、目的のそれがあった。シャワールームと併設された洗面所だ。コップと、シェービング・クリームと、マニュアル・タイプのカミソリが、ひっそりと置かれている。
厄介になった身なのだ。遠慮なく使わせてもらおうと、ブランドンはシェービング・クリームが入った缶を手に取った。誰のものかわからない細長い毛が、一本だけ缶の側面に貼り付いているのに気づき、取り除く。
クリームの泡を傷だらけの顔全体に塗りたくり、カミソリを手にした瞬間だった。
緊急警報のブザーが鳴り響くような勢いで、それは起こった。カミソリの薄い刃と刃の隙間に入り込んでいた、なにかの毛の断片らしきもの。長さがほんの数ミリサイズのそれらが――ひゅるるる――と空を切り裂き、猛烈な速度でブランドンの太い首元へ飛びかかると、一気に伸びて、締めつけてきたのだ。
「(なんだッ――!?)」
まったくどういう原理なのか、突然のことにブランドンには皆目見当もつかない。突発的な恐怖と困惑が入り交じり、反応が一瞬遅れた。彼のミスは、この時すぐに声をあげて助けを呼ぶか、カミソリを手放すかの、どちらかを選択できる状況で、どちらも選択しなかったことだろう。
首元に意識を取られていると、またもや刃の隙間から、別の細長い毛が束になって飛び出してきた。今度はカミソリを持つ右手が餌食になった。伸びる毛の束が指先から手首を犯し、肘の位置までズルズルと這い回り、関節を固定するように、きつく絡みついてきた。とてもじゃないが、タンパク質を主成分にもつ毛とは思えないほどの頑強さだ。
「(まずい……まずいぞ。首に絡みついたコイツをどうにかしないと……)」
額に脂汗を滲ませ、みっともない表情になりながら、ブランドンは左手の指を、首元に巻き付く毛の隙間に潜り込ませてみる。だが、そのまま力任せに引き千切ろうとしても、びくともしない。本当に『毛髪』なのか? まるで、ワイヤーを掴んでいるような……そんな硬い感触だけが指先に伝わってくる。
焦りが募る。全身を激しく動かしても、毛はそれ自身に意志があるかのように、首元から離れようとしない。それどころか、暴れれば暴れるほど肉に食い込んでくる。
いったいこれは何なのか――顔がどんどん紅潮していき、首まわりが青白く変色しかける。呼吸が次第に浅くなり、意識が遠のいていく。
だが、ブランドンは諦めなかった。暫定捜査官になって早々、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのか――そんな被害者意識は、ここでは必要とされていない。状況の突破のために知恵を最大稼働させることに集中しなければならない。
ブランドンは目を血走らせながら、震える左手でシェービング・クリームを手に取ると、親指を使って器用にキャップを外し、喉元付近へ目掛けて、ためらうことなくスプレーした。きめ細やかな大量の泡が毛をまんべんなく包み込んで、真っ白に染め上げていく。すると次第に、毛の一本一本が縮こまっていた。そのうちに、首元を襲っていた圧迫感がなくなっていく。毛髪製のワイヤーはすっかり力を失くしたようで、泡の塊ごと、洗面台の窪みへボタボタ落ち始めた。
同様の処置を右手にも施すと、まるでタバコの火を直に当てられたナメクジのように、さっと毛がその場から引いて、ブランドンの手を離れ、再びカミソリの刃と刃の隙間へ潜り込んでいく。
ブランドンは弾かれたように、ダストシュートへカミソリを投げ捨てると、安堵の溜息をついた。シェービング・クリームの缶に毛が一本だけこびりついていたことに、あの危機的状況下で思い至ったことが明暗を分けた。あの缶にへばりついていた毛だけが、どうして自分を襲ってこなかったのか――事実の逆算から状況打開のアイデアを捻り出し、実行に移して危機を突破したことに安堵しても、気がかりなところはある。
ブランドンは何度も咳込みながら推測した。いまさっきの毛は『毛』であって毛ではない。その構成成分はタンパク質とは明らかに異なる。なにか別の化学物質同士の結合で成立している『毛』であり、その弱点は、おそらくシェービング・クリームの「泡」なのだ。なぜなのか?
「その体毛は『呼吸』するの。だから動きを止めるには……毛に『呼吸』させなければ良い」
ブランドンの思考に応じるように、たおやかな声が、不意に後ろから飛んできた。
「油分を含んだクリームを浴びせられると、体毛表面部に油脂成分が流れ込んで『呼吸孔』が塞がれてしまう。そうすると、毛は呼吸が出来なくなって死んでしまう……」
おっとりした抑揚。声に振り返ると、そこに女がひとり立っていた。綿毛のような雰囲気の、見た目は二十代後半の女だった。からだつきは豊満ながら、ブランドンの胸の位置より低い。緩くウェーブのかかった茶髪と、タヌキのように垂れ下がっている大きな目元が、どちらも柔和な印象を与えてくる。しかしながら、状況が状況だ。ブランドンは警戒心を抱いたまま、相手の出方を伺うことにした。
そんなブランドンの緊張を知ってか知らずか、女はほんわかとした口調で話を続ける。
「マリオの身体は特殊なつくりになっていてね。彼の体毛は、体毛の姿をした生き物のようなものなの。彼は自分の持ち物を他人に勝手に使われるのを、とことん嫌う性格で……」
「……マリオってのは?」
「ウチのエージェントのひとり……って、そうか。まだ何も説明を受けてないのね」
「なんの話だ?」
「査頭とルルちゃんが言っていた暫定捜査官ってあなたのことよね? 事務所に泊まらせたって、今朝方に連絡を受けて、それで急いで来たんだけど……うっかりマリオのカミソリに手を伸ばしていたとは思わなかったわ。ひとまず、大事にならなくて良かった」
軽く胸を撫で下ろす彼女の様子から、殺気らしきものは感じない。ブランドンはゆっくりと警戒心を解きながら、目の前の女に向かって、確認を取るように尋ねた。
「この危ないカミソリは……そのマリオとかいう人物の『能力』なのか……?」
「カミソリじゃなくて『体毛』ね。更新強化人って……もちろんご存じでしょ? マリオは自身の体毛を操る力を持っているの」
「そうか。彼に会ったら、まずはひとことお礼を言わなくちゃな」
ブランドンは半分冗談で笑みを伴いながら口にしたつもりだったが、思いのほか引き攣った笑みになってしまったようだ。それがかえって、余計な迫力を出してしまった。女は困ったように口元を歪めると、頬のあたりを掻いて応えた。
「あ、えっと、彼はいま別の案件で動いていて……たぶん今日は来ないかな……あ! そうそう! 洗面台の抽斗にカミソリの予備があるから、髭を剃る時にはそちらを使ってね」
そういうと、綿毛のような雰囲気の女は洗面台に近づき、ギャロップ・ギルド流の洗面台の使い方を彼にレクチャーしはじめた。前かがみになりながら抽斗の中身を説明する彼女の髪の毛を眺めながら、ブランドンは思考を巡らせる。
ルルちゃん――おそらくはルル・ベル・アンダーライトのニックネームだろう。ということは、この女性はギルドの関係者なのだろうか。しかし、見た目の雰囲気からして、とてもじゃないが現場を任されるエージェントとは思えない。その温和な雰囲気からブランドンが想像したのは、ギルドの事務所に住み込みで働いている家政婦、というイメージだった。
「――というわけだから、洗面台を使うときはくれぐれも注意してね?」
「あ、ああ……ところで、あなたも更新強化人なのか?」
女の説明が途切れたタイミングを狙って、滑り込むようにブランドンは疑問を挟んだ。
「え? わたし? いやいや、そんなわけ」
朗らかに笑って、女は顔の前で手を振った。
「わたしは、ここのギルドの会計監査なの」
「会計? あなたが?」
女は頷いた。やや視線を上に向けて、自らの所属を明かす。
「エクセリア・シルバーラップ。みんなは親しみを込めて『エックス』って呼ぶわ。まぁ、そこはお好きなように」
「わかった。俺は――」
「ブランドン・ブリッジスさん、でしょ? あなたのことは耳にしてる。さんざんニュースで報道されていたからね。でも、気にしないで。私はルルちゃんを信頼しているから。あの子が勧誘したということは、それだけ信頼に足る人物だということだもの。勧誘を受けてくれてありがとう。あの娘、きっとすごく喜んだんでしょうね。目に浮かぶようだわ」
菩薩のような笑みを浮かべる綿毛の女は、会計という厳格な精密性を求められる仕事に就いている者には似つかわしくない、ふんわりとした態度を崩さないまま、親愛の握手を求めてきた。
▲▲▲▲
抽斗から新品のカミソリとシェービング・クリームを取り出し、そこそこの時間をかけて、ブランドンは伸び放題だった髭を剃り終えた。本当なら頭髪も整えたいところだが、バリカンの類は見当たらないし、また知らないうちにマリオとやらのエージェントの私物を使ったとあってはたまらない。
「だったら、わたしが普段使っているヘアバンドが抽斗にあるから、どうぞ使って」
エクセリアの厚意に甘えるかたちで、青と赤のまだら模様のヘアバンドをひとつ借り、長髪を束ねる。馬の尻尾みたいな頭髪だが、ひとまずはこれで我慢するしかないだろう。
エクセリアに案内されるかたちで、ブランドンがリビングに足を踏み入れた、その時だ。
【朝っぱらからドタドタうるせぇよ。ミハイロの奴は乱染獣をスカウトしてきたのか?】
ブランドンはその場で立ち止まり、全身を強張らせた。エクセリアの声ではない。それは確かだ。なぜなら、この正体不明の声は、脳内に直接響いてきたのだ。
【ふん、そうか、お前が……ルル・ベルが目をつけていた暫定捜査官か。そうかそうか。ここにいるってことは、アイツのスカウトは成功したってことなんだな?】
古ぼけた土管の中で反響するかのような、厭味ったらしいダミ声だ。
何者だ? まさか――一昨日の晩の出来事が脳裏を過る。もしかすると、すでに自分が暫定捜査官に任命された事実が漏れて、またあの襲撃者がやってきたのだろうか……ブランドンはまたもや警戒心を研ぎ澄ませたが、結果的に言って、それは杞憂に終わった。
「ナビィ、初対面の方に向けるべき態度ではないと思いますよ?」
エクセリアが眉根に皴を寄せて、詰るような目つきを送りながら、そう口にした……窓際に置かれた、巨大な水槽に向かってだ。
【そう睨みなさんなよ、エックス。それとも、いつものオレらしくないとでも言うのか?】
「そうですね。普段の、なめらかな性格のあなたなら、もっと柔軟にこの状況を受け入れるものだと思っていました」
【ふん、そいつは買い被りが過ぎるな】
エクセリアの声は生の耳で聴き取れる一方で、ダミ声の主の言葉のみが、再び脳内に響き渡った。ブランドンが怪訝な表情で水槽に目をやると、小さな気泡が渦を巻くようにして、曲線を帯びた老木の影から.沸き起こり、キラキラ輝く水面で弾けた。
【なめらかさ至上主義のオレでも、たまには意固地になっちまう時もあるんだよ。いや、違うな。こいつは意固地とか頑固とかじゃねぇな。普段の、いつも通りのオレさ。もしカドが立ってるように見えるなら、エックス、つまりそれくらい、拾ってきた犬が、かくばっていやがるってことだ。そうだ。目の前にいるこの野良犬じみた野郎が、なめらかなオレにカドを立たせるのさ】
丸い岩の影から一本、二本、三本、次々と……図鑑に載っている海よりも真っ青な色の触腕が、合計八本も飛び出してきた。長い触腕の先端はどれも菱形になっていて、滑らかな、きわめて滑らかな軌道を描きながら水中を掻き分ける。
ごろん、とでもいうような塩梅で、丸っこい、ぶよぶよした無脊椎生物が姿を見せた。
丸く膨らんだ胴体部は大人の頭ほどの大きさもあり、口に位置する部分が筒状に大きく突き出ている。ソイツは触腕を足のように……それこそ「頭足類」という分類がしっくりくるような塩梅で器用に扱い、ずんぐりとしたからだを持ち上げ、小岩を抱きかかえるように登り始める。
タコだ。ちょっと見た目はグロテスクだが、そのシルエットは、子供の頃に図鑑で見たことのあるタコそのものだ。しかも、体表のところどころに黒い斑点模様のある、真っ青な色をしたタコだ。
興味を惹かれたブランドンは、そろそろと水槽に近づいた。透明の板越しに、その奇妙なタコを観察する。大陸間戦争を経て地球環境が激変したとはいえ、これは異常なことだ。砕氷菓子のシロップみたいに真っ青な体表のタコなんて、魚市場でも見たことがない。
「いったいなんなんだ……」
【いきなり顔を近づけてきて、『なんなんだ』とはなんなんだ、このタコ!】
脳内に届く罵声。戸惑いを隠せないでいると、横からエクセリアが口添える。
「彼はナヴィ。性別はオス。見ての通りタコだけど、普通のタコじゃないの」
「見ればわかる。これが普通だったら、イカの立つ瀬がない」
【イカ! あんなみっともない奴らの名前なんぞ出すな!】
ブランドンの発した一言に憤激したように、ナヴィと呼ばれたその奇怪なタコは、器用に触腕で砂利を下からすくいあげると、水中にばら撒いた。
【あんなカドが立ちまくりの、長方形みたいな姿の奴ら! ぜんぜん美しくない! 流体力学の恩恵を浴びるのは、オレのように『極上のなめらかボディ』を持つ者だけだ】
「このタコは何を言っているんだ? というか、なぜ頭の中に直接言葉が響く?」
「それは、テレパシーによる透声能力ね。自分の思念を人間の言葉に変換して、私たちの心に飛ばす力が彼にはあるの」
このタコには知性がある――エクセリアはそういって、水槽の板を軽く指で小突いた。
【オーーーーーイオイオイオイ。エックス、透声は俺の本領じゃねぇっていつも言ってるだろ? アイスクリームの滑らかな舌触りを褒めるのに、アイスを支えるコーンのサクサク感が素晴らしい!……と説明するヤツはいない。そうだろ?】
「そうね。たしかに。あなたが本領を発揮する場所は、電脳世界だものね、ナヴィ」
「なんだと? するとこのタコが……」
「このギルド唯一の電脳エージェント。それが彼、ナヴィ・ストライダー」
「こいつが夢棺に入るのか? このタコが?」
「もう入ってるわ」
エクセリアはマジックの種明かしをするマジシャンのように笑みを浮かべると、人語を操るタコのたゆたう、横に長い目の前の巨大水槽を指さして言った。
「この水槽の正式名称は、深層流体式集析装置。ナヴィ専用の夢棺。人間と違って有線じゃない特注製で――」
【エックス、あんまり部外者にペラペラと、オレの仕事道具の秘密を喋ってもらっちゃ困るなァ】
ナヴィは胴体部を揺らし、その小さな黒い口から、拳サイズの泡を吐き出した。いま、彼は欠伸をしたのだ。
部外者――忌憚のない意見をぶつけられて、ブランドンはどう反応すればよいか、咄嗟に判断できなかった。これが、人間の見た目をした人間の言葉だったら、ブランドンにも思うところはあったはずだ。
スマイルの仮面を被り、忌憚のない意見を社交辞令でオブラートに包んだところで、肚の底では何を考えているかわからないのが、人間という生き物の常だ。建前を取っ払って本音をぶつけられた方が、いろいろとやりやすい。相手が初手で攻撃的態度に打って出てくるのなら、こちらも同様の態度で応戦することができる、という理屈が生まれるからだ。関係性の好悪は自明だが、気持ちの面では楽になる。ブランドンは少なくとも、そう考えている。
しかしながら、この場合はやや状況が異なる。拒絶の言葉を吐いているのは、人間ではなく青いタコだ。人間の言葉を自在に操る異生物に拒絶されたのは、無論のことこれが人生初の体験だ。その、どこか歪んだ体験が、かえってブランドン自身に思いもよらぬ心理的な圧力を与え、ほんのわずかであっても、ひとつの防衛機制を彼に取らせた。
【なに苦笑いを浮かべてんだ。ふん、気持ちを誤魔化そうとするんじゃねぇぜ】
「別に誤魔化しているわけでは……」
【有名人さん。お前の悪名は、オレみたいな無脊椎動物の耳にも届いている。だから言うんだが、いいか?】
「ちょっと! ナヴィ――」
【はっきり言うが、オレはお前のことが好きじゃない。これは伏線じゃねぇからな】
仲間の制止も聞かず、ブクブクと泡を吐き出しながら、ナヴィは透声でそう宣言した。
ブランドンは苦笑いを止める代わりに、目の前に鋭い針を突き出されたような表情を浮かべた。
ブランドンが悪意ある言葉に晒されたことは、一度や二度ばかりではない。それこそ、《殴られ屋》稼業に従事していた頃には、野次馬たちから数々の罵声を浴びせられる毎日を送っていたのだから。そうした日々を漫然と過ごしていくうちに、その手の、つまり、心を傷つけることを狙って編まれる言葉に対する耐性や慣れを、いつの間にか獲得しているものだと思い込んでいた。
慣れ、耐性――だが、もしかするとそれらは、単なる錯覚に過ぎなかったのではないかと、ブランドンは今になって感じている。心の防衛機制が働いて、鈍感さを身につけたに過ぎないのではないか。そして、その鈍感さが次第に全感覚に波及していき、機微や気づきを曇らせる作用として働くようになっていたとしたら?
悲劇の被害者を演じるつもりは毛頭ない。だが、少なくともナヴィの発言は、過去から現在に至るまでの人生の積み重ねの結果を、ブランドン自身に強く自覚させるだけのパワーがあった。
知性あるタコのストレートな物言いは、あの野次馬たちの無責任な罵声の数々よりも、ずっと重みがあった。姿かたちが人間からはかけ離れているという外見上の特性と、透声という独特のコミュニケーション手法の相乗効果が、シンプルに言葉の意味を、ダイレクトに伝えてくるのだ。
「ルルちゃんの目が曇っていると言いたいんですか? それに、査頭だって彼を信頼しているから、わざわざ寝泊まりさせたんですよ。意固地にならないで、ナヴィ」
たまりかねた様子で、エクセリアが苦言を呈する。だが、ナヴィは意に介さないようで、ゆらゆらと胴体部を揺らして透声を送った。
【ミハイロがなにを考えているかは、オレの知ったことじゃねぇよ。ルル・ベルの奴は……そうだな。あいつは本当にカドが立っているな。こうと言ったら捻じ曲げねぇ。そういう性分だ。だが、アイツは別だ。オレは意味もなくカドが立っている奴は好きじゃないが、信念を最後まで通そうという熱意と、熱意に見合うだけの実力があるヤツは嫌いじゃない】
「つまり、君から見て俺は、意味もなくカドが立っているような性格に見えるから、好きになれないというわけか?」
【ふん、その脳味噌、さすがに飾りじゃねぇらしいな】
「君が、俺のことを嫌っているのはわかった」
ブランドンは言った。エクセリアが、隣でばつの悪そうな表情を浮かべている。
「そのうえで確認したい。俺は友人の事件を解決するため、暫定捜査官という立場でここにいることを許されているわけなんだが、君は事件の捜査に協力する気がないということか?」
ブランドンの静かな問いかけに、ナヴィは二本の触腕の先端部を上に向ける仕草をした。どうやら、人間で言うところの『肩をすくめる』動作をしているらしい。
【別に、そんなことは言ってねぇよ。ただアンタのことが『好きじゃない』ってだけでね……つまりは、ビジネス・ライクにいこうぜってハナシだ。ミハイロとルル・ベルが認めたってことは、少なくとも最低限の業務遂行レベルは満たしてるってことなんだろうからな。働きに期待している、なんて死んでも口にしねぇが、だからといって、無視するってこともしねぇ。オレは、デキるタコだからな】
「そうか」
【そうだ。他に言うことは?】
ブランドンは、体の奥から自然と言葉が湧き出てくるのを待った。脳の襞の奥で自問自答し、自分がここにいる理由をはっきり口にするのに、そう時間はかからなかった。
ナヴィの目……を探そうとしたが、彼の目がどこにあるかわからなかったので、とりあえず笠のように広がる胴体部分に目を向けて、言った。
「これからの行動で、君の信頼を勝ち取れるように頑張るよ、ナヴィ」
【ふん!】
面白くない! と透声を飛ばす代わりに、墨を吐き散らす。その黒い雲海を隠れ蓑に老木や岩々の影にナヴィが引っ込んだタイミングで、玄関のドアベルが鳴った。靴を脱いでリビングに姿を現したのは、ミハイロとルル・ベル、それにアイリス・ツインブラッドだ。三人は、それぞれ大きさの異なる紙袋――人気アニメのキャラクター・シールが貼られている――を抱えていた。それらを順番にキッチンに置いてから、軽い挨拶を済ませる。
「昨日はありがとう。よく眠れたかい? しかし、ずいぶんとさっぱりしたなぁ」
「おはようございます。ブランドンさん」
「査頭とルル・ベルから聞いたわ。ブランドンさん。今日からよろしく。あなたとは、短い関係になることを祈るわ。事件の早期解決って意味でね」
「ああ、こちらこそ」
ブランドンは三人としっかり握手を交わすと、紙袋の中身へ、ちらりと視線を向けた。中身は、すべて食料品だ。事務所に来る途中、手分けして朝の市場で買い込んできたのだろう。パンにイモに缶詰めに加工肉、それに、足の早い野菜や果物まで、ぎっしり詰め込まれている。一週間分の食料品。その管理はすべて、エクセリアに一任されている。
時計の針が九時を回った。公共エネルギーが最下層の各家庭へ流れ出したタイミングで、エージェントたちが流動的に動き始めた。
ミハイロがエアコンのスイッチを入れ、エクセリアが紙袋から食料品を取り出して吟味し、備蓄分を大型バッテリー搭載の冷蔵庫や冷凍室へ的確に仕分けしていく。それから調理器具を持ち出し、朝食の準備に取り掛かる。そこに、エプロンを着たルル・ベルとアイリスが、流れ作業のように加わった。
しばらくして、バターの焦げる香りと、パンをトースターで焼く香りとが、広い室内を行き渡る人工の風に乗ってリビングに広がり、ブランドンの鼻腔を軽やかにくすぐった。女たちは黙々と調理に勤しんでいる。自分もなにか手伝った方が良いだろうかと思い、わずかに腰を浮かしながら、ブランドンは純粋な疑問をミハイロにぶつける。
「ギャロップ・ギルドの業務は、朝食作りから始まるのか?」
「業務ってほどじゃないさ。それに、強制ってわけでもない。ハンターズ・ギルドなんて、個人主義者の集まりなのが普通だ。ホワイト・ギルド、なんて名称に変わってもね。でも、いつのまにか、みんなで朝食を囲もうという習慣が、ここじゃ普通になったのさ」
言って、ミハイロは冷蔵庫の奥の隅から、一リットルサイズの茶褐色をしたびんを取り出した。中身は半解凍状態の食用ゴキブリだ。その、平べったい親指サイズの甲虫を、巨大水槽脇に置かれていたピンセットで器用に掴み、水槽の投入フタへ投げ込んでいく。岩の影からするすると触腕が伸びてきて、投入されるゴキブリを、リズムよく巻き取っていった。
「朝食の発案者はマリオさんなんです」
人参の皮を剝く手を止めて、ルル・ベルが振り返る。
「最下層のエネルギー状況を考えれば、それぞれが食べたいものを重宝店で購入して、好きなタイミングで食べるほうが気楽だと思います。でも、自分たちで朝ご飯を作って食べながらブリーフィングをした方が、時間を効率的に使えるんじゃないかというのがマリオさんの主張で……」
「もちろん建前よ。本音は違う」
アイリスがルル・ベルの後を引き継ぐように、パン切り包丁に視線を落としながら付け加えた。
「マリオ・オプトの判断基準は、愉しいか、愉しくないか。ただそれだけ。彼にとって、みんなとご飯を食べるのは『愉しい』に分類される。自分の持ち物を勝手に使われることは『愉しくない』に分類される。単純明快な男よ」
「いまは別の案件で動いていて、ここにはいないんですけどね」
「それなら、さっきエクセリアから聞いた。あと――」ブランドンは背後の水槽へ親指を向けながら言った。「知性がある『なめらかなタコ』とも、知り合いになれた」
「そうか、ウォルトとはすでに対面済みだったか。紹介の手間が省けて助かるよ」
喜ぶようなミハイロの声に、ブランドンは怪訝そうな表情を浮かべた。
「ナヴィ、だろ?」
「ん?……あぁ、そうか。まぁ、そのあたりのことは、あとで話すとしよう」
曖昧な返事を寄こしてくるミハイロに対し、心の中でブランドンは首を傾げた。だが、事務的にエサをあげているミハイロを眺めているうちに、これ以上問い質すのもどこかためらわれたので、ブランドンはルル・ベルたちを手伝うことにした。
ブランドンは、キッチンの抽斗からナプキンと食器類を取り出すと、偽の陽光が波のように降り注ぐテーブルへ、手際よく並べていく。
妻や息子と一緒に暮らしていた時のことを、ブランドンは、ふと想い出した。手料理を準備するのが妻で、コップを準備するのが息子、食器やナプキンを準備するのが、自分の役目だった。どんなに仕事が忙しくとも、ブランドンがその役目を投げ出したことは、一度もなかった。
やがて、目の前に並べられた朝食は、それこそブランドンに、在りし日の想い出を蘇らせた。ベーコン・エッグに、ボウルに盛られたグリーン・サラダ。人参と玉葱のスープ。こんがりとキツネ色に焼けたトースト……それは、かつてブランドンが味わっていた『幸せのかたち』によく似ている。中層で暮らしていた頃、ずっとそれを噛み締めていた。そのことに、何も疑問を持たずに生きていた。
「話したいタイミングが来たら、話してくれて構わない」
はす向かいに座るミハイロが、無塩バターをトーストに塗りたくりながら言った。耳の部分までしっかりと、丁寧に塗り込んでいる。その手つきに、急かすような素振りはない。ルル・ベルはマグカップに注がれたホットミルクを舐めるように呑み、アイリスは背筋をピンと伸ばしてベーコン・エッグを切り分け、エクセリアはサラダをみんなの皿の上へ取り分けている。
トーストの表面を金属が撫でる音。コップをナプキンの上に置く音。皿の底にナイフの先がぶつかる音。サラダの、葉と葉が擦れる音……かつて、ブランドンも聞いたことがある、穏やかな環境音。噛み締めていたはずの、幸せのかたち。二度と戻ってこないと覚悟していたそれが、疑似的であるとはいえ、目の前に思いもよらぬかたちであらわれたことに、ブランドンは感謝し、そして深く息を吐いた。
ブランドンはオレンジジュースの入ったグラスを口に運び、喉奥をたっぷりと潤してから、そぼ降る雨のような調子で、自らの半生を話し始めた。
忌まわしい記憶の入り口に立った刹那、砂を噛むような気分になった。




