3-9 挑発の来訪者
最下層の夜は相変わらず蒸し暑いが、観衆の熱気は冷え込んでいる。
ここは歓楽街C区の大通りの一角。いつもと同じ夜。だが、三角コーンと作業用の黄色いロープで簡易に設置された菱形リングの中で佇むブランドンにとっては、そうではなかった。
もちろん、野次馬たちは相変わらず多いし、聞き慣れた歓声や罵声も聞こえてくる。だが、そこに熱はなかった。湯を沸かすくらいの熱狂というものが、ぽっかりと欠けていた。《ワイザツ・フォーラム》も同様だ。ブランドンの携帯端末上を流れるコメントにも、どこか力がない。
陳腐化したルーティーンを漫然と繰り返すような態度で、ブランドンは今日の仕事に臨んでいる。こんな状態で仕事をするのは、いつぶりだろう。相手のステップを見極めることも、タイミングを見計らって躱すこともせず、サンドバッグであることに甘んじるのは、それこそ《殴られ屋》を初めて最初期の頃以来ではないか。
仕事帰りに一杯ひっかけるような気軽さで、挑戦者に名乗りを上げた湾港労働者が放つ重い拳。それを土手っ腹に受け止めながら、ブランドンは降りかかる痛みに甘んじた。そうして痛みを受け続けることで、何か欠けたものが取り戻せるのではないかとの想いがあった。
皮膚を這い、筋肉や内臓を揺らし、胃の内容物を押し上げる痛み。フル・サイボーグだったら到底味わえない、正真正銘の生身ゆえに、誤魔化しの効かない痛み。これが、友を亡くした世界で今のお前が感じている、嘘偽りない現実の世界だと。ひとつひとつの痛みが、ブランドンを目の前に立ちはだかる問題から遠ざけ、そして突き刺す力があった。悪夢と現実のどちらもが、今は等しい強度で、彼の心を苛んでいる。
ポケットに入れた携帯端末から、挑戦終了を告げる無機質なゴングが鳴り響いた。「挑戦ありがとうございました」と、感謝の言葉を事務手続きのように口にしながら、グローブを外してお互いに握手を組み交わす。挑戦者の生の手に、熱気は握られていなかった。不完全燃焼の五文字を顔面に貼り付けたまま、挑戦者は帰路についた。
ひと区切りついたとばかりに、冷え切った空気に飽きて散開していく人々。彼らの背中が歓楽街へ消えていく背中をぼうっと眺めながら、ブランドンも帰り支度の準備を始めた。
配信を切る。三角コーンと作業用のロープを近くの貸倉庫へ戻し、それからもと来た道を戻って細い路地へ移動する。《テック・カセット》の中古売買を営む店の前まで来ると、仕事前にシャッター脇に置いておいた、バッグパックの盗難防止用電子錠を解錠。
「(この仕事も、もうそろそろ潮時かな……)」
汗と血の点描に汚れた服を手早く脱ぎ、バッグパックの中から取り出した真っ新な白シャツに袖を通しながら、ブランドンはここまでの道程に想いを馳せていた。
なぜ《殴られ屋》なんて仕事を始めたのか。最初のうちは、自らの起こした事件の償いという意味合いが優勢だった。人々から無様に殴られている姿を嘲笑されたり、そうした姿を都市ネットワークの配信に載せることで、中層の人たちの留飲を下げようという狙いが無かったといえば嘘になる。
だが本当の動機は、あの中層で発生した市民大量死事件が、警察内部の力学で不起訴化されたことに対する強い絶望と苛立ちにあった。ブランドン自らに下されるべきはずの裁きが、己が正義と信じていた組織の手によって無力化される。その矛盾を黙って飲み込んでおけるほど、ブランドンは物分かりの良い性格はしていなかった。そんな性格が自分自身を、この一見して奇妙な、それでいて不合理な職業へと突き動かしたともいえる――少なくとも、ブランドン自身はそう考えている。
ある意味において肉体を究極の資本として運用する《殴られ屋》稼業の意味合いが、徐々にブランドンの中で変化を見せてきたのは、ピートとの出会いがきっかけだった。
いかなる理由があろうとも、自分は人を殺してしまった。それも大勢の人を、直接その手にかけた。その事実は決して揺るがない。そんな自分に、穏やかな人生など、許されて良いはずがない。そうとわかっていながら、あの年の離れた友人と出会って過ごしたこの七年間は、ブランドンにとって非常に意義のあるものだった。
それが突然、なんの前触れもなく失われた。それも最悪なかたちで。
着替えを終えて、足元を見る。誰かの捨てた空き缶が蒸した夜風に吹かれて、奇妙な呻き声をあげるようにさらわれていく。そんなふとした拍子に、ブランドンは思考の沼に陥るのだ。
ピートとの仕事は、彼との付き合いを始めたこの数年間のことは、実は自分だけが見ていた夢なのではないか。この地獄のような現実を生きるのに必要だった夢が、嘲笑う何者かの手で壊され、急に現実の無慈悲さを突きつけられたような感覚に近い。
それはある意味、これ以上ないほどに、自分にとっては最悪の罰だと言えた。あるいは、振り出しに戻っただけだともいえる。
長い溜息をひとつ吐く。二対のグローブを上から押し込むように収納し終えて、チャックを閉め、おもむろにバッグパックを手に取ろうとした時だった。
「ブランドンさん」
突然肩を叩かれた。びっくりして振り返ると、ストライプ柄の半袖シャツにグレーのスラックスといった格好の、見知った中年男が挨拶代わりに片手をあげ、控えめな笑みを浮かべているのが目に入った。
ギャロップ・ギルドの所長。アレクサンドル・ミハイロヴィッチ。その傍らで揺れるのは、紫灰色のセミロングヘア。昨晩と同じ奇抜な服装の上に、真夏の夜に似合わない耐環境コートを纏ったルル・ベル・アンダーライトが、石のように立っている。
無言のまま、ルル・ベルが、ぺこりと遠慮がちそうに頭を下げた。どこか元気がなさそうなところが気がかりだが、血のように赤い彼女の二つの瞳から、ブランドンはなんとなく目を逸らした。ばつの悪そうな顔が自然と浮かぶ。
そんな二人の間に漂う微妙な雰囲気に気付いてないような調子で、ミハイロヴィッチが口を開いた。
「彼女から色々と訊きましたよ。もうお身体の方は大丈夫なんですか?」
「あ、ええ、まぁ。おかげさまで。助かりましたよ」
ミハイロヴッチの方を向いて感謝の言葉を告げる。ルル・ベルは押し黙ったままだ。代わりに、ミハイロヴッチがこめかみのあたりを搔きながら応じる。
「本件に関しちゃ、あなたの立場はあなたが思っている以上に重要ですからな。我々としても、ただぼーっと見ているわけにもいかんのです」
ミハイロヴィッチの目が、あることを語りかけていることに気付かないほど、ブランドンも鈍感ではなかった。
暫定捜査官――ルル・ベルの報告を受けて説得にでも来たのだろうか。
改めて断りを入れようとしたが、機先を制されるかたちで話題を変えらえた。
「ところで、もう今晩は……店じまいですか?」
「まぁそんなところですね……もしかして、また事情聴取ですか?」
ブランドンが警戒するように声を固めると、ミハイロヴッチが他愛ない日常会話でもするような気軽さで、意外なことを口にした。
「そっちはもう大丈夫ですよ。いやね? あなたさえ良ければ構わないんですが、ぜひ私も《殴られ屋》に挑戦してみたいなぁと思いまして」
ブランドンにしてみれば、全く予想外の申し出だった。なんと返して良いか分からず、相槌が遅れた。
「実地見聞って奴ですよ」
そう勘繰らないでくれと言わんばかりに、ミハイロヴッチの声のトーンがやや高くなった。
「あなたからお話を伺って、なんとなく理解した気分でいたんですがねぇ。どうもしっくりこないのですよ。他人から好き放題に殴られて、何が楽しいのかなってね。経験に勝る学びはないと言いますから、一度利用してみるのもありかと思って。それで、あなたにお声がけしたんです」
飄々としたその態度が、ブランドンの胸中をざわつかせたのは言うまでもない。
別に快楽を求めてやっているわけじゃない。自分を被虐趣味の変態と一緒にするな――そう返してやりたい気持ちに駆られるが、ルル・ベルの視線を感じる手前、荒っぽく突っぱねるのはためらわれた。だからブランドンは、事務的な口調で応じるに留めることにした。
「せっかくのところ申し訳ございませんが……今日はこれでおしまいなんで」
バッグパックを手に、その場を立ち去ろうとするも、忘れ物を取りに戻るような調子でひとこと付け加える。
「それに、この仕事も、辞めるつもりでいますから」
「辞める? またなんで?」
「いや、なんでって」
「もったいなくないですか?」
「もったいない?」
「んー……実はですね、さっきあなたが仕事をしているところを、反対側の歩道から、人込みに紛れてこっそり観察していたんですよ」
あっけらかんと悪気なく口にするミハイロヴッチに対して、ブランドンの背中がカッと熱くなった。それは怒りであるのと同時に、彼の中に残火のごとく燻り続ける「恥」の感覚のせいでもあった。
これが普段であれば、覗き見でも録画でも好きにやれば良いと、放言しておしまいだ。
だが、「普段」の枕詞がつく日常は、ブランドンの中では既に終わっていた。惨めで不透明な道の上を、死ぬまで歩き続ける日常が待ち受けている。
そんな矢先に、よりにもよって、こういう立場にある人物に目撃されることだけは、それだけはどうしても避けたかった。
「覗き見ですか。あまり良い趣味じゃないな」
不快さを隠すことなく眉根を寄せる。だが、ミハイロヴッチは不敵な笑みを浮かべるだけだ。その表情からは、心の底というのが全く見えてこない。まるで、木彫りの仮面の上に人間の皮膚を被せているかのような、そんな捉えどころの無さがある。
「ひと聞きの悪い。観察と言っていただきたいですなぁ」
「おんなじことじゃないか。それに、見ていたんだったら、わかるはずですよ。ただ一方的に殴られるだけの、誰にでもできる楽な仕事だってことくらいは」
「うまいこと、相手をコントロールする仕事では? そう私に言っていたじゃないですか」
「それは、言葉のアヤってもので……真に受けないで欲しいですね。それに世の中、上手くいくことばかりじゃないんだから」
それは確かにその通りだ、と口にする代わりに、ミハイロヴッチが大きく頷いた。
「素人目からもわかるくらい、今晩の試合は一方的な試合運びでしたからなぁ。それでも、ピンときましたよ。あの《殴られ屋》って仕事、タフネスさだけじゃやっていけない。少なくとも、腕自慢のバカなサイボーグ連中には務まらない仕事だ。精神的な強さだって当然のように求められるだろうし、むしろそっちの方が重要なんじゃないですか?」
「仕事なんて、どれもそんなもんじゃないですか。別に俺に限った話じゃない」
「それでも、レベルの差というのはあるでしょう。毎晩毎晩、何人もの見ず知らずの男たちから好き放題殴られるのに比べたら、《フォーラム》で匿名の仮面を被ってたむろして、ゴシップを漁って金に換える放浪者の方が、精神的にはずっと楽なはずだ」
ブランドンが閉口する。ミハイロヴッチは落ち着き払った様子で、口調のペースは決して乱さず、淡々と間を詰めるように話を続けた。
「それにね、ブランドンさん。仕事なんてものは、基本的に選び放題なはずだ。身の丈に合う生活を意識して、過度な贅沢をしなければの話だけれど。ブランドンさん。あなたの場合、目的があって金を稼いでいるようには見えるけど、それは決して、自分が幸せになるためじゃないってことくらいは、私にもわかる。それでも、あえてこの仕事を選んだ。どう考えても割に合わない、精神的には辛いはずのこの仕事を。その理由はなんです?」
ミハイロヴッチが饒舌になるたびに、ブランドンは自尊心が回復するどころか、袋小路に追い詰められていく感覚だった。思考から言葉を絞り出す速度で言えば、圧倒的にミハイロヴッチの方が上だった。
「相手を観察する力だったり、その人の性格を見抜く力だったり、きっとそういう力が、体力や精神的なタフネスさ以上に、《殴られ屋》の仕事では必須になる。どれも現場の人間に必要なスキル。捜査の最前線に身を置かなければ、習得できなかったはずのスキルだ」
《テック・カセット》流通前のことですからな、と呟き、さらにミハイロヴッチは続ける。
「あなたには、自分が苦労に苦労を重ねて手にしたそれらのスキルが黄金に見えたはずだ。市警を止めた後も。その黄金の輝きを見せつけることのできる暗黒の場所を、あなたは常日頃から求めていた。心の奥底で。市警を辞めてからも、ずっとね」
ブランドンの表情が、みるみるうちに曇っていく。バッグパックの柄を握る大柄な手に、ぎゅっと力が入る。ルル・ベルの困ったような視線が刺さる。
「自分を否定するために始めた仕事なのに、ブランドンさん。あなた、結局は自分を肯定したくて、だから《殴られ屋》を始めた。そうだと睨んだんですが、違いますか?」
「口の手数が早いことだけはわかりました」
ブランドンは肩から力を抜くと、バッグパックを乱暴にその場へ置き、チャックを引きちぎるようにして開け、グローブのひとつをミハイロヴッチへ投げて寄こした。
こればかりはミハイロヴッチも予想外だったのか、「あっ」と声を上げて、間抜けにも地面にグローブを落としそうになりながら、どうにかキャッチしたところで、ブランドンの冷徹な声を浴びることになった。
「そんなにやりたいんなら、やりましょうよ」
「え、でも今日は――」
「いいから、やりましょう。やりたいんでしょ? 先に言ったのはあなただ。なんだったら条件でもつけましょうか。そっちの方が、私も本気になれる」
「条件って、いや、そんな大げさな――」
「制限時間は二分。その二分のうちに三回だ。三回、俺の顔面に拳をヒットさせたら、暫定捜査官にでも、何にでもなってやりますよ。ただし、三回当てられなかったら、今後二度と俺に構わないことだ。いいですね」
「別に私はそういう話をしに来たんじゃ……」
ブランドンの態度が幾分か鋭さを増した。それを受けて、今度はミハイロヴッチが狼狽する番だった。さっきまでの淡々とした冷静な口ぶりは鳴りを潜め、思わず傍らのルル・ベルへ助けを求めるような視線を投げる。
だが、助けに割って入る様子はない。それどころか「またやってる」とでも言いたげに、ルル・ベルは上司の視線を無視して小さく溜息をつくばかりだ。
ミハイロヴッチが無遠慮に踏み抜いた心の地雷は、想像していた以上の爆発をもたらし、吹き荒れる爆風が収まる気配は、いまのところないらしい。
「いまさら何を言うんですか」
ブランドンは大通りに出ると振り返り、ミハイロヴッチを侮蔑するように睨みつけた。
さすがにここで尻尾を巻くわけにはいかないと思ったか。後ろめたそうな足取りで、ミハイロヴィッチもまた大通りに出た。
人通りは少なかった。道を行く何人かが二人に目を向けるも、いい年したおじさん二人の私闘になど、興味を持つ方が稀である。
三角コーンも作業用のロープも、いまは貸金庫に戻した後だ。だが、取りに戻るという選択肢はブランドンにはなかった。準備に取り掛かっている間に、この沸々と湧いてくる熱が、冷めてしまいそうな予感があったからだ。
それに、部下のいる手前、無様に逃げ惑うこともないだろう。それでも、柵も何も設けないのは、駆け引きに欠ける。どうしたものかと、グローブを嵌めながら逡巡していると、
「あの、ブランドンさん」
さっきからひとことも発せず黙っていたルル・ベルが、やおらに口を開いた。
「もしよかったら、囲い、作りましょうか」
「できるのか?」
「そんなに大したもんじゃないですけど」
昨晩、襲撃者を撃退した時と同じように、ルル・ベルは腰に引っかけたポーチから、色とりどりのドロップを四つ手に取った。
人工の月灯りの照り返しを受けて宝石のように輝くそれらを、サイコロでも振るような手つきで、下から上へ、ひょいと投げる。小さな掌から輝きの尾を引いて飛び立ったドロップたちは、綺麗に男二人を囲むように四角形を象った。
ルル・ベルが、一番自分に近い位置のドロップに向けて右手の人差し指を突き出せば、そこから白く輝く一条の光線が放射された。
光は反射を繰り返して、互い互いのドロップを結節。アスファルト舗装された地面に即興のリングが構築された。やはり、これは呪術なのだと、ブランドンは確信した。
「殺意は込めていないので、触れても問題はありません。ただ、ちょっと痺れる程度に調整しています。そうでないと、囲いの意味がないと思ったんですが……大丈夫ですか?」
「ああ、ありがとう。もしよければ、タイムキーパーもお願いできるか?」
「わ、わかりました……」
「リングから出てもアウトって認識か。いや、まいったなこりゃ」
ミハイロヴッチが、グローブを嵌めた左手で頭の後ろを掻いた。それから、ぎこちなくグローブを構える。どう見ても会社帰りの企業戦士といった風体。似つかわしくないなと、ブランドンは鼻で嗤った。
「ねぇ、お手柔らかに頼みますよブランドンさん。あなたを不用意に怒らせたのは謝りますから……」
頼りなさげな声のミハイロヴィッチの呼びかけには答えず、ブランドンはグローブを正面で噛むように構えた。
《殴られ屋》の実態を考えれば、ブランドンがグローブを装着する必然性はない。相手に引け目を感じさせないための工夫だ。空手の人間より、何かを手にしている人間を殴る方が、正当性が生まれやすい。
双方の準備は整った。ブランドンは目でルル・ベルに合図を送った。彼女は頷き、携帯端末のストップウオッチ機能を、指で弾くのと同時に。
「はじめ!」
開始の合図を告げた。
その直後だった。ブランドンの視界が一瞬、激しい明滅に襲われたのは。続いて、左頬に痺れるような感覚が刺さる。上体が右に倒れそうになるのを、どうにか両足に力を込めて踏ん張る。
「おや、おやおや……おや?」
目の辺りをグローブで擦りながら、びっくりしてブランドンは後退った。すぐ間近にミハイロヴッチの、特にこれと言って特徴のない平板な顔があったからだ。その中年顔からは、さっきまでの困惑した雰囲気は消え去っていた。皮膚に刻まれ、鼻梁にかかり、唇を覆い、刻々と変化する陰影の深さには、冷静さと獰猛さという、相反した性質があった。
殴られた。開始数秒で――理性がそう判断するより先に本能が動く。とにかく顔を殴られなければ良いだけの話だ。ガードを上げれば――だが、横っ腹の辺りを熱気が通り過ぎていった瞬間、それが過った判断であったと気づいた時には、すでに相手からの強襲は完了していた。
右の横っ腹を痛烈に撃ち抜かれる。肝臓を中心に衝撃が波紋のように広がる。呼吸が詰まり、全身の血液が全速力で巡回する。目をひん剥きながら、よろける足でブランドンはミハイロヴッチから距離を取り、彼に背中を見せる格好でしゃがみこんだ。
「おや……おや、おや、おや……どうしましたぁ? ブランドンさん」
飄々とした声が耳朶の奥をしつこく叩く。ブランドンはゆっくりと起き上がり、背中を丸め、ガードを崩さないよう細心の注意を払いながら、正面を向いた。両腕の構えで狭まった画角。ネオンに揺れる歓楽街をバックに立つ中年男は、ノーガードのまま、不敵な笑みを浮かべて告げる。
「まだ三十秒も経ってませんけど、よろしいんですか? あと一回ですよ。あと一回」
ハメられた――とんだ食わせ者だ。最初からこうなることを目論んで、俺に近づいてきたのか。ブランドンは胸中で舌打ちした。こっちがムキになりそうなネタをちらつかせて、あたかも自分から動いたかのように仕組ませ、イヤイヤ応じるフリをしながら流れを引き寄せる。
だけじゃなく、自分に有利な条件を、相手が自分の意志で設定したという自覚を植え付けさせる尋問手段も披露している。市警時代に学んだ、情報引き出し法のひとつだ。なぜ気づけなかったのだ。
忸怩たる感情に圧されつつも、ミハイロヴッチのモーションには、ブランドンにも心当たりがあった。これは間違いなく《テック・カセット》使いの動き。それも、相当に練度を高めて いる。今まで、そんな素振りは全く見せなかったのに……
「もしかしたら、ハンデのつもりなんでしょうけど、やるからには全力でやりますからね」
その言葉に偽りはないと宣言するように、ミハイロヴッチが、その風貌には似つかわしくない軽やかさで、拳を見舞った。




