3-8 アニメをキメる
そこにそうして何時間座っているか、いちいちブランドンは覚えていない。日常から置いてきぼりにされた空白の地帯。猫の額ほどの広さしかないその公園は、B区公共団地開発計画を都市が推進する際に、入居者向けに作られたという経歴を持つ。周囲を複雑怪奇な高層アパートメント群に囲まれているのはそのためだ。
しかしながら、ここに子供たちの姿はない。ブランドンの視界のどこにも、それこそ砂場にも、ミニジャングルジムにも。どこを見回しても、群れて遊ぶ小さな怪獣たちの影ひとつ見当たらないし、賑やかな喧騒がブランドンの耳朶を叩くこともなかった。
その代わり、リズミカルにブランドンの鼓膜を打つのは、金属チェーン同士が擦れる音だ。重金属酸性雨を浴び続けて、すっかりコーティングの禿げた、公園ブランコのチェーン。頼りない金属輪の連なりが支えるブランドンの肉体には、澱のような疲れが溜まっている。それだけ、取り調べが長引いたのだ。ルル・ベルが事情を説明してくれなかったら、それこそ、朝方になっても帰してくれなかったことだろう。
現場に急行した市警の面々は、部屋の惨状っぷりに軽く驚きつつ、襲撃現場がブランドンの住居であることを聞くと、納得したような顔つきになった。それから、小馬鹿にするような目線を彼に送った。
七年前の事件がきっかけで買ってしまった大きな不評は、誰にも予測できないタイミングで人々の正義心を揺さぶり、過激な行動へと突き動かす。事実、ブランドンが暴漢に襲われるのは、これが初めてではない。しかしながら、今回は違った。襲撃者の特徴も、動機も、なにもかもが。思わぬ助っ人を得たことも。
ルル・ベル・アンダーライトの顔を、ふと思い出す。小さな体の女。その小さな体には似つかわしくないほどの、熱い鉄の芯が通ったような女。搦手を好まず、その身に宿した技術と行動力で、あらゆる事態を突破してやろうという気概に満ち溢れているような――少なくともその辺の市警の連中と比較すれば、信頼に足るであろう――呪学療法士にしてエージェント。
若い――ブランドンはそう思った。あらゆる面で若いと。それは、ブランドンがすでに失くした若さでもあった。現実を思い知らされ、数多くの犠牲と、拭いきれない汚名を背負い、都市の階段を転げ落ちた拍子に、どこかの路地裏に落としてしまった若さだった。
「(誘いに、乗ってやれば良かったかな)」
心のなかでひとりごちる。
溜息をつく。
またこれだ。
いつもそうだ。
後になってから「ああしておけばよかった」と後悔しては、自己嫌悪に陥る。
いったいどれだけ繰り返せばいいんだ?
「(ホワイト・ギルドか……)」
ミハイロヴィッチたちと出会う以前から、当然、その存在はブランドンも知っていた。犯罪撲滅のため、市警と協力関係を結ぶ民間の捜査機構。都市の刑事訴訟法で保障されている職務遂行上の規定において、市警と遜色ない権限を有した組織。
だが、法律上は協力関係にあるホワイト・ギルドと市警であっても、捜査における双方のパワーバランスは、決してその限りではない。市警の連中にしてみれば、自分たちの仕事に首を突っ込んで捜査状況を掻き回す連中に、どうして協力してやらなければならないのかという不満の声が大きいのも事実だ。
ただでさえ、警察の中には彼らの事をよく思わない連中がいるのだ。ブランドンの見立てでは、今日顔を突き合わせた、あの男。暴力的傾向を覗かせてきた、金縁の丸眼鏡を掛けた警官――向こうはブランドンのことを知っていた――彼なんかは、ホワイト・ギルドを「薄汚いハイエナ」よばわりしていた。もし彼のような人物が事件担当官となり、捜査の手綱を握るような事態になれば、ギルドとの間に軋轢が生じるのは目に見えている。
そんなところに、ホワイト・ギルド以上に濃い恨みを市警連中から買っている自分が暫定捜査官として任命されたとなったら、捜査の進展に影響が出るのは免れないだろう。ルル・ベルたちに多大な迷惑をかける。だからこそ、彼女からの誘いを丁重に断ったのだ……そういうことで、ブランドンの中では合理的な説明が為されている。
それに、いまは別にやることがあった。
腕時計を見る。時間は朝の九時。ちょっと早すぎたか。いや、流石に誰かいるだろうとブランドンは思い直す。軋むブランコから腰を浮かした。臀部あたりの湿気に軽く不快感を覚えつつも、公園を出て増築されたアパート群に隣接している、管理棟の裏手へ回り込む。守衛に事情を説明して、来訪者向けの管理帳簿に記帳した後、来た道を戻り、外付けされた来客用エレベーターへ身を滑らすように乗り込んでから、人差し指で目的の階のボタンを押す。
今から向かう場所は、初めて足を運ぶ場所だった。ピートが母親と一緒に暮らしていたというアパートの一室。昨日の昼に、ミハイロヴィッチにも話した通りだ。ブランドンは以前に、ピートから家庭の事情を少しだけ教えてもらっていた。彼の母親は精神病に罹り、施設に入院しているという話だ。
重度・軽度に関わらず、この都市で精神病患者に対する第三者の面会が難しいことは、ブランドンにも理解できる。だからこそ、あえてブランドンはピートの自宅を訪問する選択をしたのだ。
「(たしか、兄弟はいないと言っていたな……)」
それでも、いまは事態が事態である。遺体の身元が判明した以上、すでに警察から親族へ連絡が行っているに違いない。部屋に母親本人はいなくとも、親族らが遺品整理のために訪れている可能性は高い。ならば友人として、お悔やみの言葉のひとつでも送らなければ、気持ちの整理もつかないというものだ。
「(もし、市警の連中が家宅捜索をやっていたら、その時はその時だ)」
だが、目的の部屋――エレベーターを出てすぐ目の前にある七階の廊下を右方向へ曲がり、二又に別れた通路の片方、低い天井に向かって、ゆるやかに上向きの傾斜がついた回廊を、三分ほど道なりに歩いた先にぽつんとある一室の前にたどり着いたとき、そこには警察官はおろか、侵入禁止のテープすらも貼られてはいなかった。コラージュされた魔城の日陰では、今日も曖昧とした日常が繰り返されているのか。
多少、訝しむところはあった。それでも、ブランドンは勇気を出してインターフォンを押した。控えめなノイズが尾を引くように耳に残る。沈黙が一分ほど続いた。の向こうから人の動き出す気配はない。ブランドンはもう一度インターフォンを押そうとした。その拍子に、電子ロックの錠前が開錠される音が響いた。
しばらくして、ドアがゆっくりと開きはじめた。人を粛々と招くというよりも、周囲の様子を伺うような、こわごわとした動きだった。
「朝早くにすみません。私、ブランドン・ブリッジスと申す者ですが……あの……」
真面目腐った顔で尋ねるブランドンの声色が、少しずつ尻すぼむのには訳があった。暗がりの中から対応してくれたのは二十代後半とおぼしき女性であり、何よりもその服装こそが、ブランドンに疑念を抱かせた。
大量生産の切れ端じみた薄手のスウェットは、肩の部分が大きくヨレてしまっている。それに、おそらくはセットにかかる前なのだろう。肩まである髪の毛のツヤは、土の中から顔を出したヤマギヅネを思わせる。それはまだ良い。問題は雰囲気だった。女性には、重力のような静けさがなかった。喪に服す者に特有の静けさが。いつもの怠惰な日常の延長を貪っているようにしか見えず、ブランドンは困惑した。
「朝の訪問販売なら結構よ。それに、いま忙しいから」
そっけなさを隠すことなく、女性は冷たく言い放った。一方的にドアを閉められる展開になるのは御免だった。ブランドンは慌てて半身をドアの隙間へ滑らせて、文字通り肉体を使った抵抗を試みた。
「ちょっと! ねぇ、なに?」
眉根を寄せる女の丸っこい顔を正面に捉えると、ブランドンは声のトーンを抑えてまくしたてた。
「ピート・サザーランド君のご親族の方ですよね?」
女は、奇妙な蟲を眺めるような目つきを、浮浪者じみた訪問者へ送った。
「私、ブランドン・ブリッジスという者です。元警官でして。その、生前ピート君とは交流がありまして」
「警官? あなた警官なの? なに。なんか事件でもあった?」
「いや、元警官で、その……あの、というか、ご存じないんですか?」
「ちょっと、ヤダ。やめてよ」
「え?」
「物騒な話、するんじゃないでしょうね?」
今度は一転、警戒するように女はあとずさる。室内には人工の光はなかった。人工の光は、むしろこの部屋、このアパートの外にあった。カーテン越しに偽の朝焼けが、リビングやベッドルームへ差し込んでいる。
女は靴箱の上に置かれた社員証へ手をやり、ブランドンの視線をそちらへ誘導した。レーヴァトール社の子会社名がオールド・イングリッシュで記載されている。巨額のマネーゲームに興じる裏社会の住人にとって利用価値十分なそのカードは、単なる身分証というレベルを超えていた。それを女も十分承知しているのだろう。社員証は、女の着ているスウェットより、はるかに値が張りそうな本革製のカードホルダーへ大事そうに収納されていた。
「いま出勤前のメンタル・チェック中なの。余計な情報を流し込まないでちょうだいよ。明日、チェッカーに指摘されたら減給ものなのよ。人が殺された? だから何よ。それより私のメンタルの方が大事でしょ? もし基準値をクリアできなかったら、ペナルティものなのよ? そうなったら、あなた、責任取ってくれるの?」
「いや、そういうわけでは……」
「だったら――」
女が眉根を一層険しくしかけた途端、タイミングを見計らったように、何者かの声がリビングから聞こえてきた。やけに芝居がかったヒロイックな口調。バックに響く金管楽器の豪奢な劇伴のおかげで、それが壁面スクリーンから流れているものだとわかった。
女は弾かれたように動いた。さっきまでブランドンと話していたことなど忘れたように、二人掛けのソファへ飛び込むようにして座った。それから一言も発することなく、スクリーンに釘付けになった。
ブランドンは靴を脱ぐと、摺り足でリビングへ足を向け、ドアの陰に潜んで様子を伺った。女はワイヤレスのヘッドホンを被り、ガチガチと爪を噛みながら壁一面に映し出される活劇に夢中になっていた。もしもこのタイミングで古典的な強盗が侵入してきても気づかないだろう。それほどまでに女を夢中にさせているのは、ただのアニメだ。ただのアニメではあっても、それは所属企業から各社員へ支給される、精神健康保全を目的としたアニメだ。
画面の中では、赤いハンティングジャケットに身を包んだ若い少年たちが、悪辣な風貌の男たちと向かい合っている。背景を流れるのは鉄筋コンクリートの瓦礫の残骸。周囲は深い森に覆われ、高い夜空から降り注ぐ満月の光が、登場人物たちの創作された人格を封じ込めるデフォルメされた輪郭を、その陰影を強調する。キャラクター同士のダイアローグから察するに、どうやら敵本拠地での戦いらしい。斬撃のような効果音。少年が奇術のように手を翻す。次の瞬間には五十口径以上の怪物的拳銃が、重々しい音と共に握られていた。金管楽器が盛り立てる劇伴のリズムと、瞳の奥に昏い情念を抱える少年の眼差が重なる。輝く閃光のエフェクト、フレーム・パー・セコンドの狭間に仕掛けられたポスト・プロダクションの痕跡が、ドラマチックな演出を強化し、そして少年ヒーローのチームは強大な敵の軍勢を強襲する。
これが豪華な画面であることは、アニメに疎いブランドンにもすぐに分かった。ワンカットごとに濃密な情報量が込められ、キャラクターは生き生きと躍動し、悪役はますます悪辣さを発揮し、ストーリーは時に偉大な探検船となり、ある時は霧に閉ざされた湖畔に浮かぶ小舟となり、ある時はウォータージェットコースターへと変貌し、キャラクターたちを物語の深淵世界へと力強く運び込んでいく。その圧倒的冒険体験は、ほとんど完璧に近いフィクションとなって女の網膜へ焼き付き、生体フィルターを通じて神経細胞のネットワークを活性化させ、不眠不休で働く女の精神を癒していく。心のコリやハリを、熟練のヨガ・マスターの手でほぐしていくような要領で。
テーブルに置かれたビンテージのマグカップ。香ばしい黒い液体が放っていたはずの熱は、活性化していく女の精神へ吸引されてしまったのだろうか、一度も口につけられぬまま、温くなっている。
あけすけな態度とは裏腹に、彼女の口は小さかった。その小さな口は半開きのまま。空気の出入りを繰り返している。そのうち、紅がかかる前の土地に恵みを授けるように、雨が降る。粘ついた雨が、スーパーグルーのような涎が糸を引いて垂れ落ちる。
女は、自分が粗相を犯していることにすら意識的でなく、だがその瞳にははっきりと女自身の意識の火が灯っている。彼女は進んで、こうした状況に陥ることを好んでいる。他人にどう見られようと、大事なのは自分の体であり、自分の心の状態だった。
レーヴァトール社。全盛期を過ぎているとはいえ、都市最大の存在力を依然として保持するこの大企業が都市に与えうる影響力は、いまも健在である。パワー・オブ・パワーを標榜する人海戦術的な販促力と、時代の流れを正確に読み取り、率先してイニシアチブを握るマーケティング戦略とを掛け合わせて、都市が新たに生み出した新技術の拡大と普及に偉大な貢献を為したことに異論の余地はない。各種生体用ナノマシンを用いた生物工学手術による内的拡張――その最先端を往く《フューリーオーグ》技術は、多くのメーカーやサービス事業者にとって、喉から手が出るほどに魅力的なものだった。それは、権力者たちが待ち望んでいた《新人類》の到来を意味していた。
内分泌系や自律神経系の制御・強化による恒常性のパワーアップ……以前は侵襲型サイボーグにのみ許されていた機能だが、医療科学と電脳ネットワーク技術の応用により、より一般的なものになった。体温調節の柔軟化、免疫システムへの自己認識機能付与、物質代謝およびエネルギー代謝のスムーズ化。タンパク質の生成速度および濃度調節の自動化……さらに、血中成分に各臓器が最初から備えている、日中の活動に必要な栄養成分の生産機能を肩代わりさせるという離れ業。そうして余剰機能を持つに至った臓器を使い、体内不合成の楔を解き放ち、必須アミノ酸の現実的な生成を可能とした医療科学による肉体の驚異的バージョンアップ。
こうした内的改造の数々がもたらしたものは、「ほとんど半永久的な自己完結生物」としての新しい人間の到来だった。フューリーオーグ技術は、生活にとっての必要栄養素を摂取する義務を負うことなしに、二十四時間の肉体活動を連続実行可能とする。
まさにこれは在野の科学仙人だ。そして、肉体的には完全に人間離れした在野の科学仙人は、尋常ならざる肉体に不釣り合いな精神的健康状態を悪化させないために。
アニメをキメる。
いまの彼女がそうであるように。どこからか会社が仕入れてきた……それにしては極め付きのクオリティである全十二話のアニメを、三日に一話のペースで貪るようにキメる。アンビエントやハルシオンの代わりに、カットの連続性と豪華な作画を堪能する。
アニメだけじゃない。時によってはドラマもキメる。
もちろん映画も。
そのひとつひとつを、彼らは文字通り、心の底から摂取する。フィクションという虚構で精神を元気づけ、リアルという肉体を駆動させる。
色や瞬く光だけが、まだ暗さの残る室内に溢れ、ブランドンの全身を塗りつぶすように映り込む。
ブランドンは、歯がゆい気持ちでいた。自分の過去と全く無関係ではないこの技術が、こうしてごくごく普通のアパートの一室に浸透しきっているということに。あれから七年が経った。七年。技術の躍進に端を発する都市の労働形態、ひいては都市そのものを変えるには、十分すぎるほどの時間。
……じゃあ、俺は何か変わったのか?
「あなた、なに勝手に上がってきてるのよ」
ブランドンが過去を振り返っている間、女はヘッドホンをすでに外して支度にとりかかっていた。すでにスクリーンの電源は落とされている。死んだように無音のスクリーンは、仄暗いブランドンの顔を映している。
「とにかくだけど、そのピート? とかなんとか、知らないからね。あたしは。知り合いにそんな名前の人、いないし。それにね」
女はテーブルの上のマグカップを手に持つと、ブランドンの前を横切り、キッチンへ向かった。多くの人々がそうするように、日々のルーチンに回収するようなさりげなさで、無意識のながれのひとつとして、マグカップの中身をシンクの底へ捨てた。
「現実で何人死のうが関係ないわ。物語の登場人物が死んじゃうことのほうが、哀しいから」
ブランドンは、最後に恐ろしいものでも見たような表情を女の背に送り、部屋を出ていった。




