3-3 悪夢と現実
隊長、隊長――
声のしたほうを振り返ると、見慣れた者たちの顔があった。
隊長、なにしてるんですか――
「お前たちこそ、こんなところで何をしているんだ?」
ブランドンは静かに問い返す。かつて自分を慕ってくれていた部下たちは横一列に並んで、直立姿勢のまま、思い思いに体を弄んでいた。ブランドンを含め、その場にいる全員が、銀色に輝く海面の上に立っていた。
ジェームズは引き締まった脇腹から大きくはみ出た大腸を、カウボーイのロープワークさながらに器用に振り回しながら、あどけない表情で笑っていた。年のわりに童顔なのが彼のコンプレックスだったが、そんな彼を好きでいてくれていた年上の彼女がいた。死ぬ一週間前に、二人は婚約届を役所に提出したばかりだった。
隊長がこっちに来るのを待ってるに決まってるじゃないですか――
別の声がした。その人物を見ると、粉々に砕け散った顔の左半分から、熟れた柘榴のように脳味噌の一部が吹き出していた。ダリウスだ。彼が何かを口にすればするほど、ぽろぽろと口腔から蛆虫が零れ落ち、右耳からどろりと赤黒い血が垂れた。それを見た他の隊員たちが、面白がってちょっかいをかけた。人懐っこい男だった。それなりの戦闘経験を積んでいたが、決してそれを鼻にかけることをしない、後輩の面倒をよく見てくれる部下だった。
いつまで俺たちを待たせるつもりですか――
隊で最年少だったユリウスが、重要な血管の束を切り裂かれた左大腿部の付け根から、勢いよく血を流しながら、大声で呼びかけた。何度も呼び掛けているうちに、全身の骨が関節を無視して捻じ曲がり、空気を抜かれたバルーン人形のように、水面の上でぺしゃんこになった。隊の中でいちばんの運動神経を誇った、元機械体操選手としての面影はそこにはない。シミやくすみとは無縁だったはずの白い皮膚は、いまや完全に潤みを喪い、何日も炎天下に放置された病気の鳥の皮のように濁っている。
ほら、こうして隊長に会えて、俺の心臓もピクピク喜んでますよ――
頭からつま先まで、全身が真っ黒に焼け焦げた男が、野太い声で呼びかけた。声でジュリアンだと分かった。確かに彼の言葉通りのことが目の前で起っていた。先天的に心臓が肥大化する病気を抱えていて、そのせいで体のほとんどを機械化していたジュリアン。金属に輝く人工パイプに繋げられた握り拳ほどのサイズのピンク色の臓器が、胸元から剥き出しになっていて――死者の命を刻んでいた。だが、それもわずかな間のことだった。鼓動を刻んでいくうちに、ジュリアンの心臓は次第に輝きを失くしていった。心臓は周辺から中心に向かってじわじわと黒ずんで硬化していき、最後には、完成したパズルを床へ叩きつけたときの欠片のように、ぽろぽろと崩れ落ちていく。
「お前たち」
泣きそうな顔になって何かを口にしようとした拍子、部下の顔をした死者の隊列が、どっと哄笑した。途端、人肉の焼け焦げたひどい匂いがあたりに充満し、強烈に鼻腔を刺激してきた。それは、記憶の体臭ともいうべきものだった。いきなり獰猛な牙を剥いてきた過去を前に、ブランドンに出来ることは限られていた。激しい後悔と罪の意識に苛まれ、ひどく顔を歪めることしかできなかった。
自らの手で死地に追いやった部下たちに、かける言葉も見つからないまま。
じゃあ、また来てくださいね――
ジェームズが言い終わるやいなや、急にブランドンは、自分の体重が消えたような錯覚に襲われ、次の瞬間には、銀色に輝く海中に沈んでいた。必死にもがき、上昇しようとするが、海水は死者の手のようにブランドンの肩に、腕に、腰に、太腿に絡みつき、どんどん沈めていく。
海中を照らす光が徐々に弱くなり、呼吸が限界を迎える。肺の中に残るわずかな空気が、頼りない泡となって口から吐き出された。途端、入れ替わるようにして、鉛のような重さの海水が、怒涛の勢いで流れ込んでくる。苦しさに目を白黒させ、手足をばたつかせるも、死は遠ざからない。
それが遠ざかる時が来るのだとすれば、それは過去が清算された時だ。
過去の清算――その手段はどこに?
薄れゆく意識のなか、ブランドンが最後に考えたのは、そのことだった。
▲▲▲
悪夢から息を吹き返すきっかけをつくったのは、通りを行き交う電動カーでも、近隣住民の騒音でもなく、玄関のチャイムだった。
夏日であるのに加えて、このところ、ひっきりなしに襲い掛かる悪夢のせいで、ひどい寝汗をかいている。息苦しさから立ち直ろうと、ブランドンは何度も深呼吸を繰り返しながら、ぼさぼさの黒髪を手で掻きむしった。そろそろ、散髪にも行かなくてはならない。
チャイムは、まだ鳴り続けている。
「(……しつこいな)」
時刻は朝の六時を少し回ったところだ。この時間帯に訪ねてくるケースと言ったら、ブランドンの経験上、三択しかない。
ひとつは、訳の分からない因縁をつけてくる病的な隣人。ふたつめは、住民調査を生業とする民生委員。残る可能性が、警察だ。
ベッドから起き上がり、インターホンへ近づく。応答モードをオンにすると、玄関に備え付けの子機を通じてモニターに映像が出た。薄いブルーのストライプ柄の半袖シャツにグレーのスラックスを履いた中年男性と、白のブラウスにピンクのロングスカートを履いた若い女性とが立っている。
「もしもし?」
『あぁ、すいませんね、朝早くから』
寝起きの声で不機嫌さを隠そうともせずに呼びかけると、中年男が遠慮がちそうに応じてきた。白髪交じりの黒髪をオールバックにまとめている。清潔感のある雰囲気だが、声の調子に「慣れ」があると、ブランドンは直感した。
「もしかして、警察ですか?」
『あー、えっとですね……』
中年男はすぐには答えず、代わりに、胸ポケットから手帳を取り出して、インターホンのカメラにそれを映した。手帳にはチタン合金製のエンブレムが刻まれていた。炎の冠を被った、跳ね馬を模した意匠だ。警察組織の手帳でないことは、すぐに分かった。
訝しむブランドンの警戒心をほぐすように、中年男が出来る限りの柔らかい口調で言った。
『我々は民間捜査組織の者でして、少しお伺いしたいことがあるんですが、よろしいですかね?』
「どこの所属ですか?」
『ギャロップ・ギルドって、聞いたことありません? けっこー前から活動してるんですが』
「……ちょっと待っててください。すぐ開けますから」
インターホンを切って、リビングの端っこに置いてある姿見の前に移動する。黒のタンクトップとハーフパンツ。寝巻きで知らない人と対面するのは気が引けるが、すぐにその考えを捨て、別に構いやしないと開き直る。それから、妻と子が映っているデジタル・フォトフレームを伏せて、最後に冷蔵庫の扉を開けた。
食材は一つもない。その代わりに、自動拳銃が一丁置かれている。昔からの癖だ。彼がまだ、まともな生活を送っていた頃からの。
冷えた鋼鉄の武器を手に取り、撃鉄を起こす。セイフティはかけたまま、腰の後ろに挿し込んでから、玄関へ向かう。
「(珍しいな。市警専属の狗が、何の用だ?)」
もし、相手が本物のホワイト・ギルドの者なら、素直に応じるつもりでいた。もしそうでなかったら……つまり、ホワイト・ギルドを装った強盗だとしたら、容赦なく発砲する。単純な二択だ。
ドアノブに手をかける。チェーンはそのまま、わずかな隙間を作って、玄関先で応対する。中年男が「あ、どーも」と、隙間の向こう側で呑気な調子でお辞儀をしてきた。この角度からは、女性の姿は見えない。
「ここにお住いのブランドン・ブリッジスさんで、お間違いないですか?」
「そうですが、なにかありました?」
「ええ、じつは」
中年男は、いつの間にかタブレットを用意していた。覗き込むようにして見ると、画像が表示してあるのにブランドンは気づいた。
「この男性に見覚えはありませんか?」
画像を目にした瞬間、じっとりと嫌な汗が背中から吹き出る感覚があった。画像自体は、至って普通だ。ブランドンが予感を覚えたのは、そこではない。状況の問題だった。わざわざこの状況で、その画像を、よりにもよって市警の狗が見せてくるということに、大きな意味があった。
ブランドンは画像から目を離し、中年男の顔を見た。先ほどまでの、役所勤めの公務員といった雰囲気は鳴りを潜め、感情の読み取れない表情を浮かべている。プロの顔つきだ。そういう顔つきの者たちを、これまでブランドンはたくさん目にしてきた。
「どうですか?」
有無を言わさない、静かな迫力があった。ブランドンは息を呑み、恐る恐る問い返した。
「ピート……ピート・サザーランドが、どうかしましたか?」
「ご存じ、なんですね?」
中年男の表情に変化はない。不穏な感覚が、ブランドンの中で高まっていく。
「はい……あの、彼がなにか」
その先に中年男が口にした言葉は、ブランドンを絶望の淵に叩き落とすのに、十分な効力を発揮した。
「今日の未明に、ピート・サザーランドさんの遺体が、湾港工業地帯の第四ロジティクス・センター前で発見されましてね。状況からして、他殺と自殺の両面で捜査を進めているんですが、ちょっと彼のことで確認したいことがありまして。ここだと人目につきますから、どうです? どこか喫茶店で、お話を伺ってもよろしいですかね?」




