彼の後悔
「リディス・マーストン。クラベス元子爵家令嬢、アンナ・クラベスの監視を命じる。」
その通達を受けたのは、俺がまだ二十一歳の若造で、青騎士団第二小隊長となってから半年過ぎた頃のことだった。団長直々に声を掛けられたと思えばこんな任務か…と少々がっかりしたのを覚えている。
我がネルチス王国は、百年ほど前にデュトリス王国に敗れてから非公式ではあるが、属国のような扱いを受けている。そのせいか、この度国外追放の沙汰が下りたクラベス家が我が国に移住するらしい。自国の問題を他国に押し付けるなど、迷惑としか言いようがない。
しかも、今回俺はその問題の一家の娘を監視しなければならないという。完全に貧乏くじだ。
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王都に工房を構える鍛冶師の三男として生まれた俺は、昔から鍛冶師よりも、凛々しく剣を携えた騎士に憧れていた。幸い家業は兄二人が継ぐというので、割と早くから騎士団に入ることは俺の目標であり、決定事項でもあった。
周りの男たちよりも体格に恵まれた俺は、青騎士団の入団が許される十五歳になるとすぐに試験を受け、それからは騎士の名に恥じない男になろうと日々鍛錬してきた。同僚からは「固い」だの「もっと柔軟になれ」とか言われることもあったが、浮ついた気持ちで騎士などできるかと己の信じる道を突き進んできたことに後悔はない。いや、なかったと言った方がいいのか。
あの少女のことだけは、振り払っても振り払っても消えない靄のように、いつまでも心の隅に残ったままだ。
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実は、団長から任務内容を聞いた時、どんな高飛車女が来るのかと憂鬱だった。我儘放題で育った女が庶民の生活に馴染めるわけがないと。
しかし実際見てみれば、アンナは(見た目は)清らかで利発そうな少女だった。彼女の家族は想像通りの嫌な「お貴族様」といった感じだったので、あながちこの任務も外れではなかったかもしれない。
彼女たちが王都で暮らし始めてすぐ、彼女は仕立て屋で働き始めた。その腕は確からしく、徐々に街の住民にも受け入れられていて、彼女なりに今の生活を充実させているようだった。碌でもない家族は相変わらずだったが。
突然だが、ここで俺の任務について確認しておきたい。
俺の受けた任務は「アンナの監視」だ。そう『監視』である。他のところではどうだか知らないが、とりあえず俺の認識する「監視」とは、「一定の距離を置いて対象者・対象物を見張ること」なのだ。対象者と親しくなりつつ監視することもあるだろうが、俺の性格からしてそれは無理。
…と思っていたのだが、作戦の変更を余儀なくされることとなった。うむ、まあなんというか、俺もこれは予想していなかったというか…
彼女は危機感がなさすぎた。
街へ買い物へ出かければ、荷物を掏られそうになる。店の用事を頼まれて外に出れば、浮ついた男どもに声を掛けられる。関係ない夫婦喧嘩の真っただ中に入り込む。露店で万引きしたと疑われる。子供にぶつかって泣かれる。未だに利用価値があると思われているのか、デュトリス王国の間者らしき男に攫われそうになる。道を聞かれて親切に答えれば、お礼にと娼館へ連れ込まれそうになったこともあった。
…分かるだろう、俺の心労が。
そういうわけで、度々騒ぎに巻き込まれる彼女を助けていたら、いつの間にやら会話を交わす程には親しくなっていたわけだ。
同僚には「手を出したのか」やら「任務を変われ」だの言われることもあったが、彼女と俺は監視役と対象者の関係でしかない。任務中にそんな不埒なことを考えるなど、俺の騎士道に反する。彼女は言うならば、手のかかる妹のようなものだ。だからそんな感情を抱くはずもない。
なんて思っていたのが懐かしい。
あの日、「私を抱いて下さいませんか」という彼女の思いがけない言葉に戸惑い狼狽しているうちに、なぜか自宅に連れ込まれ(俺の家なのに…)、女性を相手に手を上げることもできず、口先での抵抗しかできなかった。しかも彼女の手がどんどん妖しげな動きをしたり、非常に扇情的なキスをされたりするうちに、理性と言う名の枷がどこかへ行ってしまった。
それからはもう貪るという言葉がぴったりの、しかし夢のような時間だった。俺の下でとろけるような瞳を見せる彼女や、痛みに耐える健気な表情も、今でも鮮明に思い出せる。
俺は任務遂行中に何をしてしまったんだ…と頭を抱えるも、いつの間にか彼女への気持ちの方が大きく育っていたらしい。こうなったら任務を他の奴にまかせるか、それとも俺がもっと近くで見張ればいいんだ、という結論に達し、まどろむ彼女を腕にきつく抱きしめた。
ゆっくりと眠りに就いた彼女の頬に口づけを一つ落とし、間もなくやって来るであろう客を迎えるために居間へと移動する。彼女の監視報告を副団長にしなければならない。
それから間もなく訪れた副団長に、最近の彼女の動向を報告する。といってもいつもと変わり映えのない街娘の行動など高が知れている。すぐに終わった報告に、副団長も苦笑いしていた。そのあとはデュリトス王国のことや、今後の予定について少し話をし、時計の針が一回りする前に副団長は帰って行った。「大事なものはしっかり捕まえておけ」という一言とともに。
あと少しだ。この任務が終わったら…彼女に伝えよう。それまではまだこのままで。曖昧なのは本意ではないが、俺は騎士だから任務を優先しなければならない。でも今だけは…とベッドで眠る彼女の横で幸せな時を過ごした。
なぜ彼女がこんなことをしたのか、なぜ彼女の家族の動向を気にかけなかったのか、後々後悔するとも知らずに。
その翌日から演習のため王都から一週間ほど留守にした。明確な言葉を言ってやれなかった彼女には悪いことをしたと思うも、これからはもっとそばで守ってやろうと決める。言葉が贈れないならせめて、と近くの街で女性物のアクセサリーを購入し、王都へ逸る心を宥めながら帰途したのだが。
久しぶりに彼女の顔を見ようと彼女の働く店へ行った俺に、信じられないような現実が付きつけられる。
アンナが俺ではない男と結婚した。
この一週間彼女を監視していた同僚によれば、今回のことは彼女の家族が決めてきた縁談のようで、相手はあの悪名高い貴族だという。
先日の彼女の必死な様子を思い返せば、きっと俺に助けを求めたかったのだろうと分かった。どうして気付いてやれなかったんだろうと後悔するも、既に彼女は行ってしまった。かの貴族は若い妻を迎えては屋敷から出さないことで有名で、きっと俺は彼女に会うことも叶わない。
しかし今更会ったところで、俺が彼女を見捨てたということに変わりはない。
せめて彼女が幸せになることを祈るだけだ。
あまりの衝撃に足元が覚束ないような感覚のまま家へ帰れば、寝室はあの日のまま。
ここで彼女を抱きしめたはずなのに…もう遠く離れてしまった俺たちの距離。
静かに流した涙の熱さを、俺は一生忘れない。




