4 サルヴェニア子爵領の終わりと、ダナフォール侯爵領の始まり(後編)
――サルヴェニア子爵領が、ダナフォール侯爵領に昇格する。
その知らせに、レイフ達は沸いた。
殆どの官僚がその場で泣き崩れ、来客達が仰天していたことは、今となっては笑い話である。
侯爵を担う人材が来るのであれば、きっとこの領地は救われる。
レイフ達だけでは現状に手をこまねいていることしかできなかったけれども、侯爵であればきっと、三代のサルヴェニア子爵達が何とか守ってきたこの場所を良くしてくれる。
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そして、その吉報のしばらく後に、元子爵であるサーシャ=ガードナー次期辺境伯夫人が、ダナフォール侯爵への引継ぎのためにこの地に舞い戻った。
サーシャ夫人は、何よりも先に、レイフ達に対して頭を下げた。
子爵領を見捨てて逃げて申し訳なかったと、深く深く、頭を下げてくれたのだ。
けれども、謝るべきは彼女ではない。
「謝るのはこちらの方です。本当に申し訳ございませんでした」
レイフはすぐさま、サーシャ夫人に謝罪した。
慌てるサーシャ夫人に構わず、泣きながら、深く深く、頭を下げた。
レイフだけでない。
他の部長達も、涙をこぼしながら、サーシャ夫人に頭を下げていた。
彼らもレイフと同じように、ずっと後悔していたらしい。
「誰が、サーシャ様を責められましょうか」
「レイフ部長……」
「子どもだったあなたに縋ることしかできなかった我々に、あなたが謝る必要はないのです。私達にこそ、謝らせてください。本当に、申し訳ありませんでした」
泣き続けるレイフ達に、サーシャ夫人もボロボロ涙をこぼしていた。
散々皆で泣きはらした後、レイフは久しぶりに会ったサーシャ夫人をようやく正面から見て、笑みをこぼした。
彼女は前よりも少し日に焼けていて、ガリガリの細身だった体も、ふっくらと健康的になっていた。疲労でこわばりがちだった表情も明るく、ガードナー辺境伯領で大事にされていることが窺われる。
レイフ達から解放されたサーシャ夫人は、自らの力で幸せを掴んでいる。
そのことが本当に嬉しく、贖罪の気持ちを忘れる訳ではないが、救われたような気持ちだった。
「お帰りなさいませ、サーシャ様」
つい昔のようにそう伝えたレイフに、サーシャ夫人は花がほころぶような笑みを返してくれた。
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その後、ダグラス=ダナフォール侯爵が、この地に舞い降りた。
細身で怜悧な瞳の男だった。
顔には柔和な笑みを浮かべているものの、そのダークブルーの瞳は、したたかな強さを伝えてくる。
華のある男だと、レイフは思った。
外交官であったというのも頷ける。彼は、見た目で人を圧倒させる術を知っている。
レイフ達はサーシャ夫人と共に、ダグラス侯爵の連れて来た高官達やダグラスの長男ダニエル達に対し、後援に立つガードナー辺境伯とガードナー次期辺境伯が同席の元、まずは引き継ぎを行う。
まずは概要、その後に詳細をということで、初日は全体像について、レイフ達各部の部長と筆頭課の課長達から説明を行った。
ダグラス侯爵は、レイフ達が驚くほどに有能な男であった。
レイフ達が何度か読み込まねば理解できないであろう事業内容の説明書を、さらりと一読するだけで理解してくる。その上で、内容に踏み込んだ質問を繰り広げ、時間がかかりそうになると、「ふむ。興味深いが今日は時間がない。明日以降の詳細説明の際に聞くので準備しておくように」と、時間管理にも敏い。
そしてそれはダグラス侯爵だけでなく、彼を囲む高官達にもいえることであった。
レイフは、初代子爵ザックスが大量に目の前にいるような錯覚を覚えた。
「このジャムカという果物の密輸の摘発が問題となっていまして、お手元の資料のように対応しています」
「ふむ、王都の女性達に大流行した美容油の元だな」
「はい。土地の栄養分を吸い上げすぎるので、全面的にその育成は禁止されており、その輸入自体も禁じられているのですが、関所で相当もめるため、この領内においては全てを摘発しきれておらず……」
「対処療法だけだと追い付かないということか。ところでこのジャムカという果物、遠方のフィリカ王国ではもう流行っていないはずだな」
「え?」
「そうですね、ダグラス様。代わりにオリーブという、より香りがよく、乾燥地に強い果実を流行らせたようです」
「王都ではその情報を元にオリーブを流行らせるよう内々に手配しているため、ジャムカは少しずつ需要が減っています」
「この地にはまだオリーブの情報が足りないのだろう。人を使って噂を撒け。実際に、王都の商人にオリーブを融通させるように。あとは、辺境伯閣下にもお力添えいただけますか。南方の方がオリーブの収穫量は多いはずだ」
「いいだろう、手配しておく」
「ありがとう存じます。――オリーブが流行り、ジャムカが廃れるまでの対応は、今までどおりでよい。ジャムカを廃らせたことに関する苦情対応は、ヨルドを主、フィンセルを副として一任するので、今週中に案を上げるように」
「かしこまりまして」
「では、次」
あっという間に懸案事項が解決してしまったことに、レイフ達は唖然とする。
今日はまだ引継ぎ初日で、レイフ達はまだ概要の話しかしていないというのに、このような流れで、あっという間に話がまとまっていくのだ。まとまらずとも、「こういうのはナサニエルが得意だな。詳細引継ぎの日までに、ある程度理解を深めておけ」といった指示があるなど、ダグラス侯爵の頭の中に問題の着地点や対応案が既に存在しているであろうことがにじみ出ている。
(国の高官は優秀だと分かっていたはずだが……、ここまで我々との差があるとは)
全体説明を終えたレイフ達は、この土地が救われる実感を持つと同時に、身の置き場もないような気持ちで一杯であった。
ダグラス侯爵は、彼の連れて来た高官達は、レイフ達の説明を聞いてどう思ったであろうか。
概要ではあるが、この領内の惨状を知り、内心憤っているのではないだろうか。レイフ達が手をこまねいていたからここまで悪くなったのだと、手の付けようがないと、見放しはしないだろうか。
レイフ達は今まで全力で尽力してきたけれども、過酷な労働環境の中、全ての事務に対して最大の力を発揮できたとは言い難い。優先すべき案件が重なれば、どれかは疎かになるし、手を緩めるとその案件の関係者が憤り、問題案件にまで発展してしまう。そういった、『時間と余裕さえあれば実現できた最善の手段』が、レイフ達を常に後悔に走らせる。
そして、一番の問題は、事態改善に伴う苦情対応。
たとえ事態の解決案を見出したとしても、その実現に伴う苦情対応で、大きく気力をそがれることとなるのだ。
今までこの地に配属された子爵達は優秀な者が多かったけれども、この苦情対応で心が折れ、爵位の返上が相次いだと伝え聞いている。
この目の前の新侯爵は果たして、折れずにいられるだろうか。
新しい領主の顔色を窺う、旧子爵領の面々達。
しかし、ダグラス侯爵は笑った。
沈み込んだ顔をしているレイフ達、そしてサーシャ夫人を見て、声を上げて朗らかに笑ったのだ。
「どうした。みな、葬式のような顔をしているではないか」
「……それは、その。領内の現状の概要を説明しましたが、あまりにも問題が多く……申し訳ない気持ちで一杯なのです」
「確かに、昨今中々ない荒れ具合であるな」
レイフ達は、その言葉に身をすくませる。暗い顔をしたサーシャ夫人に、ガードナー次期辺境伯はもの言いたげな顔をしている。
しかし、ダグラス侯爵の連れて来た高官達やガードナー辺境伯は、信頼に満ちた目で、新侯爵を見ていた。
ダグラス侯爵は顎に手を当て、破顔した。
「うむ、悪くない。心躍るではないか!」
レイフは思わずぽかんとした。
レイフだけではなく、旧サルヴェニア子爵領にいた者達は皆、唖然としている。
上手く反応できないレイフ達に、ダグラスは続けた。
「課題は多い。やるべきこと、対応に必要な労力も多い。領民のための施策であるにもかかわらず、協力しない領民の多いこと。定住する者は少なく、集まる者の気性は荒く――確かにこれは、統治の難所である」
「……さようでございますか」
「だからこそ良いのだ」
誰もが、ダグラス侯爵の話に耳を傾けている。不敵な笑みを浮かべる彼に、魅了されている。
「私はね、昔からそうなのだよ。簡単な仕事はしたくない。難易度の低い仕事は、できて当然の仕事であり、失敗すると信用を損なう。あっという間に終わるので、仕事に左右されない平穏な私生活は手に入るが、私にとっては得るものが少ないので、人に譲るようにしている。――お前達が、『早く家に帰れる!』と喜んで引き受けてくれるあれだ」
ダグラス侯爵の言葉に、彼が引き連れて来た高官達は、ドッと笑い声を上げた。
「だが、困難な仕事はどうだろうか。誰もが成し遂げると期待していない、達成率の低い仕事。それが、今、私の目の前にある。そしてそれは、私が今までの人生で培ってきた能力、人脈、資産、ありとあらゆるものを利用しさえすれば解決できると確信できる内容のものだ。成し遂げることで手に入る名誉も申し分なく、私はこの機会を逃すつもりがない」
そうして、ダグラス侯爵は、その場にいる者全員の顔を見た後、ニヤリと笑った。
「ただ一つ、不満があるとすればそうだな。調べた結果、想定よりも難易度が低く、少し物足りないということぐらいだろうか」
もはや開いた口がふさがらないレイフ達に、ダグラス侯爵は心から楽しそうにしている。
「今日の引継ぎだけではない。事前の資料を読み、独自の調査を行い、ここに来てからも領民達の様子を見て来た。正直、感服した。よくぞここまで、耐え忍んできた」
「こ、侯爵閣下……」
「もちろん、それぞれの問題に関し、抜本的な解決をみることはできていない。しかし、放置していた訳ではない」
子爵領の強みである税収を保つため、税徴収のための兵力に注ぐ費用を削らず維持している。経済振興は疎かになりつつあるが、最低限の困窮対策は維持してある。医療機関を維持するための施策を優先して行い、警備隊の人材確保や訓練を怠らず、人命を優先することができている。
ダグラス侯爵は、そう言うと、満足そうに微笑んだ。
「子爵領としてあるべき以上の力を発揮し、伯爵家のように人脈や名誉のない中、限られた手段の中から、よくぞここまでの体制を維持し、耐え忍んできた。この子爵領を支えてきたのは、間違いなくお前達だ。これからこの地を治める者として、私はお前達のことを誇らしく思う」
レイフは、ほろり、と熱いものが頬を伝って、自分が泣いていることに気が付いた。
もっと、最善の手段があったはずなのだ。レイフ達でなければ、きっともっと、効率よく、この地を救うことができた。幼かったサーシャ夫人に、無理をさせることもなかった。至らない自分が悔しくて許せなくて、けれども、そんなレイフ達が足掻きながら成してきたことを、この侯爵は認めてくれている。
「これから私は、この地に関して、全面的に改革を行っていく。お前達の今までのやり方を、大きく変えていくことになるだろう。しかしそれは決して、お前達のしてきたことを否定するものではない。お前達の培ってきた土台があるからこそ、ここで大きく動き出すことができるのだ。そのことを、しかと理解するように」
嗚咽で言葉を出せないレイフ達に、ダグラス侯爵はただ微笑んでいた。
サーシャ夫人も、夫のガイアス次期辺境伯に支えられながら、泣き崩れている。
その後、ダグラス侯爵は、元子爵領時代からいる官僚達に対し、半年間に渡る特別手当の支給と、二年分の昇給を認めた。
今までこの地を支えてきた官僚達に対する、侯爵の感謝を示すためのものということだ。
引継ぎの初日、会議を解散し、事務室に戻ったレイフが今日の侯爵からの話を部下達に伝えたところ、部下達の多くは涙し、泣き崩れていた。みな、限界まで身をすり減らしながら、なんとかこの場に踏みとどまっていたのだ。そこに、こんなふうに希望と安心を与えられたら、緊張の糸が切れてしまうのも無理もないことだと思う。
そしてレイフは、自席に戻り、今日の資料をまとめ、一日席を空けている間に溜まった稟議書に乾いた笑みを浮かべながら、ふと、引継ぎ会議の最後にダグラス侯爵が呟いたことについて考えを巡らせた。
「とにかく、苦情対策が鍵だな。最も見せしめにふさわしいのは、鉱山周りか」
(あの鉱山周りに、着手するというのか……)
何をしても怒鳴り込んでくる、歴代子爵を最も悩ませた、この地の鉱員達。
そこにこちらから触れるなど、火薬庫で踊るようなもので、レイフには考えられないことだった。
(でも、あの侯爵閣下ならば、きっと)
統治部長レイフはその日、本当に久しぶりに、心から安心した笑みを浮かべたのである。




