3 サルヴェニア子爵領の終わりと、ダナフォール侯爵領の始まり(前編)
統治部長レイフ=レドモンドは、サルヴェニア子爵領の出身だ。
彼は人生において、何度もこの仕事を辞めようと考えたが、領民達のことを思い、途中からは養うべき家族のことも思い、その考えを翻してきた。そして、三十年以上、このサルヴェニア子爵領で官僚として働き、現在は、統治部の部長として、その采配を振るっている。
統治部長レイフ=レドモンドは、銀行勤めの父の三男として生まれ育った。
レイフは昔から、皆が笑っているところを見ることが好きだった。サービス精神が旺盛で、一人でも多くの人のためになることをしたいと思いながら、すくすくと成長した。
成人となり、父の勧めで、行員見習いとして働き始める。
そして、先輩達の融資を斡旋したり、借金を返せない人達のところに取り立てに行く姿を見ながら、思ったのだ。
(私は……多分、銀行という職場に向いてない)
レイフは、行員としての仕事と、自分の本質との相性の悪さに気が付いた。
そうして悩んでいるときに、街の掲示板にある募集に目を留めた。
『サルヴェニア子爵領事務官募集中! 統治、財務、経済、福祉、税、どの部署でも新たな人材を求めています!』
領地が広がる訳でもない領地の官僚をこれだけ大量募集するということは、相当な人数が離職しているということなのだが、若いレイフはそのことに気が付かない。
(領民皆のためにする、仕事……)
それを天職のように感じたレイフは、すぐにその募集に対して応募し、見事に合格を果たした。
そうして、サルヴェニア子爵領の施政の実態を知った。
けれども、このときは辞めようとまでは思わなかった。
彼がこの場に就職した当時、彼の一番上の上司は、初代サルヴェニア子爵であるザックス=サルヴェニアであった。その嫡男スティーブ=サルヴェニアの協力もあり、その統治は安定とは言い難かったけれども、まだしもマシな段階で踏みとどまっていたのである。
彼ら領主親子は、抜本的な解決はできないまでも、その場その場で機転を利かせ、関係者達を言いくるめ、官僚達に負担が行かないよう、必要最低限をこなす形でこの地の統治を行っていた。多くの困難があったけれども、彼ら領主親子がいればまだ大丈夫であるという、安心と信頼がそこにはあった。
それに、レイフはこの領主親子のことを尊敬していた。
子爵領の官僚として勤め始めたレイフ達は、おそらく、王都で官僚として働いていた領主親子の目から見ると、視野が狭かったり、要領が悪いところが散見されたであろう。しかし、彼らは、レイフ達を信頼のおける大切な仲間として扱い、成果を認めてくれた。
理不尽なクレーム対応や、締め切りの近い事業に耐えてこられたのは、偏に領主親子のおかげだった。
残業代についても、地方官僚は定額制が多く、どれだけ働いても金額が変わらないことが多いのだが、馬車馬のように働くレイフ達を見た領主親子は、王都と同じように、勤務時間に応じた支給制度を採用してくれた。
「私は、理不尽なことの多いこの地に勤め続け、領民のために尽くしている君たちを心から尊敬している。その真面目で優秀な君達が、勤務時間外に残ってまでやらねばらならないことがあるというのだ。それ相応の報酬を払うのは当然のことだろう?」
何の疑いもなくそう告げる領主親子に、レイフ達がどれほど救われたことか。
そして、どれほどやる気を奮い立たされたことだろう。
実際、サルヴェニア子爵領は激務のため、嘘の勤務時間を申告するような輩は、長く勤め続けることのできない職場だ。残業代が勤務時間応分制になった後も、不正受給などの事件は起こることはなかった。
雲行きが変わってきたのは、初代子爵ザックスとその妻がそれぞれ脳溢血で亡くなった辺りからだ。
その頃から、サルヴェニア子爵領の施政が危機的な状況を迎えることが多くなった。
このサルヴェニアの地には、領主一家に対して直接対応を求めるやっかいな領民が多い。
二代目子爵スティーブとその妻の二人がその対応に尽力していたことは、誰よりもレイフ達が理解していた。そして同時に、対応する領主一族の人数が不足していることは明らかだった。
本来であれば、領主一族が不足する中、二代目子爵スティーブには多くの子を設けてほしいところではあったが、その妻も過酷な労働環境にあったためであろう、サーシャ=サルヴェニアを生んだ後、子宝に恵まれることはなかった。
しかし、まだ大丈夫。まだ、スティーブ子爵がいれば、その娘サーシャ=サルヴェニアが成人するまで、なんとか頑張れる。
そう思っていた矢先に、スティーブ=サルヴェニア子爵夫婦が事故で亡くなった。
領主官邸は、大騒ぎだった。
今後、スティーブ子爵がいない中、一体どうしたらいいのか。
混乱の中、職を辞する者が多く出たことにより、レイフは昇格し、なんと統治部の部長に就任してしまった。
正直、レイフも辞職するべきかどうか悩んだ。このサルヴェニアの地の、よりによって統治部長である。その大任を成し遂げる自信は、全くといっていいほどなかった。
しかし、他に人材がいないことも、レイフは理解していた。
ここでレイフまで逃げてしまえば、このサルヴェニア子爵領の領民達はどうなるのだろう。
レイフは胃を痛めながら、統治部長を務める決意を固めた。引継ぎもそこそこに逃げた前任の統治部長の残した資料を読み込み、レイフは何とかこの惨状を乗り切るべく尽力する。
しかし、人手が足りない。
そして何より、子爵代理として就任したサイラス=サルヴェニアの指示が、相当にまずい。残しておくべき資料を捨てろと指示し、必要最低限の配慮を不要と切り捨て、その後始末を末端の官僚に任せる始末。
サイラス子爵代理の裁決を可能な限り通す必要がないよう、事務を調整しながら仕事を行う日々は、さながら地獄のようであった。
そうこうしているうちに、この子爵領において、国における宰相のような位置付けである『家令』のグレッグ=グスタールが、当時九歳のサーシャ=サルヴェニアを統治の現場に連れてきた。
九歳の少女である子爵を大人の職場に連れてきたことに、レイフ達は目を剥いた。
しかし、家令グレッグ=グスタールはしれっと言ってのけたのだ。
「彼女であれば、子爵印にも子爵代理印にも触ることができます」
レイフ達は青ざめた。
子爵印や子爵代理員には、一定の権限がある者以外は押印できないよう、魔法がかけられている。そして、魔法が有効な状態で押印しない限り、押印文書として効力を発揮しない仕組みとなっているのだ。
サーシャ=サルヴェニアは、九歳の少女ではあるけれども、間違いなく子爵であり、子爵印と子爵代理員を有効に使うことを許された者である。
要するにこの家令は、彼女を利用すれば、あのサイラス=サルヴェニア子爵代理の裁決を通すことなく、領主官邸としての判断を押し通すことができると、そう言っているのだ。
レイフ達は悩んだ。
サイラスを関与させると、必要な事務の半分も進まない。このままでは、この子爵領が立ち行かなくなってしまう。
莫大な税収だけがこの子爵領の強みだというのに、それを取り立てに行く官僚達や護衛達の給料の支払いができない。即時に補修をしなければ、次の雨で落ちるかもしれない要所の橋の工事の最終認可を、あのサイラスは行わない。
喉から手が出るくらい欲しい、最終決定権を持つ、サイラスよりマシな人材。
けれども、相手は未成年、よりによってまだ十にも満たない少女である。
最終決定権を行使するということは、彼女に責任を負わせるということだ。
傀儡にするにしても、あまりにも、大人として無責任ではないか。
しかし、そんな迷うレイフ達の背中を押したのは、他でもないサーシャ本人だった。
「私は子爵令嬢――いえ、もう子爵です。父と母を助けたくて、これまでも手を抜くことなく統治の勉強をしてきました。この子爵領が今回の混乱から持ち直すまでの間、私も力になります。それほどの事態だと、認識しています」
覚悟を決めたその言葉に、レイフ達は、全てに目をふさぐことにした。
九歳の少女の、子どもならではの真面目さに、叩き込まれてきたのであろう貴族としての誇りに、甘えた。
みるみるうちに実力を備え、子爵として、いや、伯爵以上の能力を発揮する彼女の才覚に、縋ってしまったのだ。
レイフは何度か、サーシャ=サルヴェニア子爵が、叔父のサイラスに食って掛かっているところを見たことがある。
「叔父さんはどうして、全てを私に押し付けるの」
「本当にすまない、サーシャ。叔父さんはやろうと思ったけれど、できないんだ」
「そんなの嘘よ!」
「では、なんだい? サーシャは私が、わざとできないふりをして、子爵領の仕事を混ぜ返しているというのかね。それができるとして、何故?」
「……」
「ウィリアム君との婚約を整えただろう? 彼は伯爵家の三男だ。貴族学園の成績も優秀みたいだよ。彼が来れば、現状もマシになるさ。ほら、私もサーシャのために、できるかぎりのことはしているだろう?」
「……もういいわ。出て行って」
領主官邸の子爵執務室でのその会話を聞いたのは、稟議書を持参したレイフと、その部下だけであった。
レイフは悩んだ。
サーシャ=サルヴェニアに頼るのは、事態が落ち着くまでのはずであった。
けれども、現実はどうだ。
あれから何年も経ったというのに、彼女は大人である自分達と比肩するほど、馬車馬のように働かされている。
しかし、彼女以外にこの子爵領を回していける人材がいないのだ。
そして、平役人からのたたき上げで部長までたどり着いたレイフにとって、王宮に対してアクションをとり、子爵の交代を要請をするという行為は、遠い世界の話であった。こういう時、貴族学園出身者の官僚がいれば、情報が集まりやすく、助言をもらうことができるのだが、子爵領に過ぎないこのサルヴェニアの地に、そういった官僚はいない。
しかし、子爵サーシャも限界なのだ。
何とかしなければならない。
けれども、それを調べる手段を講じる時間が、レイフにもない。
そうこうしているうちに、サーシャ=サルヴェニアは成人し、そして、失踪した。
レイフは、思った。
(サーシャ様、お幸せに)
それは、レイフの、心からの思いだった。
この泥船に、あのような才ある少女を縛り付けるべきではない。
ようやく、彼女は彼女のために、生きることができる……。
レイフは、退職し逃げていく官僚達を見ながら、統治部長を続けた。
全力で、ただ仕事のことだけを思い、邁進した。
殆どの時間を職場で過ごし、週に一度だけ家に帰り、妻の手作りの食事を食べると、いつも涙が止まらなくなる。
そんなレイフを見て、妻のリリアナは泣きながらレイフに縋った。
「もう辞めて」
「……リリアナ」
「もう十分よ。あなたは頑張ったわ。あなたが逃げて、誰かがあなたを責めたとしても、私が絶対に許さない。私があなたを守って見せる」
「リリアナ、いいんだ」
「良くないわ! 全然よくない。どうしてなのよ! どうして、あなただけが、こんな」
「違うんだ。私だけじゃない。むしろ、私があの方に、押し付けていたんだ。だから、私がここで逃げる訳にはいかない」
「それでも、もう十分よ。このままじゃ、あなたが死んでしまう」
レイフは、己にしがみついて泣いている妻を抱きしめながら、止まらない涙をそのまま流し続けた。
このまま、一体どうしたらいいのだろう。
隣地の伯爵家から、ウィリアム=ウェルニクスが応援に来たけれども、九歳のときのサーシャ子爵にも及ばない男であった。むしろ一からの新人教育が必要となり、負担が増えたという可能性すらある。
伯爵家の官僚達も数名、応援に来たけれども、正直期待外れであった。
どうやら、我が子爵領の官僚達は、その業務の過酷さ故に、能力水準がかなり向上していたらしい。もはや嬉しくもなんともない事実である。何故なら、それはすなわち、生半可な人員増員では、現場の改善が望めないことを意味しているのだから。
そうして、レイフがなんとか気力を振り絞り、命を賭して子爵領を支えていた中、ここ数年間で一番の吉報が舞い込んできた。
それは、サルヴェニア子爵領が、ダナフォール侯爵領に昇格するという知らせだったのである。




