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薄雲の仕切り

 夏目(なつめ)はそこまで語って言葉を切ると、隆正(たかまさ)ににやりと笑ってみせた。


「――さて、お前ならどうする、隆正? 動かぬ証拠が揃ったと、藤枝(ふじえだ)花魁(おいらん)を引っ立てるか?」

「いいえ……いえ、違います。はい、その場にいたならば、そのようにしていたと、思います」


 一度首を振りかけて、隆正は考え直してやはり頷いた。誤ることを強いられているような気がして、何か面白くない気もしたが。藤浪(ふじなみ)屋が健在である以上、藤枝花魁が無実であったのは多分間違いない。だが、もしも自分だったら、きっとその女が下手人だと断じていただろう、とも思ってしまう。森口(もりぐち)という旗本家の若君に寄せられた恋文、毒入りの菓子、座敷から見つかった石見銀山。そこまで揃えば、証拠は十分と判断してしまっていてもおかしくない。


「……()()()下手人は、一体何者だったのですか? 藤枝花魁に咎がないとするのなら。森口家の嫡子が死んだのは、確かに石見銀山が理由だったのですか? 毒を盛られたのは菓子ではなく、他の食事だったとか――ならば、家内に下手人がいた……?」

「ふふ、少しズルになるが答えてやろう。毒が入っていたのは確かに干菓子だった。吉原の女からもらったという、な」


 夏目(なつめ)は、生徒を見守る師のような眼差しを向けてきた。試行錯誤で正解に至ろうとするのを喜ぶかのような。ともすれば子供扱いとも思えるその眼差しへの反発と、自身が罪のないものを断罪してしまうかもしれない、という恐れが、隆正を饒舌にさせた。数秒の間に必死に考えを巡らせて、語られる前に十年前の真実に辿り着きたいと、幾つかの説を述べてみる。


「……では、他の遊女が渡したのでしょうか。藤枝が目障りだったとか、そんなことで。いや、それでは藤浪(ふじなみ)屋にも累が及ぶから……他の見世の嫌がらせということも、あるでしょうか」

「生憎だがどれも違う。やっぱりな、そうそう分かるもんじゃねえよ」


 隆正の推論をあっさりとへし折って笑った後、夏目はすぐにその笑みを引っこめた。代わりに浮かべる苦い表情は、悔恨、なのだろうか。今の隆正が想像として抱いた冤罪の恐れを、夏目はかつてよりはっきりと、我がものとして感じたのだろうから。


「……だから、その場にいた俺たちも同じだったさ。女を責め立てるのは気が進まないが、どうやら大それたことをしでかしたようだ、森口殿の気が収まるような打擲(ちょうちゃく)はすまいが、じっくり事の次第を改めないと、ってな」


 そう呟くと、夏目は再びかつての事件の続きを語り始めた。



      * * *



 花魁としての矜持がそうさせたのかどうか、藤枝は藤浪屋の楼主よりは幾らか気丈だった。強面の男に囲まれ、縄を見せられても毅然として言い返すことができる程度には。


『森口様はただの馴染みのひとりというだけ、お気の毒には思いいしても、共に死ぬなど考えたこともありいせん!』

『だが、お前の座敷からは確かに石見銀山が出た。菓子に盛って森口殿に渡したのだろう!?』


 毒薬の包みを突きつけられると、藤枝の麗貌もさすがに引き攣ったが。罪の証拠を暴かれての怯えなのか、単純に毒を恐れたのかは、傍目には区別がつかなかった。いずれにしても、包みから顔を背けての反論からは最初の勢いが失われ、通るはずの声も震えていた。


わちきは(わちきゃ)何も知りんせん。菓子など渡しておりいせんし、石見銀山も――毒の上で客人を迎えていたなど気色悪い。誰ぞ、わちきを嵌めようとしたのでありんしょう……!』

『あの文は? 森口殿に心中を持ちかけて断られたのを怨んだのではないのか?』

『馴染みの方に文は書きいす。したが、わちきは藤浪屋の御職(おしょく)花魁、死ぬの殺すのと興醒めを書いて、脅すようなことはいたしいせん!』

『ええい、話は番所(ばんしょ)にてすればよかろう! この妲己(だっき)めの詭弁に耳を傾ける必要などない!』


 藤枝と役人のやり取りは、森口家の者にはいかにも手ぬるく見えたらしい。血の気の多そうな若い衆が藤枝に掴みかかり、女と楼主の悲鳴が響く。若い衆を取り押さえようとする者、加勢しようとする者。それぞれの怒号、廓の者の悲鳴と叫びが混然として嵐を成した、その時――涼やかな高い声が、響き渡った。


『その文とやら、わちきに見せておくんなんし』


 声の主は、紅色の振袖も愛らしい娘だった。薄雲(うすぐも)、と震える声で藤浪屋が呼んだことで夏目たちもその名を知った。止めろ、退け、との命令と懇願を込めた呼び掛けだっただろうに、その娘は当然のように森口家の家人に細い手を差し出し――驚くべきことに、不意を突かれた相手の方も、すんなりと文を渡してしまったのだ。


 文を手にした薄雲は、姉花魁の涙も殺気立った武家や役人の表情も目に入らぬように、にこりと美しい笑みを浮かべた。


『藤枝姉さんの手跡()ではございんせんな。ほら、楼主(おやかた)様もご覧なんせ』

『おお……確かに! これは、藤枝の字じゃございません、私が教えたんだから確かです!』


 薄雲から文を渡された藤浪屋は、泣き顔から一転、雲間に光明を見出したかのような笑顔になった。嘘を吐く余裕があるとも思えない者が迷いなく断言したことに、夏目たち役人はそっと目を見交わした。当初思われたより、話がややこしくなりそうだ、と気づいたのだ。

 だが、まだ藤枝を無罪放免とする証拠には弱い。そして無論、森口家の者がおいそれと引き下がるはずもなかった。


『だから、何だというのだ!? 文など、誰にでも書ける――小娘、貴様が命じられて書いたのではないだろうな!?』


 大小は()むなく預けたとはいえ、奉行所から吉原へと怒りに駆られてなだれ込んだような者たちだ。小娘の細首など片手で折れる、そのような相手数人に詰め寄られて、しかし薄雲はほんの少し眉を顰めただけだった。それも、怯えによってではなく、非礼に感心しないとでもいうような、実に優美かつ高慢な表情だった。そうして小さな唇から零れた次の言葉も、相手の余裕のなさを哀れむような響きさえあった。


『それなら、わちきの手跡もお見せしんす。その他、藤浪屋の女郎に禿、男衆。更には吉原中の代筆屋なりと、気の済むまでお調べなんせ。多分その手跡の者は、大門(おおもん)の内側には見つからぬでありんしょうが。その時は、森口様のご家中からもお探しなんせ。()()()で見つかるやもしれえせんゆえ』


 そこまで聞いてやっと、夏目は小娘に気を呑まれる事態の異様さに気付いた。どういう訳か、誰もが薄雲という娘の言葉に聞き入ってしまっていたのだ。水揚げが済んでいるかどうかもあやしい年頃の振袖新造(ふりしん)の癖に、見世を負って立つかのような堂々とした話しぶり――それを、当の藤浪屋の楼主でさえも、咎めることを忘れてしまっていたかのようだった。


『なぜだ。なぜ、その文を書いた者が森口殿のお身内だと考えたのだ?』


 我に返った夏目に問われても、薄雲の超然とした落ち着きは変わらなかった。まるで今日の天気を聞かれたのに応えるように、振袖姿の娘はさらりと答えた。


『森口の若様が命じたのでござんしょう。藤枝姉さんに言い寄られていると見せるために』


 森口家の郎党が何か怒鳴りかけたのに先んじて、薄雲は深々と溜息を吐いた。子供の物分かりが悪いのに呆れかえった、という調子を、まさに子供が演じてみせたのだ。


『姉さんは人殺しなどいたしいせん。身請けを心より待ちわびているのを、わちきは誰よりよう知っておりんす』

『だが……だが、本心は違ったということだろう! 客の手前、喜んでみせただけで! 若に横恋慕していたのでなければ、なぜ――』


 主の死を悲しむのか憤るのか、目を潤ませ頬を紅潮させての詰問も、もはや負け犬の遠吠えのようにも聞こえていた。薄雲の声は高く細く幼いのに、なのに整然としてつけ入る隙がないようの思えたからだ。禿たちの泣き声ももう止んでいた。薄雲に全てを任せておけば安心と、廓の側にはそのような気配さえ漂っていた。


『仮に、仮に姉さんが無理心中を図ったといたしんしょう。ならば、森口様を送ったその朝に毒を呷ればようござんす。ひとり怖気づいたというなら、それか祝言が妬ましくて殺すというなら、毒はすぐに始末せにゃあなりいせん。今日の今日まで毒がそこにあったのは、姉さんが真実何も知りいせなんだからでございんす』

『では、毒を仕込んだのは誰だ? お前はどう思うんだい?』


 夏目は、どういう訳かごく自然に薄雲に問いかけていた。ただの小娘、ただの口先の屁理屈だと、頭の片隅では思いつつも。この娘に問うのが、一番話が早いのではないかと、不思議な勘が働いたのだ。

 そして問われた薄雲の方も、当たり前のように頷いて答えた。愛らしく首を傾げ、姉花魁の座敷とそこに集った面々をぐるりと見渡しながら。


『あい。花魁の座敷に毒を隠すのは余人には難しゅうございんす。わちきらも常に控えておりんすからなあ。人目がない時と言えば、引け四つになって芸者も幇間(たいこもち)も皆下がり、花魁と客人がふたりきりになった――さらにその後。花魁が寝入った隙を突くしかござんせん。それができるのは、ただひとり――』


 滔々と紡がれる薄雲の声を聞きながら、誰もがひとりの名か姿を思い浮かべた。まさか、との思いに、口に出すことができる者はいなかったが。だから、たっぷりと間を取った後で薄雲告げたことは、しんとした静寂によく響いた。


『毒を隠したのは、森口様でありんす』

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