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まだ解けない謎

 隆正(たかまさ)にしてみれば、考え抜いた渾身の一撃だった。剣の稽古で、鋭く相手の懐へと踏み込む時のような。そしてこの()()は、確かに成功したはずだった。おっとりと優雅に微笑んでいた薄雲(うすぐも)の口元が、一瞬だけ微かに()ったのは、見間違いではありえなかったのだから。


「さて――待つというなら、わちきらの務めはほぼほぼ待つことでありんすなあ。毎日毎晩、いかにして馴染みの客人を通わせるかが花魁(おいらん)の手練手管でありんすもの」


 とはいえ動揺らしきものが見えたのも一瞬のこと、薄雲はすぐに面のように隙のない笑みを纏ってしまう。しかし、隆正が問いたいのはそのような上辺のことではないのだ。だから彼は膝を進めて薄雲に迫ると、次の一手を突きつける。


「最初に藤浪屋(このみせ)を訪れた夜、そこの(おぼろ)に聞いたのだ。そなたは、身揚げをしてまで同心の話を聞きたがるのだと。遊女にしてみれば借金が(かさ)み、年季明けが遠ざかるだけのことを、なぜわざわざする? そなたは年季明けを望んでいない――見世に留まる理由が、あるのではないか?」

「姉さん、わちきは……っ!」


 ふたつ目の牡丹餅(ぼたもち)に手を伸ばして良いのかどうか、迷う素振りを見せていた朧が小さな悲鳴を上げた。その声の必死さ、咄嗟に口元を抑えた慌てようから、隆正はあの夜話したことを、この娘は姉花魁に言っていなかったことを知った。そして恐らく、その内容が薄雲の気に入ることではなかったことも。


「余計なことを申したなあ、朧」


 薄雲が妹分にちらりと流した目線もかけた声も冷え冷えとして、鋭い刃のようだった。直に向けられたのではない隆正でさえ、首筋にひんやりとしたものを感じたほどに。しかし、再び彼ににこりと微笑んだ時には、薄雲は既に例の仮面で表情を繕い直している。


「まったく、どうしてそのように穿った見方をなさんしたやら。通人とは、金子では贖えぬものをありがたがるもの。(ぬし)さんも(せい)様をご覧なんしたでありんしょう? わちきの話を目当ての客が増えるなら、ひと晩やふた晩の身揚げをしたとて釣りが出るくらいでありんすよ」

「……そうかもしれぬ」

「で、ありんしょう?」


 にこやかに首を傾げる薄雲が、彼に心を明かす気がないのは明らかだった。美しく整いすぎた笑顔がそう教えている。伊勢屋(いせや)惣衛門(そうえもん)の豪勢な貢ぎぶりも、彼女の言葉を裏付けてはいる。だから隆正はひとまずは渋々と頷く。だが、その上で薄雲はごく滑らかに嘘を吐いたのだ、との確信もある。なぜなら――


「とはいえ某もそれなりの理由があって言っていることだ。(それがし)が知る夏目(なつめ)殿は、女に金を出させて平然としている御方ではない」


 最初に藤浪(ふじなみ)屋を訪れた時に夏目剛信(たけのぶ)が語ったことは、今思えばおかしなことだらけだった。あの時は、信二を助けねばという一心に逸り、また、夏目から聞いた薄雲の最初の謎解きに瞠目するばかりで気付くことができなかったが。


 隆正を馬鹿正直と揶揄(からか)う夏目も、堅実かつ実直な務めぶりで名高い清廉の人なのだ。だからこそ隆正が慕うのだし、(まいない)の類を受け取ったという話も聞いたことがない。薄雲に助言を求めるのは後ろ暗いことではないのかもしれないが、とにかく、夏目なら今日の隆正と同様に最低限の揚げ代くらいは払おうとするはずなのだ。それをしてこなかったということは――夏目が折れるほどの事情を、薄雲は抱えているということではないだろうか。


 薄雲の鮮やかな謎解きに比べれば、隆正の論理は穴だらけも良いところだ。こうだからこう、と理屈で詰めていくのではなく、よく知る人物が不審な言動をしていたから、という勘に頼ったものでしかないから。ただ、薄雲という女についてはよく知らずとも、夏目の人柄について彼は見誤っていない、とも信じている。

 自分自身よりも夏目を(たの)んで、隆正はじっと見つめてくる薄雲の目を見返した。吸い込まれるように黒く、底を窺わせないその中に、何かしらの感情を読みとることができないかと期待して。


「……それに、あの方はこうも言っていた。身請け話は雨のように降っているだろうに、薄雲はどれにも頷かない、そなたのことが心配だから頼む――、と」


 それこそ伊勢屋惣衛門などは、薄雲を身請けしたいと願ってもおかしくない。十分に金を積めば、藤浪屋としても文句はないだろう。ひとつやふたつでは済まないらしい身請け話のどれもが流れるとしたら、確かに薄雲自身が首を縦に振らないから、以外の理由はないだろうと思う。


 更には心配だの頼むだのといった言葉は明らかにおかしい。なぜなら今回の件で心配されるべきは隆正の方、むしろ薄雲に頼まれなければならない立場だったのだから。ならば夏目が言ったのは()()()のことだ。(さかえ)屋の事件の後も、藤浪屋を、薄雲を訪ねてやってくれ、と。夏目は彼に告げていたのだ。


「単に年季明けを延ばしたいだけならば、身揚げさせる相手は誰でも良いはずなのだ。敢えて八丁堀の同心を相手にするのは、捕物話が聞きたいがためだけか? 役人と繋ぎを持っておくことが、都合が良いからではないのか? 何かの折に頼れるからとか、そういう意味ではなくて……」


 隆正の耳に、最初の夜の薄雲の声が蘇っていた。


『必ずまた来ると誓いんしたを、反故にするのは決まって男の方でござんしょう』


 決して、我が身のこととは言っていなかった。(くるわ)の常でもあるのだろう。しかし、それにしてはやけに実感の篭った声で、切なげな眼差しではなかっただろうか。あの夜の彼は、薄雲にはぐらかされたと苛立つばかりで、そこまで気が回らなかったのだが。

 薄雲の姉分の、藤枝(ふじえだ)花魁の話も彼は既に聞かされた。遊女と客の間に真の情が芽生えることもあるし、それを(ねた)む者もいるということだ。ならば、薄雲にも同じことが起きたとしても、あり得ないことではないのだろうか。


「同心ならば、御役目のため、謎解きのためとの言い訳も立つ。しかし、他の客が相手ではそうは行かぬ。身揚げとは、好いた男のためにするものなのではないのか? そなたは、方便であっても金子抜きで()()()()()()男と……その、閨を共にしたくはなかったのだ」


 朧は、身揚げについて隆正に教えた時に、想うた情夫(まぶ)との逢引きにするならまだしも、と呟いていた。若い女が好意を持ちそうな見た目の良い若者の懐具合がよろしくないのはいかにもありそうな話、つまりは、本来身揚げをするということは、年季が長引いてでも逢いたいような本気の客だということだ。呼び出し昼三の花魁に、そこまで懸想した相手がいるのは外聞が悪いから、というだけかもしれないが――隆正には、それだけが理由ではないような気がしてならないのだ。


 とはいえこれは、推論とも言えない牽強付会のこじつけに過ぎないのも分かっている。彼がそう思いたいだけの、妄想とさえ呼べるだろう。だが、黙ったままでは薄雲が何も言ってくれないであろうことは明白だ。万が一にも正鵠を射ていれば僥倖、的外れだったとしても、呆れた薄雲は何かしらの糸口を与えてくれるかもしれない。


「あの……姉さん?」


 隆正が次々と問い詰めても、朧がおろおろと声を上げて姉分と彼とを見比べても。薄雲は、端然と座って口を閉ざしたまま、彼を見つめる眼差しも口の端を持ち上げただけの笑みも変わらない。その態度は鉄壁の盾のように詮索を拒んでいる。ひどく不躾な領域に踏み込もうとする後ろめたさに、隆正は軽く唇を舐め――そして、それでも口を開いた。


「――そなたの待ち人に、何があった? 何かの事件に巻き込まれたか……それとも、罪に問われたか? それは、ゆえのないことだったとか――だから(すず)信二(しんじ)に肩入れしてくれたのか?」


 鈴の証言を信じるところから論を広げてくれたのは、そうしなければ埒が明かないからだけだったのだろうか。ただひとり、相手を信じて足掻く娘に思うところがあったからではないのか。吉原に閉じ込められた身の上で、仔細ある者の消息を知ろうと思うなら、確かに役人との繋がりは貴重だろう。それに夏目が密かに案じるのも、無理はないと思う。


 さあどうだ、と。息を詰めて隆正が見守る中、薄雲の唇からほう、と深い溜息が漏れた。


「夏目様まで。まったく余計なことをするお人ばかり……」

「では――」


 当たっていたということなのか、と。問い質そうとさらに身を乗り出す隆正に、けれど薄雲はゆるゆると首を振ってみせた。


「主さんのご登楼はまだたったの二回目。常ならば裏を返したところに過ぎいせん。それで立ち入った身の上話など、かえって興ざめでございんしょう」

「そう、か……」


 見事なまでにきっぱりと振られて、隆正は肩を落とす。的外れな考えだと嗤われた方がまだ良かったかもしれない。ならば薄雲は高慢で物見高い質の女だというだけ、案じるべき身の上がないならそれはそれで安堵したかもしれないのに。この言い方では、お前の知ったことではないと言われたも同然だ。


「……夏目殿に比べれば、某など頼りないと思うのだろうが。それでも、事情を知っていれば噂に気を配ることもできるだろうと思ったのだが……」


 栄屋の件で彼が薄雲から受けた恩義は大きい。だから返さなければ、と思う。寄る辺のない女の身の上を、哀れにも思う。吉原は魔窟のようにも言われるが、江戸の一部には変わりない。そこに住まう者たちも、庇護すべき民草から漏れてはならないと思ったのだが――いまだ一人前とも呼び難い身には、出過ぎた真似だったというのだろうか。


 落胆はすぐに気恥ずかしさに変わり、頬に上がった熱を鎮めるべく、隆正は温くなった茶をひと息に干した。そこへ、軽やかな笑い声が浴びせられる。無論、薄雲が笑う声だ。


「おや、主さんにしては諦めの早いこと。鈴の件では方々あたった末にここまで辿り着いたのでありんしょうに。わちきを未練とは思いなんせんとは、口惜しゅうてなりいせん」

「未練……?」


 この女はよくも様々な表情の笑みを使い分けるものだ、と思う。取り繕ったと明らかに分かるもの、艶めかしく媚びるようなもの。そしてたった今隆正に向ける微笑みはどこか悪戯っぽく、それこそ謎々をかけるよう。何かに気付けと言われているようだが、それが何だか分からない。隆正が首を捻っていると、薄雲は焦れたように軽く唇を尖らせる。これもわざとらしい仕草だというのに、愛らしく見えてしまうのが恐ろしい。


「どうぞ、また来ると(おっせ)えしておくんなんせ。面白い事件の話を携えて――そうするうちに、わちきも口を滑らせることがあるかも知れんせん」

「そなたが口を滑らせることがあるなどとは思えないな……」


 いかに客を通わせるかが手管、と聞かされたばかりだ。甘えるように小首を傾げて囁いてくるのも、その一環だとは分かり切っている。そうと分かっていてなお、あっさりと(ほだ)されかけている自身に気付いて、隆正はせめて憎まれ口を叩く。それもまた、ごく軽やかに受け流されてしまうのだが。


「先のことなど天道(てんとう)様にも分かりいせん。一念が山を移すこともあると申しんしょう?」

「ふん、何しろ馬鹿正直だからな」


 薄雲が引いたのは、愚公移山(ぐこういさん)の故事だった。馬鹿の一念と言われてもさほど腹が立たないのは、彼自身も重々覚えがあることだからだ。それに、ふと心が軽くなったのを自覚したからでもある。

 一度()ねつけられたくらいで諦めるなど、確かに彼らしくないことだった。会ったばかりだから話せぬというのなら、何度でも会えば良いのだ。どうせ未熟者のことなのだから、薄雲の知恵を借りたくなる機会は何度でも訪れることだろう。この女にかつて何があったのか――力になれることがあるのか。いずれ、分かる時も来るはずだ。


「謎解きが必要になったら、また来よう。その時は頼む」

「あい。楽しみにしておりいす」


 薄雲と顔を見合わせて、笑う。視線で考えたことが伝わったのだろうか。あるいは、上手く丸め込むことができた、とでも思われたのかもしれないが。とはいえ、今はこれで良いのだろう。


 そう遠くないうちにまたこの店を、この女を訪れるのだろうという予感がしていた。どのような事件、どのような謎に巡り合うのかは分からないが。理不尽に涙する者は、無論いないに越したことはないのだが。ただ――薄雲花魁の謎解きに再び立ち合うのを待ちわびる思いもまた、隆正の胸に確かに芽生えていた。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

続編の構想も一応あるのですが、執筆する余裕が当面なさそうなので、今回の事件の解決をもってひとまず完結とさせていただきます。続編開始時は、こちらに続ける形で投稿する予定です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 隆正さんのこのポジティブ感性好き! いつか、薄雲花魁の抱える謎にも、きっと彼なら愚直に対峙して踏み込めるはず!
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