最後の謎
薄雲の謎解きを聞いて、隆正の胸はやっと晴れた。初めて吉原を訪れてから青海屋での一夜が明けて、そして今日までずっとかかっていた霧が消え去ったのだ。幾ら考えても訳が分からず、どうして手柄を立てたことになっているのかまるで実感が湧かなかった。何もかもが知らないところで起きたかのような、そんな居心地の悪さが消えたことで、今こそ彼にとっても事件が終わったと思えるようになったのだ。
なぜ、どうしてと――幼い子供のように知りたがり、答えを求める思いが満たされた今、隆正はようやく地に足をつけることができるようになったかのよう。この心持ちなら、薄雲を訪ねた本当の目的を、果たすことができるだろう。
「何よりも先にすべきことがあった。こうも遅くなったのはまことに面目のないことではあるが――まあ、しないよりはよほど良いだろう」
「ほほ――?」
威儀を正して背筋を伸ばした隆正に、薄雲が軽く首を傾げた。ほんの微かにではあるが、訝しげな表情を引き出すことができたのが無性に嬉しくて可笑しかった。この女が余裕のある笑み以外を彼に見せたのは、多分初めてのことだろうから。
しかし、これから彼がすることを目の当たりにすれば、薄雲はもっと驚くはずだ。その様子を心の片隅で期待しながら隆正は畳に手をつき――頭を、下げた。
「信二を救い、青海屋の悪事を暴いたこと――そなたの助言がなければ叶わぬことであった。つまりは某が役目を果たすことができたのは、そなたのお陰。……心より、礼を言う」
「ま……!」
畳を見つめる隆正の耳に届いた小さな悲鳴は朧のものだ。仮にも侍の端くれが、遊女相手に頭を下げるなど本来あってはならないことだから無理もない。しかし、あり得ぬほどの礼を尽くさねば、それこそ非礼にあたるだろうと、隆正は強く思うのだ。
事件の解決に花魁の手助けがあったことなど公にする訳にはいかない。それこそ奉行所の面目が丸潰れになることになるだろう。だから隆正はこれまで夏目剛信とこの女の関わりを知らなかったのだろうし、彼自身も上役はおろか、猪之助や喜平にさえ薄雲のことを知らせていない。
だから、誰もが信じ噂しているのだ。町娘の訴えを真摯に取り合った遊馬隆正なる同心は感心だ、と。上役や岡っ引きに止められても、諦めずに大店の悪事を暴いたのは天晴れだ、と。しかしその賞賛は、本来薄雲に向けられるべきものなのだ。
人の手柄を盗んでおいて知らぬ顔を貫くなど、彼の矜持が許さない。誰に謗られずとも、厚顔と忘恩の咎は彼自身がよく知っている。後ろめたさを抱え続けるくらいなら、頭のひとつやふたつを下げるくらいは何ほどのこともない。だから、隆正の裡では、彼の体面は何ひとつ損なわれてはいなかった。
とはいえ、頭を下げられた方にとってはまた別の感想もあるのだろう。薄雲の、呆れたような溜息と慌ただしい衣擦れの音が隆正の耳をくすぐった。
「――御同心ともあろう御方が、軽々な真似はお止めなんせ。わちきは、わちきの楽しみのためだけにしたことでありんす。勢様に衣装を貢がせるための、ただの口実でありんすよ。まったく、誰も見ていないから良いようなものの――」
芳しい香りと温もりが間近にせまっても、先ほどのように狼狽えることがなかったのは彼自身にも不思議だった。あの薄雲花魁を多少なりとも慌てさせてやった、というのが余裕になっているのだろうか。
そっと手に手を重ねられて初めて隆正は顔を上げ――困り顔で柳眉を寄せた薄雲に、にやりと笑った。
「そうだ。このような場でしか感謝を示すことはできぬ。だから素直に受け取ってくれ」
「花魁に対して素直、などとは最も縁遠い言葉でありんす。此度のことは主さんのお手柄に間違いありいせん。最初からそう申しておりいす。ほら、このように傷まで負って」
薄雲の指先が、隆正の頬を撫でた。栄屋の立ち回りでついた傷が、まだ残っていたのだろうか。とうに瘡蓋になったものだから、彼自身はすっかり忘れていたのだが。
ひんやりとした指の触れたところが、どういう訳か熱かった。その箇所に触れながら、隆正は頑なに首を振る。
「いや、そうは言ってもこれはけじめだ」
謙遜も過ぎれば悪になるものだ。江戸の街を駆け回り、薄雲の説を裏付け、荒事も受け持った自身の役割を、隆正も認識してはいる。彼がいなければ事件が解決しなかった、というのもまた事実なのだ。しかし、ならば手柄は等分に分けてしかるべきもの、全てを独り占めしようというのはやはり不当な話だろう。それに――
「鈴と信二からも、言付けを預かっているからな」
「何と……?」
薄雲をもう一度驚かせることができるかもしれない。ほのかな期待に胸が弾むのを感じつつ、隆正は鶴美屋の松吉に持たせていた荷物を手元に引き寄せた。麻葉模様の風呂敷で四角く平たい箱を包んだもの――それを、開く。
「吉原に来る前、栄屋にも顔を出していたのだ。――ほら」
「わ……!」
またも、姉花魁を差し置いて声を上げたのは朧だった。とはいえ今度は驚きに加えて、年相応の無邪気な喜びが溢れている。期待通りの反応を引き出すことができて、隆正は頬が緩むのを自覚した。
風呂敷に包まれていた重箱、その中には鈴が拵えた牡丹餅がぎっしりと詰まっている。半分には、しっとりとした艶に輝く餡のもの。笹切りで区切ったもう半分には、黄粉をまぶしたもの。隆正が来るのに合わせて早朝から張り切って作ったのだという。というのも――
「名は出せぬが、某の他にも恩人がいると教えたのだ。大した礼もできないがせめて、と。心から感謝していると言っていた」
事件の解決にあたって助言をくれたというその恩人に、もちろん鈴も信二も会いたがった。しかし、花魁の助力を明かすことはできない上に、吉原はふたりにとっても縁遠い場所だ。特に、堅気の女の鈴にとっては。
感謝の意は伝えたいが、大した字も書けず、礼の品も用意できない。できるとしたら料理くらいだが、小料理屋の分際で、云々と。思い悩む様子の鈴に、それで良いのだと勧めたのが隆正だった。彼が薄雲の手柄を横取りしてはならぬのと同様に、彼も鈴たちからの感謝を独占してはならないと思ったからだ。
「なんと、まあ。栄屋も物入りで忙しい折でありんしょうに。律儀なことを……」
そして、何となく浮き立った風の薄雲を見れば、判断に間違いはなかったのだと思って良いようだ。女は甘味に目がないもの、などとは料簡の狭い決めつけだろうが――多分、花魁はこういうものを普段食べていないのではないだろうかと思ったのだ。
座敷に供される料理は高価なのだろうが仕出しものが多いはず。ならば、炊きたて、潰したての餡や餅米はかえって珍しいのではないか、と。それが自身のためにとわざわざ作られたものならなおのことだ。青海屋を見張りながら鈴の握り飯を食べた時に、何となく遊女らの食べるものが気になっていたのを思い出してのことだった。
「……遊女は客の前ではものを食べないのかもしれないが。だが、礼の品で、味は保証する。だから……良いのではないかと思うのだが」
伊勢屋が貢いだとかいう仕掛に比べれば見劣りがしてしまうのかもしれないが。少し心配になった隆正が勧めてみると、薄雲は何度も大きく頷いた。
「客人の勧めとあらば、断ることはできいせんなあ。――朧も、お上がりなんせ」
「姉さん、よろしいのでありんすか!?」
「後で幼い子らにも分けてやらねばなりいせんが。ここは、主の役得でありんしょう。ああ、その前に茶を――これは、煎茶の方が合うかもしれんせんなあ」
「あい、姉さん」
朧が慌ただしく立ち働いて、すぐに湯気の立つ茶碗が三つ並んだ。いち早く牡丹餅を口に運んだ朧が、ああ美味しい、と廓言葉も忘れて呟く。薄雲はさすがにそこまで我を忘れることはないようだが、満足げな微笑みは、今まで見たどの笑顔よりも生き生きとして見えたかもしれない。
紅を崩さないためにか、ひと口ひと口、ごく小さく牡丹餅を齧り――ようやくひとつを平らげた薄雲は、指先を拭うと首を傾げた。
「ふたりから、ということは――栄屋に、鈴のほかに信二もいるのでありんすか?」
「そうだ。さすが、察しが早い。信二は今は、栄屋に身を置いているのだ」
同心を使い走りにするなど申し訳ない、としきりに頭を下げていたふたりの姿を思い出して、隆正は微笑んだ。口では恐縮していたけれど、頬を染める鈴も傷の癒えた信二も、実に幸せそうな顔をしていたものだ。
「もと青海屋の者たちとの縁があるから、栄屋はまた器に凝ることができる。包丁の扱いの方は、まだまだ学ぶ途上だそうだが」
破落戸に店を荒らされた栄屋夫婦は、一家だけで店を切り盛りするのに不安を感じるようになったらしい。若い男のひとりでも店にいてくれれば、強面の客も少しは遠慮するのではないか、と。割られた器を仕入れ直すのも、思いのほかの力仕事だっただろう。そこにひとり娘のたっての願いが加われば、青海屋が潰れた後の信二が栄屋に落ち着き場所を見つけるのは、ごく自然な成り行きだった。
「娘が若い男とひとつ屋根の下とは――父母としては気が休まらぬことでありんしょうなあ」
「何、すぐに祝言を挙げることだろう。そうなれば誰に憚ることもない」
そもそも強く深く想い合っていたふたりなのだ。事件を乗り越えた後、絆は一層深くなっていることだろう。栄屋の主人はもう婿を取ったつもりではしゃいでいたし、喜平なども、もうあの店の常連になりつつある。栄屋一家の行く末は、何も案じることがないだろう。
「さようでござりんすか……」
薄雲は、鈴にも信二にも会ったことはない。しかし、青海屋の企みを紐解くにあたっては、ふたりの身になって考えを巡らせたはず。だから全くの他人とも思えないのだろう、若い恋人たちの顛末を聞いた薄雲が見せる微笑みは、かつてなく優しく柔らかだった。
「そもそもは鈴なる娘の必死さが主さんを動かしたのでありんしたな……。好いた男を信じた甲斐があったというものでありんすなあ」
「そうだな」
相槌を打ちながら、隆正は茶碗を置いた。これで彼が藤浪屋を訪ねた用件は終わりだ。相伴に預かった鈴の牡丹餅も美味だった。これで帰れば、何事もなく終わるのだろう。だから彼がこれからしようとするのは余計なことだ。蛇足というか藪蛇というか――碌な結果にはならないのかもしれない。
けれど、隆正は敢えてもう一歩踏み込むことにした。
「そなたは何を――誰を信じて、待っているのだ?」
尋常でない頭脳の冴えと度胸を見せる薄雲花魁――この女自身にまつわる謎は、まだ何ひとつとして解けていないのだ。




