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薄雲の糸

 雲を踏むようなふわふわとした心地のまま、隆正(たかまさ)薄雲(うすぐも)花魁(おいらん)に名を名乗った。着流しに、町人風の小銀杏(いちょう)(まげ)の侍とあればひと目で知れはしたのだろうが、奉行所の同心と聞いても薄雲は驚いた様子を見せなかった。紅く塗った唇に三日月の弧を浮かべて花魁がおっとりと頷けば、頭に挿したびらびら(かんざし)の、そこから下がる金の飾りがしゃらしゃらと涼やかな音を立てた。


夏目(なつめ)様のご紹介とか。あの御方はお達者でありんすか?」

(よわい)五十を過ぎてますます意気軒昂――ではなく!」


 輝くばかりの美女が、隆正の方へ身体を傾ける。ふわりと漂う白粉(おしろい)に、彼には名も知れぬ香の匂い。甘い囁きに酔わされるように夢見心地で答えかけ、隆正はようやく我に返った。

 がばりと勢いよく、畳に手をついて頭を下げる。武士の面目も何もあったものではない。この場に彼がいるのは何かの間違いとしか思えなかった。豪奢すぎる部屋も美しすぎる女も、彼には馴染みがなさ過ぎて不気味なほどだ。夏目武信(たけのぶ)が一体何を考えて彼をここへ送り込んだのかは分からないが、大方野暮な若輩へ、悪ふざけを仕掛けたというところだろう。


(それがし)、どうやら夏目殿に揶揄われた様子……一見で花魁に会えるはずがないと、流れに任せて来てみればこの始末。揚げ代もままならぬ身代なれば、誠にあいすまぬが今宵はこれで――」

「夏目様のお同輩とあらば、揚げ代なんぞ要りいせん」


 衣擦れの音と共に、女の香が一層隆正に近づいた。桜色の爪に彩られた白い手が彼のそれに触れようとするのを、慌てて後ずさりして逃げる。もの慣れなさ丸出しの醜態に、薄雲は口元に手をやってころころと笑った。笑いものにされたと分かってなお、その声に聞き惚れずにいられないのは全く不思議なことだった。


「わちきをそこらの遊女と一緒にせんでおくんなんし。(ぜに)には困っておりいせんし、ひさぐのも春ばかりじゃあありいせん」

「どういう、ことだ……?」


 大きく抜いた(えり)から覗く白い(うなじ)、濡れたように艶やかに輝く黒い目、謎めいた笑みを浮かべる唇。そのいずれもが正視しがたく眩くて、隆正は床に視線を逸らせた。すると、畳の縁までもが金糸で縫われた桜の模様で彩られていた。まさか季節に合わせてこの格のものを張り替えるというのだろうか。自身の思いつきに、隆正は目眩を覚えてただ息を吐くばかりだ。

 薄雲の指が、隙は逃さぬと言わんばかりに隆正の手を捕える。その名は雲ではなく蜘蛛だったのかと思うほど、しなやかに抜け目なく、しっかりと。


「籠の鳥の身の上なれば、何より外の珍しい話が聞きとうございんす。まして八丁堀の旦那方のお話とありゃあ、お代を払っても聞きたいもの。胸が空くような捕物劇や、悲喜こもごもの人情噺――その引き換えに、わちきはああだこうだと思うたことを申しいす。夏目様はそれが役に立つこともあると(おっせ)えして、それで長のご贔屓という訳――」


 花魁の唇が紡ぐのは、ならば蜘蛛の糸だった。滑らかに吐き出されて、獲物(おとこ)を絡め取るのが手管なのだろう。女を知らぬ隆正ならなおのこと、苦もなく餌食にされていてもおかしくないところだったが――


「ならばなおのこと、帰る」

(ぬし)さん……?」


 酩酊したような気分は、なぜか不意に醒めていた。すげなく手を振り払うと、薄雲花魁の目が驚きに大きく見開かれる。それもどこか芝居がかってはいたが。小首を傾げて縋るように手を伸べる仕草も、なぜか急に色褪せて隆正を動じさせるものではなくなっていた。目の前にいるのは、飾り立てただけの女ひとりに過ぎない。そう思うと月の光と見えた輝きも失せて、彼に毅然と振る舞う余裕を思い出させる。


 豪奢絢爛な座敷の中、煌びやかに装った花魁を前に、隆正の脳裏に浮かぶのはもっと冴えない娘の姿だった。着物は絹の仕掛(しかけ)などではなく、清潔ではあっても洗い晒したもの。化粧気も薄く、若々しい愛らしささえ不安と怯えに曇っていた。だが、そのような娘の方が、隆正には好ましく――というか、守るべきものとして見える。薄雲花魁の口上は、あの悲しげな表情を娯楽として供せよと言ったも同然、だから隆正の神経に障るのだ。


「市中見回りのお役目を何と心得る。遊女の慰みに、面白おかしく聞かせるようなことではないわ」

「まあ――」


 低く一喝すれば、さすがに薄雲も言葉を失ったようだった。けれどそれも一瞬のこと、すぐにまた妖艶な笑みが口元にのぼり、隆正を篭絡しにかかってくる。それも、単に媚びへつらうのではなく、彼が思いもよらぬ方向から。――どこか、挑発する気配さえある。


「……したが主さん、お困りなんでありんしょう? 奉行所の御同輩に取り合われず、手下どもにもそっぽを向かれ――已むに已まれず夏目様に泣きついて。それでこうしてわちきの元へ来なんしたのではありんせんかえ?」

「おぬし、夏目殿からどこまで……!?」


 薄雲の笑みがしてやったりとばかりに深まるのを見て、隆正は()()()()()のを悟った。だが、聞き捨てならないのもまた事実、薄雲の言は彼の置かれた状況を見事に言い当てていたのだ。それも、決して体裁の良くないことだ。それが遊女に筒抜けとあってはあまりに立つ瀬がない。


(夏目殿が、この女に……!?)


 隆正の眉間に皺が寄り、奥歯がぎっと噛み締められる。非才の自覚は重々あれど、知らぬところで好き勝手に噂されるのは不快だった。夏目武信は隆正も信頼する上役、軽々と若輩者を酒の肴に嗤うようなことはないと信じたいが――


「夏目様からは、何も……ただ、ちいとお(つむ)を使えば分かることでありんすえ」

「何……」


 だが、薄雲の含み笑いに安心することも難しかった。隆正の不審も動揺も見透かした上で、子供を宥めるような物言いだったから。立ち上がった隆正と、座したままの薄雲と。こちらが見下ろす体勢のはずが、むしろなぜか相手の方が遥かな高みにいるように思えてならない。


「あれ、化生(けしょう)でも見るような顔をしなんすな。何も、不思議はござんせん」


 薄雲は艶やかな声を操って続ける。とはいえ先ほどよりは絡みつくような調子ではなく、書でも読み上げるかのように堂々とはきはきと、微塵も迷いなどないかのように。そうやって、隆正の素性を暴いていく。


「八丁堀のご同心にも事務方はおりいしょうが、先ほど触れた主さんの硬い手、あれはよく剣術(やっとう)をしなんすお人の手でござんしょう。それに、大小を預けて落ち着かん風のお人は多けれど、主さんは懐も気にしていなんす。主さん、十手(じって)をお持ちだねえ?」


 言われて思わず懐に手をやり、隆正は顔を顰めた。その仕草そのものが、薄雲に答えを明かしたも同然と、瞬時に気付いたのだ。人差し指と親指で十手を模した薄雲が、得意げに笑うのを見るのは業腹だった。

 (やいば)のついた得物ではなし、茶屋でも特に言われなかったからあえて預けることはしなかったのだ。不慣れな吉原で、自らの役を証するものが懐にあるのは確かに寄る辺でもあっただろうし。


「……だが、夏目殿への相談事は――」


 それでも、役目を言い当てられただけならばさほど驚くことでもない。すぐに帰るつもりだったゆえにわざわざ細かな役職までは名乗らなかったが、同心と言えば勝手に市中警備だの捕物だのと考える者は多いものだ。隆正の日に灼けた顔も、鍛えた体躯もその想像の裏付けになるだろう。だが、それにしては薄雲は彼のことを正しく言い当て過ぎている。


「わちきは何も聞いておりんせんと申しいしたに……」


 疑い深く問うてみても、物分かりの悪さを憐れむような眼差しが返るだけなのだが。


「お役目は市中見回りと、主さん自ら(おっせ)えした通り。したが、定廻りのご同心とは、ありゃあ、長年勤めた御方が仰せつかるもの。若いお人には肩身の狭いことも多いでありんしょう。加えて供も連れずにこの藤浪(ふじなみ)屋の暖簾(のれん)を潜りなんした。人目を忍んで吉原遊びをしなんすには、主さんはどうも奥手に過ぎる。夏目様に揶揄われたと仰えすからには、そもそもは別の心積もりがおありなんした、と――考えるんは、わちきの思い違いでありんしょうか?」


 もはや言い返す言葉の見当たらない隆正は、しばし薄雲と睨み合った。かつて太夫と呼ばれる高位の遊女は、高い教養と機知で大名さえも虜にしたとは聞いているが。当代の吉原に、これほどの女がいるのは信じがたかった。


(だが、気に入らぬ……!)


 この女の勘の良さも目の付け所も並ではないのはよく分かった。分かってしまった。ならば事情を話せ、と――薄雲は言外に告げている。だが、それに食いつくには、彼は既にこの女に反感を抱いてしまっている。


 と、薄雲は軽く息を吐くと自らふいと目を外した。押して駄目なら引いてみる、とでもいうかのように。


「と、まあ――わちきらは客の男をよう見るもんでありいすえ。この程度は、吉原の遊女なら誰でも分かって当然のこと。女の噂も、とかく姦しゅうありんしょう? もしや、主さんの知りたいことがわちきの耳に届いておるやも……」

「そのようなことがあるものか」


 誠に情けないことに、口では悪態を吐きながら、隆正は薄雲の横に膝をついていた。こんな女に。この女なら。相反する思いと、加えて好奇の念が彼の裡で渦巻いてそのような行動をとらせたのだ。廓の中で、話を聞くだけで、一体どこまで分かるものか見てやろう、と。悔しまぎれのことだった。


 恐らくは、全てが薄雲花魁の手の内なのだろうが。

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