手傷を負えない縛り
クロネコは己の見立てが甘かったことを、認めざるを得なかった。
屋根から屋根へ移動できない場所というのは、どうしても存在する。
そんなときはやむを得ず路地裏を歩くのだが、そんな折、誰かに目撃されたのは不運としか言えなかった。
クロネコは少し迷ったが、これまで彼を目撃して生存している者はいない。
だから今回も始末しようと考えた。
人気のない路地裏の奥、小さな空き地まで誘き寄せたところまではよかった。
誘われていることに気づいていただろうに、のこのこついてきた男は、立ち居振る舞いを見るに騎士だろうと推察できた。
その騎士はリィンハルトと名乗ったが、相手が誰であろうと生かして帰す気はない。
クロネコは攻撃に移った。
驚いたことに、クロネコの必殺の初撃は、リィンハルトにあっさり防がれた。
のみならず、背筋が凍るような連撃でもって反撃してきた。
その連撃を無傷で凌げたのは、僥倖と言ってよかった。
このリィンハルトという騎士に攻撃をさせてはいけない。
クロネコはそう判断し、連続でダガーを繰り出した。
速度ではこちらが勝っている。
クロネコは、リィンハルトを防戦に追い込んだ。
しかしリィンハルトは、クロネコの予想以上に辛抱強かった。
防戦一方にも拘らず、幾度も繰り出されるダガーの攻撃を、一つ一つ丁寧に防いでいるのだ。
焦って隙を見せる様子もない。
ここでクロネコは、決断を迫られていた。
戦闘力では、クロネコが上回っているという実感がある。
だが、リィンハルトは予想以上の手練れだった。
このまま戦闘を続ければ、勝てたとしても、クロネコも手傷を負う可能性がある。
明日以降もあるクロネコは、下手に怪我をするわけにはいかないのだ。
これはクロネコの弱点といえた。
クロネコは決断した。
一度、大きくダガーを振るい、リィンハルトに防御をさせる。
そしてクロネコは後ろに跳躍し、距離を取った。
同時にダガーを腰の鞘に収め、代わりに細い筒を取り出す。
訝しげな表情を浮かべるリィンハルトに構わず、クロネコは筒を指先で操作する。
すぐさま黒い煙が、筒から勢いよく噴き出した。
黒い煙はそのまま、クロネコの姿を覆い、空き地に広がっていく。
リィンハルトは身構えた。
当然、煙に乗じての奇襲を警戒したのだろう。
屋外だけあり、煙はほどなくして霧散した。
そのときにはクロネコの姿も気配も、もうその場にはなかった。
◆ ◆ ◆
11日目の午後。
「リィンハルトという騎士を知っているか?」
いつものように安物の椅子に腰掛けたカラスに、クロネコは問うた。
「ええ。リィンハルト・ディーライオン。この国の上級騎士の一人ね。若手の中では随一の実力者で、王都でも人気のある男よ」
「そうか」
「どうしたの?」
「昨晩、やり合った」
「あら」
カラスは驚いたように瞬きをした。
すらりとした足を組んで、吐息を漏らす。
「逃したの?」
「ああ」
「そんなに強かったのね?」
「強引に押し込めば殺せそうだった。だがそれをした場合、俺も手傷を負う可能性があった」
「そう……。確かにまだ先は長いから、下手に怪我をするわけにはいかないものね」
クロネコは、自分の黒髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「上級騎士は、さすがに一筋縄ではいかないか……。面倒だな」
「彼らは、正面からの戦闘ではプロだもの」
「やり合わないに越したことはないな」
「でも、一度もってわけにはいかないでしょ?」
「そうだな。対策を用意しておこう」
そこでクロネコは、促すようにカラスに視線を遣る。
「ええ、情報ね。ないわ」
「おい」
「新しいものはないのよ。ただ夜間の外出禁止令は、確実に発令されそう」
「そうか。まさかとは思うが、衛兵隊だけじゃあなく、騎士団も動かないよな?」
「今のところはそういう情報はないけれど、何か掴めたらすぐに知らせるわ」
「頼む」
それからクロネコは、思い出したように指を立てた。
「言い忘れていた」
「何?」
「今日、これから宿を変える」
「目撃されたから?」
「そうだ」
「覆面のおかげで、顔は見られていないのでしょ?」
「だが念には念を入れる」
「わかったわ」
カラスは立ち上がり、ふと口を開く。
「今、何人だっけ?」
「41人」
「すごいペース」
「後世の歴史に残る事件になりそうだな」
「歴史書に、名前も残せるといいわね」
「縁起でもないことを言うな」
名前が残るということは、彼が捕まって処刑されるということだ。




