95話 それぞれの道をいきましょう
「……こう、して、貴女の淹れる紅茶を、飲めるのは……今日が最後に、なる、のかしら……」
カップを手に、名残惜しげにフローラが呟く。
どう返答すべきか迷い、結局マリーベルは曖昧に微笑むに留まった。
「こうやって、静かにお茶を嗜むのも、久しぶりな気が、する、わ……」
感慨深そうなフローラの言葉。確かに、ここ数日間は特に激動と言って良い日々だ。彼女自身も疲労が色濃く、本来ならば治療に専念すべきところを押して、事態の収拾やその後の会談に参加。寝る間も惜しむかのように駆けずり回ったのである。
『選定者』は常人よりも、心身ともに頑強であるらしいが、それでも生身の人間には違いない。
マリーベルはフローラの体が心配であった。
「そうですね、フローラ様は本当にお忙しくていらっしゃいましたから。どうぞ、ご自愛くださいね」
回復の為とはいえ、喰っちゃ寝令嬢をしていたマリーベルとは大違いであった。
居心地悪そうに肩を竦める少女を見て、フローラがくすりと笑う。
何処となく、弛緩した空気が流れた。フローラとこうして向かい合い、二人きりで話すのは数日振りだ。
先ほどまで同室していたミュウは、ランドール殿下にお呼ばれされているから、という理由で退出している。
もしかしたら、自分達を気遣ってくれたのかもしれないと、マリーベルはそう思う。
「ええ、分かっている、わ……これから、もっと忙しくなるのです、もの……倒れたりしたら、アルファード様に、ご迷惑が、かかってしまう……」
愛しい人の事を語る声には、確かな喜びが在った。
その、心から安らいだ表情を見て、マリーベルはホッとする。
王宮に来てから――いや、デュクセン侯爵家で初めて彼女を見たあの時から、何処となく張り詰め、気負っていた様子が今は微塵も無い。苦難を乗り越え、愛する王子の傍に居られる幸福。それが、彼女の仕草一つ一つから強く伝わって来る。
「王太子妃のお仕事は多岐に渡ると聞きますし。いえもう、私では想像も付かない世界なんでしょうね……」
そう。フローラは『候補』でなく、正式な王太子妃として擁立される事が決まったのである。
病床にあった女王陛下による、正式な承認。いくら事態が解決したとはいえ、随分とドントン拍子に進んだものだとマリーベルも思ったものだ。
だが、よくよく話を聞いてみれば、王太子自らが以前から議会に申し出ていたり、いつでも正式な認可が降りるように調整をしていたらしい。フローラの暗殺騒動が持ち上がったため、彼女の安全確保を優先して一時的に控えられていただけで。本来は、いつでもこうして彼女を妃に出来るよう準備が進められていたとか何とか。
意外と――というか、相当にやり手の王子様であった。そこには執念めいたものが仄かに見え隠れする。
マリーベルがそれとなく揶揄した言葉を向けると、フローラは苦笑した。
「あの方も、演技をする必要が、なくなったと、いうのに……律儀な方なの。本当に誠実な方、で……」
そう、そうなのだ。
その辺の話は、マリーベルにはどうにも納得がいかない。
本当はフローラの事を愛してはいなかった? 何なのだそれは。一途に想いつづけた彼女を馬鹿にしているのか!
内心で憤慨するが、どうやらその念が漏れてしまったらしい。マリーベルの心に感応したフローラが、静かに首を振った。
「それはもう、殿下も私も納得した話、よ……その証をあの方は下さった。私はそれで十分、なの」
「どれだけ愛しても、想いが返っては来ないのに?」
「いいえ、応えては下さったわ。分かるのよ、私には……」
謎めいた笑みを浮かべ、フローラが目を閉じた。
ミュウと同じだ。そうマリーベルは実感する。
恋に惑わされている訳ではあるまい。夢見る少女のような幻に縋っているのでも無い。
全てを理解したうえで覚悟を決め、愛する人と歩む事を選んだ。そこには誇りと、溢れんばかりの愛情があった。
本当に、誰も彼も。マリーベルの周りに居るのはみな、強い女性ばかりである。
畏敬を超えて、崇拝の念すら抱いてしまいそうだった。
そんな少女を眩しそうに眺めながら、フローラはカップを皿の上に置く。
「……クレア・レーベンガルドの話は聞いた、わね?」
「……はい。ほぼ全ての記憶を失った状態、だとか」
マリーベルが知らない『クレア』。人形では無い生身の、本当の侯爵令嬢。
氷室から救出され、意識を取り戻した後も後遺症が残ったか。人と話す事すら満足に出来ない状態、らしい。
レモーネ・ウィンダリアが行ったという『転写』とかいうもの。恐らくは『祝福』の一種なのだろうが、結果的にそれは無残な結末をもたらした。レーベンガルド侯爵家の令嬢の未来は、ほぼ断たれたも同然である。
本当の彼女が、何処まで計画を知り、それに加担していたかは分からない。
ただ、表面上の性格はあの『クレア』と同じであったのだろうと、マリーベルはそう推測していた。
貴族の令嬢が、親に逆らう事など許されるはずもない。彼女もまた、被害者なのだ。
その身は療養と事情聴取を兼ね、王家が管理する離宮に収められている。
彼女の処遇を巡り、レーベンガルド侯爵家とひと悶着はあったようだが、その辺りは上手く押し切ったらしい。
正解だ、とマリーベルは思う。王太子が自身の権能で知り、フローラが読み取った所によると、レモーネの『模倣』も決して万能では無い。一度能力を使って姿を模せば、そこで終わり。解除をしてしまったら、もう一度その人に触れない限りは再使用出来ないらしい。勿論、彼女が本気を出せば侵入を止められはしないだろうが、レーベンガルドの手元に戻されるよりは、余程にマシだ。
「……会う事も、出来るけれど――」
「いいえ、止めておきます。彼女は、私の知る『クレア』ではないのですから」
痛ましくは思う。やりきれなさもある。結局のところ、彼女はどこの陣営に取っても駒でしかないのだ。
誰かに操られるだけのお人形。そこに果たして、クレアの意志はあったのだろうか。
けれど、自分に全てを背負う事は出来ない。マリーベルの手は二本しかなく、神さまから授かった力も無限では無い。
たとえ冷たいと罵られようとも。己の持つ全ては、自身と――自分が大事に思う人たちの為にこそ使いたいのだ。
何でもかんでもやたらに責任を感じ、立ち止まっている暇など無い。
マリーベルは自分に言い聞かせるように、内心でそう呟く。それは口に出すべき事ではないだろう。
代わりに、ポケットから小瓶を取り出す。手の平に収まるほどのその中には、小さな白い欠片が入っていた。
「それ、は……彼女、の――」
「ええ、他にも色々と探したんですけど、これしか残っていませんでした。後は全部燃え尽きちゃったみたいです」
マリーベルは懐かしむように、小瓶を指で撫でる。
「海にね、連れていってあげようと思うんです。砂浜を一緒に散歩して、波打ち際で水をパチャパチャとして、そうして――」
そう、そうして。海の見えるその場所に埋めてあげようと、そう思う。
もしかしたら、『クレア』の中には、本物の意志や心が宿っていたかもしれない。
だとしたらその魂が、想いが。少しでも慰撫されてくれれば――
所詮は自己満足であろうが、マリーベルに出来るのは、それくらいのことであった。
「そう、そうね。それが良いと、私も思う、わ……あの子は、貴女の事が大好きだったから」
「フローラ様……」
「最期に、感じたわ。あの子は喜んでいた、嬉しいと思っていた。貴女の友達になれて良かったと、そう、心から……」
何処か躊躇うような口調。告げるべきか、フローラも迷ったのかもしれない。
その気遣いを、マリーベルは嬉しく思う。
確かに胸が詰まったように、息苦しい。微かな罪悪感が首をもたげるが、それでも。
『マリーベル!』
彼女が人生の最期に抱いた感情が、憎しみや怒りでなく、喜びと救いであったならば――
そこまでを考えて、マリーベルは首を振った。
それ以上は傲慢というものだ。彼女の決断と優しさを尊重したいし、そうするべきだと思う。
それが自分を友達と思ってくれた女の子への、マリーベルなりの友情であった。
「……貴女は本当に強くて優しい、ひと。この十日間を無事に迎えられたのは貴女のお蔭よ、マリーベル」
「私は少しばかりお手伝いをしただけですよ。フローラ様の頑張りを、ほんのちょっぴり後押ししただけのこと」
「いいえ、貴女が居なければこの結末を得られなかったでしょう。心から感謝を、して、います……」
だから、と。フローラは笑みを引っ込め、真正面からマリーベルを見据えた。
「……答えはもう、分かってはいるけれど。最後に聞かせて頂戴。私と共に在る気は、ない? 正式な傍仕えとして、着いて来てはくれない、かしら……」
その言葉の裏にある物を察し、マリーベルは目を瞬かせた。
「……月の終わりに婚約を発表し、誓約だけをすませ、て……私と殿下は、アストリアに向かう、わ」
「記念式典の招待客、国賓として、ですよね?」
「ええ、そう。そこから幾つかの国を回って外交の経験を積み、こちらに戻ってきたら、式を挙げる予定、なの」
それは王太子妃のお披露目もかねて、であるが――実の所は、アルファード王太子が健在であることを諸国に知らしめるためでもあった。人の口に戸は建てられず、何処から話が漏れるかは分からない。エルドナークは未だ王家に権威が在り、それが国民の誇りでもある。ゆえに、事実上の王権代行者であるアルファード自らが、王室外交に励む事は必須と言えた。
フローラはその傍で、彼を支える。支え続ける。王太子妃――次期王妃として。
それは言うほどに易く、平坦な道のりではない。
煌びやかな地位とは真逆に、国母として己を律し、国を治めねばならないのだ。
「貴女の才覚さえあれば、十年内には女官長の地位に就ける、でしょう。後ろ盾も用意する、わ。貴女の夫にも迷惑は掛けません。王宮内における私の代行者として、存分にその手腕を振るうことも、出来る……」
試すような、願うような眼差し。
マリーベルもまた、その視線を真っ向から受け止めた。
胸中に湧き上がる、複雑な想い。それは自分をそこまで評価してくれた事に対する喜びと、そして――これから告げる言葉への申し訳なさであった。
「過分なご評価、光栄にございますわフローラ様。けれど、どうかお許しくださいませ」
「……やはり、貴女の答えはそう、なのね」
「はい。私にはどうも、王宮生活は似合わないようです。分不相応というものですね」
得た知識と経験は掛け替えのない物だ。
だけど、体験してみて分かる。
ここは、マリーベルの居場所では無いのだ。
「私は、マリーベル・ゲルンボルクなのですわ、フローラ様。貴女がエルドナークの名を継ぐように、それが私の在るべき道です」
「そう、ね……」
フローラが何処か悲しげに微笑んだ。
言う通り、こちらの答えを分かっていたのだろう。
それでなお、自身に選択権を与えてくれた事を、マリーベルは感謝した。
「……本当に今までありがとう。貴女に心からの感謝を」
「フローラ様、私こそ……」
詫びの言葉を重ねようとするマリーベルを制し、フローラは少女の手を取った。
「私も、『クレア』と同じ……貴女と会えて良かった。この十日間は私の宝物、よ……」
微かに伝わる、指先の震え。温もりと共に染み入る想いが、マリーベルの胸を突いた。
「辛いこと、苦しいこと。色々とあったけれど、貴女と過ごした日々は楽しかった。本当に、楽しかった……」
マリーベルとフローラ。
互いに神の『祝福』を得た同年代の女同士、そこに通じるものが在った。
触れ合った時間は少なく、語らった日々は短くとも、芽生えた絆は確かなもの。
――分かっているのだ、フローラも。
その申し出を断った以上、二人の道がこの先交わる事は、恐らくは無い。
マリーベル達がどれだけ地位を向上させ、成り上がろうとも、住む世界が根本的に違う。
もし社交の場で会い、言葉を交わしたとしても、以前のようには居られまい。
彼女は王太子妃。エルドナークの王族となるのだから。
見つめ合う二人の間に、言葉は無かった。それで十分であったのだ。
フローラの『祝福』を介さずとも、互いの瞳が、全てを物語っていた。
初めて出会った日の事、侯爵家でのお茶会、そして王宮で過ごした日々が頭を過ぎる。
二人で励まし合い、決意を固めた。手を握り合い、微笑みながら眠りについた。
肌身を寄せ合い、月夜を駆け抜け、己がすべきことを成し遂げた。
短くも色濃い思い出。それらが鮮やかに脳裏を巡り、浮かんでは消えてゆく。
「……最後に、もうひとつだけ。我儘を言ってもいい、かしら」
「はい、私に出来ることでしたら」
フローラの顔が近付く。吐息が触れるほどの距離で、次期王太子妃が呟いた。
「この先にどんな苦難があろうとも、私は務めを果たし、ます。王太子妃として、愛しいあの方の妻と、して……」
だから、と。彼女が俯いた。
その頭がマリーベルの肩に触れ、そこから微かな重みと温もりが伝わって来る。
「ここに、置いていかせて。娘時代の私を。フローラ・デュクセンという名の私を」
「フローラ様……?」
「今だけ、この時だけ。侯爵令嬢でもなければ、王太子妃でもない。貴女の友人として、言葉をくれる、かしら……」
掠れるような声。そこにある願いと祈りを感じ取り、だからマリーベルは微笑んだ。
「……ええ、そんな可愛い我儘なら大歓迎よ」
「マリー……!」
そう告げた瞬間のフローラの表情を、マリーベルはきっと、一生忘れない。
震える体をそっと抱きしめ、マリーベルは『友人』の耳元で囁いた。
「あなたなら大丈夫。向こう見ずな王太子様をしっかり捕まえて、振り向かせちゃいなさい。あなたみたいに可愛らしくて優しい女の子を、無下に出来る男なんていないし、もし居たら私が許さないわ」
「ふふ、そうね……ふふ……」
貴族でも何でも無い。
まるで、ごく普通の少女のように、二人は頬を寄せ、悪戯っぽく笑い合った。
「ほんと、男どもはいつも無茶ばかりするんだから。私達がちゃんと手綱を取らないとね! これからは女だって強く在るべき時代だもの」
「うん、うん……」
「だからね、約束しよう。いつか、またこうして会えるその日まで。たとえこの先に何があっても、互いの大事な人の為に――」
体を離し、マリーベルはもう一度だけフローラの瞳を覗き込んだ。
その目端に浮かぶ水滴を見ないふりして、額をこつんと合わせる。
「――頑張ろうね、フローラ」
立場も地位も『祝福』も、何もかもがこの時ばかりは関係ない。
ただ、この一瞬だけは単なるマリーベルとフローラとして。
心から通じ合った友達として、誓うだけ。
「うん……ありがとう、マリー……」
いつかの明日。訪れるかも分からない未来。それでも願う事くらいは許されるだろう。
進むべき道は違えども、胸に灯した志は同じなのだから。
幼い子供のように無邪気に笑い合いながら、二人の令嬢は互いの手を固く、強く――握りしめた。




