55話 宴の後
近頃の乗合自動車は、便利ではあるが運転が荒っぽい。
日中ならともかく、人気の無い夜半過ぎともなれば尚更だ。
軽い振動に体を上下に揺さぶられつつ、アーノルドはシートにもたれかかって空を仰いだ。
吹き上がる蒸気が夜空に立ち昇り、煙る匂いが鼻筋を掠めてゆく。
「……どう思う、アン?」
『レーベンガルド卿の視線を感じました。恐らく、私が『ここ』に居る事に気付いていたのでしょうね』
「露骨に胸元へ目を向けてやがったからな。つう事は、侯爵閣下も『選定者』――ってことかよ」
まるで百貨店の特売売り出しのようだ。
右を向いても左を向いても、そんな話を聞くばかり。
生まれてこれより32年。
人を外れた連中とやり合う事はあっても、超常の領域に達した輩と出会う機会なんぞ、無かったというのに。
『お気を付けを、ご主人様。レーベンガルドの血筋に発現する『祝福』は、時間と空間を超えて作用するものが少なくございません。かつて、王家に嫁いだ令嬢の中には、未来を垣間見る力を持った者も居たと――』
「何か、思い出したのか?」
『……おぼろげながら。権力も血脈も何もかも備えた『伝統的な』大貴族の象徴。それが現・レーベンガルド侯爵です。決して油断の出来る相手では無いかと」
「あぁ、分かってる。男爵にも忠告されたからな」
侯爵家からの『招待』が届いてすぐ、アーノルドはメレナリス男爵に事の次第を話し、情報の提供を仰いだ。
彼は難しい顔をしたのち、こう言ってくれたのだ。
『ミスター。『エズフィル』は伝統派貴族の中核となるべきクラブです。その主催たるレーベンガルド卿は、享楽と有閑を尊び、常に余暇を潰せる相手を求めていると聞いておりますぞ』
社交界に轟く、レーベンガルド侯爵の噂と武勇伝をとくと聞かされ、アーノルドはそこから彼の求める物を推測するに至った。
「大貴族の返礼を断るような奴は、あっという間に無礼者として名が広まるからな。受けねえわけにはいかなかったが……」
アーノルドは先の会談を振り返り、熟考する。
(やはり、ガヅラリー社の裏には侯爵が居た、か)
あの記者会見の一件以来、レティシア達が、方々から手を尽くして、かき集めてくれた情報。巧妙に隠されてはいたが、細い糸を手繰るように目を凝らした先にーー微か、ほんの僅かな痕跡があった。その名に至る、直感があった。
「……『祝福』が使用された気配は無かったんだな?」
『はい、それは間違いなく』
「だとするとやはり、目的は発動の条件を満たすこと、か? あのやり取りの中で、それが果たされたとしたら――」
『――互いの了承の元に、成立する何か。だとすれば、あのコインの所作も怪しく存じます』
それは、何となくアーノルドも悟ってはいた。
薄々、前から感じていたことがある。
マリーベルやラウルもそうだが、彼女達は『祝福』を使う事に基本、躊躇いというものが無い。
妻は幼少時の精神的外傷から、意識してそうしていたようだが、未知の力に畏れを抱いたりはしていないようなのだ。
記者会見の際、大技を振るった時も、アーノルドに拒否されるのを恐れただけで、自分自身の力は普通に受け入れている。
いや、『祝福』を使う際のマリーベルはいつも愉しそうで、悦びさえ感じているように見える。恐らく、本人は気付いてはいないだろうが。
「あの『人形』の使い手もそうだ。必要だから『祝福』を使ったんじゃねえ。敢えて、自分から使用する状況に持っていったようにも思える」
『ご主人様の直感は、時々ひどく鋭くありますものね。それは、ある意味では的を射た考えでございましょう。私はほぼ常時『祝福』を発動しているような状態ですが、それでも懐中時計に意志を移したり、虚と実の狭間に身を置く時、例えようの無い悦び、酩酊感のようなものを覚える事がございます』
「かの『美食伯』は、己の『祝福』を疎んでいたらしいと、あの寝ぼけ花の爺様は言っていたな。だから、例外もあるだろうし、他の要因が精神の高揚を塗りつぶすような事もあるんだろうが――ともあれ、現代の『祝福持ち』はみな、それを使いたがっていると思ってもいいだろうさ」
まるで呪いだ。
もしも代償が恐ろしきものであるなら、死の間際までそれを使い続ける者も居るのではなかろうか。
『祝福』持ちであるにも関わらず、『祝福』を使用せず、神の与えた力と無縁に生きる。
それを為すことは、酷く難しい生き方なのかもしれない。
「だが、そうなら積極的に俺へと使ってくるだろうさ。そうしたらめっけもんだ。能力の概要を身を持って知れる。標的が『あいつ』でなく俺ってのが、いいな。うん、俺の命一つなら、まだやす――」
『それ以上口にされたら、奥様に密告致しますよ』
「――あぁ、すまねえ。俺の悪い癖だな」
危険に身を置きたがるのは、アーノルドも同じ。
何の事は無い。ある種の同類なのだ、侯爵と自分は。
命を弄ぶか、金を弄ぶか。同じ穴の下衆。
だからこそ、アーノルドは侯爵の求める物を正確に理解出来たのかもしれなかった。
(……本当は、俺よりも。優しくて美形で、まるで王子様みてぇな貴公子の方が、アイツにお似合いなんだろうな)
だが、選ばれたのは自分であり、選んだのもアーノルドだ。
だったら、己を卑下する理由何ぞないし、もう彼女を手放す気など、更々無いのだ。
(なんだっけか、最初に会った時に言われたっけな。『山賊』みたいだって。あぁ、そうかもな。俺は宝物をこの手で奪っちまった。男爵家秘蔵の、かけがえのないお宝を)
だからもう、誰の手にも渡すつもりは無い。
アーノルドは大きく息を吸い込むと、胸元の懐中時計を、宥めるように叩いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
屋敷に着いた時、時刻はもう深夜と言っても良い頃合いだった。
実体化したアンが扉を開き、中へとアーノルドを招き入れる。
すると、その音に気付いたのだろう。出迎えに来たティムが、生暖かい目線をこちらに向けた。
「マリー……奥様がお待ちかねでしたよ、旦那」
「何だ、そりゃ。歯に物が挟まったみてぇな言い方しやがって」
「まぁ、見れば分かるよ」
そう言われ、案内されたのは正餐室。
足を踏み入れたと同時に、アーノルドは少年従僕の言葉の意味を悟る。
部屋の中央、そこには大きなテーブルにつっぷし、くうくうと可愛らしい寝息を立てる奥様の姿があった。
「旦那の為に、暖かい料理を作って待ってるんだって、そう言って張り切ってたんだけどね」
『よほど、お疲れだったのでしょう。日々、学びを欠かさぬ御方ですから……』
使用人二人の声に、アーノルドは胸が詰まるような想いを抱く。たまらない気持になって、熟睡する妻へと近付いた。
ティムが掛けてくれたのだろう、その小さな背中には毛布が掛けられ、暖炉には火が灯っていた。
本当に気が付く少年だと、感謝するとともに――
出来れば自分がそうしたかった、という欲求めいた衝動に襲われ、アーノルドの口から苦笑が漏れた。
「悪いなあ、遅くなって。一緒にご飯食べるって、そう言ったもんな……」
出かけの際の会話を思い出し、アーノルドは妻の背に手を触れた。起こすのも忍びないが、この格好で寝すぎたら、明日の朝に響くだろう。
折衷案として、その体を抱き上げてベッドまで運ぼう。
アーノルドは、できる限りゆっくりと優しく、その柔らかな肢体を抱え上げた。
「ん……だんな、しゃま……?」
「あ、悪い。起こしちまったか? いいぞ、寝てて。何も心配するような事は無かったからよ」
赤子を宥めるように体を軽く揺すり、再びの眠りへと誘う。
マリーベルの目がとろんと微睡み、顔が夫の首筋へと落ちる。
そのあどけない様子に、微笑ましさと切なさを感じ、アーノルドはしばし妻の温もりに身を委ね――
「――他の女の、匂いがします」
その声に、恐怖の悲鳴を漏らした。
「ママ、マリーベル!? な、何を言って……!」
「間違いありません! 何これ、ここも! あそこも! ああ、頬までっ! 何これぇ! どういう事なんです!?」
憤怒の形相で夫の首元へ齧りつくと、奥様はペタペタとそこらかしこを触りまくる。やがて、『証拠』を見付けたのか、その眉が炎の如く吊り上がった。
「あ、あぁ、あぁぁぁぁ!! くくく、首に吸い付いた痕があるぅ!! 誰、誰の唇よこれ! 誰とキスしたの!?」
「違う、違うんだ! 聞いてくれ! これは不可抗力で、だな!」
「旦那、いけない。その言い訳は不味いよ」
『うわぁ、墓穴をお堀になってございますね……』
半笑いの突っ込みが耳に痛い。
というか、メイドの方は一部始終を見ていただろと言いたい。
助けろ、いや助けて! 説明を、説明を!!
アーノルドは懇願の視線をアンに向けた。
「何処に行ってたんです、旦那様! どうも帰りが遅すぎると思ったら! まさか、まさか! そういったお店に――!」
『いえ、ご主人さまは間違いなく侯爵のクラブへ行かれました。寄り道もしておられません。ただ、ちょっとそこでいやらしい雰囲気の胸元も顕わな美女に纏わりつかれ、ちゅちゅとキスを賜っただけで――』
「説明を省くなよぉ!! 違うだろ、もっと、こう――!」
「うぎぃぃぃぃぃ!! 何で拒否しないのぉぉぉ!? あぁ、匂いがこびりついてる! ここも、あそこも! 許さない、許せないぃぃぃ!」
怒髪天とは、こういう状況を言うのだろうか。
怖い、怖いが過ぎる。めっちゃ恐ろしい。
アーノルドは、かつて感じたことの無い恐怖に、身を震わせた。
「私の、私だけの旦那様なのにぃ! う、上書きしてやる! 上書きしてやるんだからぁ!」
「やめ、やめろ! 自分が何を言ってるか分かってんのか!? よせ、噛みつくな、吸うな!」
歯を剥き出して迫りくる奥様の魔手を、夫は必死で迎撃する。
頭上に互いの両の手の平を合わせて組み、力比べの如くせめぎ合う。
当然、不利なのは旦那様の方だ。
『祝福』も使っていないと思われるのに、凄まじい勢いで押し切られていく。
「やや、やめろ! 唇は許さなかったから! それ以上は何もしてねえし、されてねえから!」
「うるさい、黙って! 貴方は誰のものか、その体に刻み付けてやります! 覚悟して下さい旦那様!」
男らしさ極まる言葉と共に、奥様の唇が眼前に来る。
その目は涙と興奮で、餓えた狼の如く輝いている。ギラついている。激おこされていらっしゃる。
とてもではないが、胸がときめくシチュエーションではない。
「……決着は火を見るより明らかだし、紅茶でも淹れてこようか」
『ですわねえ。喉も乾くでしょうしねえ。甘い物も欲しいでしょう。レンジに火は入ってますね。じゃあ、ビスケットでも焼きましょうか。ティムさんも召し上がってくださいな』
「あ、いいね! オイラ、アンのビスケット大好き!」
軽い足取りで廊下に消えて行く使用人二人。
絶望の眼差しでそれを見送りながら、アーノルドは呻く。
程なくして、屋敷中に響くほどの絶叫が轟くのだった――




