145話 開かずの間
「開いたわよ、アーノルド。少しばかり複雑な仕掛けだったけど、まぁ何とかなったわね」
「流石だな、助かったぜ」
錆びついた、古めかしい鉄の扉。罠の類がない事は、傍らの友人が保証済みだ。
アーノルドはそれを、ゆっくりと押し開く。軋んだ音と共に、淀んだ空気が流れ出した。
ランタンを前に翳すと、部屋の様子がぼんやりと浮かび上がる。
思ったよりも、黴臭くは無い。埃も舞わない。これは、当たりだろうか。
そんなアーノルドの心を推し量ったかのように、小柄な少年が前に出る。
「うん、そうだ。貴方の思った通りだね。そこらじゅうから、木材や顔料の香りが匂って来るよ。恐らく、つい最近まで絵画がここにあったんだろう」
ひくひくと鼻を鳴らし、彼――フェイル・セルデバーグが呟いた。
円状に開かれた、狭苦しい空間。家具や丁度品の類も殆ど無い。
申し訳程度の机が部屋の真ん中に置かれており、後は壁際に棚が一つあるのみだ。
白い漆喰が塗り込まれた壁は染み一つなく、何処となく病的な、うすら寒さを感じさせた。
そんな、およそ生活臭の欠片も無いその部屋に、少年の声が響き渡る。
「えっと、何枚かなぁ。結構な数だよ。恐らくは、壁にずらりと並べられていたんだろうね。それに、これは……」
何とも言えない表情で、フェイルが顔をしかめた。
「間違いない。『祝福』の残り香だ」
少年の呟きに、アーノルドは思わず壁を殴りつけてしまう。
やるせない怒りが、腹の底で煮えたぎっているかのようだ。
「くそっ! やはりか! やはりここに、ラ=ズリの絵画があったんだな!」
何故、気が付かなかったのか。アーノルドは歯噛みする。
『開かずの間の噂、昔から有名らしいわよ? アンタが怖がるだろうから言わなかったけど』
『うわぁ! あの塞がれた地下通路ってそうだったんです!? 知らずにお掃除してた!! 鼻歌混じりに!』
結婚披露宴で耳にした、妻とその同僚たちとの会話を思い出す。
リチャードの変貌を少なからず感じ取っていた女性たちだ。
そこから連想して思い出し、もしや――と確認して見たら、大当たり。
あの執事の『祝福』があれば、誰にも怪しまれず、外から運び込むのも容易かっただろう。
(こんな膝元にあったっつうのか!)
一度手放したものだ、まさかまた手元に戻ってきているとは、思いもよらなかった。
だが、それさえ今となっては、言い訳に過ぎない。
アーノルドは苛立ちを紛らわすように壁に手を掛け、掻き毟る。
「この、ハインツ男爵家の――荘園屋敷に!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「そのご様子ですと、あまり良い結果には結びつきませんでしたか」
屋敷の探索を終え、玄関ホールに戻った一行を出迎えたのは、その声だった。
余程に酷い顔をしていたのかと、アーノルドは苦笑してしまう。
「ええ、まぁね。どうにも後手後手に回らされてしまいましたよ」
「申し訳ございません。少しでも話を聞き出し、御引止めをしておくべきでした。よもや、リチャード様がそのような」
心底から無念そうに、深々とジェンマ・スツールが頭を下げた。
ハインツ男爵家の家政婦として、男爵夫人の右腕も同然だった彼女だ。
予兆を感じ取れなかったことを、悔いているのだろう。
「確かに、ここのところは奥様のご様子が優れないと、そうは思っていました。でも、まさか。そんな恐ろしい事が――」
「……もう一度確認しますよ、ミセス・スツール。義弟――リチャードを名乗る『アレ』は三日前にここへ立ち寄った。家令であるスミスを伴って」
「ええ、ええ。間違いございませんわ。奥様の姿が見えず、お二人だけでお戻りになられたのを、おかしいと思ってはいたのですが」
ジェンマが目を瞑り、首を振る。
彼女曰く、彼等二人はその後『当分の間、こちらへは戻らない』とそれだけを告げ、屋敷を立ち去ったという。
その際、何処から連れてきたものか。ジェンマですら見た事の無い従者たちに、何か大荷物を運ばせていた、らしい。
「無理を言ってすまない。いくら男爵家の娘婿とはいえ、部外者も同然な俺達に色々と便宜を図ってくれて……」
「いえ、お嬢さまからの委任状のみならず、彼のルスバーグ公爵家とシュトラウス伯爵家。御三家と名高い方々の嘆願状をお持ちになったのですもの」
それに――と。
ジェンマは数枚の封筒を取り出し、アーノルドに差し出した。
「奥様から、密かに申し付けられておりました。もしも貴方様がこのお屋敷を訪れたなら、出来うる限り協力をして欲しいと」
「これは……?」
「『自分がこの屋敷に戻れなかった時は、渡すように』そう仰せつかっておりました」
アーノルドは思わず、封筒を凝視してしまう。
いつから、義母はそのつもりであったのだろうか。
「これだけは、絶対にリチャード様には見せるな、何があっても他言するな。ゲルンボルク夫妻以外に、渡してはならない。いつになく物憂げなお顔で、そう、申されて……」
ジェンマの声が震える。その肩も、小刻みに揺らめいているようだ。
演技には見えない。女主人の忠実な使用人。こちらの味方のようには、思える。
微かに視線を後ろへ傾けると、レティシアが微かに頷いた。
昔に戻ったような懐かしさを覚え、アーノルドは皮肉気に苦笑した。
「中を、改めさせてもらっても?」
「勿論ですわ。どうぞ、ご自由になさってくださいませ」
紙の質は上等なものだが、封筒には差出人の署名も、印章も無い。
一応、妙な『祝福』が掛かっていないかをフェイルに確認して貰い、アーノルドは手紙を開いた。
冒頭の数行を手早く速読し、内容を頭に刻み込んだところで、気付く。
筆圧と内容からから察するに、これを書いたのは男性だろう。
それに、文字の綴りに見覚えがある。
以前、社交の参考がてらに幾つか見せてもらったものと、一致しているように思えた。
(これは、先代男爵。ドルーク・ハインツの書簡か)
『我が愛しき君へ』から続く、甘ったるい愛の言葉。
それが、妻に向けられたものでないことは、明白だった。
女性を称える表現、そこに出てくる髪の色や瞳のそれが、義母とは異なっている。
相手の名前は、一応ぼかしてはいるようだが、アーノルドには何となく察せられた。
(――エリス・レーベンガルド。男爵の、昔の恋人か。良い年をして浮気の手紙とは、何処までも馬鹿にしやがるぜ)
古来より、どこの国に於いても上流階級――それも貴族には、『秘められた恋』の文化がある。
例えば隣国・アストリアの全盛期は、それはもう盛んだったらしく、どろどろとした愛憎劇がそこらかしこで繰り広げられたとは、他国にも有名な話だ。
エルドナークでも表立っては明かせないものの、そういった風潮は未だに一部で、根強く残っているらしい。
(何だっけか、マリーベルに聞いた事があるな。今は廃れたらしいが、昔は妙齢のご婦人が『お誘い』をして寝室に招き、若い貴族と親密になるのも、一種の社交として成り立っていたとか何とか)
ゾッとしない話だ。
それを恐らく許容していたであろう旦那も、どういう気をしているのか。
根が平民のアーノルドには、理解できない世界だ。
そう、目の前の『裏切り』の証拠も――
(……あの人は、どんな気持ちでこれを読んだんだ?)
妻とのやり取りでも分かる通り、義母は普段の態度とは裏腹に情が深く、誇り高い貴族女性だ。
アーノルドは、やるせなさにため息を吐いた。
そも、どんな方法でこれを手に入れたのか。
複雑な気持ちでそれを読み進めるうち、アーノルドは奇妙なことに気が付いた。
書面が後半になるにつれ、文字が上から塗りつぶされていたり、書きなぐられたように綴りがねじ曲がっている。
おまけに、肝心の内容もそうだ。支離滅裂で、同じような言い回しが循環している。
貴族の紳士が書いたとは思えない。
『――私は、恐ろしい』
何度も何度も、出てくる文面。次の手紙も、また次の手紙もそうだ。
途中までは理性を保とうと、取り繕おうとした文章。
しかしそれも、その一言と共にたちまち崩れ、奇怪なものに変化してゆく。
『私の中に、別の私が居る』
『どうして、あの夜。私は、あのメイドに手を出したのか。何故、あの娘を引き取る気になったのか!』
『昨日、庭師が私に礼を言って来た。思いがけない『小遣い』をありがとうございます、と! 何だそれは! 私はそんなもの、手渡していない!』
『鏡の中で、『私』が笑った! 笑ったのだよ、愛しき君! せせら笑った、嘲笑ったのだ!』
知らず、アーノルドの指先が震え出す。
薄々と思っていたこと。それが現実のものとなり、先代男爵の文字を借りて書き出されている。
『すまない、すまない。君は、君だけは心安らかに暮らして欲しかったのに。裏切られた、どうしてだサウス! 何で、どうして! 君は知っていたのか!?』
『あれは、私の娘じゃない。そうだ、はっきりと言える。私の中の『あれ』が、浮かび上がり、事を為したのだ! 私の娘であるものか! そうだ、私は君を裏切っていない、信じてくれ! 証明も残すから、どうか信じてくれ……!』
『帰りたい、あの日々に帰りたい。君と愛を語らい、未来を夢見た、あの頃に……かえり、たい……』
気が触れた男の、叫びと錯乱。最早、まともな文章ともならぬそれを、アーノルドは必死で追う。
やがて、それは。最後の手紙に行き着く。
『――私は、始末を付けようと思う』
それは、今までとは一転して、ひどく落ち着いた語り口調。
『サウスに約束させた。面白いと彼は嗤ったよ、破滅嗜好の狂人め。だが、それでも。そこに幾ばくかの情けが、友情が遺されていたと思いたい。そんな愚かな私を、君は笑うだろうか』
『幸い、嫡男は作れた。男爵家には、リチャードが居る。ベルネラに任せれば、後は何とかなるだろう。私は、責任を取る。手遅れになる前に、そうせねば。もう今の私は自害すらままならないのだ。だが、その方法ならあるいは、私もろとも『悪魔』を葬れる!』
『どうか、どうか君だけは幸多き日々を、安らかな平穏の世界に生きて――』
アーノルドは、手紙を握り潰した。
様々な感情が腹の底で渦を巻き、止まらない。
胸糞悪いとは、まさにこの事であった。
「アーノルド――」
「悪い、ついカッとなって、ガキみたいな真似をしちまったな」
しばし深呼吸をし、息を整え、そうしてアーノルドはジェンマの方を向いた。
「これは、頂戴しても?」
「ええ。お持ちになってください。これが何かのお役に立つなら、きっと奥様も本望かと」
何かを振り切るようにして、ジェンマは目を伏せた。
「出来うるなら、あの方のお傍に参りたく存じますが、叶わないでしょうね。そのくらい、私にも分かります」
「申し訳ない。こちらでも、出来うる限りの事をさせて頂きます。貴女にはどうか、この屋敷の管理をして頂きたく」
「ええ、ええ。承知いたしました。ですからどうか、ベルネラ様を――」
そうして、もう一度。深々と、家政婦は一礼する。
「――お嬢様を、よろしくお願いいたします」
アーノルドは、どうかその言葉が真実であってくれと、そう願う。
何故ならば、その一言に。こんなにも救われた気持ちになったのだから。
手に持った封筒ごと、粗雑にレティシアへと投げ渡す。
このまま手に持っていたら、きっと引き裂いてしまったかもしれない。
男爵の境遇が真実、そうだとすれば、多少の同情は覚えるし、彼もまた不幸であったとは思う。
だが、心の底まで吐き出し、曝け出した『それ』はまた、話が別だ。
マリーベルには、中身を要約して知らせればいい。
こんな事で、妻の心をこれ以上、掻き乱されてたまるものか。
舌打ちをしたくなるのを堪え、それでも表面上は平静を保つ。
そうして、ようやく。それを意識の外に追いやった。
ついに、娘の名前を一言も書き記さなかった手紙。
あの少女が歪まず育ったのは、生来の気質が大きいのだろう。だがきっと、養母や弟、そして『彼女達』のお蔭もあったはず。
ふと視線を移すと、ホールの柱の陰や客間への出入り口などに、幾つかの人影が見える。
その殆どはまだ年若い女性たち。彼女達は皆、心配気にこちらを見つめているようだ。
その唇が、微かにマリーベルの名を呟くのが、確かに聞こえた。
アーノルドは深い、深い感謝の意を顕すように。
男爵家の忠実なる使用人達に、紳士の礼を取るのだった。
次回は明後日、10月7日(土)に更新いたします。




