101話 気付いて、しまいました
――舞踏会。
エルドナーク社交界の花形といえるそれは、時と場合、規模に応じて様々な形態を使い分けてゆく。
公開制か招待制か、小舞踏会か大舞踏会か。
中でも、深夜から明け方に掛けて行われるそれは格式高い場合が多く、浪費される予算はまさしく留まるところを知らない。
今宵、開かれるは招待制の大舞踏会。
毎年、五の月の末に王太子アルファード・エルドナークの名に於いて開かれるそれは、社交期前半の一大イベントであり、参加することそのものが名誉となるもの。エルドナーク社交界で名を馳せるにあたり、決して避けては通れない。
栄光の煌びやかさの陰で、渦巻く悪意と嘲笑。
己を示すか、はたまた堕ちて消えるか。
――ゲルンボルク夫妻は、遂にその舞台へと上がる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「流石は王室直下の舞踏会場。宮殿をひとつ、丸々使っての舞踏会とは豪気なもんだ」
歴史を感じさせる紋様で飾られた門を潜り、頭上にそびえ立つ『それ』を見ながらアーノルドは感嘆の声を漏らした。
王都・中央区に位置するは、王太子が所有するというヒュ・メイズ宮殿である。
豊穣神の名を冠するそれは、大陸争乱期の終結を記念して建てられたものらしく、三百年近い歴史を誇るという。
白亜の宮殿をじっと見つめるアーノルドを見て、マリーベルは横合いから釘を刺す。
「旦那様、口笛は吹かないでくださいね」
「わーってるよ。そんくらいの分別は付くさ」
そうは言っても、マリーベルは夫の唇が僅かに尖っていたのを見逃さない。
何処で誰が見ているかは分からないのだ。隙を易々と見せるわけにはいかないのである。
月明かりに照らされた門の傍ら、駐留場へと続々と馬車が到着する。
そこから現れるのは、見目も麗しい紳士淑女の皆々様。
名高き貴族や、選ばれし名士たち。普段は控えめを是とするドレスや正装も、今宵ばかりは話が別。
煌びやかな宝石を身に付け、大きく襟元を開いたフル・ドレスを纏い、誰もが優雅な歩みで入口へと消えてゆく。
今まで訪れた夜会や招待会とは、正に格が違う。
尻込みするわけではないが、流石に雰囲気に圧されそうになってしまった。
王宮での、静謐で荘厳な空気とはまた別。欲望の光に誘われる、羽虫になったかと錯覚してしまいそうだ。
胸元の傷痕が、チリリと疼く。
微かに震え始めたマリーベルのその腕が、横合いから伸びた手に取られ、そっと持ち上がる。
「旦那様……?」
「東方じゃ、こういうのを武者震いっていうらしいぜ」
「武者、ですか?」
「あぁ、こっちでいう所の騎士に値する連中だとかなんとか。まぁ、小難しい事はいいやな。要は、決戦に臨むうえで昂ぶり、悦びに震えるものを指すらしい」
今の俺達にはピッタリだろ?
そう笑う夫の姿に、改めて頼もしさが募る。
危機的状況に陥るほど、危険な場に赴くほどに生き生きとしだすのは、彼の悪い癖だとは思うが、今はそれが心強い。
マリーベルもまた笑みを返し、力強い動作で一歩を踏み出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(これでよし……と)
鏡の前に映るのは、ストロベリーブロンドの髪を結いあげた自身の姿。
伝統的に、エルドナークに於いては化粧の文化が根付いていない。白粉を肌に適量まぶし、薄紅を唇に塗るくらいである。ゆえに、勝負を決めるのは内面からにじみ出る気品と仕草、そして淑女の戦闘衣として纏う装いだ。
最後の仕上げを終えたマリーベルは、周囲をそっと見回した。
淑女用に通されたクローク・ルームの中には、上流階級の――更にその上澄みであろう女性たちが、余念なく身づくろいに終始している。客人用に配置されている使用人たちが、その間を忙しなく駆けずり回っているのが見えた。
誰もが、分かっているのである。今宵がどれ程に重要な舞踏会であるか、を。
日中はマナー違反として、付けることそのものが厳禁であった透明な宝石類も、この時ばかりはみな躊躇わない。
昼のそれとは違い、夜の招待会――それも格式が高ければ高いもの程、装いを豪奢にするのが社交界の常識だ。むしろ、飾り立てる事こそが招待してくれた相手への礼儀とみなし、淑女たちは押さえつけた鬱憤を晴らすが如く己を輝かせている。
表情こそ穏やかでたおやかな物ではあるが、時折周囲に向けられる視線と、仄かに漂う緊張感は、マリーベルがかつて味わった事の無い物だ。なるほど、ここは戦場である。決戦の舞台だ。誰もが秘蔵の名剣・名槍を研ぎ澄まし、ここぞとばかりに抜き放つ。
眩く煌めくそれらを伴い、現れるのは騎士たる紳士達。磨き上げた自慢の『武具』を見せびらかし、誇るが如く戦いの場へと参陣してゆく。
マリーベルもまた、夫と合流し、大広間へとしずしず、歩き出した。
微かな緊張。心臓が脈打ち始める。らしくない感情に苦笑しつつ、少女は己が胸元へと視線を落とす。
腕と肩を露出させるが如く、襟の大きく開いたクリーム色のイブニング・フルドレス。
肩周りや裾に薄いピンクの薔薇を刺繍し、輝くダイヤモンドを髪飾りに纏わせている。
かつて、逢い引きの際、夫に買って貰った蝶を模したそれ。高級品、というわけではないが、マリーベルがそれを身に付けること、それそのものが意味を持つ。輝く蝶の周囲を花と飾る宝石類が、安物と軽んじられないための策である。
入念に打ち合わせを重ね、選び抜いた装い。自信はある、これ以上は無いと断言できる。
けれど、どうしても――頼りなさげなその胸元を、マリーベルは無意識の内にさすってしまう。
露わになった炎の傷痕は白粉を施し、花と宝石で飾り立てられ、鮮やかな紋様めいたものへと変化を遂げていた。
『隠そうとするから、余計に人目を引く。舞踏会の演目には、それなりに激しい曲調のダンスもある。踊る際にズレでもしたら、それこそ足を引っ張ろうと手ぐすね引く連中の思うがままだ』
その発想は、マリーベルには無いものだ。いいや、養母たちでさえ思いは至らなかったろう。
貴族令嬢にとって、肌に大きく残る火傷は致命的。肌を顕わに、人前に出る事さえ恥となる。
異国を旅し、常識を外れた思考を養った彼だからこそ思い付けたもの。
それは分かる。理解が出来る。出来栄えも素晴らしい物だと、自分でもそう思う。
だが、それでもなお、震えは消えない。もしも、これが原因で今夜の舞踏会が台無しになったら?
自分一人ならいい。何処までも奔放に、明るく朗らかに失敗したと笑って言える。
だが、それで損をするのは他でも無い夫なのだ。そう。破滅してしまうのは、アーノルドで――
『――可哀想にね、マリーベル』
「あ、れ……?」
足が、動かない。まるで、床に貼り付いたみたいだ。
爪先から震えが走り、前へと進もうとする意志を挫かせる。
おかしい、こんな筈は無い。
今まで、どんな時だって、こんな風に怯えた事は無かった。
初めて社交界に出た時も、王宮に出仕した時も、恐るべき騎士人形に挑んだ時でさえ。
自分は、何も恐れずに立ち向かっていったのに。
「あれ、あれれ……?」
『ごめんなさい、姉様! 僕のせいで、ごめんなさい……!』
きぃん、と。耳の奥で誰かの声が木霊する。
それは、マリーベルを嘲笑うものではない。同情し、憐れみ、後悔する囁きと視線。
『……リチャードは助かったよ。けれど、お前のその傷痕は――』
あの高慢で小うるさい養母が、何も言えず、ただ悔やむように視線を外した、あの光景。
あの屋敷に居た誰も、マリーベルの『それ』を笑う事は無い。馬鹿にすることも、蔑む事すらなかった。
たった一人、実の父親を除き、少女を罵倒するものは居なかったのだ。
それは素直に嬉しいと思う。有難いと思う。気を遣ってくれて、申し訳ないとさえ思う。
けれど、それでも――
(今更なんで、そんな事を思い出すの? 何を怖がることがあるの! 私は、こんなのなんてことない! 堂々と、何処へでも出ていける! 何を言われたって構わない、はず、なのに――)
――幸せになると、弱くなる。これも、そういう事なのだろうか。
二度目の初夜の際、アンと語らった言葉が思い浮かぶ。
落ち着け、大丈夫。大丈夫だ。さぁ、動け。前へ、一歩。足を、出さないと――
自分にそう言い聞かせ、軽く息を吸い込んだ、その時。
ぽん、と。背に、誰かの手が触れた。
「――旦那、様?」
「らしくねえぞ。何をビクつく事があるんだ?」
見上げたそこに在るのは、ニヤリと笑う、山賊顔。
マリーベルが、この世で最も安心できる、その人の顔。
「前にも言ったろ? それは、お前の勲章だ。弟を守った名誉の傷だ」
「あ……」
「いいか、何度でも言ってやるぞ。胸を張れ、マリーベル。その炎の痕は、お前を輝かせるこの世で最も尊い証だ。どんな宝石も、ドレスも敵いやしねえ」
背を優しくさする、指先の温もり。
どくん、と。体が震える。心が乱れ、胸の奥から何かが溢れて来そうになる。
「お前は、すごくて、偉い事をやったんだぞ。何を悔やむ必要があるんだ?」
そうだ。マリーベルは、ずっとそう言って欲しかった。誰かにそう思って欲しかったのだ。
騎士人形との戦いでは、極限下の状況だったせいで、意識はしなかった。
でも、あの時に感じた高揚と開放感の理由が、今なら分かる。
――同情の目を向けないで。可哀想なものを見るように思わないで。
私は、正しい事をしたの。弟を守ったの。褒めて、喜んで、称えてちょうだい。
笑わないと、やっていけなかった。明るくしないと、皆は悲しそうな顔をした。
いつだってそう、マリーベルの人生は不幸の連続で、流されることしか出来なくて。
それでも、幸せになりたくて、惨めに泣くだけの女の子にはなりたくなくて。
だから、だから、だから――
「――お前は誰よりも綺麗だよ、マリーベル。何よりも大事な、俺の大切な宝物だ」
そう言って、笑ってくれる誰かが、ずっと 欲しかった――
(ああ……そっか)
眦に浮かぶ涙の感触。それと共に、マリーベルは気付く。気付いて、しまった。
――私は、この人の事が、好きなんだ。
異性として、夫として、ただ一人の伴侶として。
マリーベル・ゲルンボルクは、アーノルド・ゲルンボルクを愛している。
「こうなるのが、怖かったのになぁ……。もう、旦那様のせいですよ?」
「な、何がだ?」
「ふふ、さあて何がでしょう? 当ててみたら、いかがです?」
悪戯っぽく笑い、夫の腕に自身のそれを巻き付けた。
彼の顔に、微かな朱が差すのが見えて、心が弾む。
体が軽い、心が軽い。まるで、羽が生えてしまったかのようだ。
胸の内に揺らめく、炎のような熱が心地良い。
想いが、溢れて溢れて止まらない。愛しさが募って零れて、どうにかなってしまいそうだ。
「ゲルンボルクご夫妻、ご到着!」
今の自分達なら大丈夫。何が在ろうと恐れることがあるものか。
ウェイターの発する声に導かれるように、マリーベルは足を踏み出した。




