九十九話 それは少女の悲鳴だった
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嘗てメア・ウェイゼンという少女がいた。
誰もが嘗て読み、そして嘗て夢想し憧れた偶像────〝英雄〟。
少女にとって、父は紛れもなく〝英雄〟だった。
国を守る騎士として、誰からも羨望と敬意の眼差しを向けられる父の姿が少女にとっての自慢であり、誇りであり……そんな父が少女は好きだった。
幼少の頃に母が他界し、父と二人きりの家族。多忙な父は家にいない事が多く、幼いながらに甘えられる相手がいなかったが、それでも少女は幸せだった。
この生活が、いつまでも続けばいいと。
この当たり前が続いてゆくと信じて疑っていなかった。
しかしその願望は、ある日、呆気なく崩れ落ちた。理由は単純にして明解だった。
────先天性の〝迷宮病〟が、メア自身に発症したからだ。
先天性の〝迷宮病〟は、生母がダンジョンに足を踏み入れる冒険者である場合に、ごく稀に起こる不治の病。
発症するタイミングは予測不能で、基本的には生まれて間もない者ばかり。
ただ時折、メアのように数年経ってからある時突然、ダンジョンに一度も踏み入った経験が無いにもかかわらず発症するという場合もある。
発症してしまったが最後。
先天性に限らず、〝迷宮病〟は不治の病であり、治る手立てはたった一つの例外とて存在しない。
加えて、〝迷宮病〟特有の魔人化を引き起こす為、国によっては発症したその瞬間に「殺す」事を定められている事も少なくはない。
不幸な事に、メアが暮らす国では先天性にかかわらず、〝迷宮病〟罹患者は、人にあらず。殺すべし。
その意識が根付き、定められていた。
だからこそ、その事に誰よりも早く気が付いた少女の父は、国を離れるという選択をした。
流行病で命を落とした妻の忘れ形見であるメアを殺すという事だけは、出来なかったから。
しかし、不幸はこれで終わらなかった。
国を出る直前に、メアの秘密が露見したのだ。それは、単なる偶然であった。
将来を嘱望され、次期騎士団長と名高かった人間が、突然その地位を辞し、国を出る。
何か、深刻な事情があるのだろう。
少女の父が人望厚かった事も災いし、その結果、メアの病が露見した。
そこからは文字通り────地獄の始まりだった。
『分からなかった』
メアは父から何も聞かされなかった。
恐らく、それは父の配慮だったのだろう。
殺される事こそが当然とされる病を患ったと知った時、娘は正気を保てていられるのか。
罪もない娘が、自責の念に駆られる未来を見たくなかった。
そんな思い遣りから、彼はメアに殆ど何も打ち明けなかった。
身体が悪いのだ。
いい医者を知っている。
だから、二人で遠くに引っ越して、頑張って治療をしよう。
大丈夫。きっと治るから。
だから、メアは何も心配はいらないよ。
それらは、メアの父がよく口にしていた言葉だった。何を尋ねても、父はそれしか答えない。彼自身も、まるでそれしか知らないかのように。
『父は、嘘が下手な人だった』
もしかすれば、メア限定の事だったのかもしれない。けれど、少なくともメアから見て父は嘘が下手な人だった。
あからさまに狼狽する訳ではないが、隠し事をしていると何処か不自然になる。
だから、分かりやすかった。
『嘘が下手で、それでいて誰よりも優しい人だった』
一度、雪の降り積もる日にマフラーをプレゼントした事があった。
父は感激し、その日から常にそのマフラーをつけるようになった。
寒い日に限らず、暑い日であっても肌身離さず。本当にその言葉が似合っていた。
流石にそれはやり過ぎだと当時部下の人達に笑われていたが、自分にとってこのマフラーは御守りなのだと答える父は、本当に幸せそうで、少女にとって自慢の父親だった。
だから。
『別れは悲しかったけど……痛みは辛かったけど……孤独は怖かったけど』
少女は、父の重荷になりたくなかった。
自分の存在が、父を振り回している。
自分のせいで。自分のせいで。
それに気付かないメアでなかったからこそ。
『それでも、わたしは父にこれ以上迷惑を掛けたくなかった。わたしのせいで、父が苦しむ姿をこれ以上見たくなかった。見ていられなかった。何より、わたし自身が耐えられなかった』
メア・ウェイゼンは、『自殺』を選んだ。
だが、それこそがメアにとっての一番の過ちであった事に、その時は気付けなかった。
これで父は、自由になれる。
これで父に、もう迷惑を掛けないで済む。
しかしメアのその願いは、結局叶えられる事はなかった。何故ならば、メアの死が父────ロン・ウェイゼンを更に縛り付けたから。
少女の死を前にしたロンは、魂が軋む程の慟哭をあげ、世界に深い絶望を抱き、そして偶然にもある能力を手にした。
己の願望を現実に昇華させる禁術指定異端魔法────夢魔法。
それからのロンは、己の娘であるメアの蘇生だけを生きるよすがとして、文字通り妄執に取り憑かれように生きていた。
たとえ、幾百、幾千もの命が失われようとも、その願望を叶える為ならば、犠牲は厭わない。
故にこそ、彼はテオドールの手を取った。
それが間違った道であると、知りながら。
* * * *
「……そいつ、死んでるって事はねえよな?」
「死んではないわ。多分、意識を失ってるだけね。でも、どうしてこんな場所にいるのかは不自然極まりないけれど」
ヨルハが見つけた白髪の少女の見た目は、12、3程度の子供にしか見えない。
崖から落下したせいで現在地の正確な場所は不明だが、子供が一人でやって来れる場所でない事だけは確かだった。
「ダンジョンに迷い込んだ、って考えるのが普通なんだろうけど、色々とちぐはぐだな」
俺は言う。
一番考えられる可能性としては、少女が誰かと共にダンジョンへ足を踏み入れ、逸れてしまったという線。
しかし、その仮定であってもちぐはぐなのだ。特に、明らかに普段着としか思えない服装。手荷物も一切なく、傷らしい傷もない。
なのに、こうして気を失っている。
疑問だらけだった。
「私は放置をオススメする」
流石に見捨てる訳にもいかず、少女の介抱を行う俺達に向かって、ガネーシャは表情一つ変えずに澄んだ声音で非情とも取れる言葉を口にした。
「どう考えても怪し過ぎる。こんな場所に子供が一人、気を失って倒れてるだと? 魔物が化けていると考えるのが妥当だろうよ。仮に違ったとしても、あまりに異常な光景だ」
冷静に噛み砕いてゆく。
一見すると冷酷とも取れる発言であったが、ガネーシャの言葉は何一つとして間違っていなかった。
「仮に、私たちがダンジョンの攻略の為にこの場所へ訪れていたとしよう。ならば、私もここまで露骨に反対はしなかったやもしれん」
だが、今は事情が違うだろうがと言う。
「お前達はクラシア・アンネローゼの姉を探しに此処へやって来たのだろう。何も解決していないうちから更なる厄介ごとを抱え込むのは褒められたものではない。特に、私の勘がそこの子供には関わるなと警笛を鳴らしている」
「……今日はツイてるんじゃなかったのか」
ロキの苦しむ顔が見れたからツイているとつい数分前に聞いたばかりだ。
ならば基本的に、ツイているものではないのか。
「基本的にはツイているとも。だが私はジンクス以上に、その時その時の自分の勘を信頼している。よって、その子供は見なかった事にすべきだ」
「基準が無茶苦茶過ぎるな」
もし仮に、俺達がガネーシャと長年行動を共にしてきた仲というのであればその説得力を感じられない勘を信じていたかもしれない。
事実、その部分さえ無視してしまえば、ガネーシャの言葉は正しいものばかりだ。
優先順位をはき違える訳にはいかない。
……ただ、である。
「とはいえ、確かにガネーシャさんの言う通りだと俺も思う。こんな場所にいるなんて、可笑しい以外の何ものでもない」
偶然という線は捨てて考えるべきだ。
「……アレク」
真っ先に介抱に向かったヨルハが、俺を責めるような眼差しで射抜く。
発言がヨルハにとっても正しいものだと自覚があったのだろう。
非難するような言葉こそ聞こえては来なかったが、肯定をする事が目の前の少女を助けない選択と同義と理解をしていたから、俺の名前を呼ぶヨルハの表情は苦々しかった。
「だけど、これが偶然じゃなかった場合、話は変わってくるんじゃないか」
「……というと?」
「この子が正体不明のこの空間の原因について、何らかの形で関わってる可能性が高い」
要するに。
「……四十二階層の地図を寄越したヴァネサ・アンネローゼを助ける上で、この子供が重要な役割を果たす可能性が高い、と言いたいのか」
俺はガネーシャの言葉に頷いた。
「確かに、その言葉には一理ある。だが、」
ガネーシャは俺の言葉を聞いた上で、否定の言葉を紡ごうとした。
しかし、その言葉が最後まで口にされることはなかった。
「────これっ、て、まさか」
この中で唯一の治癒師とも言える人間。
クラシアの驚愕に塗れた声音に、ガネーシャの言葉は遮られ、全員の意識が彼女へと向いた。
外傷らしい外傷は見られないにもかかわらず、意識を失っていた少女。
彼女の右の手首を持ち上げながら、クラシアは甲の部分を凝視していた。
信じられないとばかりに瞠目する彼女の視線の先には、本来、人間にはないものが備わっていた。
否、ここでは備わっていたというより、くっ付いていた。
若しくは、同化していたが適当か。
透明感のある鉱石のようなものが、少女の手の甲に埋め込まれるようにして存在していた。
「そんなに驚く程のもんだったのかよ」
傍から見れば、手の甲に鉱石が埋め込まれた変わった人間……で、どうにか頭の中を落ち着かせられたかもしれない。
事実、オーネストはそう捉えているのか、絶句するクラシアに疑問を投げ掛けていた。
「……驚くなんて次元の話じゃないわよ。これは……これは、あたしの記憶が間違いじゃなければ─────〝賢者の石〟と呼ばれてるものに限りなく酷似してる」
「……じゃあなんだ? こいつが噂の、『ワイズマン』って奴って訳か?」
カジノにて俺達はチェスターからある程度の説明を受けている。
〝賢者の石〟の生成目的が、『ワイズマン』と呼ばれる二百年前の天才の蘇生である事も。
「……分からないわ」
「分からないだあ?」
「元々、あたしは錬金術師として向いていなかったから、知識も半端なのよ。だから、あたしは『ワイズマン』にとっての蘇生の定義を知らないの。これが〝賢者の石〟擬きって気付けたのも、殆ど奇跡に近いわ」
「……ねえ、クラシア。蘇生の定義って?」
ヨルハが尋ねる。
俺やオーネストも、その言葉の意味がいまいちよく分かっていなかったので、彼女の質問は渡りに船であった。
「生前の肉体ごと復活させる事を蘇生と捉えるか。はたまた、中身の復活だけでも蘇生と捉えるか。そういう話よ。後者の場合、器に規定はなくなる。だから、分からないの」
中身────魂の部分は『ワイズマン』その人で、身体────器はまるで別のものという可能性もあるのだと説明をされる。
つまり、目の前の人畜無害に見えるこの少女が、オーネストの言う通り『ワイズマン』であるという可能性は否定し切れないという訳だ。
「……なるほど。〝賭け狂い〟が今日はツイてる日と言ってたが、確かに今日はツイてるみてえだ」
良心は痛むが、これから起こり得るかもしれない犠牲の規模を考えれば逡巡すべきではない。ここで、少女を無力化してしまうべきだ。
丁度、お誂え向きとばかりにそれが出来る状況も整っている。
……そう、理解はしている。
だが。
────それが間違っていたら?
その可能性が踏み出そうとした一歩を留める。
何より、少女はヴァネサ・アンネローゼを探す上での重要な手掛かりである可能性も高い。
それらの事情が複雑に絡み合い、何が正しくて、何が間違っているのかの判断が正確につかなくなる。
「だめ、だよ。だめだよ、オーネスト。それは、だめ」
「……だがヨルハ。最悪の場合を考えろ。それに、オレさま達が優先すべきは、そいつが何者であるかじゃねえ。〝クラシア〟の姉を助ける事だ。埋め込まれたソレが〝賢者の石〟擬きってンなら、そいつは間違いなく関係者だ。ここで後顧の憂いを絶っておくべきだ」
「それ、は、分かっ、てる。分かってるんだけど、だけど、」
どれだけの危険性を孕んでいるのか、ヨルハも分かっていた。だが、分かっていて尚、未だ意識の戻らない少女を、悪人か善人かも分からないのに始末する事をヨルハは拒む。
どれだけ少女の存在が異常で、おかしかろうと、ヨルハ自身のお人好し過ぎる性格が、それを執拗に拒む。
そんな時だった。
「……あなた、たちは?」
閉じられていた筈の瞼がゆっくりと開かれ、見た目相応の幼い声が聞こえてきた。
……しまった。
俺達の心境はものの見事に一致した。
少女が、『ワイズマン』である可能性が生まれた以上、少なくとも手足の拘束は必要だった。
噂通りの人物であるならば、まず間違いなく俺達を殺そうと動く事だろう。
警戒心をあらわに臨戦態勢に入る俺達であったが、あまりに気の抜けた問いかけに、誰もが毒気を抜かれたように身体を硬直させた。
だが、その一言が油断を誘う為の演技である可能性も否定し切れない。だから、
「二人ともそこから離れろッ!!」
俺は叫んだ。
魔法は何を使うべきか。
……ヨルハとクラシアの距離が近過ぎる。
殺傷性の高い魔法は論外。
ならば、拘束を目的とした魔法か。
付け焼き刃の域を出ない〝古代魔法〟で以てどうにかすべきか。
加速する思考の中で、どうにか己の行動を定めようとする俺だったが、まるで無垢な子供のような瞳を向けてくる少女の様子を前に、疑問符が割り込んだ。
俺の目には少女が、狂人と言われる類の人間には見えなかった。
やがて降りる静寂。
耳が痛くなる程の静けさを前に、相手の出方を窺う俺達の側でガネーシャが口を開いた。
「……人の名前を聞く時は、自分から名乗るのが礼儀と教わらなかったか、白髪のお嬢ちゃん」
「わたしの、名前。わたしの名前、は。わたし、は」
少女は頭をおさえる。
偏頭痛にでも堪えるような様子で、顔を顰めながら同じ言葉を繰り返す。
傍から見ても明らかに、少女の記憶は錯綜していた。
その理由は、先程までの気絶によるものなのか。クラシアが〝賢者の石〟擬きと呼んだ甲に埋め込まれた鉱石が原因か。
はたまた、他に原因があるのか。
そんな事を考えている間に、やっとの思いで思い出したのだろう。
「メ、ア。わたしの名前は、メア。メア・ウェイゼン」
少女は俺達にメア・ウェイゼンと名乗った。
勿論、名前に心当たりはなかった。
「わたしはどうして……あぁ、そうだ。そうだった。わたしはあの場所から逃げ出してきて。あ、れ。でも、どうして、わたしは」
ガネーシャの質問に答えた後、メアは独白するように現状把握を行ってゆく。
しかし記憶の欠落が酷いのだろう。
疑問で始まり、やはり疑問で終わる。
「……ッ、ヴァネサ・アンネローゼという名前に心当たりは!」
割り込むようにクラシアが声を張り上げた。
他にも気になる言葉はあった。
だがそれ以上に、今はヴァネサの安否の確認が最優先であった。
「ヴァネサ、アンネローゼ?」
思考を中断し、メアはヴァネサの名前を反芻する。
「しら、ない。でも、アンネローゼの名前は、聞いた事がある気が、します。多分わたしは、その名前を知ってる」
まるで、知らない記憶が勝手に埋め込まれていた。
メアの物言いは、そう言わんばかりの様子だった。
「……アンネローゼの名前は何処で耳にしたの。あなたは何者? 姉さんは今、何処にいるの?」
「クラシア。気持ちは分かるけど、今は」
捲し立てるように疑問を投げ掛けるクラシアに、ヨルハが苦言を呈するように注意する。
見るからに記憶が混乱している人間に、疑問を投げ掛けたところで正確な情報は得られないだろう。
クラシアの気持ちは理解出来るところだったが、今はヨルハの言う通りであった。
「……アンネローゼって名前の人は、分かりません。でも、わたしはその名前を知ってた。だから多分、あそこに居た人の名前なんだと思い、ます」
「あそこ?」
俺が問い掛けると、メアは小さな首肯と共に答えてくれた。
「わたしが、いた場所です。わたしは、あそこから逃げ出してきました」
まるで、随分と前からこの本来存在しないダンジョン内の道にいたかのような発言だ。
オーネストやガネーシャも俺と同じ感想を抱いたのだろう。
話の腰を折るべきではないと考えてか、言葉にする事こそなかったが、目を細め、眉間に皺を寄せる行動は何か言いたげとしか捉えられなかった。
「そ、う。わたしは、逃げ出してきたんです。わたしは、お父さんを止めたかったから」
助けたい。ではなく、止めたい。
その状況に似つかわしくない言葉選びに、引っ掛かりを覚えるものの、メアが嘘をついているようには見えない。
恐らく、嘘偽りのない本音なのだろう。
やがて、メアはこの場に居合わせた俺を含む5人の姿を見回し、
「お願いが、あるんです」
伏し目がちに言葉を紡いだ。
「わたしに出来ることなら、何でもします。だから……だから、わたしのお父さんを助けていただけませんか」
何処か悲痛にも似た表情で口にされるその言葉は、細々とした声音とは裏腹に、俺には心が張り上げるような悲鳴のように思えてしまった。









