九十七話 運命神の金輪
「────東方の国にはこんな言葉があるらしい。〝灯台下暗し〟、ってな。全くもってその通りだっただろう? ヴァネサ・アンネローゼ」
メイヤードに位置するダンジョン。
その深部に比較的近い階層にて、外套の男は呟いた。
あるべき場所にあるべきものを失っていた外套の男は、右の袖を空虚にはためかせながら銀髪の女性、ヴァネサ・アンネローゼを見遣る。
彼女の身体には痛々しい傷が残っていたが、応急処置を施されており、命に別状はないと言えた。
一ヶ月前、突如として現れ、ヴァネサをこの場所に匿うだけ匿い、姿を消していた男はまたしても不意に現れ、自分勝手に話しかけて来る。
だが、彼に助けられた事は覆しようのない事実である為、彼の正体を知る為にもヴァネサはその言葉に耳を傾けた。
「しかしお前も無茶をする。今回の一件を食い止める為に正体を偽り、敵の懐に入り込むとはな。だが、流石にアンネローゼともなるとそうせざるを得なかったか。なにせ、二百年前の伝説の錬金術師『ワイズマン』が生み出した〝賢者の石〟の本当の中身を知ってるんだからな」
〝賢者の石〟とは、死者蘇生すら可能とする錬金術の最終地点。研究者の悲願。
世間で知られる〝賢者の石〟とはそういうものだ。
だが、外套の男はまるでそれは大きな勘違いだと言わんばかりに告げる。
「〝古代遺産〟────人造兵器『ホムンクルス』」
男の言葉に、終始無言を貫いていた筈のヴァネサの片眉が跳ねる。
それは動揺だった。
何故、アンネローゼの人間でもない己がそれを知っているのだという驚愕からくる反応であった。
「何も知らない人間からすれば、あれは死者の蘇生に見えるだろ。でも、本質はまるで違う。あれは、多くの魔法師の心臓を犠牲に、人工的に優秀な操り人形を造り出す錬金術」
多くの魔法師の心臓を用いる事で完成された〝賢者の石〟には、潤沢な魔力で溢れている。
そして、それを使って完成した〝賢者の石〟に、隷属の術式を組み込んで新たな器に魂を降ろし、蘇生させる。
そうする事で、己に都合のいい優秀な魔法師人形が出来上がる。
「あれは、存在していい技術じゃねえ」
それが、〝賢者の石〟生成の本来の目的だった。
「……どうして、それを知ってるんですか」
ヴァネサは、鎌をかけられているのかとも考えた。
しかし、それにしては目の前の男は正確に物事を知り過ぎている。
何より、本来ある筈のないダンジョンの道をすぐ様理解し、そこに〝古代魔法〟を展開して身を潜められる人間が、ただの知りたがりとはヴァネサは思えなかった。
「おれは、他でもないタソガレからそう聞かされたからな」
はぐらかすと思っていた。
否、そもそも答えては貰えないと思った上でのダメ元でしかない質問だった。
けれど、外套の男は勿体ぶる様子もなく、答えてくれた。
「……タソガレ?」
人の名前だ。
中性的なその人の名に心当たりがなくて、疑問符をつけてヴァネサは反応する。
しかし、程なくその名前に思い当たる節があった事を思い出す。
タソガレという独特な名を、ヴァネサは聞いた事があった。
恐らく、この世界の多くの人間がその名前を知っている筈だ。
なにせ、タソガレとは。
「……、ッ。まさか、『大陸十強』の」
〝毒王〟の異名で知られる稀代の毒使い。
彼の恐ろしさは、治癒にも精通した毒使いである以上に、歴史を紐解いても、千年近い時を生きているという事実だろう。
「本来おれは、十年以上前に死んでいる筈だった。だが、偶然通りかかったタソガレに命を救われた。こうしておれがここにいる理由は、タソガレに頼まれたからだ」
おれなりの恩返しって訳だ。
そう言って、ヴァネサが抱いているであろう疑問を解消させながら男は笑う。
「……何故、『大陸十強』の人間が貴方をこの地に?」
「そりゃ決まってんだろ。タソガレ自身が、かつて蘇生させられた『ホムンクルス』だからだ」
「タソガレが、『ホムンクルス』……?」
『大陸十強』の人間が『ホムンクルス』であるなど……。いや、そもそも、〝賢者の石〟の生成は二百年前に『ワイズマン』が生み出したものではないのか。
疑問が解消した矢先に生まれる新たな疑問。
しかし、間違いなく千年近い時を生きているタソガレが『ホムンクルス』であるならば、辻褄は合ってしまう。
なにせ、人工生命体である『ホムンクルス』に、寿命などないのだから。
「もっとも、タソガレの場合は隷属の仕掛けを自力で解いたらしいけどな」
今や、『大陸十強』にも数えられるタソガレを、隷属の魔法で押さえ込むのは確かに無理があるだろう。
なにせ彼は、身体を弄る事に関しては右に出る者がいないとまで言われる毒使い。
相手が悪過ぎるとしか言いようがない。
「……俄には信じられませんが、それでも信じる他ないのでしょうね」
〝古代魔法〟を己の手足のように扱う人間。
千年近い時を生きる正真正銘の怪物、タソガレ。
彼らならば、〝賢者の石〟の真実を知っていても何ら不思議ではないとヴァネサは思う。
「……私を助けた理由も、つまりそういう事ですか」
『ホムンクルス』という存在を忌避しているならば、その進行を妨害したヴァネサを保護した行動にも頷ける。
なにせ、彼女は〝賢者の石〟のサンプルを持ち出していたから。
「ぎりぎりになった事は謝罪する。ただ、お前が向こう側の人間でないかどうかの判断が直前までつかなかった」
だから、ヴァネサが行動を起こし、ロンを始めとした人間達に追われるまで手を差し伸べられなかったと言う。
しかし、それを聞いて道理で狙ったようなタイミングで手を差し伸べられた訳だとヴァネサの中では納得の感情が広がった。
「それは構いません。感謝こそすれど、文句を言える立場でない事は私自身が一番分かっていますから。ですが、良かったのですか」
「良かった?」
「……私を助けたのは、悪手ではありませんでしたか」
〝賢者の石〟の一応の完成品を持ち出したヴァネサを保護する事は、『ホムンクルス』を忌避するタソガレの目的に沿ってはいる。
だが、もう少しタイミングというものがあったのではないか。
そもそも、ヴァネサを囮にロンを含めた人間達が出払っているタイミングで内部を荒らしてしまった方が良かったのではないのか。
なにせ、ヴァネサを助けても辛うじての時間稼ぎにしかならず、水面下で動いていた目の前の男────第三者の存在を知られてしまう事になるから。
「そうだな。確かに、前に比べて動きづらくはなった。だが、アンネローゼの人間であるお前を助ける価値は十分にあった。サンプルを持ち出してくれたお陰で、時間も得られた。何より、誰かを見捨てることはおれ自身、どうにも好まないみたいでな」
自分のことの筈なのに、まるで自分ではない誰かの事のように彼は語る。
少しだけ、ヴァネサはそこに違和感を覚えた。
「加えて言えば、あの連中の事がおれはどうやら大嫌いならしい。その名前を聞くだけで無性に苛立ちを覚える。お前を助けた一番の理由は、連中の嫌がらせになると思ったからなんだろうな」
「らしい、ですか」
やがて堪えきれずに、ヴァネサは口にする。
自分の事なのに、何故疑問系なのだろうか。
己の性格を偽っているようにも聞こえるが、何となく、ヴァネサは違う気がした。
きっとこれは、もっと根本的な、
「ああ、これを言うと余計に警戒される気がして黙ってたんだがな、おれは十年以上前に自分の記憶の殆どを失ってる」
「なっ……」
何気ない様子で告げられた事実を前に、ヴァネサは顔を引き攣らせ絶句した。
「既に言ったが、おれは十年以上前に死ぬ筈だった人間だ」
「それ、は、聞きましたが、」
「そして、偶然通りかかったタソガレに助けて貰った。流石に『大陸十強』。あいつのお陰で損傷していた右腕を除いて全てを治してもらった。あいつの治癒師としての腕は疑いようもない。だから、おれの命は何の障害もない。おれの命はな」
同じ言葉が繰り返される。
そこで漸くヴァネサは理解した。
「……成る程。それで、『命は』なのですか」
〝毒王〟によって、身体のダメージは回復した。しかしながら、タソガレであっても身体以外の損傷────記憶の欠落については手の施しようがなかった。
「おれは、タソガレに助けて貰ったあの日までの記憶の大半を失ってる。だが、気にするな。この通り、タソガレの助力もあって魔法に不自由はないし、日常生活もまた然りだ。現に、お前との約束もこうして果たしてきた」
ヴァネサと外套の男は、既に一度取引を行なっていた。
それは殆ど、助けられた側であるヴァネサの懇願に近かったが、己が得ている情報と引き換えに、彼に頼み事をした。
「……しかし良かったのか。あれだけの情報を引き換えに、手紙を一つ届けるだけで」
────メイヤードに近づくな。
クラシア・アンネローゼに届けられたあの手紙は、ヴァネサが外套の男に頼んで届けられたものであった。
「ええ。構いません」
アンネローゼの一族にあって、錬金術から離れ冒険者としての道を選んだ妹の事を想う。
決して仲の良い姉妹ではなかったが、それでも実の妹である。心配にもなる。
だから、ヴァネサは保険を打つ事にした。
今回の〝賢者の石〟の一件にて、『ワイズマン』が絡んでいる以上、何が起こってもおかしくはない。
主として動いている連中は、何の呵責も感じる事なく百人近い魔法師を生贄として捧げられる人間だ。『ワイズマン』復活にアンネローゼが深く関わっている以上、実家も無事である保障は何処にもない。
それを見越していたから今回、ヴァネサを寄越したのだが、連中の現状があまりに想像の遥か先を行っていた。
最早、一刻の猶予もなく、だからこそ得体の知れない外套の男をヴァネサは頼り、己の妹という事実を隠して届けてもらった。
少なくとも彼からは、敵意を感じられなかったから。
「しかし、おれもお前に言われるまで分かりもしなかったよ。連中の根城が、このダンジョンにあったなんて事は」
魔物の棲まう場所、ダンジョン。
まさか、そこを根城にしているとは誰もが夢にも思わなかった事だろう。
事実、タソガレによってこの一件に巻き込まれたカルラ・アンナベルでさえもその思考には至らなかった。
それもその筈で、ダンジョンには〝迷宮病〟の危険性も存在している。
誰もがダンジョンを根城にするなど、考えもしないだろう。
それこそ、ダンジョンの中にダンジョンとは異なる異質の空間を創り上げられる手段でも持ち合わせていない限り。
まさか、連中も〝古代魔法〟という類似した手段で、彼らと同様に新たな場所に別の空間を作っているなどとは夢にも思うまい。事実、この一ヶ月、ヴァネサの存在が露見する事は一度としてなかった。
「何より、連中が本気で『ワイズマン』を含む過去の大罪人共を蘇生させようと思ってるなんて、少なくともおれはこの光景を見なければ信じられなかっただろうな」
外套の男による〝古代魔法〟によって彼らの空間は隔絶されている。
そんな彼らが身を潜めている場所は────メイヤードダンジョン四十二階層。
彼らの視線の先には、無数のチューブに繋がれた棺のような入れ物が並べられている。
そこには、Wisemanの名と、Yggletteの名が刻まれており、塗り潰すように名の部分をかき消されていた一つの棺は、中途半端に開かれていた。
「……ところで、」
「うん?」
「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
この外套の男と知り合ってかれこれ一ヶ月。
ふと、気になってヴァネサは彼に尋ねてみる。
ヴァネサはどこかでこの外套の男を見たような、そんな気がしていた。
研究者として殆ど引き篭もりに近い生活を常日頃より行っていた彼女の交友関係は極めて狭く、そのため名前を聞けば、どうにか思い出せるような、そんな気がしたのだ。
特に、外套から覗く目を惹かれる鮮烈な赤髪に覚えがあるような気がした。
これは、一体どこで見たのだろうか。
……そうだ。思い出した。
研究者としての道を歩む事を拒み、殆ど衝動的に魔法学院へ入学をした己の妹、クラシアの入学式にこっそりと赴いていたあの時、クラシアに不器用ながら話し掛けていた少女が確か、このような赤髪ではなかっただろうか。
ヴァネサが思考を巡らせる中、
「あぁ、そういや、まだ名乗って無かったか」
あえて教えていなかったのではなく、失念していたのだと伝えながら彼は外套を脱ぎ去り、火傷痕の目立つ相貌を惜しげなく晒した。
「おれの名前は、グラン。今は、世話になったタソガレに恩返しをしながら、自分の記憶の手掛かりを探してる」
* * * *
「────くしゅんっ」
控え目なくしゃみの音が、メイヤードダンジョン十三階層に響く。
「……誰かあたしの噂でもしてるのかしら」
続くように鼻を啜りながら、思いあたる節のない可能性をクラシアは口にした。
「ロキの〝クソ野郎〟じゃねえか? どうせ、あいつら貧乏くじ引きやがったって噂してんだろ」
「……物凄くあり得そうな可能性ね。ダンジョンから戻ったらもう一度〝ハバネロ丼〟を食わせてやろうかしら」
「ボクは美味しいと思うんだけどなあ」
珍しく、クラシアとオーネストが通じ合う中でヨルハが一人、釈然としなさそうに渋面を浮かべた。
「でも、貧乏くじって程じゃないだろ。俺達は冒険者なんだから、寧ろダンジョンに潜るこっちの役割の方が適してるだろ」
「ちげえちげえ。貧乏くじってのはそこじゃねえよ、アレク」
そう言ってオーネストは案内役として同行し、先へ先へと歩くガネーシャの背中に視線を向けた。
「……あいつの存在が、貧乏くじなンだよ」
思い起こせば、ダンジョンに入る前、オーネストとヨルハがガネーシャに魔法は極力使わないでくれと懇願していた気がする。
もしや、それと関係しているのだろうか。
「これまで色んな偏見極まりないあだ名を勝手につけては呼んでるこのバカだけど、ガネーシャさんのあだ名についてだけは、あたしもケチつける気が起きないってくらいピッタリなのよね」
ガネーシャのあだ名と言えば……〝賭け狂い〟だっただろうか。
「普段の生活は勿論、戦い方ですらもガネーシャさんは傍迷惑な〝賭け狂い〟なのよ」
リスクを省みない戦い方という事だろうか。
だが、剣士にはそういった戦い方を好む人間が多くいる事を俺は知っている。
だから別段、〝賭け狂い〟と言うほどではない気がして。
「〝古代遺物〟────〝運命神の金輪〟。ガネーシャさんが身に付けてるあの金色の腕輪が、諸悪の元凶にして〝賭け狂い〟呼ばわりされる所以ね」
そんな俺の思考を遮るように、クラシアが言葉を続けた。
「本来、武器の形状を取る事の多い〝古代遺物〟だけど、ガネーシャさんの〝運命神の金輪〟はあの状態が既に本来の姿なの。未だに両手で足る程にしか知られていない付与型〝古代遺物〟。それが〝運命神の金輪〟よ」
聞いた感じだと、かなり当たりの部類な〝古代遺物〟のように思える。
とても、〝賭け狂い〟呼ばわりされるようなものとは思えない。
「勿論、これは強力な〝古代遺物〟よ。それは、ええ。疑いようもないわ。ただ……『運気』を付与するこの〝古代遺物〟はあまりに賭け要素が強すぎるのよ」
「……運が悪ければ味方である筈のボクらにまで被害が及ぶからね」
遠い目であらぬ方角を見詰めながら、ヨルハは疲れ切った様子で口にする。
その様子からして、身をもって味わった経験があるのだろう。
「……あたし達に被害が生まれるだけならいいの。問題は下手をすればちっとも役に立たないままこちらに被害を出した挙句、足枷のようなお荷物になったガネーシャさんの世話まで焼かなくちゃいけなくなる場合よ」
「聞く限り、その、なんだ。碌でもない〝古代遺物〟だな」
リスクに見合っただけのリターンもあるのだろう。だが、クラシアから聞く限りそのリスクがあまりに致命的過ぎる。
少なくとも、俺ならば絶体絶命のピンチを除いて決して使う事はないだろう。
しかし、そんな真面な思考をしている人間が〝賭け狂い〟という呼び名に相応しいなどと言われるだろうか。
────否。
何となく、ガネーシャについての事情と、オーネストの言いたい事が見えてきた気がした。
「つぅわけで、オレさま達はあの〝賭け狂い〟から〝古代遺物〟をどうにか没収しなきゃいけねえンだが────」
「それについては安心してくれていい! 何を隠そう、今日のわたしは実に運がいいからな! だからその心配は必要ない!」
どこからその自信は湧いてきたんだと問い詰めたくなるくらいに説得力のない言葉だった。
オーネストは「……聞こえてたのかよ」と毒突き、クラシアはあからさまに手で顔を覆う。
ヨルハは視線を盛大に泳がせながら、精一杯の愛想笑いもとい、苦笑いを浮かべていた。
「ふふふ。今なら深層のフロアボスだろうが、わたしの運任せの一撃にかかれば秒殺出来る自信しかない」
それのなんと、不安を煽る言葉であるか。
「……嫌な予感しかしないな」
「だから貧乏くじって言ったろ。よしアレク。1、2の3で〝賭け狂い〟から〝古代遺物〟を取り上げンぞ」
「取り上げるって、いいのかよそんな事して」
「アレクはまだ分かっちゃいねえ。あれがどんだけ傍迷惑なもンなのかをまるで分かっちゃいねえ」
隣では、ヨルハが壊れた人形のように、コクコクと首を上下に高速で振っていた。
クラシアも「苦渋の決断ね」と然程悩んだそぶりも無く同調していた。
…………そんなに酷いものなのか。
「わ、分かった。そういう事なら」
「そう言えば、アレク・ユグレットにはまだこの素晴らしい〝古代遺物〟の効果を見せていなかったか。丁度いい。臨時とはいえこうして共にダンジョンを潜っているんだ。知っているに越した事はないだろう。なに、遠慮する事はない」
「おい待て〝賭け狂い〟!!」
オーネストの言葉に従おうとした俺の言葉を遮るように、ガネーシャはそう言って腕輪を通していた右腕を掲げる。
そして、咄嗟に口を衝いて出てきたオーネスト達の制止の声に構う事なく、ガネーシャはそのまま発光を始める古代遺物の名を叫んだ。
「さあさあさあ!! 運命や如何に!? 〝運命神の金輪〟!!」
直後、弾けるように腕輪に纏わりついていた光が霧散した。
やがて訪れる静寂。
「……何も、起こらない?」
突然のガネーシャの暴挙に身構えたものの、何かが起こる気配はない。
これはどういう事なのだろうか。
そう思った俺に答えを示すように、程なく地響きに似た音がやってくる。
「ふむ。どうにも外れを引いたらしい」
抜け抜けとガネーシャはそんな事を言い放つ。
同時、背後から迫ってくる轟音。
例えるならば、何かの足音だろうか。
いや、まさかまさかと思いつつ、背後に視線を向けるとそこには、
「だからこいつとダンジョンには入りたくなかったンだよ!!!」
昆虫型の魔物の群れがいた。
翅を羽ばたかせ、短い足を必死に動かしながら迫る昆虫型の魔物の群れ。
ざっと見た感じ、数百はいるだろうか。
溶解液特有の鼻の曲がる臭いまでもが漂ってくる。
控えめに言って、嗅覚的にも、視覚的にも悪夢でしかなかった。
「事情を知らなかったアレクは仕方ねえが、〝潔癖症〟てめえ! なんでこいつの同行を断らなかった!? ぜってえこうなるって分かってたろ!?」
「……あれは断れる雰囲気じゃなかったのよ」
きっかけを作ったのはガネーシャだ。
道を知っている人間も彼女だけであるし、彼女の同行はクラシアの言う通り断りようがなかった。
「本来ならば、わたしの後始末はわたしがしたいところなのだが、〝運命神の金輪〟は五分に一度しか使えない代物でな。悪いが後処理は任せた」
申し訳程度にバツが悪そうな表情を浮かべ、我先にと逃げ出したガネーシャはまさしく、傍迷惑で厚顔無恥極まりなかった。
だが、借金取りから脱走を図る人間である。
そのくらいの厚顔無恥でなければ不可能だろう。兎にも角にも、
「傍迷惑過ぎる!!」
不幸中の幸いは、四十二階層直通の〝核石〟を誰も手にしていなかった為、浅層から地道に向かっていた事だろうか。
これが深層の魔物の群れであったならば、どうなっていた事か。
「……取り敢えずだ、あれを処理────」
肩越しに背後を振り返り、迫る魔物の大群を処理しようとしたところで俺の思考が停止する。
「…………。なあ、オーネスト。なんか、明らかに浅層にいないだろう魔物が混じってるのは俺の気の所為か?」
「いや、合ってる。オレさまの目にも見えてンぞ」
ガルダナのダンジョンで出くわした経験があったからすぐに分かった。
あの二本翅の全身紫の魔物は、魔法を吸収して、己の力に変える面倒臭い性質を持っていて。確か、深層にしか出てこなかった魔物の筈なのだが、
「だから言ったろ。傍迷惑だって。〝運命神の金輪〟が幸運を呼び寄せた場合はとんでもなくありがてえが、不幸を呼び寄せた場合、こうなる」
魔法が効かない魔物が大量に混じっていた事で、自分達の手に負えないと判断したヨルハとクラシアは逃げ出していた。
ここで唯一、殲滅という形でこの窮地を脱せそうなのは俺とオーネストだったが、流石にこの物量を相手にするのは勘弁願いたかった。
「……よし、逃げるぞオーネスト。そんでもって、ガネーシャさんから〝運命神の金輪〟を取り上げる」
「任せろ。あの舐め腐った〝賭け狂い〟から、ぶん殴ってでも取り上げてやる」
まだ浅層だというのに、前途多難極まりなかった。









