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『ぎび もあ』  作者: トキタケイ
びえりお漂着編
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試練③

 『試練』の歴史を正しく知る者はいない。

 なぜ試練の場としてスミ山が選ばれたのか、二十日という期間の根拠は一体どこにあるのか、そもそも神への信仰を示すために山へ籠る事の、果たしてそれが真っ当な手段と言えるのか。

 そして、戦士として迎えられることの意味。


 あらゆることにおいて、説明できる者などワク村には存在しない。

 それほど試練の歴史は途方もなく、長いあいだ村の男たちは試されてきたのだ。

 彼らが持ち得るのは自身の経験に基づく知識のみ。

 教え伝えられるとすれば、せいぜいがスミ山の地形や生息する生物種についてといったところであろう。

 にも拘らず、カギロウはスミ山に関する地理的情報の一切をも知らされてはいなかった。

 それは、試練とは誰にも公平に与えられるべきという村人達による言わずもがなのルールがあり、誰一人としてカギロウにスミ山のことを話すことをしなかったからに他ならない。

 よって、当然ながらカギロウはこの山において全くの無知だった。


「まずは水場を探さなくては」

 言葉を発することでカギロウは既に襲い来る不安感に耐え、冷静な思考に努めた。

 相変わらず周囲は木々に囲まれ、地面は広葉樹の葉で覆いつくされている。

 カギロウは足元を軽く掘り、土に若干の湿りだけが含まれている事を目視、近くに水場が無いと予測した。

 これより上へ登るのは得策ではない。まずは水域に当たるまで、カギロウは水平方向への移動を決行する。

 スミ山には川が流れていないという可能性も捨てきれないわけだが、そのような恐ろしい憶測を振り払うように、とにかく彼は歩いた。

 しかし歴代の戦士たちが植物や肉のみから水分を補給していたとすれば、試練は想像以上の困難を極めることになるだろう。カギロウは早くも一か八かの賭けに出たことになる。


 ただでさえ蒸し暑い森のなかである。太陽光は密集して伸びる樹冠に遮られているとはいえ、踏ん張りの利かない腐葉土の地面も手伝い、カギロウの体力は確実に消耗されていく。

 それでも焦りはより疲労を蓄積させ、気力すら奪っていく。

 カギロウは急がず、それでいて適切なスピードで足を運ぶ。

 また道中、食用に耐える野草が目につけばそれを摘み、懐へしまい込んだ。


 精神を静め、山のあらゆる物へ目を配り、生存への光明を見出すこと。父から息子に与えられた、試練に関する助言の一つである。

 もちろん刃の扱いや動植物についての知識など、戦士になるための心得は叩き込まれてきた。しかしそれらはワク村の男であれば持っていて然るべきものである。

 そうではなく、今のカギロウに必要とされるのは12という年齢の少年が当然のように抱える心細さを受け止めるに足る、温度を持った言葉であった。


 父がカギロウに授けた助言は、その言葉通り彼の気持ちを落ち着かせ、不安定な心を柔らかく覆った。

 さらに母とカナサの心、そしてアキワタノカミの加護を受け、足取りのなんと力強いことか。

 カギロウはこのスミ山で、これ以上なく生きていた。




 カギロウの鼻が何かを感じ取り、ひくりと動いた。

 地より薫り立つ土臭さ。それは立ち上る水蒸気の濃度が増したことを意味する。

 水場が近いのかもしれない。

 人知れず喜びを覚えた彼の耳に、その証左として今度は軽やかなる水流の音が聞こえてきた。

 これには流石のカギロウも走り出さずにはいられなかった。


 音は次第にはっきりと、そこへ誘うように響き始める。

 そして遂に辿り着く。軽く助走を付ければ跨げてしまうほど、ひっそりと這う、しかしなんとも清らかな川を、カギロウは見つけ出した。


 彼は息を切らしていたが、それをすぐに飲むことをしなかった。

 この場所はまだ下流。迂闊に飲んでしまえば、腹を下すか、さらに重い病に罹る危険性を鑑みての行動である。

 カギロウは小川に足を浸し、手をゆすいで少し休んでから、流れに沿って上へ、また歩き出した。

 水域特有の涼しさが、熱を持ったカギロウの身体を冷やす。


 木々の隙間から零れた陽光が降り注ぎ、水面を輝かしく照らしていた。ころころと流れる音は、まるでそれ自体が感情を表現しているかのようだ。

 カギロウは、穏やかな風景を愛おしそうに見つめた。

 煌めく瞳は、自らが神に見守られていることを実感したが故の感動の表れであろう。


 事実、彼はツイていた。

 水場を拠点とし、周辺で食料を調達しつつ試練の終了を待つとするのが理想であり、半日も経たぬうちに要である初期目標を達成したのだ。

 行くべき道が定まったカギロウは、なんとも爽やかに額の汗を拭い、そしてしばらく登り続けた。





 川の水源は、一つの巨大な岩の割れ目から実に慎ましく、実に清涼に流れ出ていた。

 苔むした岩の、水がやや強く伝う面は滑らかに磨かれている。その先にある鋭角から次々と滴を滴らせる様は来訪者を歓迎しているようにも見える。

 カギロウはその手厚いもてなしを両手で受け止めて、一息に飲み干した。

「美味い」

 外連のない言葉が、感慨の全てを表していた。


 カギロウは辺りを見渡し、すぐそばの小高い崖の下を生活の拠点とした。

 大粒の石を除け、寝床を作る。それだけでは不十分であったために、彼はそこに敷くための植物を探しに出かける。

 大きな葉を広げるヤシ科の植物ならいたるところで生い茂っていたから、特段おおきな苦労を要することなく寝床は完成した。

 一通り葉を敷き詰め終えたカギロウは暫くそこに座り込み、それからもう一度水を飲みに行く。


 何とも安穏としていた。

 ここまであらゆることが首尾よく運び、試練としての過酷さなどは感じられない。

 カギロウとしてもとりわけ困難を求めていたわけではないが、それにしても今の状況を表するには、神の守りがあったためとするにはあまりに生易しく思われたのだ。

 従ってカギロウは、試されるはしかるべき機会にその時は訪れるのだと受け取り、今は解消すべき問題としてまずは食料の確保へと移った。

 道中摘んだ野草だけでは流石に心許ないだろう。

 カギロウはしばし水場を離れた。




 遥か頭上に広がる木々の梢では色鮮やかな鳥たちが羽を休め、見てくれには似つかわしくない断末魔のような鳴き声で、それぞれに何かを訴えかけているようであった。

 しかし何者かの気配を察すると皆一斉に押し黙り、やがてその姿を認めると、再びけたたましく叫びながら飛び立っていった。

 その一部始終に、カギロウは顔にこそ表さなかったのだが、嘆息せざるを得なかった。


 森には確かに様々な動物が生息しているものの、目に見えるものはどれも高所に避難するか、もしくは既に逃走を図っているか、とにかく見つけた時にはとうに防衛が完了されており、つまりカギロウは未だ何かしらの収穫も得られていなかった。

 このような森林では木の幹にトカゲの一匹でも這っているようなものだが、どういう訳か見当たらない。


 カギロウは手ごろな棒の先端を削って槍を作り、獲物がいれば仕留める算段をするも、どうやら結果を顧みるに”甘かった”ようで、とうとうそれを手放してしまった。

 陽は横から照らし始め、食い溜めた朝食を消化しつくした彼の腹は急かすように鳴る。


 先ほどまでの自惚れを悔やんだカギロウはもう一度大きく溜息を吐き、今度ははっきりと顔をしかめた。

 だがその時、落ちた視線がひっそりと横たわる朽ち木を捉える。

 カギロウは襲い掛かるようにその朽ち木の元へ駆け寄り、両手に持って抱きかかえた。予想以上の重みに彼は歯を食いしばる。適度な水分が含まれていたのだ。


 朽ち木はそのまま傍に立っていた樹木に叩きつけられ、破片を散らしてばらばらに砕けた。

 それは決してカギロウが鬱憤を晴らそうとしたのではなく、あくまで食料を得るという目的を果たすための行動であることには違いなかった。

 彼は朽ち木の破片を拾い上げてからまじまじと眺め、捨ててはまた拾い、また眺めた。

 同じ動きを繰り返す手が不意に止まった。そして何やら摘んでそれを引っ張り出すと、大事そうに掌に乗せる。

 朽ち木を住みかとする、甲虫類の幼虫であった。

 豊富な餌に囲まれ悠々と生きて来た幼虫は丸々と身を肥えさせ、はちきれんばかりである。

 緩慢な蠢きでもってささやかな抵抗を示すそれを、カギロウは手の内へ優しく閉じ込め、次の木片へと移る。

 


 カギロウが水場に戻ってきたころには、森はほとんど暗闇に包まれていた。

 まだ辛うじて視覚が働くうちに、彼は焚火の準備を始める。


 水場の近くへ円形に石が積まれ、中心には途中で拾い集めた枝が組まれた。

 父親から叩き込まれたきりもみ式でカギロウは手際よく火種を作ると、それを組まれた枝の中へ置いた。

 すぐに白煙が上がり、小さな破裂音を上げながら火は育っていく。

 やがて辺り一帯を照らすほどになった炎は燃え盛り、光を受けたカギロウの影を背後の岩へ絵画のようにあやなした。


 数種の野草と昆虫。

 カギロウは集めた食料を葉に包み、火にくべて蒸した。

 とても腹が膨れるような量ではないが、貴重な食事である。

 彼は蒸し上がったそれを一口、そしてまた一口と噛み締め、味わった。



 食事を済ませ水を飲んだカギロウは水の染み出す岩の、特に苔むしたあたりへ一本の線を引く。

 今日を生き延びた証である。明日にはもう一本の線が引かれ、そしてニ十本の線が引かれた時、彼は神の祝福のもと戦士となる。


 映えある未来のビジョンととても微かな達成感を胸に、カギロウは寝床へ向かう。

 幼虫の濃厚な蛋白質の味に思いがけず腹が満たされた彼は、横になると共に緩やかな睡魔に襲われた。

 しかし、すぐに眠りに就くことはなかった。

 いくら足掻こうとも消え去ってはくれない孤独が、カギロウの眠りを妨げる。


 彼の手は無意識に、カナサから貰った首飾りを握りしめていた。

 何も持たないカギロウの、それだけが他者との繋がりのようだった。

「カナサ、俺は今日を生きたぞ」


 当然、神への信仰は彼の精神の一部として確実に息づいている。だが口を突いて出たのは、これまで共に過ごした少女の名であった。

 カギロウの中で、カナサという存在はやはりそれほどまでに大きく育っていたのだろうか。

 未熟者であるという自負から彼女を遠ざけていた心は今、戦士へと一歩近付き、ようやく僅かに寄り添うことを覚えた。

読んで頂きありがとうございます。

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