カコシ①
その日の朝、カコシはいつもより少しだけ遅く起きた。
普段なら海や畑へ行って村のために働く彼が、今日はそれらがとうに始まっている時刻に目覚めて、また急ぐような様子もない。
床を出て食卓へ向かうと、既に朝食の準備を済ませた妻がカコシを迎えた。
「今日も遅いのね。まだ体調は優れませんか」
そのような言葉を掛け、彼の朝食を机に運ぶ。
カコシは目の前に料理が置かれていくさまを黙って眺め、そしてようやく口を開いた。
「だいぶ良くなったよ。でも、まだかかりそうだ」
独り言のように言う夫を、妻はやはり心配そうに見つめ「そう」とだけ返す。
カコシは控えめに手を合わせ、そして朝食に手をつけた。
重たげに、それでいてやけに淡々と飯を口に運ぶ様子は、彼がそうすることを強いられているようにも見える。
実のところ、カコシがこのようであるのはこの日に限ったことではなかった。
それは3日前、タオイの毒を用いたカギロウ討伐へ同行してからというもの、彼は心の半分を失ったように無感情になってしまったのだ。
当然、妻はカギロウ討伐についての一切を知らないため、夫がなぜ急変したのかも分からぬままただ思い煩い、見守るしかなかった。
だが、当のカコシは決して放心し、全ての思考を捨ててしまったのではない。
むしろ彼はあることに集中するあまり、他のあらゆることへの興味を失った状態にいるのである。
そのあることとは当然カギロウの事であり、あの夜、獣のように暴れ苦しむ彼の姿を、カコシは延々と思い浮かべていた。
「食欲、ないですか」
手を止めるカコシへ、向かいに座る妻が尋ねる。
今にも壊れてしまいそうに侘しげな妻の顔を、カコシはゆっくりと見た。
そしてふと微笑むのであった。
「いや、お腹はちゃんと空いているし、君が作ってくれる朝食はいつも通り美味しい。今まで少し、考え事をしていたんだ」
「そう、でしたか」
「あとで外を歩いてくる。すぐに戻るから、留守を頼むよ」
「ええ、分かりました。私は大丈夫ですから、どうぞゆっくりしてきてくださいね、カコシさん」
妻もそういって、やんわりとした淡い笑みを浮かべた。
束の間、久しく失われていた柔らかな空気が辺りを包む。
カコシはまた、朝食に戻った。若干、したたかであった。
朝食を終え、家を出たカコシは表通りへ向け静かに歩き出す。
どこまでも高い空は今日も澄み渡り、そこに鎮座する太陽は全ての青を飲み込まんばかりに激しく照りつける。
うっすらと額に浮かぶ汗を拭いつつ、歩みを進めるカコシの目に見慣れた者の姿が映った。
「クナリ……」
この猛暑の中、クナリは軒先に座り込み何をするでもなく通りを眺めていた。
彼はカコシに気が付くと、視線だけをさっと上げてみせる。
涼し気な目元はまるで温度など感じさせず、クナリ自身、汗一つ掻いていないようである。
「カコシ、お互い近くに住むというに、なんだかしばらく会っていなかったような気がするな」
最低限の口の動きで、そういった。
「たったの4、5日といった程度ではありませんか。それにしてもこのように暑いなか、そんな所で何をしているのですか」
「何も」
カコシの問いに、クナリは短く答えた。
しかしそれは、あくまでも彼の機嫌が悪かったとか、他人とのコミュニケーションが億劫であるからといった理由があったからではない。
これがクナリという人間性なのだ。
必要以上に飾ることをせず、他人を窺うことをしない。
実直であるといえばそうだが、彼に馴染みのない者がそれを冷淡であると受け取るのもまた無理のないことであった。
カコシはそんなクナリを良く知っているつもりであったから、この時の彼に対してとりわけ不快感などは抱くことはなく、むしろ普段と変わらぬ様子に安心感さえ覚えていた。
「そんな怖い顔をして、近所の子供が恐がりますよ」
こんな冗談を言えるほどには、彼らの仲は浅からぬものであるのだ。
「生まれ持った顔は変えられんさ。それに、俺はこうしているのが好きなんだ」
「暑さに身を置くことがですか。精神修行の一環でしょうか」
「違う。俺はここでヒトを、生物を、『村』を見るのが好きなのだ。この穏やかな村に、今日も平和な時間が流れていく様を眺めることが」
「……そうですか」
クナリはまさしくワクの戦士だ。カコシはそう感じた。
凪いだ心の奥に熱く滾る精神を宿している。それはアキワタノカミが愛するこの村を、同じように愛する彼の偽らざる意思。
村の平穏が守られる時、クナリは神が己の意思に応えてくれたのだと信じ、さらにもって神への信仰を強いものとするのだ。
「で、お前はどこへ向かうところであったか」
彼をそこまで理解するのは、カコシくらいであろう。
そうして変わらず淡々と投げかけられた言葉に、微笑みを交えながら答える。
「ええちょっと。大した用事ではありません」
「そうか」
「それでは。たまには家に入り、涼むこともしてくださいね」
「相変わらず世話好きなことだ」
クナリは僅かに口元を緩めた。
それをどこか愛おしそうに見つめ、カコシはまた歩き出す。
「カコシ」
しかし不意に呼び止める声に足を止め、彼は再びクナリに目をやった。
クナリはやはり家の前の道をじっと見つめたままであったが、意識だけはカコシへ向けてこう告げる。
「迷うことはない。お前は己が正しいと思う道を行けば良い。アキワタ様はそれに応えて下さる」
カコシはその無表情な横顔をしばらく眺め、やがて何も言わずに去って行った。
大通りに出たカコシは村の入口へ向かった。
道中、すれ違う人々の誰もが彼に声をかけ、彼もそれに笑顔で答えた。
クナリの言うように、村は今日も平和であった。そして彼と同じく、カコシもこの村が好きだった。
少し歩いたところで、通りに並ぶ中でも一際古びた家屋が目に留まった。
壁はところどころ剥がれ、屋根には雑草が生い茂っている。
カコシはそれが、びえりおとかいう異国の女の住む家であることは知っていた。
接点こそ無いものの、噂には聞いていた。また、その噂とはどれも彼女を称賛するような内容ばかりであったのだ。
息を呑むほどに美しく、憧れを抱くほどに聡明であると。
皆が口を揃えて言うものであったから、びえりおという者はさぞかし人々を引き付ける力を持ち、優れた人格者であるのだろうと、カコシはその家を訪ねてみようかという気にならないわけでもなかった。だが彼は足を止めることなくそのまま彼女の家を通り過ぎた。
この日、カコシにはもっと重要な目的があった。
「しかし彼女、ようやく家の中を隠すようになったか……」
家の玄関に垂らされたボロ布を横目で眺めつつ、カコシは独りごちた。
びえりおの家は常に覗き放題。
それも噂の一つとしてカコシの耳に届いていたため、彼は心のどこかでびえりおの身を案じていたのだ。
これでわざわざあの家を覗き見るような者も、減るに違いない。
村の入り口までやって来たカコシはそのまま外へは出ず、左にそれた小道へ入った。
ヒトがすれ違うことの出来るだけの幅を持つ道は、ワクの範囲内にありながらほぼ森の中と変わらぬほど木々が生い茂っている。
樹冠は空を隠し、涼しい影がカコシを覆う。
歩けども鳴り響く蝉の声は、かれらもそこを絶好の避暑地としているからであろうか。
それでもなお纏わりつくような暑さにカコシが大きく息を吐いたとき、それは見えて来た。
道の果てには大きく開けた場所があり、そこにはこじんまりとした家がぽつりと建っている。
びえりおの家とまではいかないが、その家も遠くから見て分かるほどには古びているようであった。
足を進めるカコシの耳に、何かを激しく打つ音が聞こえて来た。
さらに進むと、やがてその音の正体が明らかとなった。
「ヘライさん」
カコシに呼ばれ、巻き藁を相手に木剣を打ち込んでいたヘライが手を止める。
上半身裸の彼はゆっくりと振り返り、気の抜けたような笑顔で答える。
「よう、今日も暑いな。汗だくだ。つうか恥ずかしい所を見られちまったな」
「いえ、立派なことです」
ヘライは木剣を置き、腰衣に挟んだ布で顔の汗を拭うと、少しだけ息を切らしながらカコシの前までやって来た。
「なんか用があって来たんだろ? どうした」
「相談、というか聞いて頂きたいことがありまして」
「取敢えず中に入ろうぜ」
気さくに応じるヘライであったが、カコシが放つ緊張感、それと瞳に宿る覚悟の色に気付かぬ筈がなかった。気取られぬ範囲で、彼は心持ちを改める。
それでもカコシは、相手が僅かに身構えたであろうことは知っていた。
だからこそこの場所へ赴いた意味があるというもの。
表面上は平然とし、その実、誰よりも機微に聡い。そして何事も冷静に見渡すことの出来る人格。
一部では真の意味で『村一番の戦士』と謳われる男、ヘライのもとへ。
本人はあくまで和やかに、
「すまねえが酒は出せねえ。切らしてんだ」
そう言って彼を家に招くのであった。
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