ワク村
「カギロウ、来てくれ。薪を集めたは良いが、私一人では運びきれん」
夜の浜辺にはカギロウとびえりおの二人だけがいた。
びえりおは動き難いという理由でカギロウから借りた服へ着替えていたものの、サイズの合わない貫頭衣のようなそれはむしろ窮屈そうに見える。そんな彼女は背後に広がる森の入り口から集めた枯れ木を積み上げ、爽やかな汗を拭う。
カギロウは呼びかけには見向きもせず、座り込んだままただ暗い海を見つめていた。
月明かりに照らされ窺えるのは、その表情が少しの後悔を表していたことだ。
びえりおがカギロウと寝食を共にして、もうじき五日が過ぎようとしていたが、彼女はこうしてささやかながら家の手伝いが出来るほどに体力を取り戻していた。
カギロウには、既にびえりおの面倒を見る理油が無い。
しかし、いくら家を出て行くように頼んでも当の本人が頑なにそれを拒否した。
いや、本当にカギロウがびえりおを追い出したいのなら力ずくでもそうした筈である。
結局はカギロウも寂しかったのかもしれない。それは彼の思い描く戦士の姿から逸脱した脆弱な心だ。
だからこそカギロウは、母なる海、アキワタノカミの前で己を恥じていた。
「おいカギロウ」
びえりおは少しだけ機嫌を損ね、カギロウに向けて小枝を放った。
小枝は緩やかな弧を描きカギロウの後頭部に命中するも、彼はそれに気が付かないかのように無言で海を眺め続ける。
続けざまに小枝を拾い上げるびえりおであるが、無駄なことであると悟ったのか、つまらなそうにそれを投げ捨てた。
カギロウは今、そよぐ風と波の音に感覚を預け、一種の瞑想状態に入っていた。
これは信仰とは別の、単純に心を鎮めるために彼が孤独の中で見出した行為である。
長く果てしない試練に心を壊してしまわないように、カギロウはそうやって自らの内へ救いを求めるのだ。
だが最近ではその意味も少し違うようであった。
びえりおという見慣れぬ成人女性、それも青年には毒とも言って良いほどに美しい彼女を、カギロウは意図的に思考の外へ押しやっていた。
単に無心になりたいわけでも無いらしい。
やはりカギロウの中にはカナサへの想いがあり、まさに魅惑の権化であるびえりおを避けることで純真を保とうとしているのかもしれない。
そうは言っても、彼女をここまで長居させている現状を鑑みるに、カギロウの心は矛盾に満ちていることは明らかであった。
組まれた手へやけに力が入っているのは、捨てきれない焦燥の表れであるのだろう。
不意に、カギロウの首へ冷たさが触れた。
びえりおの細く長い指が、やんわりと絡みついている。
「また俺をからかうつもりか」
「ふっ……。そうではない」
びえりおは指へ僅かに力を込めた。カギロウは動じず、彼女の行動にたいした意味など存在しないと、あしらう代わりに反応を控えた。
「カギロウ。もし私が異形ならばこの局面、お前はどうする」
異形。
その言葉を聞いた瞬間、カギロウの中で何かが切り替わった。
心臓が一度おおきく跳ねあがり、微かな頭痛を伝える。
カギロウは静かに呼吸を繰り返して高まりつつあった興奮を抑え、びえりおに答える。
「異形は獲物を狩る時にそんなことはしない。牙や爪、尻尾などを使い、力づくで相手を制するのだ」
「もし、と言っただろう。もし高い頭脳を持った異形ならばカギロウ、お前は既に死んだも同然だ」
「それは違う、俺はまだ生きている。たとえ首をへし折られようとも、俺は異形を殺し、生き残ってみせる」
「……ふふっ」
びえりおは指を解き、そのまま後ろからカギロウを抱きしめた。
「私はお前のそういうところがちょっと好きかもしれん」
カギロウは揺れる波間に意識を溶かした。
すぐに心の中にカナサの笑顔が満ちた。
どこか遠い場所から、彼はびえりおに告げる。
「夜が明けたら村の近くまで案内する。下らない悪ふざけも、これで最後だ」
「男としてはまるっきりだが」
もはやどんな言葉も、潮風と同じであった。
翌日、遠くの空が白み始め森の闇が薄れた頃に二人は家を出た。
カギロウは腰に小刀を差し、びえりおは元のドレスに着替えていた。
彼女がカギロウに助けられたという痕跡は、村には隠しておいた方がよいと判断したカギロウからの提案によるものだ。
「村へ入ったら、まずは誰でもいいから目についた人間に話しかけろ」
爽やかな涼しさの森で、カギロウは独り言のように告げた。
隣を歩くびえりおは伸びをするついでに答える。
「私について、どう説明する」
「なんでも良い。渡航中の船が難破し、偶然あの砂浜に流れ着いたとでも言え。とにかく村の人間はお前を迎え入れてくれる。後はそこで暮らすか、いずれどこかへ出て行くか、お前が決めるんだ」
カギロウは言うが、びえりおと話すのもこれが最後と思ってのことだろう、ずっと心に引っ掛かっていた疑問をついに投げかける。
「……びえりお、お前はどうやってここへ辿り着いたのだ」
「泳いで」
「は?」
「と言ったら驚くよな」
「……下らない」
「今の顔。ふふっ、可笑しいな」
びえりおの軽薄さに、カギロウはとうとう慣れることが出来ず、不快感を露わに顔をしかめた。
それでも、彼の中に一片の名残惜しさも無かったわけではない。
だからこそ別れ際に要らぬ情を移すまいと、こうして口を噤んで拗ねたふりを続けるのだ。
「村に着いたら、お前が言った通りに説明するよ」
一変して真面目な声を発したびえりおに、カギロウはまたからかわれるのではないかと警戒しつつも彼女の顔を覗き込む。
びえりおの表情には真剣さのみが表れていた。
「お前の言ったことに、ほぼ間違いはないからな」
「船は、沈んでしまったのか」
「ああ、それも実に見事な船だった。私は向こうではそれなりの身分であったのだ。私のいた国であれば、お前は私に虫を食わせたとして処刑されているだろう」
「そうか。それはなんというか、すまなかった。なんせ俺は貧しさの底にいるような人間だからな。だが安心してくれ、村へ行けば少しはまともな食事が出来るだろうから」
「そこまで悪いものではなかった」
びえりおが笑ったので、カギロウも素直に微笑んだ。
暫く歩き、二人は遠くに村の入り口である門を捉えた。
カギロウは立ち止まり、そこで案内を終える。びえりおも足を止め、彼と向き合った。
「俺はこれ以上は進めない。びえりお、心細いかもしれないが心配はいらないぞ。村の人間は皆優しいし、なにかあっても戦士達が守ってくれる」
「その戦士とやらは、お前より強いのか?」
「アキワタ様が認めた戦士に、本来ならば優劣は存在しない。誰もが勇敢な戦士だ」
「それは頼もしいな。そうであれば、お前よりは冗談の通じる連中であることを祈るよ」
「難しいだろうな」
精一杯の軽口は、別れを促すようであった。びえりおはそれに従い、村の入り口へ歩き出す。
最後としては、なんとも味気なくも感じられた。
しかしカギロウには十分であったのだ。
彼は未だ試練の途中。
予期せぬ出会いも、吹く風の如く日々起きては過ぎていく些細な事象。それに依存するべきではない。
カギロウの安息はここにはなく、遥か先にあるのだから。
びえりおは村の門をくぐり、目の前に続く大通りを中心に辺りを眺めまわした。
すると入り口から3軒先の家屋、彼女はそこに一人の女を見つけた。
年の頃は初老と思しき女は、軒先に干してあった根菜を家の中へ取り込む最中であったようだが、既にびえりおに気付き、動きを止めてそちらを凝視していた。
見慣れぬ人間の姿にありありと警戒を示す女へ、びえりおは優雅たる足取りで近付いていく。
「偶然ここへ辿り着いたものだが、そう緊張せず話を聞いてくれないだろうか」
「な、なんでしょう」
びえりおは相手の警戒を解こうとなるべく穏便な口調に努めたが、むしろそれが堂々とした印象を与えたため、女はやや身構えながら答えた。
せり上がる溜息を喉元で抑え、びえりおは続ける。
「乗って来た船が難破してしまってな、運よくこの国へ流れ着いたのだが、ここがどこなのか、どこへ行けば良いのか、何もかもが分からん。助けて欲しい。……言葉は、これで合っているな?」
「ええ。それはなんとも、お辛いことで……。でしたら、しばらくはこの村で暮らしてはいかがでしょう。不安はあるとは思いますが、海があなたを導いたとあれば皆歓迎するでしょう。そうね、まずは長の元へ案内しなくては」
「助かる」
「少々お待ちを。すぐに支度を済ませますから」
女は、野菜をその場へ置き、急いで家の中へ向かう。
だがそこでふと足を止め、びえりおの方を振り返った。
「あのちなみに、お名前は……」
問いに、びえりおの表情は笑ったように見えた。
いや、確かに笑ったのだろう。彼女は口に手を当て、それがとても愉快なことであるように言った。
「私はびえりおという。なんともセンスの……、面白みの無い名前だろう?」
「いえ、なんだか不思議な音のする、とても素敵なお名前だと思いますよ」
びえりおは堪えきれず、高らかな笑い声を上げた。
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