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『ぎび もあ』  作者: トキタケイ
びえりお漂着編
10/46

試練⑥

 朝靄に包まれるワク村。表通りを行く村人の姿はまばらで、全体としてどこか鬱々とした空気が流れていた。


 カギロウがスミ山へ入り、22日間が過ぎた。

 村の誰もが理解しつつも、試練の行く末を口にしようとはしなかった。

 彼は、戦士になれなかった。その事実を。


 その日もカギロウの父親はやはり深い悲しみに暮れ、無駄とは分かっていても息子を迎えに早くから家を出た。

 しかし彼は家の前に立ち、そこから歩き出すことが出来なかった。

 どんなに祈っても、逝ってしまった者は帰っては来ない。

 受け入れられない現実に、そうであってもまだ諦め切れず、彼は耐えがたい寂寥感を抱いてようやく踏み出すのだった。


 その時。

「おい……!」

 一人の村人が、小さく叫んだ。

 カギロウの父親は、驚きに立ち尽くすその者の視線を力なく辿った。


 表通りの中央を遠くから歩いて来る者がいる。

 カギロウである。

 全裸で右手に小刀だけを握りしめ、ふらふらと肩を揺らしながら彼が向かって来る。

「カギロウ!」

 父親は脇目も振らず息子の元へ走った。

 そしてまるで体当たりするかのような勢いでカギロウを抱きしめた後、心なしか逞しさを増した肩を強く掴んだ。

「カギロウ、カギロウ、よくぞ帰って来た……! ああ、カギロウ……!」

 息子の前では厳格な父であり続けた彼は、この時ばかりは流れる涙もそのままに、心の底からカギロウを褒め称えた。


 しかしカギロウはうつむき、言葉を発することもない。

 体は小刻みに震えて、呼吸も少し荒い。

「どうした、カギロウ。戦士となった息子の顔を、私に見せてくれ」

 息子も同様に、言いようのない感動の中にいるのだと捉えた父親は両手でカギロウの顔を包み込んで自身へ向けた。

 途端に父親から喜びは消え失せ涙はたちまち枯れ果てた。

 代わりに額から冷たい汗が伝い、彼は思わず息を呑む。


「父さん……」

 真紅の瞳が父親を見つめた。

 父親は戦慄し、反射的にカギロウから離れた。そこでようやくカギロウの全身を見る。

 肌の所々が浅黒く、ケロイドのように浮かび上がっており、鈍い光沢を放つその皮膚はヒトにあらざる硬さを印象付ける。

 右の腿に刻まれた傷跡は父親の目には浅い裂傷と映ったが、カギロウはそこに異形による致命傷を受けた筈である。


 何が起きているのかカギロウ自身も分からない様子で、彼は助けを乞うように父親へ歩み寄る。

「父さん、俺……」

「ついて来い。長のもとへ行く」

 既に父親はカギロウを見てはいない。

 そのまま歩き出した背中を、カギロウも無言で追いかけた。

 




「長、よろしいですか」

 父親は辿り着いた家屋の扉を叩き呼びかけた。

「入れ」

 すぐに返事は返って来た。それはまるで来訪者の到着を待っていたかのようであり、はたまた全てを見通していたかのようであった。


 中から腰衣だけを身に着けた従者が扉を開け、カギロウと父親を招き入れる。

 二人が家に入ると従者は扉を閉めたあと手を後ろに組み、自分は彫刻か何かだと言わんばかりに動かなくなった。

 父親はそれを一瞥し、カギロウを連れて進んだ。


 予想外の奥行きを持つ室内は、どこからともなく漂う香の匂いで満たされている。

 木材が緻密に組まれた壁には窓が無く、規則的に並ぶ燭台が部屋の灯りを担っていた。

 恐らくはそれらの蝋燭を取り換えるのも従者の仕事であるのだろう。


 長は、一人の老人が座るには巨大な木彫りの椅子の上で胡坐をかき、やって来た二人を迎えた。

 父親が口を開き何かを発言しようとしたが、長の声がそれを遮った。

「カギロウを縄で縛れ」

 入り口に居た従者は待ち構えていたかのようにカギロウの元へ素早く駆け寄り、彼から小刀を奪ったあと自らと同じ腰衣を着けてやり、上半身を縄で巻いて腕の自由が利かない状態にした。

 そしてそうする必要があると判断したのだろう、カギロウと父親の後ろに立ち、再び彫刻の構えを取った。


「あの、長」

 父親は動揺しつつも、今度こそ発言すべく身を乗り出す。

「カギロウ、スミ山で起きたことを話すのだ」

 しかし、長はまたもや父親を無視してカギロウへ向けてそう尋ねるのだった。

 有無を言わさぬ態度に、全てを察したのは父親だけではない。

 カギロウはやや虚ろでありながらも、これから自身が罪を問われるのだと理解した。


 しかし如何なる罪を、彼は負うことになるのだろうか。

 考えの及ばぬカギロウであったが、対して父親は心の奥から湧き上がる怒りを感じていた。

 長の元へ二人でやって来たのは、決して息子を罰してもらうためではなく、戦士として戻ったカギロウの身に生じた異変への対処を委ねるためであった。

 どこか冷たくも見えた父親の態度は、事を冷静に収めるために自分自身を落ち着かせる意図があってのことである。

 従って父は、息子を縄で縛りまるで罪人へそうするように問い詰める長に、怒りを感じていた。

 カギロウは戦士として迎えられるべきであった。


「長、カギロウは……」

「異形に会いました」

 父親を制したのは、今度はカギロウのほうであった。

 それは半ば諦めのように、部屋に響いた。まさか、と父親はカギロウを見る。


 息子は罪の意識を認めたのか。

 彼の言葉を聞かずともその体を見れば、スミ山で異形と出くわした事実は明らかである。

 だが、カギロウは乗り越えた。父親ですら逃げ出すしかなかった凶悪な獣に打ち勝ち、彼は生きて帰った。

 それの何を咎められることがあるというのか。

 父親はまるでその場に一人で取り残されていくような冷えた感覚に陥る。


「それで?」

 長はさらに尋ねる。

 そう、これより先が肝心であるからだ。カギロウは異形と遭遇し、何をして、どう過ごしたか。

 少年は、自らの罪を告白しなくてはならない。

「脚と、腕を折られました。でも、殺しました。なんとか。背後に回り込み、心臓を突き刺して」

「見たところ、無事に見えるが」

「……」

「まあいい」

 長は一度おおきく息を吐き、少し腰を浮かして脚を組みなおした。

 それから膝の上に肘を置き、顎を撫でながら値踏みするようにカギロウを見つめる。


「なぜ抗った?」

 その言葉はワク村の掟を問われるものである。

「異形は災い。出会ったなら天運とし、その身を捧げよ。意味は分かるな?」

「ヒトは異形に抗う術を持ち合わせていない。よってそれを神の導きとし、従うのみ」

「そう、災いとは神の業。異形との遭遇は、神の意思なのだ」

「ですが、俺はそんな掟は間違っていると思います」

 顎を撫でていた長の指が動きを止めた。


 影がかかった目元の奥で、しかし老いた瞳は確かにカギロウを見据えていた。

 刺すような視線を受け、カギロウは自らの神を信じてさらに続ける。

「俺の命はアキワタ様から与えられたものです。アキワタ様は与えこそすれ、奪うことなどしない。異形との遭遇は天運なれど、命を捧げるなど神に逆らう愚行です。俺はアキワタ様から試練を授かったのです。命を試され、俺は乗り越えたのです」

「それは父親の教えか?」

 長はそう言って、ようやく父親を見た。

 その目に父親も臆する筈がなく、しかし僅かに間を置いてから答えた。

「そうです。カギロウの信心こそ私が教えた……」

「違う、俺がアキワタ様を信じるが故の、俺が獲得した意思です」

 またしてもカギロウは父親を制した。父親は驚き、口を噤む。


 額面上では父親を庇ったようにも受け取れるが、真の意味ではそうではない。

 そもそもカギロウが父親の教えに賛同しなければ、彼は異形の餌となりこの場に立つことはなかったのだ。

 カギロウはあくまで己の意思で、ここに生きている。誰に命令されたからでもない。


「……愚かな」

 長の声が一蹴する。

「ただの子供が、訳知り顔で」

「俺は子供だが愚かではありません。アキワタ様から与えられた命を尊重することの何が愚かなものか。異形は獣に過ぎない。命を捧げるというのは、獣を信仰することと同義。それこそ愚かではありませんか……!」

「異形は神だ‼」

 突如として張り上げられた怒声に、カギロウも父親も体を跳ね上がらせ、背後に立つ従者でさえ微かに体を揺らしたようだった。


 それよりも驚くべきは長の言動である。

 気でも違ったかと訝しむカギロウであったが、すぐさま反論する。

「一体なにを……。それだけは違う!」

「私は何も間違ってはいない。ワク村は海の神であるアキワタ様に守られている。だがそれだけでない。山の神も、我々を守護して下さる。そうであろう?」

「まさか」

「災いとは神の業と言ったな。神は与えるのみではない、奪いもするのだ。そしてその行いに我々ヒトは抗えない。抗ってはいけない。まさに異形とは、我々から奪い去る山の神であろうが」

「奪うのみではないか! 村にそんな教えは存在しない!」

「山からも恵みを受けていることを忘れたか」

「長、あなたは異形を恐れるあまりに信仰の道を外れてしまった。だが俺は乗り越えたぞ! アキワタ様を信じ、異形に打ち勝った。戦士であれば、いかなる相手にも屈してはならないからだ!」

「なんだと……」

 長はわなわなと身体を震わせ、椅子から降りた。

 そして拳を固く握りしめながら恐ろしいほど雄々しく、カギロウの元へ歩み寄る。

 父親は息子を守ろうと踏み出すが、従者がそれをすかさず取り押さえた。


 やがてやって来た長は、カギロウの短髪をかき集めるように鷲掴み、彼の瞳を憎らしく睨みつけた。

「私に説教をしたな、カギロウ……!」

 カギロウも頭を後ろへ引っ張られながら長を睨み返した。

 今、彼の脳は頭部から伝わる微弱な痛みを興奮のトリガーに、とうに堰を切った脳内物質で満たされようとしていた。


 心臓が激しく鳴り、あの頭痛が蘇る中、カギロウは懸命に己を律しなおも神の教えを説いた。

「説教をして何が悪い……! あなたは恐怖に屈し、アキワタ様への信仰を捨てた! そしてあろうことか、異形は神などとぬかしたのだぞ! 異形は獣だ! それを教えて何が悪い!」

「だから喰ったのか! 己こそが唯一正しいと信じ、山の神である異形を! 異形はあらゆる生物では到底及ばぬ力を持ち、喰らったものから知恵を得、時としてその者が持つ生きる術さえ奪う。それを生命の頂点、始祖、神である証明と言わずなんと言う! カギロウ、お前は死ぬべきだったのだ! 生き残り、さらにはそれを喰らったな!? 死に至る快楽という最後の慈悲さえ振り払い、果てはその身に取り込むなぞ許される筈もない! その瞳、変色した肌、人にあらざる治癒の力も全てが罪だ!」

「なぜあなたがそれを……。全てはアキワタ様を信じ、生きようとした証だ!」

「偉そうなことを! お前は異形が与える快楽に溺れ、姿を変えるまでその肉を喰らい続けたのだろうが! 試練なぞ忘れて! お前は悪魔だ! 快楽を求め神を喰らう、邪悪なる悪魔だ!」

「そこまで異形を崇めるとは……! アキワタノカミを愚弄するなら、お前も喰らってやる‼」

「……っ! カギロウを神木へ連れて行け! 悪魔祓いをするのだ!」


 長の呼び声に応じ、従者が外へ向けて短く叫ぶと、家に数人の従者たちが入って来た。

 一人はカギロウを縛る縄を持ち、残りは四方を取り囲んだ。

「カギロウ……!」

 取り押さえられたままである父親はどうすることも出来ず、ただ連行されていく息子の名を呼ぶ。

「お前は奴を育てた罪で牢に入ってもらう。もちろん母親もだ」

 それにはカギロウも暴れたが、四方を取り囲む従者たちにより叩き伏せられ、引きずられるように家を出て行く。


 父親は長へ憎悪の眼差しを向けた。

「正気か……!」

 長はなにも答えず、父親を外へ連れ出すよう従者へ顎で指し示した。

読んで頂きありがとうございます。

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