第10章 04話 契約成立
「目がしゃめたか?」
頭の上から声がして、アッシュの意識は現実に戻された。
「おっと、動こうなんて思うなよ」
声とともに悪臭の霧が漏れてくるような感じがした。アッシュの顔を覗き込んできたのは、鞭使いの歯なし男だった。ひどい口臭だ。
「何者……ッスか、アンタは」
アッシュは全身を鞭でぐるぐる巻きにされたままで身動きがとれない。おまけに全身を強く打ち付けられたようで、体のあちこちが赤く疼いた。骨にヒビくらいは入っているかもしれない。
可能な範囲で周りを見渡すと、どうやら盗賊ギルドとその離反者が巣食っているという地下世界――主を失った巨神文明時代の遺跡だ。おそらく鞭で動きを封じられたあと、強引にここまで引きずり込まれたようだ。
「へへっ、聞き出そうったってしょうはいかねえ」歯なし男は顔をクシャクシャにして笑い、「アンタの武器ももらっといたぜぇ、このごついメイス」
歯なし男はメイスをもてあそび、戯れにアッシュの体に落とそうと遊んでみせた。
アッシュの顔色が一瞬変わった。どんなときもアッシュとともに修羅場をくぐり抜けた鋼鉄である。相棒を勝手にいじられるのは極めて不快で、同時に心細い思いだった。だが捨てられて行方不明になったわけではない。まだ取り返す手段はある。
「……ここは商業都市ヴィネの暗部、レッドトップ牛耳る地下世界ってところッスかね」やや卑屈にアッシュは言った。「アンタはその幹部。違うっスか?」
「えひゃひゃ、幹部! いいねえ、いい目もっちぇるよ、アンタ」
歯なし男の反応にアッシュは見えないように微笑んだ。今の会話で、男がレッドトップの一員ではあっても幹部などではない事がわかった。
「そういうおみゃナニモンだ? 泥棒ッて感じの装備じゃなかろ」
「傭兵ッスよ。この街の地下組織が抗争してると聞いて、カネになるかもしれんと思って来たんスけど。まさか来て早々にレッドトップの攻撃を受けるとは思ってもみなかった」
アッシュの言葉に、歯なし男は唾を吐き出した。
「お前だって構成員殴り殺したじゃあねえか」
「殺しちゃいないッスよ。骨くらいは折ったかな……それより、ブルーハーブの一員でもない俺達の仲間まで襲ったのはちぃとやりすぎじゃないスかね」
「そんなの俺しらね。お前らの中にブルーハーブの構成員がいたんだろ。俺はそいつを連れてくるように言われて……」歯なし男は言葉の途中で挙動不審になった。「こ、こ、構成員でもないお前を連れてきたらダメじゃねっか!?」
アッシュは鞭に縛られ床に転がったまま、「しょうがねえなあ。じゃあ俺はレッドトップの傭兵志望者ってことにして、俺を本拠地に連れて行くってのはどうスか」
「そ、そうだな。しょれが一番いいかな? いいよな?」
「俺に聞かれても困るんスけど、一個のミスをうめあわせるにゃちょうどいいんじゃないスかね」
歯なし男はぶんぶんと首を縦に振った。
アッシュはほくそ笑み、本拠地まで自分を引きずって歩くのは大変だろうと歯なし男に提案した。最初は難色を示したが、結局渋々提案に乗った。
足回りだけは鞭の拘束が外され、アッシュは歯なし男に引っ張られてレッドトップの本拠地に向けて歩き始めた。これでレッドトップがどのような規模なのか探ることができる。危険だが、ただ捕まって地下に引きずり込まれただけではつまらない。みやげが要る。アッシュはそう考えた。
――あとはいつメイスを奪い返すかだな。
メイスをぷらぷらと重そうに持っている歯なし男を見て、アッシュは自分のなすべきことを考えた。
*
アッシュが連れ去られ、あとに残されたカルボ、ジョプリン、そして黒薔薇と白百合は地下世界に通じるハッチを探してバラバラに行動していた。
マーケットには様々な方法で隠された地下への出入り口がある。ドジを踏んだ泥棒やスリ師が警察に突き出される前に飛び込んで、ほとぼりが覚めるのを待つためだ。そうやって商業都市ヴィネの闇の中を生き延びてきた。
だがそれも昔の話。
今は”青い葉”と”赤い頭”抗争に利用され、どのハッチがどちらの勢力のものかという争奪戦が行われている。
アッシュが連れて行かれたハッチはレッドトップの縄張りだった。このままではアッシュがレッドトップに何をされるか予測がつかない。いきなり処刑される可能性さえあるだろう。
カルボの頬に汗が伝った。家出したとはいえ、ブルーハーブ総元締めの娘である。どこにどういうハッチがあるのか知悉しているはずの彼女だが、3年間の家での間に露天や店の配置が変わっている。それに内側から頑丈な鍵がかかっているものばかりで、開くことさえできない。おまけに表からは鍵穴がなく、内側からしか開閉できないときている。
――どうしよう……どうすればいいの?
焦りがカルボの判断力を奪った。
「ねえさん、ねえさん!」ジョプリンが息を荒くしてカルボのもとにやってきた。「ムリだ、これ以上探してもまともな入り口が見当たらねえ」
「じゃあ……どうすればいいの」
言いながら、カルボにはその答えがわかっていた。
絶対確実に地下世界に潜り込む方法。
ブルーハーブ元締め、父のヒューレンジに会うことだ。
*
「一応聞いておこう」
地下世界、レッドトップ元締めの部屋は豪奢そのものであり、まるで王侯貴族の私室のようだった。
「アッシュといったか。本当に君は我がレッドトップに参入するつもりかね?」
アッシュに話しかけたのはその部屋の主、元締めたるシティエルフ、ダン=ジャリスその人だった。背は低く、おまけに猫背の小男だが、その眼光は鋭さと懐の広さを併せ持つ不思議なものを感じさせた。カリスマ性。そういうものだろうか。
アッシュは”何も知らない愚かな傭兵”を装って、「俺としてはどちらでも。腕を買ってもらえるんなら、あとは報酬次第ってところッスね」
「結構結構。ブルーハーブ――つまり我々の敵対してる組織を潰すためには君のような人材が必要なんだ」
ダン=ジャリスの腹心らしい男が何やらご丁寧な契約書を持ってきた。手書きの報酬額を記してある。その金額は、事前に抗争のことを何も聞かされていなかったらすぐに飛びついてしまうほど高額だった。
アッシュは無意識に喉を鳴らしてから、「この金額なら喜んで配下に加わるぜ」
「ははは、そいつは結構。では契約成立というわけだ。契約書に掌紋とサインを」
ダン=ジャリスの言葉に忠実に従い、部下がスッと契約書を持ってきた。
アッシュは警戒心を抱いた。この世の中、傭兵のような者はカネで買えるゴロツキまがいの奴らだというという印象は色濃い。アッシュもそれに対して声高に否定を主張することはできない。まさにそんな仕事をこなしたこともある。だからご丁寧に高額報酬を提示し、契約書を持ち出すとは、なにか裏があってのことに違いない。
とはいえここで契約に応じないのは不自然だ。
アッシュは歯なし男に連れられている間、自分にできることを考えていた。それはカルボたちが助けに来てくれるまでの間、レッドトップの内情を出来るだけ探ってやるつもりだった。それならば、契約書にサインをしたほうが自由に動けるだろう。自分が反対の立場なら、契約を断るような傭兵はとっとと地下牢にでも放り投げるか、その場で殺して地下世界の底に捨てる事を考える。
――この度量の広さがレッドトップに人を呼び込んでいるのか?
その推測の答えを出すのは早計だろう。アッシュはまだ、ブルーハーブの元締めであり、カルボの父親だというヒューレンジなる人物と会っていないのだから。
ともかくアッシュは契約にサインをし、掌紋を押した。
「契約成立……だ」ダン=ジャリスは机の上に両肘を付き、「では早速で悪いのだが契約を履行させてもらう」
「え?」
アッシュが驚きにぽかんと口をあけたのと同時に、契約書は誰の手も触れていないのに幾重にも折り曲げられ、蛇のようになってアッシュの喉元に巻き付いた。
「ちょっ……なんなんスか、いったい!?」
「”契約”だよ」
ダン=ジャリスは薄く笑い、紙でできた蛇は首輪になって固定化した。
「おっと、ちぎろうとしないほうがいい。そいつをちぎると自動的に契約破棄となる――つまり首輪が爆発する」
「ば、爆発!?」
「そうだ。契約書に書いてあっただろう?」
アッシュはそんなものは見ていない、と反駁したが、ダン=ジャリスの部下が持ってきた契約書の写しに、虫眼鏡で覗かなければわからないような字で”一方的な契約破棄は死をもって罰則とする”と書いてあった。
そんなものはいちいち見ていられない――とアッシュがいくら言ったところで後の祭りだ。きっちり契約書を持ち出してきたのは裏があったということだ。
――やられた!
自分を殴りつけたい気持ちを抑えこみ、アッシュはとにかく契約どおりに働けば首輪は外してもらえるんだろうと念を押した。
「それについては請け合おう。我々は別に殺人を目的とするカルティストでも何でもない。だだ人材不足を補いたいだけだ」
「……それで、俺に一体何をしろと?」
君の腕前を披露してもらう――とダン=ジャリスは背後の金屏風の魔法的表示を切り替え、地図を表示させた。ひと目でヴィネの地下世界だとうかがえる。
「こちら側が我々レッドトップの支配区域。反対のそちら側がブルーハーブの縄張りだ。見ての通り拮抗している。どうやらブルーハーブには強力な用心棒がいるらしく、そこから通れなくなっている」
「そいつを倒す……と?」
「そういうことだ。正直なところ、これ以上組織の人間を減らしたくないのだ」
だから君を雇った――ダン=ジャリスそう言って、部下に目配せした。
「では朗報を期待する」
アッシュはまるで連行されるがごとくあてがわれた部屋に連れて行かれ、しばし休むように伝えられた。
窓はなく、小さな明かりが部屋の中を照らす。
――これじゃあ独房だ。
自分の迂闊さを責めるべきか、それとも情報収集のために上手く敵の懐に入れたと考えるべきか。
ふたつの間を揺れ動き――いまだ戻らぬ鋼鉄のメイスの喪失感に、アッシュは腰のレザーケースを何度も指でなぞった。




