83:対決
夜明け前の空が、僅かに白み始めていた。
北東の山々から立ち込める不穏な黒雲は、今や城下町の空まで覆い始めている。
地平線の彼方では、禍々しい魔力が渦巻いているのが見えた。
魔王の力が、着実にこの世界を蝕んでいっているのだ。
城下町の静かな通りを、一人の少女が歩いていく。
風に揺れる銀色の長髪、凛とした横顔、そして漆黒の長剣を携えた姿は、まさに伝説の勇者を思わせる風格を漂わせていた。
しかし、その瞳の奥には深い悲しみと、強い決意が混在していた。
勇者の血を引く戦士、ヴァリア。
彼女は今、人類の運命と、親友の魂を救うという二つの使命を背負って、最後の戦いに向かおうとしていた。
「ヴァリア先輩! 待ってください!」
背後から、レイレイの切迫した声が響く。
振り返ると、レイレイとエナが追いすがるように駆けてきた。
「お願いです……マオちゃんのこと、みんなで力を合わせて助ける方法を、もう一度考えてみませんか? せめて、国の軍に――」
「いいえ、そうはいきませんわ、レイレイさん」
エナが静かに、しかし気品漂う態度でレイレイの言葉を遮る。
その瞳には、親友を救いたいという切実な想いが宿っていた。
「たとえ軍に助けを求めましても、マオさんを止めることしかできませんもの。そして、それはつまり……」
「殺すことを意味する」
ヴァリアが重い口調でエナの言葉を引き継ぐ。
その表情には、後輩を思う深い愛情と、勇者の末裔としての固い決意が刻まれていた。
「軍にとって、マオは排除すべき脅威でしかない。私の大切な後輩を、そんな扱いは受けさせられない」
「でも、このまま一人で向かったら……!」
レイレイの声が震える。空を見上げれば、黒雲は更に広がりを増していた。
街の人々は既に避難を始めており、その慌ただしい足音が石畳に響いている。
「マオさんは、もはや制御のきかないほどの力を持ってしまった……。記憶を取り戻され、魔王の力まで完全に目覚めてしまいましたわ」
エナの言葉には、僅かな諦めの色が混じっていた。
しかし、ヴァリアは凛として首を振った。
「私は一人じゃない」
ヴァリアは二人に向き直り、静かに微笑む。
その表情には、勇者の末裔としての揺るぎない威厳が宿っていた。
「私たちには、万全の準備がある。全員で練り上げた作戦がある。それを信じよう」
「でも……!」
「確かに今のマオは、魔王として覚醒してしまった。だが、彼女の心の奥底には、必ず私たちの大切な『マオ』が残っているはずだ。私は、そう信じている」
ヴァリアはリボルカリバーを掲げる。
聖剣が放つ柔らかな光が、暗い空の下で一筋の希望のように輝いていた。
「ええ、その通りでございますわ」
エナが凛と背筋を伸ばし、強く頷く。
その声には、親友を信じる揺るぎない想いが込められていた。
「たとえマオさんが記憶を取り戻され、魔王の力に飲み込まれてしまわれたとしても……私たちとの絆は、決して偽りなどではございませんもの」
「だからこそ、軍や国には頼れない。マオを救えるのは、私たち以外にいない。彼女のことを本当に理解している、私たちだけが」
その言葉に、レイレイもゆっくりと顔を上げる。
頬を伝う涙を拭いながら、彼女は優しく微笑んだ。
「分かりました……でも、ヴァリア先輩。どうか約束してくださいね。マオちゃんと一緒に、みんなで笑顔で過ごせる日々に戻れることを……」
「ああ、約束しよう」
ヴァリアは二人に背を向け、歩き出す。
その背中は、かつてないほど頼もしく見えた。
「作戦は予定通りだ。みんな、頼んだぞ」
「はい! 精一杯、マオちゃんのために力を尽くします!」
「どうかお気をつけて。ヴァリアさん」
二人の祈りのような返事を背に、ヴァリアは決戦の地へと足を進める。
黒雲の下、朝もやの立ち込めるなか、彼女の足音だけが石畳に響いていった。
城下町を出ると、街道は北東の山々へと続いている。
街を守る高い城壁も、今では彼方の黒雲に比べれば心許ない防壁でしかないように見えた。
ヴァリアは山道を黙々と歩く。
かつて商人たちが頻繁に往来したこの道も、今は誰一人として通る者はいない。
魔王の力が世界を侵していく中、人々は安全な場所を求めて南へと逃れていったのだ。
一つ目の山を越え、二つ目の山を抜ける頃には、既に正午を過ぎていた。
漆黒の雲は更に濃さを増し、太陽の光さえ遮られ始めている。
時折、遠くで響く地鳴りは、まるで世界の終焉を告げるかのように不吉な響きを放っていた。
三つ目の山の麓にさしかかった時、空気が一変する。
風が止み、禍々しい魔力が濃く渦を巻いていた。
まるで、生命そのものを拒絶するかのような重圧。
木々は枯れ、小鳥のさえずりも聞こえない。
死の沈黙だけが支配する場所。
かつてマオの故郷があった場所は、今や生命の息吹を全て失っていた。
「ここか」
足を止めたヴァリアの前には、邪悪な魔力に満ちた結界が広がっていた。
漆黒の靄が渦を巻き、まるで生き物のように蠢いている。
その向こうには、かつての親友であり、今は魔王となったマオの姿があった。
「よくぞ参られた、我が前に」
魔王となったマオの声が、大気を震わせる。
その姿は、もはや人間のそれではなかった。
額から生えた漆黒の角は月光を吸い込み、紅く染まった瞳からは金色の輝きが漏れ出ている。
全身から溢れ出る魔力は、ドレスのように彼女の体を包み込み、その佇まいは闇夜の女王そのものだった。
「懐かしき面構えよ。まさか単身で我が前に現れるとは思わなんだぞ」
その声には、かつての明るさは微塵も残っていない。
まるで、千年の時を生きた古の存在が話すような、冷たく響く声。
「私の大切な後輩を、このまま闇に落とすわけにはいかない」
「…………」
一瞬、マオの表情が揺らぐ。
しかし、すぐに氷のような冷笑を浮かべた。
「ベルカナンを滅ぼした我を前にして、まだそのような戯言を並べるか。愚かなり」
マオが一歩前に出る。
その足が地面に触れた瞬間、大地が軋むように亀裂が走る。
まるで、この世界そのものがマオの存在を拒絶するかのように。
「我を想う心? 我を救わんとする意志? そのような空虚なる言葉で何が変わるというのだ」
「マオ……」
「ベルカナンすら、我を目覚めさせるための道具に過ぎなかったのだ。そなたもまた、同じ運命を辿るのみ」
「貴様をベルカナンと同列に語るな。この私は、マオを救うために立ち向かう」
「然れど、その者は我に真の目的を与えてくれた。全てを想い出し, 全ての力を取り戻したのだ。人として生きた記憶も、魔王としての力も」
マオの周りを、漆黒の靄がより濃く渦を巻き始める。
その威圧感は、ヴァリアの体を押しつぶさんばかりの重圧を放っていた。
「見よ。この世界がいかに歪みし存在か。人の欲望、争い、裏切り。ゆえに我は全てを壊し、作り変えん。それこそが、我が使命なり」
「その想いは偽りだ! マオ、お前は記憶の重みに押しつぶされ、魔王の力に飲まれているだけなんだ!」
「戯言を」
マオの表情が、一瞬だけ懐かしいような色を帯びる。
しかし、すぐにいつもの冷酷さに戻った。
「かつての我なれば、その言葉に心揺らぎしやも知れぬ。されど、今の我にそのような戯言は通じぬ」
「本当にそうか?」
ヴァリアは静かに聖剣を構える。
リボルカリバーが、柔らかな光を放つ。
「もし本当に心が揺らがないというのなら、なぜ今まで私たちを殺さなかった? レイレイを、エナを、そして私を」
「何……?」
一瞬、マオの表情が崩れる。
漆黒の靄の中で、彼女の瞳が人間らしい輝きを取り戻したように見えた。
「演習場で共に戦った日々を覚えているだろう? レイレイのクッキーを一緒に食べて笑った思い出は? エナと模擬戦で競い合った時間は?」
「黙するがいい。そのような記憶など――!」
マオの魔力が爆発的に膨れ上がる。
漆黒の靄が渦を巻き、この世の終わりを告げるかのように全てを飲み込んでいく。
「我には必要なき記憶! ベルカナンに封印され、操られし日々など、全て偽りに過ぎぬのだ!」
その叫びと共に、マオから禍々しき魔力が迸る。
大地が軋み、空間そのものが歪む。
その圧倒的な力の前に、ヴァリアの体が押し戻される。
「くっ……!」
足を踏ん張るが、じりじりと後退を余儀なくされる。
聖剣が放つ光も、魔王の放つ闇の前ではか細く見える。
「見たであろう。我が力の前では、その聖剣も、そなたの意志も、全て塵芥に過ぎぬということを」
「ま、まだだ……!」
ヴァリアは叫び、必死に前進しようとする。
しかし、マオの魔力は更に強さを増していく。
漆黒の靄は渦を巻き、まるで大気そのものを支配するかのような威圧感を放つ。
「なぜ理解せぬのだ。我はもはや、昔日の姿にあらず。その愚かなる執着を捨てよ」
マオの声が、僅かに震える。
その震えに、ヴァリアは僅かな希望を見出す。
「分かっている。でも、それでも私は諦めない」
「もはや十分。この愚かなる戯れを終わらせるとしよう」
マオの表情が一変する。
氷のような冷たさが、その瞳を支配する。
その一言と共に、マオの魔力が臨界を超える。
漆黒の靄は巨大な竜巻となって渦巻き、その威力は桁違いの破壊力を帯びていた。
「がっ……!」
ヴァリアの体が大きく吹き飛ばされる。
地面を転がり、岩壁に激突。
口から鮮血が滴り落ちる。
しかし、それでも聖剣を握る手は緩めない。
(まだだ……諦めるわけにはいかない!)
よろめきながらも立ち上がり、マオへと突進する。
轟音と共に放たれる黒い魔力の波を、かわし、くぐり抜け、それでも前に進む。
「虚しき抵抗よ!」
マオの放つ魔力弾が、ヴァリアの動きを封じようと襲いかかる。
一撃、また一撃。
躱しきれない攻撃を、聖剣で受け止めながら、それでも距離を詰めていく。
「何故そこまで抗うのだ……戦いを止めよ」
マオの声に苛立ちが混じる。
その表情には、僅かな焦りの色が浮かんでいた。
不規則な軌道を描いてヴァリアは接近し、ついにマオの懐に潜り込む。
しかし、その時だった。
「愚かなり……」
マオの手から、渾身の一撃が放たれる。
間近からの魔力の波を、ヴァリアの持つリボルカリバーが受け止める。
「くっ……!」
聖剣に亀裂が走る。
光が弱まり、まるで断末魔の悲鳴を上げるかのように震える。
「さらば、ヴァリアよ。その儚き希望もろとも、消え去るがよい」
最後の一撃。
マオの放った魔力の波が、リボルカリバーを完全に粉砕する。
光の欠片が、夜明けの空に舞い散る。
「これにて全てが終わりだ。結局、そなたにも何も変えられなんだな」
マオは冷たく笑う。
しかし、その表情にも、どこか深い悲しみが滲んでいるように見えた。
「本当に……そう思うか?」
至近距離で向き合ったまま、ヴァリアが不敵な笑みを浮かべる。
「何を……?」
その時だった。
突如として虚空が歪み、巨大な魔法陣がヴァリアの背後に浮かび上がる。
レイレイの魔力が結集した転移魔法。
かつてない規模の魔法陣が、空間を切り裂いていく。
「これこそが、私たちの真なる策だ!」
魔法陣から、真のリボルカリバーが姿を現す。
それは単なる聖剣ではない。
仲間たちの想いが、祈りが、誓いが込められた希望の剣。
ドラシアの魂が宿る、真なる聖剣。
「まさか……我が目の前の剣は偽りであったか!?」
驚愕に目を見開くマオ。
その隙を突いて、ヴァリアの剣が閃光となって走る。
「目覚めるんだ、マオ!」
リボルカリバーがマオの体を貫く。
しかし、それは致命傷となる場所を避けていた。
魔王を倒すのではなく、親友を救うための一撃。
聖剣の光が、マオの体の中に優しく染み込んでいく。
「この光……我が心の内に……」
マオの声が、混乱したように震える。
聖剣の光は、彼女の心の奥深くまで浸透していく。
それは破壊ではなく、救済の光。
ドラシアとイクス、そして仲間たちの想いが込められた希望の光。
その暖かさが、マオの凍てついた心を、少しずつ、しかし確実に溶かしていくのだった。
人間の心と魔王の力が交錯する中で、マオの瞳に人間らしい輝きが戻り始める。
そして、彼女の口から絞り出されるように、一つの言葉が漏れた。
「みん……な……」




