73:失踪
朝日が昇り始める頃、寮の廊下に緊張した空気が漂っていた。
薄紅色に染まった空の下、古びた木製の廊下を歩むヴァリアの足音だけが、静寂を破っていく。
何度目かの深い溜息をつきながら、彼女はマオの部屋の前で立ち止まった。
昨日の演習での出来事が、まだ生々しく脳裏に焼き付いている。
マオが見せたという異常な笑顔。暴走する魔王の力。
彼女を支えるのは自分たちだ。そう思いながら、ヴァリアは朝一番にマオの様子を見に来たのだった。
「マオ、朝練の時間だ」
ドアをノックする音が廊下に響く。
返事はない。
柔らかな朝の光が窓から差し込み、ヴァリアの影を長く伸ばしていた。
「マオ?」
今度は少し強めにドアを叩く。
それでも返事はなく、部屋の中は水を打ったように静かだった。
階段から足音が聞こえ、ヴァリアは振り返る。
レイレイが階段を上がってきて、息を整えながらヴァリアの横に並んだ。
彼女の胸は小刻みに上下している。どうやら、走ってきたようだ。
「おはようございます、ヴァリア先輩」
レイレイは少し息を切らしながら言った。
その表情には、昨日からの疲れがまだ残っているように見える。
「マオちゃんのことですか?」
「ああ」
ヴァリアは短く答え、再びドアに向き直る。
「返事がないんだ」
「私も先ほど呼びに行ったんですけど……」
レイレイは言葉を途切れさせ、心配そうに目を伏せる。
その瞳には、昨日の出来事がまだ鮮明に映っているかのようだった。
「マオちゃん、昨日からずっと……」
レイレイの声が震える。
昨日の演習場。魔王の力に飲まれかけたマオの姿。
狂気じみた笑い声が、まだ耳に残っている。
「レイレイ……」
ヴァリアが声をかけようとした時、廊下の向こうから新たな足音が聞こえてきた。
「おはようございますわ、お二人とも」
エナが静かに歩み寄ってくる。
いつもの優雅な立ち振る舞いの中にも、どこか疲れた様子が見て取れた。
昨夜は誰もが、ろくに眠れなかったのかもしれない。
「マオさんのお部屋ですの?」
エナは心配そうに、マオの部屋のドアを見つめる。
その瞳には深い憂いの色が浮かんでいた。
「うん。でも、返事がなくて……」
レイレイが答える。
その声には、友を案じる切実な響きが込められていた。
「一人になりたいのかもしれませんわね」
エナはそう言って、ドアに近づく。
その仕草には、いつもの優美さが感じられた。
しかし、その表情には深い憂いが刻まれている。
「昨日のことで、色々考えることがあるでしょうし」
「そうだね」
レイレイは小さく頷く。
風が窓から吹き込み、三人の髪を優しく揺らす。
「マオちゃん、きっと苦しんでいると思います。私たちのことを考えて……」
レイレイの声が途切れる。
魔王の力と自分の存在の間で揺れ動くマオの苦悩が、痛いほど分かる。
三人は黙って立ち尽くす。
朝日が次第に強くなり、廊下に落ちる影も鮮明になっていく。
窓の外では小鳥のさえずりが聞こえ始めていた。
「少し、時間を置いた方が良いかもしれませんわ」
エナがそう提案する。
その声には、友を思いやる優しさが溢れていた。
「ヴァリア先輩。エナちゃんの言う通りかもしれません」
レイレイも同意する。
ヴァリアは一瞬だけ躊躇った。
しかし、結局は小さく頷くことしかできなかった。
時が過ぎ、日が高くなってきた。
授業の時間になっても、マオは姿を見せない。
教室の彼女の席は空いたままで、そこに射す陽光が妙に寂しく感じられた。
昼頃、ヴァリアの心に不吉な予感が芽生え始める。
昨夜、彼女はエナと共にマオの故郷について話していた。
ユクトから聞いた情報。北東の山々の向こうにある、小さな谷間の村のこと。
そして、誰かがその会話を聞いていた可能性。
「まさか……」
ヴァリアは急いで立ち上がる。
椅子が軋む音が教室に響き、数人の生徒が振り返った。
「エナ、レイレイ」
二人の名を呼ぶヴァリアの声には、切迫した響きが含まれていた。
「すぐに来てくれ」
エナとレイレイは、ヴァリアの表情を見て即座に理解した。
三人は再び、マオの部屋の前に集まった。
「マオ!」
ヴァリアの声が廊下に轟く。
その声には、もはや朝のような優しさは含まれていない。
切迫した焦りが、そこにはあった。
「マオさん、聞こえてますの?」
エナも声をかける。
しかし、返事はない。
ただ風の音だけが、廊下に虚しく響いていた。
「もう、無理にでも確認するべきだ」
ヴァリアの声は決意に満ちていた。
「でも、ヴァリア先輩……」
レイレイが躊躇いがちに声を上げる。
寮の規則では、他人の部屋に無断で入ることは固く禁じられていた。
「そうですわね。でも……」
エナも迷いがちに言う。
しかし、ヴァリアの決意は固かった。
「私の責任で開ける。今は規則なんかより、マオの方が大事だ」
ヴァリアは一歩下がり、深く息を吸う。
空気を胸いっぱいに吸い込み、意を決して足を上げた。
ドアが大きな音を立てて開く。
その衝撃で、廊下の窓ガラスが僅かに震えた。
三人は息を呑みながら、部屋の中を覗き込む。
静寂が支配する部屋の中。
ベッドは整然と整えられ、シーツにはピンと張りがある。
机の上には何も置かれていない。引き出しも全て閉まっていた。
窓から差し込む陽光が、不自然なまでに整然とした部屋を照らしている。
「マオちゃん……」
レイレイが震える声で呟く。
その声には、深い悲しみが滲んでいた。
エナは両手を胸の前で組み、不安そうに部屋の中を見回した。
彼女の表情には、言いようのない後悔の色が浮かんでいる。
「昨日の……私たちの会話を」
ヴァリアの言葉に、エナの顔が青ざめる。
「まさか、聞いていたとは……」
エナの声が掠れる。
昨夜の会話。マオの故郷についての情報。
そして、その故郷が滅ぼされているという、残酷な真実。
それらを、マオが聞いてしまった可能性が高まる。
「探さないと。今すぐに!」
ヴァリアは即座に部屋を飛び出し、外へと向かった。
レイレイとエナも慌てて後を追う。
三人の足音が廊下に響き、やがて階段を駆け下りていく音が寮中に鳴り渡った。
学園の庭には、昼下がりの柔らかな日差しが降り注いでいた。
木々の間で戯れるユクトの姿が目に入る。
彼は木の葉を集めては、それを空に投げ上げて遊んでいた。
舞い落ちる葉を追いかける彼の姿は、まるで子供のように無邪気だ。
「ユクト!」
ヴァリアの声に、ユクトは驚いたように振り返る。
落ち葉が彼の周りをひらひらと舞う。
「どうされましたですか? ヴァリア殿。そんなに慌てて」
「――マオを追いかける」
ヴァリアの声には、強い決意が込められていた。
「えっ?」
「昨夜、君が教えてくれた場所へ案内してくれ」
ユクトの表情が曇る。
彼は昨夜、マオの故郷について話した。
そして、その村が滅ぼされているという、残酷な真実も。
「ですが……マオ殿は、まだ真実を」
彼の声が震える。
昨夜話した内容の重さを、今更ながら実感しているかのようだった。
「そう、まだ知らない。だからこそ」
ヴァリアの声が強くなる。
彼女の瞳には、決意の色が宿っていた。
「私たちが、真実を伝えなければならない。そして……」
風が吹き、木々が大きく揺れる。
その音が、まるでヴァリアの決意に呼応するかのようだった。
舞い上がった落ち葉が、三人の周りを舞う。
「マオの苦しみを、私たちが受け止めなければ」
レイレイとエナも、強く頷く。
三人の心は一つになっていた。
大切な友人を追いかけ、その心の叫びを受け止めること。
それが、今の彼女たちにできる唯一のことだった。
三人の決意と共に、風が強くなる。
それは、まるで彼女たちの旅立ちを後押しするかのようだった。
木々が揺れ、葉ずれの音が響く。
その音は、どこかマオを呼ぶ声のようにも聞こえた。




