第11話 新。白鳥の湖。
雪が降り積もる。
どことなく静けさを増す冬の米原には、滋賀の冬を象徴するコハクチョウが飛び交っていた。
琵琶湖は、バレエさながらの白鳥の湖だ。
私の宿舎は、病院の近くである。琵琶湖の方角を眺めると、視界を遮るように大きな建物がそびえ立っている。かの総合病院だ。宿舎の窓から琵琶湖は見えない。見えるのは、琵琶湖から飛び立ったであろう数羽のコハクチョウのみだ。
さて私は、めでたく私の彼女になった石山かすみさんとおうちデート中。雪がしんしんと降る寒い日には、外に出ずに家に引きこもっているのが一番である。
我々の関係も少しずつ進捗していた。お互いに敬語を使って話すクセは直っていないかもしれない。ただ、お互いの呼び名は変わった。
陽介くんとかすみさんである。
下の名前で呼ぶようになったのだが『くん』と『さん』は外していない。やはり、もう少し、慣れが必要なようだ。
「結局、この間の、ブタからヒトへのヒト心臓移植は、鈴木助教じゃなくて、違う人が論文を書くことになったんですよ……。」
早速私は、あの忘年会の引用回数を上げるために、彼女に忘年会のことを報告中である。
「そうなんですか。でも、たしか、鈴木先生が、ブタを育ててらしたんですよね?」
「そうですよ。でも、高橋教授の研究室の田口助教が書くんだと思います」
私は、大きく頷く。そう、ブタを育てたのは、鈴木助教だ。私は、ちゃんと知っている。
でも、私には何もできない。
「あっ……、その高橋先生って、心臓内科の先生ですよね?」
「そうそう。かすみさん、よく知っていますね」
「まぁ、私は、人事部ですからね。病院の人は大体把握していますよ。特に……、特徴的な人々は嫌でも覚えてしまいます」
なるほど。特徴的という単語が気になったが、触れないでおく。おそらく、佐々木教授も高橋教授と並んで特徴的なのであろう。類は友を呼ぶのである。もちろん、大体こういうのは、悪い意味で印象に残るものなのだ。
「鈴木先生、すごく働いていたのにね。あれだけ時間取られて論文のファーストオーサーをもらえないとは……。見ているこっちまで悲しくなります。でも……。明日は我が身って感じです……。」
私が、今進めている、心臓の三次元培養研究も、誰かにファーストオーサーを奪われる可能性も、なくはない。全ては、教授のさじ加減なのだ。
「ほんと、災難ですよね……。たしか、その研究は、陽介くんも、手伝っていましたよね?」
「そうです。私も論文のどこかには名前は載ると思いますよ。でも、そんなに貢献もしていないですから。それほど重要視はしていませんよ。載せてもらえるならラッキー程度です。それよりも、私は小さな論文を書き始めたんですよ。そちらが私にとっての本命です」
そう、三次元培養で一組の心室と心房を作製した研究である。小さいながらも、研究結果をまとめられそうなのだ。
この論文のデータを取るために、鈴木助教の手伝いをしながらも、並行して実験を進めたのである。一日のほとんどの時間を実験に費やし、まさに言葉通り、四六時中実験をしていた。その成果が、あともう少しで、出そうなのだ。
「あら! よかったですね。それは、ちゃんとファーストオーサーをもらえるんですよね……?」
「もちろんです。ファーストを手に入れるために、患者の治療と直接結びつけないで、基礎研究だけで終わらせるつもりですから。下手に、移植実験に手を出したら、論文を出すタイミングが遅れます。確かに、論文のインパクトは大きくなりますけど、他人に取られるリスクも増えます。出せるときに、早く出すべきなんです。ほんと、タイミングが重要なんです」
「そうですか。頑張ってくださいね。応援しています。でも……、あまり無理はしないでくださいね」
かすみさんは、声のトーンを落として、言った。
「はい。わかっています」
私は、自分にも言い聞かせるように、力強く頷いた。
「本当に、わかっています? 最近、陽介くんはずっと疲れた顔をしていますよ……?」
彼女は、不安そうに、私の顔を覗き込んでくる。
私は、女の子の上目遣いの顔は反則だと思う。きちんと取り締まるべきである。でないと、私のような男が事故に遭う。
さて。
私は、彼女の肩の後ろに手を回し、そっと抱き寄せる。
「あの……。かすみさん。この論文が終わったら、ちょっとはマシになります。そんなに無理をしなくてもよくなるかもしれません……。」
「本当ですか」
「おそらくは、マシになります。それに、論文が出て、生活がマシになったら……。もしかしたら……、かすみさんを支えてあげられるかもしれないです……。」
「ん?その程度じゃ、私の心は動かないですよ……。」
彼女は、私から、ゆっくりと目を逸らす。
「じゃあ! 今より頑張って、大きな論文と、大きな研究費を取れるようにします! そうしたら、かすみさんを支えてあげられる金銭的な基盤ができると思います!」
ううん、と彼女は大きく頭をふった。私の力強い言葉は、どうやら彼女には届かなかったのであろうか……。
ふぅ、と、彼女は、息を吐いた。彼女の肩がゆっくりと下がっていくのが、私にも感じられる。小柄な彼女の体が、より小さくなった気がした。
「ねぇ。陽介くん……。」
彼女は、私の肩に両手をおいた。そして、視線を、私の目に向けた。
「どうして、自分一人で全てを支えようと思うのですか? 2人で。お互いで、支え合って、一緒に歩いて行けばいいじゃないですか?」
そうだ。彼女の言う通りである。彼女はいつも、私に人としての『心』をとり戻させてくれる……。今、心胆を奪われてまで、働いているのは何故なのか。奴隷だからだ。いや、それもあるが、金銭的基盤を手に入れるためなのだ。
しかし、『心』を失った奴隷の私でも、をかすみさんといる時だけ、人としていられる気がする。
「心合わざれば肝胆も楚越の如し、と言います。そう。心が通い合わないと、どれだけ親密な関係になっても、意味がないのです」
彼女は真剣な顔で私を見つめる。
「難しい言葉を……知っていますね」
私は、思わず、口元に笑みを浮かべてしまった。
「調べて来たのです」と、彼女は照れ笑いを浮かべる。
「そう……。陽介くん。お互い心を合わせて、支えあっていきましょう。それが私の望みです。私も陽介くんをサポートします。人事部の代表としても、陽介くんの妻としても……。それじゃ、ダメですか……?」
「いえ……。私には、十分過ぎます。その……、ありがとうございます」
私は、彼女の言葉を理解した。そして、さらに彼女に惚れた。
これから先も、ずっと。きっと私は、彼女といる時だけは、人としての心を持っていられる。
「じゃあ。これから、2人で一緒に歩いていきましょう」
「はい」
かすみさんは、大きく頷いた。そして、彼女の目に涙が留まり、頬を伝ってゆく。
私の目にも、涙が溜まっていたが、彼女に気づかれないように、そっと、自分の袖で拭った。
それから、1ヶ月が過ぎた。
私の頭の中は、一足早く、春だ。心が踊っているのが自分でもよくわかる。
病院の東館に向かう小道にひっそりと咲いた寒咲花菜が、冬の終わりが近いことを喜んでいた。
伊吹山地から吹き下ろす風は、日に日に暖かくなり、山の頂が少しずつ顔を出す。
私は、いつものように研究室に向かった。
研究室は、いつもと変わらない風景であった。
居室の真ん中で首を吊っている鈴木助教の姿を除いて。




