8. アーレン・オレオール
「……え?」
ルディアは魔法でもかけられたように固まったまま、間の抜けた声を上げた。
〝僕はこのオレオールが欲しい。〟
ゆらゆらと揺れるアーレンの顔の陰影をまじまじと見つめながら、その言葉を胸の内で反芻する。
――オレオールが、欲しい。それは……
顔を上げると、熱を帯びたアーレンの目がこちらを見つめていた。
「僕はね、納得できないんだ。
どうしてライアンは長男だというだけで当主になれるんだ?
一年生まれるのが遅かったというだけでどうして父さんは当主になれないんだ?
僕はどうして七つも下の従弟の下で働かなくちゃいけないんだ?
ろくに挨拶もできないライアンよりも、父さんの方がずっと当主に相応しい。そうだろう?なのになぜ?どうして?
ねえ、教えてよ。誰か僕を満足させる答えを教えて。」
その熱量にルディアは閉口した。
相手が熱くなる程、ルディアの心は冷たく冷えきっていく。いつもそうだ。
――そんなこと、私に聞かないでほしい。
正直もう帰って寝たかった。風呂に入って何もかもきれいさっぱり忘れて。そうして柔らかい布団の中で体を丸めて眠りたい。
気づかれぬように浅い溜め息をついて、図書室の隅に淀んだ闇を見つめる。
――でも。
この男が何を企んでいて、これから何を言い出すのか、ルディアには察しがついていた。それを聞かずに帰ることはできない。
「残念ですが、」
意を決して、灯を宿したアーレンの碧眼を真っ直ぐに見つめ返す。
「私にはその質問に答えることはできません。」
ルディアの冷たく硬い声音にも、夜空色に染まったアーレンの眼は揺らがない。
「私は人生経験の浅い女性ですから。」
夜空に星が瞬いた。
「まったく……君は模範的過ぎてつまらないな。」
アーレンはふっと笑うと俯いて細く長く息を吐く。
ルディアはそれを見て、知らず知らずのうちにほっと背筋を緩めかけた。
――少し身構えすぎていたのかも。
そう思ったのはたぶん、幼い頃よく共に遊んだ従兄の面影が見えたからだ。
が、次の瞬間、緩みかけた背筋は凍りつくことになる。
「そんな君が大好きだ。」
顔を上げたアーレンの唇が歪んでいる。――それが歪な笑顔だと理解するのに数秒を要した。
「ずっと、ずっと好きだった。君を愛していた。」
無数の虫が背中を這い上がるような感じがした。
「素敵だよルディア」
神経を逆撫でするような甘ったるい声が、夜の空気に馴染んだ肌にこびりつく。
アーレンの声は僅かに震えている。
それは蝋燭の明かりによるものでも、恐怖によるものでもない。――感動の震えだ。
「僕はその顔が見たかった」
そう言われて、ようやく自分の顔がひきつっているのを感じた。あんなに疲れていた表情筋が今、仮面よりも固く冷たくなっている。
「その見開かれた青薔薇の瞳。蒼白な頬。……ああ、美しい!君こそ本当の美だ。僕の女神だ!」
――この男は何を言っているのかしら。
男のあまりの豹変振りに着いて行けない頭は逆にさあっと冷えて冴え渡っていく。
――逃げるべきだ。
本能がそう告げている。
だがどこをどう間違ったか、身体は思うように動かない。
ただ遠い舞台上の演劇でも観るように座って見ていた。
アーレンは感極まったというような様子で立ち上がる。
「僕はね、君が欲しいんだ、ルディア。」
その半月型に歪んだ眼が自分を射抜いても、ルディアは身動きできなかった。小さな呻き声ひとつ出ない。
アーレンは構わずテーブルを回り込んでゆっくりとこちらに近寄ってくる。
「ライアンが生まれるまで、君は僕だけのものだった。ほかのどの男のものでもなかった。
なのにライアンが生まれて、君は僕から離れていった。
許せない、許せないよルディア。ライアンさえいなければ、君の前にいるのは僕だけだ。ライアンがいなければ、オレオールも君も僕のものだ。ねえ、僕と一緒にオレオールを背負っていこうよ。」
――一度たりともあなたのものになった覚えはないし、私は誰かの所有物じゃないわ。
心の中で毒づいても声にはならない。
アーレンがルディアのソファの肘掛けに手をついて身を乗り出してくる。
「知ってるかい?いとこは結婚できるんだよ。」
ぞわりと全身に鳥肌が立った。
だというのに、頭はますます冴えきって、冷たい眼でアーレンを見ている。
――あらあら、どうしましょう。
心は悠長なことを言っている。
黒衣に包まれたルディアの腿のすぐ横にアーレンが膝をついて、柔らかなソファの布地が斜めに沈んだ。
そちらへ倒れかけて、慌てて腹に力を込めて姿勢を保つ。
「もっと見せて」
アーレンの息遣いは至って平静だ。
そのおぞましくも美しい微笑が近づいてきて視界を塗り潰す。微かに漂う甘美な香りが、むせ返るように感じられる。
――こういうときは……
場違いにも昨日読んだ小説の内容を思い出す。
こういうときどうすれば良いのか。小説は教える。
――殴るしかない。
と。
だがしかし、仮にも当主代理の長男を張り倒していいものだろうか。
何よりいとこ同士が結婚するのは違法でもなんでもないのだ。……
……こんな事態にそれこそ悠長に打算的なことを考える自分が、今ばかりは心底嫌になった。
何も考えずに行動に移せればいいものを。
近づいてくるアーレンの眉間のあたりを、ぎゅっと眉根を寄せて見つめる。睨み付けているのではない。真剣に考えているのだ。
小説のヒロインなら気に入らない男のことは迷いなく張り倒すだろう。(←※偏見)
大抵の場合それでうまく行ってしまうのだから、都合のいいことだ。
――うん、やっぱり殴ろう。
正直なところ貧弱な女のビンタがどれくらい効果を発揮するのか怪しいところだが、それでも試すに越したことはないだろう。
――手が痛くなるかな。
人を殴ったことはないのでわからない。
ここまでの思考、コンマ五秒。
心を決めて渾身の力を込めて右手を振りかぶった。
突然のアクションにアーレンの眼が少しだけ揺らぐ。
が――
掌に痛みが走る前に、アーレンは視界から消えていた。
「…………」
残っているのはただ胸の上を漂う冴えた空気だけ。
対象を見失った右手はすかっと空を切って自分の左肩を打つ。
「痛った……」
思わず肩を抱いて身体をねじる。
その一瞬後、ドッと鈍い音がした。
何事かと見れば、アーレンが背中からローテーブルに突っ込んでいた。
「……??」
掌とアーレンとを見比べる。
……殴った覚えはないのに、どうしてローテーブルに突っ込んでいるんだろう?
しかも音が鳴るまでの時間からしてかなり吹っ飛んだようだ。
それに、何かが引っ掛かる……
頑丈なテーブルにぶつかって動けないでいるアーレンをまじまじと見つめる。しかし違和感の正体は掴めなかった。
「ぅう……」
みぞおちを押さえ呻き声を上げて身体を起こそうとするアーレン。
痛みと驚愕とで歪んだ顔がルディアを見上げる。
しかしその顔は、それでもなお笑んでいる。
何かぶつぶつ呟いているようだ。
ぞっと悪寒が走って、今更ながら恐怖という感情を思い出した。
呪縛から解けたように、竦んでいた身体が素直に動いた。
肩を抱いたまま立ち上がり、アーレンに背を向ける。そのまま振り返らずに早足で図書室の出口へ向かうと、痺れる両腕で扉を開け、するりと外へ滑り出た。
一度だけ振り返って見ると、アーレンは咳き込みながら手の甲で口許を拭ってよろよろと起き上がるところだった。
追ってくる様子はない。
それでも今になって激しく動き出した心臓は収まらず、胸を押さえて廊下を小走りに進んだ。
しばらくしてようやく周りが見えるようになって、歩を緩めて両掌を見る。
「……?!」
奇妙なものが見えた。
白い肌が光っている。というより、光がゆらゆらと立ち上っている。まるで炎のように。
青い光だ。
魅惑的な青い炎は、蝋燭の灯よりも静かで清らかに煌めいている。
――ついに頭がおかしくなったのかしら。
そんな考えが頭を過ったが、どうもそうは思われない。
〝これは正しいことだ〟と、本能がそう告げている。
ずっと前から見えていたような、懐かしいものに再会したような、そんな感じがするのだ。
ようやく自室に辿り着いて中に入り、乱暴に扉を閉めると内側から鍵を掛けた。
つかつかとベッドに歩み寄って勢いよく飛び込む。
柔らかな布団に頬ずりしながら、ふとあのとき感じた違和感の正体に気づく。
普通右から頬を殴ったら左に吹っ飛んでいくはずなのに、アーレンは正面に飛んでいってローテーブルに突っ込んだのだ。
――つまり、あいつが吹っ飛んだのはビンタのせいじゃない。
ルディアから正面に向かって、何かほかの力が働いたということ。
「う~ん……」
疲れきった頭をこれ以上絞っても何も出てこない。
――明日考えよう……
着替えるのも靴を脱ぐのも忘れて、ルディアは深い眠りの沼へと沈んでいった。
読んでくださりありがとうございます。
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魔法が使えたらいいのに……という憧れも、大人になるにつれ忘れてしまいました。




