7. 訪問者
――疲れた……。
ルディアは大の字になってベッドに寝転がった。
昼下がりにリガロ叔父一家が到着してから、ティータイムでもてなし、滞在してもらう部屋の案内をし、晩餐を共にした。
その間は常に、淑女教育で鍛えた穏やかな微笑をほっぺたに貼り付けている。
表情筋がひきつってどうにかなってしまいそうだ。
ルディアは両手で頬を挟んでそっとなでた。肌荒れというものを知らない、丸くしっとりとした頬。
長い一日だった。
やっと私室に下がれたのは夜も更けた頃。
ようやく一つの大仕事が終わり、あとは明日からの日々に備えて眠るだけ。
――お風呂に入って着替えなきゃ。
力無くベッドに沈みこみそうな体に気合いを入れて起き上がる。
結い上げていた髪を片手で解くと、波打った髪が頬を打った。
そっと髪を触る。
よく手入れされた艶やかな黒髪。
その色は母譲りだけれど、なんだか少し違うような気がする。
――匂い、かしら。
母の服や髪から香っていた艶のある匂いがふと鮮明に思い出される。
軽く頭を振って、心に纏わりついてくる感傷を振り払った。
精神的に疲れているせいか身の回りの全てが自分を責めているような気がする。
小さく息を吐いてメイドを呼ぼうとしたとしたそのとき。
部屋の扉にノックがあった。
「……」
一拍置いて、ルディアは口を開く。
「はい、どなたでしょうか。」
気をつけていても疲れが滲んでしまう声に刹那反省する。
「僕だ、アーレンだよ。」
それは紛うことなきアーレンの声だが、夜にドア一枚隔てるとなんだか昼間聞いたのとは違う風に聞こえた。
――アーレンお従兄さま……歳も一歳差で昔はよく一緒に遊んだものだけれど。
ルディアは小さく頭を振ってから扉に歩みかけて、はたと立ち止まって肩に垂れた髪に触れた。
「……少々お待ちください。」
「ああ。」
アーレンは大人しく立って待っているようだ。その間にルディアは手早く髪を一つに編む。簡単な髪型だが、この時間なら許されるだろう。
――それに非常識な時間に訪ねてきたのはあっちの方だわ。
心の中で呟きながら、母からもらった紫のショールを羽織り、燭台を持って扉の取っ手に手をかけた。
よく手入れされた扉は音もなく滑るように開く。
息苦しいような青い闇の中、部屋から洩れる光にアーレンの顔がゆらりと浮かび上がる。
「どうかなさいましたか?――この暗い中を灯りも持たずに。」
なるべく柔らかい声で言うように心がけながら、それでもやはり肩に力が入ってしまう。
ゆっくりと呼吸して力みを取ろうと努力した。
アーレンは昼間の格好のまま例の微笑みを浮かべて自然体で立っている。その手には何も持っていない。
「人に気づかれたくなかったんだ。――一度誰にも邪魔されず君と腹を割って話してみたいと思ってね。」
そう言ってちらりと部屋の中を見る。
ルディアはその視線に気づきながら一歩前に出る。
一歩下がるアーレン。
「何をお話になりたいのかわかりませんが、立ち話も難ですから図書室へ行きましょうか。図書室ならすぐ近くですし、邪魔が入ることもないでしょう。」
ルディアは後ろ手に扉を閉め、アーレンを一瞥すると先に立って歩き始めた。
「……。」
アーレンは一拍置いてから、ルディアに付いて歩き出した。
ルディアはあえて早足で進む。右手で掲げた蝋燭の灯が苦しげによじれる。
後ろからはアーレンの悠然とした足音が聞こえる。
尖った夜気が頬を打って、踏み慣れたはずのカーペットがいつもより硬く感じられた。
ふっ、……と蝋燭の灯が消えた。
月光にたゆたう細い煙と上品な香りだけが残る。
ルディアは真鍮の燭台に滲む自分の掌の温度を感じながら、それでも構わず歩き続けた。
明かりといえば、窓から射し込む弱々しい月の光だけ。
それでも十六年暮らした屋敷で迷うはずがない。
仮に塗り込めたような闇の中にあっても、この屋敷の中ならばルディアは迷うことなく目的地に辿り着くことができるだろう。
まもなく図書室の扉の前に着いて、ルディアは燭台を掲げていた腕を下ろした。
黒々とした表面にほのかに月光をたたえる分厚い木の扉。
ルディアは屋敷の中にいくつあるかもわからないような扉たちの中でも、この図書室の扉が一番好きだった。
今は闇に霞んで見えない細かな意匠もそろりと手を滑らせれば日のもとで見ているように感じられる。
ひんやりとした両開きの扉、そのうちの右側だけを押し開ける。
一歩足を踏み入れると、それは草原から森に入ったときの感覚に似ていた。
濃密な本の匂い――紙とインクの匂い――が呼吸とともにじっくりと時間をかけて体に染み込んでくる。
扉を大きく開け放して図書室の中へ進んでいくと、圧倒的な本の量に、思わず背後のアーレンの存在を忘れそうになる。
切れそうな精神力を繋ぎ止めて、初めてアーレンを振り向いた。
アーレンはルディアを見つめたまま後ろ手に扉を閉めた。
その眼に浮かぶ光に、ルディアはにわかに得体の知れぬ寒気を覚える。
アーレンは つと周囲を見渡すと
「うん、確かにいい場所だ。」
そう言った。
本棚の合間から覗く窓の列には濃い色のカーテンが掛けられ、その隙間からは白く冴えきった月光が細く射している。
番号が付けられ整然と立ち並ぶ本棚。高い天井、その際まで積み上げられた棚に並ぶ物言わぬ本たち。
全てが調和した美しい世界。
こんな夜には耳を澄ませば数多の本の囁きが聞こえてくるようだ。
膨れ上がった静けさの中で、無意識に潜める足音に衣擦れの音が重なって耳を圧迫する。
二人は司書席の横を通り過ぎ、図書室の中央にローテーブルを挟んで向かい合うソファに腰を下ろした。
ふかふかしたソファの心地よい感触がいつも通りであることにほっとしながら、ルディアは改めてアーレンを見る。
アーレンは背筋を正してルディアに向き合っていた。頬にはあの微笑みを絶やさない。
月明かりしかない中にあってはアーレンの白い肌はなお白く、蝋人形にも似ている。
きっと自分も同じような顔をしているのだろう、と考えながら、机に置いた蝋燭に火を灯す。控え目な灯りが二人の顔に赤みをさした。
「それで、お従兄さまは何をお話しになりたいのですか」
ルディアの声は沈黙の膜を破って凛と響く。
アーレンはその響きを確認するようにゆっくりと図書室に首を廻らせながら口を開いた。
「言っただろう、腹を割って話したいって。……僕らはこれからこのオレオールを背負って立つ若者同士だ。協力するにはまず話し合わなくてはならない。」
ルディアに目を戻し、それきり口を閉ざして見つめてくる。
「…………」
図書室は水を打ったような静けさだ。
まるで世界から切り取られたかのように全てのものが静止する中、蝋燭の火だけが揺らめいてアーレンの微笑を震わせる。
ルディアは沈黙に堪え兼ねて口を開いた。
開いて、短く息を吸ったかと思うと、躊躇うように閉じかける。
小さく首を傾げるアーレン。
その顔を目にして、ルディアはようやく言葉を紡ぎだした。
「『オレオールを背負う若者』とおっしゃるなら、ここにライアンがいないのはおかしいのではありませんか?」
アーレンは本当の蝋人形のように動かない。
ルディアは自分がいつもより刺々しくなっていることを感じながら息を継ぐ。
「私は回りくどいことはあまり好きではありません。本当の目的を正直におっしゃってください。」
首を傾げて聞いていたアーレンは、その言葉を聞くや顔を輝かせた。
「どうやらこの時間に訪ねたのは正解だったようだ。」
「…………?」
「君こそ、この機会に本当の自分を思う存分解放してやったらどうかな?」
テーブル越しに身を乗り出して聞く、その爛々と光る眼から、ルディアは目を離せない。
「……」
その様子を見たアーレンは何か納得したようにふいと目をそらした。
「……いや、そうだな。……それを言うなら僕が先陣を切るのが筋だ。」
うんと一人頷いて再びルディアに紺碧の目を向けた。
――何か、間違えたのかもしれない。
全身にざわりと悪寒が走るのを感じた。三日月形に微笑んでいたアーレンの目が、今狂気にも似た光を湛えて見開かれているのだ。
逃げ出したい気持ちを抑える。
――何があっても感情を見せてはいけない。
吐く息が震えないように気をつけて、強い力を込めてアーレンを見返す。
「僕はこのオレオールが欲しい。」
アーレンの口からするりと言葉が滑り出た。
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